はてなキーワード: マリファナとは
世界各地で医療・嗜好大麻が合法、又は非犯罪化される中で、日本では公に議論が進まないのは、むしろ各州で合法化の進むアメリカのせいなんじゃないかという気がしてきた
まだ解禁するな、という連邦からの圧力がある、或いは敢えて日本を放置しているんじゃないか、という妄想です
勿論、他に議論するべき問題がいまの日本に沢山あるのは判るが、莫大な経済効果を産む可能性のある大麻産業を、このタイミングで議論すらしないことは明らかに遅れをとっている。
しかしアメリカ側からすればこの状況はかえって好都合だ。グリーンラッシュと呼ばれるこのビジネスチャンスに、介入は愚か、「マリファナは悪だ」と、
かつてアメリカ人の一部がメキシコ移民やニグロ排斥のために捏造のラベリングをした情報を、未だに多くの日本人が信じ切ってるんだから、この市場に日本企業が参入しないことは、少なくとも現状では、アメリカは優位である。彼らにとっては、日本人にこのタイミングでしゃしゃり出られるのは甚だ迷惑、という考えがあるのかもしれない。
日大ラグビー部が大麻で逮捕された。大麻の話が出てくるたびに、大麻ごときで逮捕するのはけしからん、他の国を見よと言う声が出てくる。これが理解できない。
もちろん、大麻はすでに自由に買えるようになっている場所はたくさんある。いま住んでいるワシントン州もそうだし、カナダもそうだ。大麻はいち産業になっており、マリファナ屋というのもいたるところにある。
ただ、マリファナなんてない方がいいのは決まっている。健康被害も大きいし、タバコや酒と同じジャンルがもう一つ増えるだけである。街中を歩いていてマリファナの匂いがするのは、タバコの副流煙と同じくイライラする。
ストロングゼロを規制したほうが良いという話がある。アルコール依存症を増やすと言う。そのとおりだが、すでに大衆に受け入れられているものを規制するのはなかなか大変だろう。メーカーも黙っちゃいない。
一方で、大麻は日本では規制されていて、依存症や副流煙も少ない。できればこの状態を続けてほしい。一度許可してしまうともうあとには戻れないのだ。日本に帰ってまであの副流煙を浴びたくない。
俺は多分、物凄く運がいい。
俺は何年か前に当時流行っていた脱法ドラッグをやりまくっていた。自律神経に支障がぶっ壊れまともに歩くこともできなくなった。体重も減りに減って痩せこけてやばい餓鬼みたいな体型になっていた。大好きなラーメンを一口食べてもゲロを撒き散らす始末だった。自殺未遂までいってもう死にかけたのは2度、3度の話ではなかった。
流石の俺も猛省し、日頃の生活を改め真面目に労働をこなした。清廉潔白とは到底言えない過去を持っているのをひた隠し、資格取得のために勉学に励み休みなく朝から晩まで働きまくった。今もまさに早朝からの休日出勤をこなし、資格勉強をしている。(休憩がてらに日記を書いているだ)
年間休日は15日ぐらいでそれ以外はバチバチの肉体労働。労働環境は決して良いとは言えない。だが、給料はそれなりだし満足している。さらにその上、好きでならんかわいい彼女と結婚を果たし子供頑張ろうね!と毎日迫られる始末である。はっきりいって幸せだ。クソみたいな遍歴からしっかりとした人生に戻れたのだ。もうめちゃくちゃ運がいいとしか言いようがない。
その反面日々の中で幸せだなぁ、と感じるにつれてどこかもやもやする部分が多くなりつつある。世の中のストレスの正体が恐らくこれなんだろうが、俺はよくよく考えるとストレスの究極的発散方法を俺は脱法ドラッグしか知らないのである。
あぁ、違法薬物みたいなのに手を染めてぇなぁって思いながら日々を過ごしている。かといって休みもなく入手のアテももちろん無いので途方にくれるのだ。
なんて思いながらそれを眺めている。
変に頑張ってきたせいか、余計なしがらみが俺を縛り付けて何も出来なくなってしまった。
もし、俺が離婚をして会社もクビになって今までの積み重なりがぐちゃぐちゃに瓦解したとしたら。コカインでもヘロインでもマリファナでもなんでもいいから人生がぶっ壊れるぐらいやりてぇな。人生が終わって新しい人生がまた始まるのなら、俺は今度はめちゃくちゃ破滅的な人生を歩みたい。毎日ストレスを無理やりぶっ壊すような生活がしたい。
大学を休学した俺は、『深夜特急』に影響された量産型バックパッカーとして、東南アジアとインドを放浪してた。既にiPhoneのある時期だったから(4か5だったかな?)、大した苦労もせず。
東南アジアで3ヶ月くらい過ごして、まだその頃は民主化されてなかったミャンマーを陸路で越えるのが無理と判明。バンコクのインド領事館でビザを取って、飛行機でカルカッタへ飛んだ。
バンコクで買ったコピーのロンリープラネット片手に、カルカッタの刑務所の様な宿(4畳でベッド以外何もない。共用のシャワーは水しか出ない)の前で日本語話すインド人2人組に声を掛けられた。日本語勉強中とか言ってたかな。あと「この通りで先日欧米人が殺された」とか言ってた。
2人組と一緒にカルカッタでインド映画みたり、例のごとくマリファナの話になったりで、酒飲んで夜まで過ごした。
俺はすっかり初対面のインド人と過ごすカルカッタの夜を満喫していた。
で、翌日、友達の実家のある田舎に行くから一緒に行かないか?となった訳だ。
刑務所の様な宿の前で待ち合わせて、市内を観光した後、車に相乗りして、その友達の田舎へ向かった。前日の2人組に1人(名古屋に妻がいると云うダルビッシュ似のイケメンで日本語ペラペラ)が加わってて、俺を含めた4人で向かった。
6時間くらいの道のりだったか。インド音楽を爆音でかけながら狭い車内で4人で踊り狂いながらビール瓶をラッパ飲みして、窓から投げ捨てながら突っ走った。思い出すと気狂いだけど、その時はめっちゃ楽しかった。
ダルビッシュ似の実家に着いた頃には日が暮れていた。町というか集落で、道路がめちゃくちゃボコボコだったのを覚えてる。
ダルビッシュ似の家はその集落の長みたいな感じだった。集落の他の家がただの土壁なのに対して、ダルビッシュ似の家だけはタイルでお洒落で。
結局俺はそこで2週間くらい過ごした。基本居候しながら集落でグダグダとすごしてたけど、途中で車で2時間くらいかけてブッダガヤにも行ったりしたな。バラナシは危険とかで行かなかったけど。
集落の周りは何もないひたすら原野。一度丘の様なとこに上がったけど、ほんと見渡す限り原野で所々の丘の上にヒンドゥーの祠的なのが見えたっけ。
集落では子供らと遊んだり、英語教えたりもしてたけど、すぐに飽きてきて、近くの町でバイク借りようぜ、となった訳だ。俺から言い出したのか、話に乗せられたのかは、覚えてないけれど。
で、いざ町へ行くと「今金がないから出してくれ。お前が日本帰ったら必ず振り込んで返すから」となって俺が全額出した。
その時、俺はもうそいつらと連絡先交換して、完全に友達と思ってた。
レートとかも考えずに多分40万くらい払ってたと思う。アホだけどラリってたし額もよく覚えてないけど。
で、俺はその後もデリーまで旅を続けた訳だけれど、帰国後そいつらとは音信不通。結局金は帰ってこなかったという話。
今じゃ40万なんて一月で稼げる身分になりました、とさ。懐かしいな
コメント見てたら、
yu173
これじゃない? http://tabisora.com/blog/travel/india2018-raj/ 「コルカタで「ガヤの実家に行こう」と誘ってくる男は詐欺師です」
ワロタw
この2枚目の写真のサダムって奴。こいつだわ。はじめに日本語で声かけてきた奴。約6年越しの衝撃w
写真だと分からないけど、めちゃちっこかったこいつ。150cmちょい。ムスリムだから写真撮るなとか、言ってたんだよ思い出した。
つか、他の奴らもみんなイスラムだから写真ダメとか言ってたな。
アホな俺は当時、それすらも「群像崇拝禁止ってこんなものか!」とか新鮮な気持ちになってたのは、秘密だけど。
まぁ、こっそり撮った写真は残ってるけど。もちろん詐欺師だと疑って撮った訳じゃなく。日本に帰ったら、友達にこの体験を自慢してやるぜ!ってノリで隠し撮りしてたw
1枚目のラージって奴ともなんか集落で飲んだ気がするなぁ、いろいろ楽しい思い出もあるんだよなぁ。
あいつら元気かなぁ
今日という日は四月も終わりだというのにやたらと寒かった。件の病院に向かうのに外へ出たら季節を間違えたかと思うような肌寒さだったんだ。受付の30代前半くらいの女のまたかと言わんばかりの不快な表情も近頃はあまりお見かけしていない。こちらに目も向けずただ機械的かつ事務的に僕を処理しようとしていた。
「忘れました。」
僕は答えた。
「お名前を教えてください。」
「...忘れました。」
女はうんざりしたように僕の手首に括り付けられた忌々しいJEIを小型リーダーで読み込んだ。なんせこんなやり取りを今までに何十回と繰り返しているんだ。うんざりもするだろう。僕だって教えて欲しい。でも忘れてしまったんだから仕方ないんだ。女はまるで始末の悪いガキを追いやるみたいにして僕を出入り口付近の腰掛け椅子に座るよう指示した。僕のような悪ガキを何百人座らせたらこんなふうになるんだろうと思うほどカチコチな腰掛け椅子だった。まるで冷たい岩にティッシュペーパーを敷いてやったみたいなんだ。本当さ。つくづく嫌な女だが僕のような12級3号の国民にとっては国営医療を受けられるだけでもありがたかった。下級国民に世間は冷たいんだ。しかし彼らは言うだろう。必要なのは平等と多様性の受容、そして怠惰で猥褻な思想を排除することだと。
「先日、新元号が閣議決定され、令和の時代も残り3日となりました。グエンさんは令和をどのような時代だったとお考えでしょうか。」
「この53年間、我々第三移民にとっては激しい差別と闘争の時代でした。ハノイ郊外のスラムで育った私にとって当時の日本は電気羊の縮れた腸のように思われました。労働を求めて重金庫にホールデン・コールフィールドのハンチングを閉じ込めた私は...」
僕はひどく座り心地の悪い椅子に腰掛け、受付に座っている冷血な女の言葉をすっかりスカスカになってしまった脳みそで反芻していた。
僕は15、6の頃、祖父の家の屋根裏で見慣れないディスクを見つけた事がある。ホコリを被った古い型番の汎用リーダーで再生してみると「教えて欲しい 教えて欲しい 教えて欲しい」と歌う男の声がノイズ混じりに聞こえてきた。頭がおかしくなったのかと思うかもしれないけど、それからしばらく裸電球が灯る薄暗い屋根裏で一人うずくまって泣いていたんだ。おかしな話かもしれない。当時僕には教えて欲しいことが山ほどあった。誰でもいい。何でもいいから答えて欲しかった。何をと聞かれても、それは対数計算の解き方でも、化学教師の本当の国籍でも、質の良いマリファナの見分け方でもないことは確かだった。僕は本当のことを求め、渇望していた。まるで冷たい宇宙に漂う北斗七星のようなもの。今ではそれが何だったのか、思い出すことすらできない。
「点数配分を誤った第一移民たちが私たちに馬の目を抜くような大量の綿菓子を抱え込んでいました。我々は令和という時代のカタルシスに翻弄された夜鷹として...」