はてなキーワード: 養親とは
何で「母親やシッターだけで育てる」のと「保育所に入れる」のと両極端なの?
あと保育所と言っても日本ほど低年齢から長時間使うのが常識な国ばかりじゃないし。
日本の保育所みたいに「0歳児から、朝から晩まで長時間利用する」のを理想としている国なんてあるの?
小学校入学前の幼児教育ってなら受けさせた方が良いのが常識で、義務教育や無償・全入前提としている国ならあるけど、
そもそも外国だと、公営の(税金使った)保育所は純粋な福祉施設であり貧困家庭しか利用不可、って国もあるんだけど。
(それ以外は全額自費の保育所に入れるかシッター雇って3,4歳まで待って幼稚園に入れるか、になる)
あと子供は施設ではなく家庭で育つ方が望ましい、ってのも国際常識だよ。
だから海外だと実親が育てられない子は養子縁組をして養親が育てる事が推奨されてる。
「実親が育てるのが望ましく、それが不可能なら実親が育てられるようになるまで施設で育てるべき」
「例え実親が育てる気がなくても、気が変わるまで子供はずっと施設に入れておくべき」とされていたけど
今は国際常識に合わせて「実親が育てる気がない子は幼いうちから養子縁組をして養親が育てるべき」というように方針を変える自治体が増えてる。
その同性愛カップルのどちらかが育児に専念しているのなら同じ事では?
あと日本は元々養子側が乳幼児の場合、それより養親希望者の方が圧倒的に多いから
その分養子側が選り好み出来るんだよね。
養子貰いたい人には赤ちゃんを欲しがる人が多いので、赤ちゃんを貰うのは難しいんじゃないかと思う。
しかし念願の赤ちゃんを貰い受けたとして、昼夜問わずノンストップの育児に耐えられるのかどうか。
それに、まだ赤ちゃんでは、養親が求めている性質を持っているか、あるいは養親には受け入れられない性質を持っていないかは、定かではない。
また、生まれたばかりの赤ちゃんを(二度と自分の元に返って来ないという前提で)手離す親には何か深い事情があるのではないかと推察されるし、その深い事情というのに遺伝する脳の障害が関わっている可能性もあったりするだろう。
例えば、発達障害や知的障害のせいで生活に支障を来している祖父母のせいで家庭から逃げ外の男に依存したこれまた発達障害や知的障害のある女性が出産したが、生活が困難なので手離し、乳児院に入った赤ちゃんなのだったりするのかもしれず、するとやはりその赤ちゃんにも発達障害や知的障害が遺伝している可能性はあるだろう。
お世話になった施設の施設長さんが亡くなられたらしいと聞いた。施設、というのは、私にとっては児童養護施設である。
私は養子で、生まれてすぐ施設に預けられ幼稚園児のときに養親のもとに引き取られた。施設では主に児童指導員のお世話になっており施設長と特別何かした思い出があるわけではない。けれどとても穏やかそうで優しそうな施設長が施設長としていてくれただけで安心感があって、養子縁組後に施設を訪れて施設長の顔を見たときに、私には言葉で表現し得ないような嬉しさを感じた。私はたくさんの子どもたちの中で施設長の話を聞いたりするだけだったが、少しだけ、父親に抱くような尊敬を持っていたのかもしれない。
私は現在18歳で、学校に通っていれば高校3年生だ。中学校で不登校になったり受かった公立高校をすぐにやめたり、挙句高認を受けて合格したうえ大学に進学したいと考えている甘っちょろい受験生である。
今回施設長の訃報を聞いて、当時幼稚園児の私の朧げな記憶から同級生のことを思い出した。
生活を共にしていた同い年の子どもたちの中で、里子にも養子にも行けなかった子どもは、当然ながら存在する。彼らも私と同じように18歳になっており、そしてこういった児童養護施設では原則として18歳までしかいられない。
大学に進学するにも、就職するにも、携帯を契約するにも、何をするにも不便だ。お金も、学歴も、保証人も、何もない。遠い大学に受かれば下宿するのだろうという程度で不安になっていた自分がこれ以上ないほど情けなく思えてきた。なにせ私には、養親の稼いだお金と、学費の高い私立でも大学に進めと言ってくれる環境と、養親の保護と保証がある。たった1人で、10代で本当に自立して生活しなければならない彼らと比べられるわけがない。
私は自分のことが嫌いだから、もしあのとき養親が選んだのが私でなくて彼らのうちの誰かだったらよかったのに、と未だに何度でも思う。
仲の良かった彼や彼女はいま、どんな選択をしようとしているのだろう。私よりもひどく現実的であまりにも地に足がつきすぎた選択をせざるを得ないのだろうか。実際に彼らに何かを聞いたりしたわけではないから、あくまで私がそんな状況だったらという想像に過ぎないが……、当時は皆同じような境遇だったはずなのに、養親というたった一つの違いだけでこんなにも進路というものへの意欲、というか、進路を死活的に捉えるようになる、のだなと思った。
里親って、実の親は他にいるけどその親が育てられない事情がある時、代わりに一定期間預かって育てる存在だよね。
でも動物には「新しい家族」を求めていているわけじゃん。一時預かるだけじゃなくて、死ぬまで家族の一員として愛して欲しいわけでしょう。それはどちらかというと養子縁組ではないか。
「里親募集」じゃなくて、「猫ちゃんわんちゃんの新しい家族募集」とか「養親募集」にはできないものか。
なんでこんなことを思ったかというと、里親に興味があるのに、里親やってる人のブログが読みたくて検索すると動物関連ばかりが出てきて、なかなか子供の里親の話に辿り着けないから。
とは言え、今は動物の里親の方がメジャーに使われているようだから、いっそのこと子供の里親に新しい名称を付けてくれればそれでもいい。
へぇそうなんだ。
実親は養子に興味がなかったり、施設に預けたきり関与しないものだと思ってた。
養子は実親を知らないって話は聞くし
養子縁組ってあんまり普及してないように感じるけど、養親は実際は売り手市場ではないんだね。
知らなかった。さんくす
答え:獠と香に子供をもうけるため
『C・H』しか読んでないひと向けに説明すると、『A.H.』は、『C・H』のパラレルワールドとして描かれたお話で、流用された設定もあれば改変された設定もあります。ジャンルも違えば、テーマも違うので全くの別作品と捉えた方がいいです(『C・H』はもっこりアクション、『A.H.』はヒューマンドラマ)。
でもって、香は『A.H.』開始以前に死にます。車に轢かれそうになった幼児をかばって死んでしまいます。ドナー登録をしていたために臓器が移植用に摘出されますが、そのうちの心臓が、台湾マフィアに強奪されます。
理由は、台湾マフィアの凄腕暗殺者である「グラスハート」に移植するため。「グラスハート」は度重なる任務に心を病んで自殺を図り、鉄柵で自分の心臓を貫きました。凄腕暗殺者を復活させたい組織は、適合者である香の心臓を強奪し、移植したのです。
手術は無事成功しましたが、生きることを放棄した「グラスハート」は目覚めることを精神的に拒否します。しかし、香と心の交信を行うことで覚醒し、生きる気持ちを持たないまま迷子のように新宿の獠の元に向かいます。
その後、紆余曲折を経て、生きることを受け入れた「グラスハート」は獠を「獠爸爸」(パーパ)、香を「香媽媽」(マーマ)と呼び、ふたりの娘「香瑩」(シャンイン)として暮らすようになります。
図式化すると、
ということですね。
「グラスハート」は、殺しの英才教育を受けた暗殺マシンです。人として生きることは許されておらず、名前も持ちません。27番とか、コードネームの「グラスハート」だとか、人非人の扱いを受けており、心を凍らせて生きています。ただ実際にはそういった境遇に苦しんでおり、ついには自殺を図ります。
一方の香は、『C・H』の(わりと自分勝手な)少女から、シティーハンターとして多くのひとの支えになる母性豊かな女性に成長(or変更)を遂げています。
暗殺マシンとして教育され、扱われ、心が壊れてしまった虚ろな「グラスハート」に、慈愛に満ちた「香の心臓」が入ることによって、「グラスハート」は獠と香の愛によって育まれる機会を得、ふたりの娘の香瑩になる、という構図です(香の意識はかなり残っていて、香瑩に慈しむように語りかけたり、体をジャックして危険地帯に突っ込まないようにしたりします。香瑩を介して第三者に語りかけ癒やしたりすらする。そういう描写をするための心臓移植、という側面はかなりあると思います)。
獠と香からしても、シティーハンターである以上、子供を作ることはできない(とふたりが認識してる描写があります)ので、こんなことでもないと、ふたりの愛の子は存在し得ないわけです。
さて、ここまで読んだひとの何割かは、
養子でいいじゃん!
と感じたと思います。
「グラスハート」が自殺未遂をして、死にかけているところに獠と香が通りがかって助ける展開でも良かったハズだ、と。香を殺さなくたって、ふたりが養親となって「グラスハート」に愛情を注ぎ、ひととしての心を取り戻させていく話が描けたハズだ、と。
ですが、それだと『A.H.』はクッソつまんなくなってたと思います。もうちょっとオブラートに包んでいえば、作者のやりかったことが出来なかったんじゃないかと。
というのは、『A.H.』が、欠けたる者が今を精一杯生きることを肯定的に描いた物語だから、なんですね。
ここでいう欠けた者とは、人生において喪失を経験している者という意味です。
『A.H.』の展開は、冒頭にまとめた通りなんですが、それは序盤のうちに終わって、以後は獠と香瑩が、シティーハンターとして多くの家族を助ける、という話をひたすらやるようになります。
男はなぜ40年後の世界に自分がいるのか判りません。見覚えのある場所は残っておらず、両親は死んでおり、自分と40年後の世界との接点を見つけることができず苦悩します。そんなときにかつての恋人が生きていると知ります。しかも、彼女はずっと独り身で、自分との娘がいます。しかし男は、老いていない自分が彼女の前に現れても、その生活を壊し、傷つけるだけと苦悩します。自分は、40年前にハワイ沖で行方不明になったとき、死んでおくべきだった、と。
そんな男に対し、香瑩は言います。
男「君と違って、僕がここに居る理由なんて…」
香瑩「あると思う」
男はかつての恋人と向き合う覚悟を決め、和解するに至ります。しかし、男は「タイムスリップの影響」で一気に加齢し、老衰で死んでしまいます。
家族は、本来送れるはずだった40年という時間を失っていました。しかも、ようやく一緒になれたのに、男はあっという間に死んでしまい、家族はまた喪失を経験することになりました。
死にゆく男は、恋人に謝罪します。それに彼女は、感謝の言葉で応えます。
女「あなたが帰ってこなければ……この悲しさも知らずにいたでしょう……」
女「すべてが…愛しい日々だった……ありがとう……」
それは、家族にとって、喪失を乗り越えて手に入れた、大切な時間でした。
私たちは知っています。人生ってのは何かを失っていくことだと。大事なひとは死んでしまうし、大切にしているものも不変じゃない。友情は壊れてしまうし、愛情はいつか冷めます。描いていた夢のほとんどは達成されず、諦めて諦めて諦めて残った一握のソレを大切にするしかない。でもそんな当たり前のことすら日々の忙しさにかまけて疎かにしてしまう。そして大切にしきれずに失ったとき、ああすればよかったこうすればよかったと悔しい思いをするんです。親を亡くした時とかにね。
『A.H.』は、そういう喪失を知った、もはや少年ではない世代の人間が、「このひとたちは、大切な何かを守ることが出来た、ああ、良かった」と涙する、そういうお話だと思います。だから、主人公である獠と香瑩にも大きな喪失を経験させておく必要があったんです(どうすべきか悩むゲストキャラに対し、獠が「つれあいをなくし」た経験を語るシーンがあったりします)。
『A.H.』は、喪失を泣かせの過剰な演出のためではなく、誰もが経験する普遍的な哀しみとして描きます。哀しいことがあってもひとは生きていかないといけないし、哀しいことがあった時、後悔しないためにも今を精一杯生きなきゃなんない。香の死もまた、そういう喪失の一種です。決して考えなしに殺されたんでも、新シリーズに興味を持たせるためでもないです。そういう意味で、誠実な漫画だと私は思います。
そうは言っても香が死んだのは受け容れられんというひとはいるでしょうし、正当は意見だと思います。
あと、どこまでいっても「家族愛」とか「人情話」が描かれるので、クッサ! と反感を覚えるひともいると思います。
そういう意味で、万人向けではないし、『C・H』に比べて楽しめる層が狭まってるのも事実だと思います。
ただ、頭ごなしに否定するにはちょっともったいないと思ったので、本稿を書いてみました。
というわけで、
真の答え:香という大きな存在の喪失を物語に内包することで、今を精一杯生きるというテーマを浮き彫りにするため
でした。
こちらからは以上です。
http://anond.hatelabo.jp/20151027025925
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20151027025925
つhttp://anond.hatelabo.jp/20150915162859
現状では「子供を手放したい人」より「子供が欲しいのになかなかできない人」の方が圧倒的に多いの。
里子ってのは単に自治体から委託されて一時的に自宅養育するというだけ。
里親は親としての権利は一切貰えない。その代わり養育費を貰える。
更に普通養子と特別養子に分かれ、普通養子は年齢制限がないが子は実親との縁が残る。離縁も可能。
特別養子は6歳未満までだが養子は実親との縁が切られて養親の実子と同等の扱いとなる。戸籍上も「子」と書かれる(養子とは書かれない)。
離縁は養親による虐待等、離縁しないと著しく養子の不利益となる理由がない限り無理。
んで「子が欲しいけど出来ないから実子の代わりとなる子供が欲しい」って人が望むのは特別養子。実子と同じ扱いになるのは特別養子だけだから。
でも特別養子の対象となるような子ってのは少ないのよ。年齢制限がある上に、実親が子と完全に縁を切る事を了承しないといけないから。