はてなキーワード: 異口同音とは
表現規制反対派が異口同音に「実際に子どもが被害に遭う犯罪の加害者は親や教員など親しい人で、見知らぬ不審者による被害はわずか」って言うけどなんなの?
そんなこと、宗教右派以外はみんな知ってるよ。
頭では分かっていても、そんなおぞましい事実と向き合ったら自分の友人や同僚も疑うことになってしまうし、
何よりも「自分は”まとも”だからそういうことはしない」と言い聞かせている自分自身を疑うことになっちゃうんだよ。
そんな事実と向き合える強い心を持った人はそうそういないんだよ。
それなのに規制反対派が「実際の子どもへの加害者は親や教員なんですけどー」ってドヤ顔で(いや、顔は見られないけどキモいドヤ顔しているのは想像がつく)言っているのをみると吐き気がする。
まるで『綺麗な顔してるけど、これだってお前の一部なんだよ。ちゃんとそのことと向き合えよ』ってウ●コの画像を見せつけているかのようだ。
はてブのコメントは軒並みこの人の自己申告を大方信じて、完全な被害者と捉えているのが多かった気がするが。
仲間である筈の同僚に行動を制止されていること。いくら警察とはいえ、身なりの怪しい乱暴なおっさんとで心情的に肩入れするとは思えず、『映像を見た刑事、巡査、鑑識から異口同音に「威嚇や恫喝は合法、反撃は違法。全面的にあなたが悪い。」と言われ』ているのも、見た人がそうとしか思えないだけなんじゃ?
ちょっと気に入らない嫌いだ位で「○○クソだな、死ねよ!」とコメントされる事も日常なはてブにおいて、この老人の暴言とされる言葉が、深刻な暴言と見なされない社会状況というのも見て取れるわけで。
この人の内部で起こった焦燥感が、他者から見ればそれほど差し迫った状態とは読み取れず、こんな結果になるってのも、解らなくはないなぁ・・と。しか思えない。
小学生のボランティア活動の事務局とかしてる。ボランティアで。
だいたい朝に集まって、昼飯食べたら解散。
この前、昼飯食って、一時半に終わったので解散したのだけど、終了を2時にアナウンスしていたので、親の迎えを待つ女の子が五人くらい残っていた。
僕は昼飯の片付けをしながら見ていたのだけど、なんか鬼ごっことかしていた。
天気がよくなって、暑い。
「ビールっておいしいの?」
近くにいた女の子が耳聡く聞いてきた。
「いや、うまいね。でも、飲まない方がいいよ。俺も酒なんか覚えなきゃよかったって思っているし」
本音を返す。
「私のお父さんは毎日五本飲んでるよ」
はあ、豪傑ですな。
「でもさ、ビールが一本250円として、毎日一本飲んでも十日で2,500円だよ。一ヶ月7,500円。君のお父さんはその五倍だから40,000円近く毎月ビールを買ってるんでしょ。ほら、なんかそう考えたら勿体ないでしょ」
少なくとも子供の前で飲酒礼賛はしない。そのくらいには良識がある。
「一回癖になったら俺みたいに、毎日お金を使うことになるからね。タバコとお酒は最初から覚えないのが一番いいよ」
他の子達も集まってきていたので、僕はみんなに向かって言った。
「私は、大人になったらタバコ吸うよ」
一人、意見が違う。
なんで?
「かっこいいじゃん」
ああ、見解の相違。回りの少女達は「ええ、かっこよくないよ」と反対意見を口にしている。それでも、その子はかたくなに意見を曲げない。
でも、なんて言えばいいのかうまく言葉が出なかった。
複雑な家庭の子だ。
もしかすると、母親が喫煙者なのかもしれない。喫煙者と、喫煙行為自体を否定する発言は避けたかった。
「一箱400円で、毎日1箱吸うなら、一月12,000円かかるんだよ」
結局、経済性についてのみ、僕は語ってあとは話題を変えた。
・
ああ、その結論を出せる奴なら、ああいう書き込みは絶対にしないよ。
だって、根底に「男は楽してる」っていうルサンチマンがあるんだもん。
まぁ、実際に「男の仕事=外で遊んでいる」程度に思っている女は珍しくないからね。
面白い事に、外で仕事していて、もちろん「男の仕事」も身近で見てるようなのでも、そう思ってるのは少なくないんだよ。
もし、彼女や嫁さん、あるいは友人に女が居るのなら、聞いてみるといいよ。異口同音に「女の方が仕事が出来る」と根拠も無しに口走るからさ。
だから、男は遊んでる癖に女にばっかり仕事も家事も子育てもやらせるなんて酷い!なんて発想になるんだよ。
まぁ、全部の女がそうとは言わないけどね。ちゃんと仕事で高い評価されて管理職にまで行くようなのは、そんな妄想はしてないから、ただ、頭の中身が男化してるのが多いのは確かwww
中公新書「韓国の軍隊」という本を読んだが、これが実に面白かった。
ご存知の通り韓国の軍隊は徴兵制を敷いているが、このことにより、韓国の成人男性は、様々な体験をしていて、
様々なリテラシーを身に付けている。
例えば、いろいろな設営作業に従事するので、土木関係者でなくても土木リテラシーが身に付くし、
「対民支援」ということで、過疎地の農作業支援に従事するため、
ソウル生まれのソウル育ちの都会っ子でも、農作業リテラシーが身に付いてしまう。
※韓国軍が、一見軍事とは縁のない過疎地の農作業支援を行うのは、
「過疎化が進行してしまって、限界集落・無人化してしまうと、そこが即ち北朝鮮の工作基地になってしまうため、
国防的には最低限の農村集落居住を維持させたい」という国家の意思が働いているようである。
しかし、韓国徴兵制の最大のメリットは、「権力者リテラシーを、ほぼ全員に身に付けさせられる」という、巧妙な仕組みにあった。
最初は二等兵で入営するが、早くて8ヶ月程度経ると一等兵に昇進し、更に早くて6ヶ月程度経ると上等兵に昇進し、
更に早くて5ヶ月程度経ると兵長に昇進するらしい。
逆に、よほど「素行が悪い」「体力的に劣っている」ということがなければ、大体の男性は、除隊までの24ヶ月の間の最後の方で、
兵長にまで昇進するらしい。
通常、兵長は10人程度の下等兵を束ねることになる。
つまり、「10人程度の組織のリーダー」を、徴兵期間の最後の数ヶ月間、体験することになる。
こういう仕組みが成立する前提としては、
「徴兵入営のタイミングが、月によって「平準化」されている、というカラクリ」が前提となる。
例えば第99兵団で、2013年4月入営の徴兵兵が1人、
常に毎月1人入営のペースを維持していれば、
「2011年6月入営、2013年5月除隊の兵士」から見たら、
「2013年5月時点では、自分の周囲は23人の後輩兵」ということになる。
「入営時期を平準化させ、コンスタントに後輩兵が誕生する仕組み」を作っておくことで、
「徴兵期間の最後の時期に、下等兵を指揮するリーダー体験を味わうことができる」という仕組み。
「徴兵当初はキツかったが、除隊直前の兵長体験が非常に心地よかった」という体験。
「兵長を体験したことで、権力の魅力がわかった、除隊後一般社会に出ても、権力者を目指したい」という男性が、結構多いらしい。
「リーダー経験、権力者経験を、等しく成人男性に積ませることで、
巷には就活用のノウハウが山ほど転がってるけど、どう考えても足りない所がある。
人事だって社内の様子は知ってるので「ああいう人が一杯居たら嬉しいな」「ああいうクズを社内に蔓延らせたら終わるな」という視点があると思う。
大抵の会社にいるその「クズ」は「働かない理由を何とか見つけてクビにされない程度にのらりくらりと生きたい給料泥棒」とか「社内政治が第一目的でその為なら会社の転覆をも厭わないアホ」とか「周りの士気を削ぐのが生きがいなナルシスト」とかでそいつらを増やしたくないのは間違いない。下手にクビを切れないこの社会では、そんな奴らばかり入れたらドロ舟の崩壊は進む一方だ。
でもそういう「クズ」達も新卒の時は目を輝かせて「有能な私を雇えば御社の業績が良くなること間違いなしです」と喧伝して入ってきた訳で、異口同音に同じ事を言う新卒の言葉から本物を発掘するのは難しい。
だから「クズ」が時々見せる兆候には目ざとい。「本心では全く働きたくない」「何とか騙して給料だけ貰えればいい」こういう思考が垣間見えたら即祈る。そういう思考をするのは自由だけど、毎年1000万近い大金を会社が拠出してまでホワイトカラーとして養ってやる理由にはならない。そもそも働く気のない人に頭脳労働は任せれないので、自ずとそういう人は肉体労働に就いてもらうことになる。
「クズ」は働きたくないでも高い給料は欲しいという思考で生きてるから、そこから捻り出てくる戦略は能力アピール。学生時代にどんな能力や知識を身につけたかを面接で得意げに話す。バスケ部の主将だったとかなんかの論文で賞を貰ったとかバックパッカーとして漫遊して珍しい知見を得たとか。
こういう話をするのはあんまり良くない。
企業は「どんな高い能力を持っているか」ではなくて「会社のためにどれだけ力を発揮してくれるか」にしか興味がないから。
その視点のない「クズ」候補は延々と自分のレベルの高さの話しかせず、それでどういう働きをしたいかについての視点の話は全くしてこない、働きたいと思ってないからそんな話ができない。
まぁ人事はそういう「クズ」を避けるためのフィルターを持ってるから、そのフィルターを抜けるよう考えないとダメ。クズは過去の経験や名誉を武器にしてくるから、同じ戦略を取ったら疑われる。
結局は「就職後もサボらず会社の利益を考えて行動し続けれます」という言葉にいかに説得力を持たせるかというプレゼンテーション勝負だと思って掛かったほうがいい。
会津に観光旅行に行った。会津地方で観光客が激減しているというニュースを月曜日にみて、折よく暇だったため翌日朝一の電車に飛び乗り2泊3日の観光旅行、昨日7日夜東京の自宅に帰り着いた。せっかくなので、一観光客が見聞きした会津の現状や観光したうえで感じたことを書きたい。無計画性が災いして時間が足りず磐梯には行っていないので、会津若松と喜多方のみの話となります。
# # #
1.地震の被害
会津若松駅前の地下道が冠水、未だに復旧せず通行止めであったり、マンホールが隆起していたり、蔵の土壁が壊れていたりと、地盤のよい会津地方も少なからぬ被害を受けており、極一部の観光スポットが休業している。とは言えその数は少なくまた有名どころはたいてい営業しているし、会津内での交通インフラも問題ないので、観光への影響は少ない。
2.原発の直接的影響
大気中の放射線測定値についてはさすがに東京より高く毎時0.2マイクロ・シーベルトあたり(健康には問題のないレベル)だが、野菜や水からはほとんど検出されていない。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/index_php/info_hazard/view.php
ちなみに、現地の某ラーメン屋に入ったら使用している野菜の原産地をしるす貼り紙があったんだけど、そのなかに福島産の文字がない。つまり暗に福島産は使ってないですよと言うアピールをしていて、なんかすごい切ない気持になった。
3.観光産業の現状
機会があればなるべく現地の人と話すようにしていたんだけど、異口同音さっぱりお客さんが来ないとのこと。前年比で95パーセント減と具体的に数字を挙げてくれた方もいた。これから景気は悪くなるだろうし、外国人観光客も減るだろうから、地震前に戻るというのは何年たっても無理かもしれないが、さすがにこの減り方は異常事態。しかもゴールデンウィークの予約もキャンセルが相次いでいるということもあり、その異常事態のおわりが見えないことが怖い。しばらく続くとバタバタとお店が倒れてしまうかもしれない。
4.今観光すべきなのか?
しかし、このような惨状を見聞きしながらも、会津を助けるために今すぐ観光すべしと人に強く勧める気に僕はなれない。理由はふたつ。今一番困っているのは被災民なのだから、観光する暇と金があるならボランティアしろよ寄付しろよという正論がそのひとつ。そして会津地方は避難民を多く受け入れているというのがもうひとつの理由。関係ない所で自粛だの不謹慎だのと言うのはバカらしいが、さすがに避難民の目の前で呑気に観光と言うのは気がひける。じゃあどうすればいいのか? 現地の人にいろいろ話を聞いてみて思ったのは、今観光客が激減していることよりも、その異常事態のおわりが見えないというところに不安を感じている様子だった。ならば、被災者避難民に配慮しつつ、会津人の不安を解消するには、この異常事態には終わりがあるんだよというメッセージを送ればいいのではないかと思う。それにはちょっと先、例えばゴールデンウィークのホテルの予約を入れるというのがいいんじゃなかろうか。先が見えれば会津の人も安心すると思う。もちろんそこまで被災者避難民に配慮する必要はないよと言う人は、空いている今が好機だと思うので、どんどん行った方がいい。じっくり見学ができるし、スタッフさんと話し込むことができるし、サービスしてくれる店もあったし、写真も撮りやすいし。酒造りはほとんど終わっており、桜はまだと言うことでオフシーズンなのが残念ではあるが。
5.アクセス
東北新幹線・東北本線が運転見合わせで、東部鉄道だと時間がかかり、高速バスはキャパが少ないということを考えると、現状では車で行くのがベターかなという印象。車がなければバスにするか、新幹線・東北本線の復旧待ち。郡山・会津間を結ぶ磐越西線も現在間引き運転中。まあゴールデンウィークまでには意地でも復旧するでしょう。
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以下蛇足。ガイドブックではそれほど注目されてないが印象に残ったところをいくつか、ご旅行のご参考までに。
A.さざえ堂(会津若松)
平面六角形の木造二重螺旋建築。前々から見に行きたいと思っていたもので、今回会津旅行を即断したのもこれがあったから。世界に類をみない奇妙な建築物でありながら、中を廻れるというのが魅力。ずいぶん痛んでいるが、昔から多くの人が入ったという証左であり、歴史の重みを感じる。10年くらい思いを熟成させかなりハードルが上がっていたが、それをはるかに上回る感銘を受けた。
B.長床(喜多方)
新宮熊野神社の拝殿。イメージとしては木造のパルテノン神殿(ただし規模は劣る)といった感じの、壁のない建物。70年代に解体修理復元工事をしており、建材は再利用しているものの建物自体は古くはない。しかし、中にのぼれるという魅力には抗しがたいものがある。また木造の大鳥居も時代がついていていい。
蔵座敷で有名な甲斐本家だけど、注目は売店のなかにある螺旋状の吊階段。彎曲した側桁が一枚で、しかも曲げたのではなく削り出したのだという贅沢なつくり。店主が話好きのおじさんで、面白い話が聞けた。
名物輪箱飯(わっぱめし)の元祖。値段は高いが当然のようにうまい。カウンターの隣には、とある形をした黒塗りの木造が鎮座ましましている。珍妙なことに、その木造には色々な国の紙幣が貼ってあった。訊くと、賽銭感覚で外国人観光客が貼っていったものらしい。ちなみに、2泊3日の旅行中外国人を一人も見かけなかった。
モバゲータウンを運営するディー・エヌ・エーは、7月下旬から8月上旬にかけてソーシャルゲームのプロバイダー(一般にはソーシャルアプリケーションプロバイダーでSAPと呼ぶ。以下SAP)などに対して、競合するGREEにソーシャルゲームを今後提供した場合には、モバゲータウンで提供するゲームにトラフィックを流さないと複数社に通達した。ただ、GREE以外のmixiなどにはゲームを提供してもいいのだという。
これはソーシャルゲームプロバイダー各社に対して一斉に通達したものでなければ、規約の改定でもない。一社一社個別に説明したものだ(ディー・エヌ・エー側はこの件について明らかにしていない)。もちろん、このような説明をされていない会社もあれば、まったく条件の異なる会社もあるだろう。ただ、TechCrunch Japanで取材した十数社は異口同音に上記のような説明を受けたという。たぶん、それ以上の会社に同様の説明はあったようだ。
なんじゃこりゃ。
私が好んで巡回してしまうような、あるいは検索ワードで引っかかって飛んでしまうような、そんな少し粋なサイトでは、何とかの一つ覚えのように「論理的思考」と異口同音だ。だが、思考はそもそも論理でできているのではないか。考えた時点で、それはもう論理なのではないか。――と、そんな極端にとらえるまでもなく、要は論理の程度なのだろう。論理的思考ができていない人などいないし、論理的思考しかできない人もいない。
思うに、「的」を用いた表現は曖昧だ。「性」や「度」に置き換えて表した方が適切だと考える。例えば「論理性の強い思考」や「論理度の高い思考」といったところか。もっとも、「論理的思考」のニュアンスは、まさにそれなのだが。
この例に限らず、「的」は氾濫していると思う。使いやすいのは解るが、頼りすぎると幼稚な文章になってしまうのではないか。「ご利用は計画性をもって」――かな。
トラックバック元の記事のものです。
匿名ダイアリーは普通、レス返さないのがルールだったりしたらごめんなさい。
空気読めず……ただ、いただいた内容でもうひとつ、私にいえそうなことがあったので失礼します。
私は鬱病と診断されていたころは、病気であることを職場でオープンにしていました。
(というのも、一時期、外出恐怖症になって外に出られず、休職させてもらったので。
自分のふがいなさに、退職を申し出たのですが、慰留していただいて、本当に助けられました。)
なので、心が病みかけの人の相談はよく受けていました。
相談を受けて話してすっきりして終わった人もいれば、
相談が長引き、私がその毒を食らって手に追いきれない、と判断した場合は、
病院に行くことを進めました。
心細そうな人の場合は、付き添いました。
今までで、身内1人、職場の同僚2人の初回の通院に付き添ったことがあります。
結果論で言えば、つきそってよかった、でした。
3人のうち、2人は職場や家庭環境の変化によるストレスで一時的に病んだものだったので、
早期に手を打ったことで、回復が早かったです。
うち1人は残念ながら、その後も病院を転々とし、互いに転職したのでその後がわかりませんが……
3人とも、病院に行く前は本当に心細そうで、ほっとけなかったですが、
病院にいって診察を受けたあとは、本当に表情が明るく変わってました。
「つきそってもらえなかったら、これなかった。ありがとう。」
とは異口同音に言われたことです。
心が本当に弱っている人は、当たり前のことができなくなっているから、手を差し伸べるのはありだと思うのです。
40度の熱を出している人間に、「ひとりで歩いて病院にいけ。」とは言いがたいですよね。
心だろうが体だろうが、あまりに病んでて一人では通えない場合は付き添いが必要、と普通に考えていいかと思います。
ただし、心の場合は、どこまで自分が背負いきれるか、は見極めねばなりませんが……
共倒れの心配がありますからね。自分まで倒れてしまっては悲惨です。
3人には感謝され、そのときには私は気丈に振舞いましたが、
私のダメージも相当なもので、そのたびにカウンセリングの先生の前で沈み込んでました。
身内以外は、もう音信普通ですが、
元気でしあわせでいてくれればそれだけで充分すぎるほどで、私のことは忘れてくれていい、と心から願っています。
どうか、本当に弱っている人がいたら、面倒でも、手を差し伸べてあげてください。
手遅れにならなければ、それだけで人生が救われる人は、必ずいると思いますから。
いつからこうなんだろう?
あまり具体性のない弱気で捨て鉢なことつぶやく人に対して、
ぼくもかつてはそうだったのだけど。
高校生ぐらいまでかな。
やっぱりそんなこと言ってた記憶がある。
ほんとのこというと、そんな風に言うのがその人のためになる、
と心から思っているのではなくて、
なんかそんな風に言うのが、
なんだかイラつくその人の姿や言葉に、
なんだかかっこいいかも、なんて思っていたかもしれない。
テレビでも本でもちょっと頭のいい、
自立した風のおとなの人たちがみんなそうしていたし。
なによりも「自分は正しい」って思えた気がする。
その人にしてあげられることがあなたには何もないのなら、
ただ黙っていればいい。
目をそらせばいい。
あなたから離れていけばいい。
そして心の中で自分に言いなさい。
「甘えるな」。
それは己のおごりをいさめる言葉。
そのためだけにある言葉。
そう教えてくれた人は
いまはもういない。