はてなキーワード: 単純化とは
地域とか、国とか、企業とか、団体とか、あらゆるものにそれは存在する。
まとめニュースなんかで悪い見方を吸収して「○○って××なんでしょ」という印象を容易に固めてしまうのは、情報リテラシーの問題だが、そういう過ちをあらゆるトピックにおいて1つもしていない人間は存在しないだろうな。
悪意的な見方とかいう段階ではない誰の目にもやらかしと思える事例・事実だとしても、そういうものばかり取り上げあげつらうような情報摂取では偏屈になる。
その上、上記のような、「これは明らかなやらかし、事実だろ」と思えるような取り上げ方をされていることでも、実際には野次馬ではない有識者から見たら多分に悪意をもって語られている記事が世の中には多いことにも注意しなければならない。人間はよく分からないものには無意識のうちに悪意を盛り込んでしまうものだ。
そもそも、差別という単語で表現してしまうことは、「差別だ・差別じゃない」の善悪二元論に単純化されてしまうからよくない。
偏見かどうか、という見方をすることで、情報の広さや深さが足りていないんじゃないか、という多元的なものの見方に踏み入っていくことができる。
ここでオチがついてるのかよ!って思った。
単純化した議論するな!というやつが日本人という主語が大きいことを言う。
...まあ、おっちゃんとしてはこれまでの経験から、金をやればOKも金をやっちゃダメもどっちも単純には言えないってのはわかるけどね。本当に援助したいなら、それなりに意思を持った人が骨の折れることを現地の人と一緒になって作り上げないといけないわけで、単純に金をやって解決ってわけじゃない。
金をやればOKみたいな議論は腹減っている人に食料をあげればOKみたいな話なんだろうけれど、結局は自分で食料を調達できるように環境を整備していく支援をしないと支援が終わったらまた飢えたひとに逆戻りになるだけ。それは金をやっても無駄みたいな議論につながる。
ただ、貧すれば鈍するのも事実で、日々の食料を手に入れることもままならないとそれを得るだけですべてのエネルギーを使うのでそこから上にいくのがなかなか難しいのも事実。いったんはその種の労働から解放してあげないと日常を送るのに精いっぱいでそこから抜け出すための勉強なり技術の習得なりに使う時間を確保できない。
「困ってる人は助けない方がいい。
困ってる人は困ってる方が良いからその状態を解決しないし、助けると自力で困難を抜け出す力が付かない」みたいな雑なツイートが流れてきた
Twitterのフォロワーがファボってたから目についた。Twitterで言うとフォロワーを煽ってると思われそうで嫌だからこっちに書くが、
日本人ってこういう単純なモデルに当てはめて現実の複雑さから逃げる怠惰な言説が大好きだよねと思った
貧乏人の経済学という本がある。発展途上国への経済援助についての著者の成果をまとめた本で、
著者のバナジー&デュフロはまさに発展途上国援助への功績を称えられてノーベル賞を受賞した
著者のアプローチは極めて実証的かつ定量的なもので、これまで途上国援助の方面で言われていた二つの理論、
援助は貧乏人を怠け者にしてしまうから少なくした方が良いという言説と、
片や、貧乏人が貧乏から抜け出せないのはまさに援助が足りないからだ。もっと増やし方が良いという言説に対して、
可能な限りの比較対象実験を行い、そのどちらも不十分な理屈で、現実はもっと複雑であり、
モデルによる過度な単純化への危険性を明らかにしたことが、ノーベル賞に評価された
今回Twitterで流れてきたツイートに関しては、真っ先にバナジー&デュフロの警告を思い出した
世の中そんなに簡単にお前程度の思いつきでスパッと切れるわけねーだろバーカと思った
Twitterの思いつきに対してあんまり過度な正しさを求めるもんでもないと思うが、
世の中に物を申す一見偉そうな思想家やら社会学者やら経営者やらも、思考の程度は大体似たり寄ったりで、
ほんと君が落ち着け。
「全部」とか「全員」とか「全く」とかゼロイチ思考の話ばかりしてないで、どのような感染経路があって、どんな対策をした時にそれぞれどの程度のリスクが考えられて、奥さんのストレスを無視した場合の家庭内のリスクと天秤にかけてどうかを総合的に考えるのがその“確率の話を理解する”ということでしょう。
ワクチンが出れば大丈夫と思っているようだけど、例えばシェアカーを除菌して混雑していない大きな公園に行って子供とキャッチボールとかをした場合の感染リスクと、ワクチンが行き渡った後にマスクをせずに飲み会をした場合の感染リスクを比較できるの?
クラスターが発生するような場所に滞在しないのも感染対策の基本であって、クラスターの只中にいたらそれは緩んでる人達か仕事上避けられない人達がほとんどだし、クラスターが発生するような場所に行かないことと子供をどこにも連れて行かないというのはかなりの隔たりがあるよね。
気が緩んでいない感染者が多いと思っているなら飲み屋を外から覗いてみたらいい。
引きこもっていて外の状況を見れないのかもしれないけど、飲み屋は驚くほどマスクをせずに談笑している人ばかりだよ。
ここ数日は最多更新の報道や時短要請でここ数日は人は減って来てはいるみたいだけど、それでも気にしていない人は多い。
あくまで混雑を避けて換気してフィルタ性能のいいマスクをして、手洗い・除菌をまめにしているのに感染したっていう人は少数で、感染者の大半は気が緩んでるか対策を理解してないか、感染しやすい環境から逃げられない人達。
気温の影響もあるし、気も緩んでるよ。物事を単純化し過ぎないで色んな要因が色んなリスクに結びついているということを考えて、バランスを持った考え方をした方がいい。
19世紀末ごろはこうして人が怒り出して人に危害を加えるのを「ヒステリー」と呼んで、「専門の医師」が「治療」(意味深)していた。女性衣料の露出度が上がるにつれて消えた。
ストッキングの絵だとか、宇崎ちゃんの絵だとか、不快に思う人、嫌だなと思う人、ショックな人、傷つく人、そりゃいるでしょうよ。そんなこと否定していない。否定する人たちは問題の在り処を完全に見失っていて、個人のわがままかどうかの問題にまで矮小化している。でもこれって何気にすげー重要じゃねって思うんだよな。
だけどこういう構図に持ち込まれて一番悔しいのは、本当に嫌だなと思っている人たちで、一番嬉しいのは明日の飯の種が今日も手に入った変な自称フェミニストたちだ。自称フェミニストたちは問題をすべて男女の対立に単純化するからこじれるし、アンチも生まれる。アンチにはいつでも美味しい餌を巻きつつ本当に救われたい人々は今日も色眼鏡で見られる。いやマジでかわいそすぎんだろ。
フェミニストって言うことすらはばかられる社会を作っているのはこのエセフェミニストたちだ。本当の意味で変えていきたい人たちはその問題を見据えている。だが、エセフェミニストたちの組織力は半端ない。フェミニズムとはこういうものだと数の暴力で押し流している。
これの巧妙なポイントは、問題の本質から力ずくにでも目をそらさせて永遠に解決不可能にする点、一見正論を言っている点、そして他の色眼鏡で見られている人々をますます差別の地獄の奥に押し込む点だ。
はっきり言うんだが、環境型セクハラ、とか、主体がどうした客体がどうした、とか、なんか一見もっともらしい理屈を述べる人たちは、どうして素直に「私はこういうのが嫌だ」と言わないのか、もしくはそういう言説がどこかに消え去るのか。どんなにもっともらしい理屈で飾り立てようが、これは「故人の感情論」であるわけだから、「わがまま」なんだよ。わがままが悪いわけじゃない。わがままをまるで客観的で科学的な事実であるように理屈を述べるところが問題なんだよ。
まずは、「これは私のわがままなんです」から始めない?俺は全然わがままでいい。個々人のこういうワガママをみんなが真剣に議論したから社会のコンセンサスが取られてきたんだよ。
街の中にセクシーな女性の絵がはられている、これをなんとも思わない人もいれば、気絶しそうなくらいショックな人もいる。ショックな人たちをもっとすくい上げようよ。