はてなキーワード: 小さな政府とは
儒教っていうのは本来は、上が下を労い察し、下が上を労い察する両輪から成り立つ。
だけど、ここに人間の支配欲求、他人を自分のわがままのために動かしたいという欲求が顔を出す。
かつ、下が上を察するのが当然だから、上がその欲求のために腐ってしまえば、一気に腐る。上が下を見ずに雑務を与え、資源も根性論で賄うのを要求し、過重労働を強いる。
ゆえに、30年で一気に世界有数の新自由主義国になってしまった。人口比公務員比率は世界最低。小さな政府。
だが、下が創意工夫で時間を金をかけてやらないとならないような分野はどんどん崩壊している。上はそのことを気づかずに、今日も自分のしょうもない欲求こそが世界の一大事だとくだらん仕事をふやし
表面的に見ればそうなんだけど、思想の流れ的にみないとじゃあ何が正しいのかが結論付けれないし。
あと、手垢に染まった思想をそのまま使えば、君のスレッドに続く通り見ての通り感情的な敵味方論争になる。
それは、感情にあかせて陣取り合戦したい奴の思うつぼ。それでいて何も生み出さない。
感情的な敵味方論証は有害無意味だと感じているので、ちょっと小難しいがああいう流れとして描いた。
後、大きな政府がよいか、小さな政府がよいかというのもネトウヨ、はてサの解としては正しくない。
一応右ということになってる新自由主義は小さな政府志向だし、福祉をきちんとしようとすれば大きな政府となる。
それから、国の金を動かすというのは高累進課税、高法人税がケインズ時代の解であった。
ただの高法人税では、設備投資に使おうとしても税金を取られて、自由に動けないじゃないか!
あるいは、投資に対するリターンが下がるから投資が減るんじゃないか!
僕は、それ以前にフリーハンドの低累進課税、低法人税は金の回転(貨幣の流通速度)をダダ下げすると結論付けてる。むしろ設備投資は落とす効果があると考えてる。
だから、高累進課税+厚い寄付控除(ふるさと納税含む)、高法人税+厚い設備投資減税、賃金増加減税、株主還元減税、あるいは低法人税+使途がない収益に対する追加増税のように、
ため込めば増税、使えば減税にしていけば金の回転数を上げたうえで、高く税金取られて不満な富裕層、企業の不満を抑えられると考えてる。
経済がまともであればほかの問題は何とかなると考えてる。なにより、下らん陣取り合戦に巻き込まれないようにしないとなと思ってる。
それは、そういう思想が世界的に……というか、アメリカで流行ったからだよ。
その名も「新自由主義」という。
日本では、自己責任論、の源流として知られ、批判されるようになってきた。
新自由主義というのは、小さな政府、を志向する思想だ。主にソ連共産主義に対立する考えとして生まれた。政府による公的扶助が大きすぎると、人はそれに頼るようになって自助努力を怠り、結果的に効率的な社会が作れなくなる。民間に任すことが出来ることは民間に任すべきであり、政府が責任を取る範囲はできるかぎり小さいほうが良い。その中では、恐らく敗退したり競争に負けて無職になったりする人もでるだろうが、それは彼らの自己責任であって、下手に助けたりするとかえって彼らを助けることにならない。
どうだ。なんとなく正しい気がしてしまうだろう。ここ数十年というもの我々は日本人は、この思想のもとで教育を受けてきたのだ。
しかし新自由主義は、結局のところ不寛容にしか行きつかない。海外で捕まったジャーナリストは見捨てる。犯罪の被害になった者は自己防衛の無さを責められる。生活保護を受けるようなやつは努力が足りない。植松なんか極致だね。自助努力ができないなら死んで当然である。誰もが自助努力に精一杯で、人のことを助ける余裕なんてない。
こういう新自由主義批判の文脈のもと、昨今は社会保障の増加や公共事業への資金投入が叫ばれるようになってきたが、まだまだ一般人の気分にまで批判が浸透してこない。だから植松が批判できない気がしちゃうんだね。子供のころに教わったことの論理的帰結が、彼の態度だからね。
そんな物ない。あえて言うなら「この名前が有利だという旗頭」に過ぎん。
保守VS革新ってのは、ケインズ政策(保守)とマルクス政策(革新)が競っていた時代の考え。
だが、冷戦終結でマルクスが消え去ったのだが、とにかく金持ちウハウハ、金回りガン無視、小さな政府=緊縮政策の新自由主義が勃興して、それも保守ということになってる。
ケインズと新自由主義は相反する思想。なのに、同じ保守という名で語られてる。よって、用語の定義としては意味があるものではない。
だけど、この旗頭を名乗れば一旦は革新(マルクス)に勝ったのだからいい思想だということで、
なんとかこの旗頭を名乗ろうと奪い合って、なにか失態があれば「あれは保守ではない、われこそが真の保守!」と名乗るためのもの。
100年前、恐慌の対策として、ケインズ主義とマルクス主義(共産主義)が、生まれ、2つの陣営に分かれてどちらが優れてるかを争った。
実は、初めの頃勝っていたのは共産主義だった。有人宇宙飛行を先に成し遂げたのは共産主義陣営。
熾烈な競争の末、最終的には官僚主義の非効率化で負けたのは共産主義ではある。
負けた理由は、成果を出しても出さなくても意味がないから。官僚主義だから。
勝ったのは本当はケインズ主義ではあるんだが、ケインズ主義も勝つ直前のオイルショックに対処しきれなかったからと否定されてる。
で、ケインズ主義から新自由主義に転換して、初めの10年は確かに良かったんだが、その後失われた30年を作っている。
様々な分野が崩壊しているのがわかる。
医療もそうだし、オレは大学研究に近いところにいるからそれは感じる。
大学研究側は本質でない雑用で苦しめられる。そのひとつは助成金がらみの大量の書類だ。でも、助成金を取らないともう研究が成り立たない。
かつ、アカポスが本当に短すぎるし、数も少ないし、取れなかったらお前死んでねという世界だから、腰を据えての研究ができない。
故に小粒の研究しかしなくなったとは言われる。万が一にも挑戦的なテーマに挑戦して失敗したら、本当に人生が詰むから。
医療も同じだろう。なんとか金を減らせ。その元犠牲になるのは「献身的な医師」の過重労働だ。それすらも限界になったから、
自分自身の生活の質を高めようと思えば、逃げて楽な分野にいかないとならないということになる。
それは、小粒な研究で確実に成果を積んでいく=逃げて楽な医療業務で実績を詰むというのと似ている。大学研究側と同じ構造的な問題である。
企業の成果主義についても言える。まずは予算削減ありきがあったため、挑戦的なことをして失敗する惨劇が多すぎたから、どんどん挑戦的なことをしなくなった。
一方で減点主義が蔓延した。なので、大した成果ではないが失敗しないことばかりでの成果を皆狙うようになった。評価だという事で、書類ばかりは増やしてな。
これも、まず、自分の人生のために逃げて楽な仕事で成果を上げることを狙ったがゆえの結果だ。
いずれも、トップがこうだという元、官僚主義的に書類を増やしていく、だが、あくまでかける金を減らしていったからの惨劇だ。
ホントの新自由主義じゃないと言い出す奴がいるのは勝手だが、この現状は「効率的な予算配分」「小さな政府化」の名のもとに
まず新自由主義の元、競争で使う金を減らすという前提で生まれている。だから、予算削減型新自由主義と名付ける。
新自由主義の理念の一つとして「小さな政府化」というのがあるから、この現状は新自由主義の副産物だ。
横だけど関係ないでしょ。小さな政府、つまり行政の規模を小さくし公務員を減らしたとしても、社会保障を縮小することとイコールではない。
たとえばリバタリアンが小さな政府を主張するときは、弱者は自己責任とかいって切り捨てるような言い方をする人は実際にはいなくて(いるとしたら極右)、
事務処理が煩雑になる複雑な手当制度をやめて、シンプルな原理で機械的に給付できる制度を(負の所得税とか究極はBI)考えたり、ITなどを活用して効率的に行うことで人を減らしたりって提案がセットになる。
そうすると、最適化が進んでむしろ手厚い社会保障が可能になる未来まであるし、小さな政府は悪いことじゃなくむしろ誠実な姿勢だと思う。