えー、できれば女としても好かれたいです。ただ、年や環境があまりに違うので、前に進んでも良いことはないだろうなと自制しつつ、仲良くなれれば嬉しいと片思いを楽しんでいるところ。。
40代半ばの男です。
結婚なんてありえないと諦めていたが、ひょんなきっかけで婚活しようと思い立った。
そして今年、中高年向けをうたった、ある結婚相談所に入会した。最初は、
と考えていた。
しかし実際やってみると、意外とそうでもなかった。
結婚にはまったく至っていないが、活動実質3ヶ月で5人とお見合いできている。
3人はお見合いだけで終わり、1人はその後1回デート、1人は4回デートした後に振られた。
の合計値が、ここ数ヶ月で、過去40余年の実績値を軽く上回ってしまったからだ。
「どんだけ今まで貧しかったのよ!」という話だ。
現金なもので、こうなるとちょっとやる気が出てきて、恋愛モノ作家のアルテイシアが書いた、男性向けの恋愛指南本などを読んで実践もしているよ。
相手女性はだいたい自分と同年齢の人が希望で、年上であっても構わないし、婚歴があっても構わない。子供はあまり欲しくない。もうだいぶ歳食っちゃったし。
相談所のカウンセラーと話したところによると、40代未婚男性で、こういう姿勢の人は非常に少ないらしい。曰く、
「相手女性は若ければ若いほど良い。同い年は嫌。ましてや年上女性なんてとんでもない、という人が多数派」
なんだと。
「中高年向け結婚相談所」というフィールドで、自分が予想外に健闘できているのは、自分の魅力云々以前に、このような外的要因によることろが大きいんだなぁ、と思った。
今はまだやる気十分だけど、今後、お見合い人数が20人、30人……と増えても結婚に至らない場合、さすがにガックリくるだろうな。
それでも、結婚相談所への入会自体は、たぶん後悔しないと思う。
「こんな自分でも、相談所のお見合いシステムによる助けがあれば、なんとかなるかもしれない」
と分かったからだ。
今更だけどこの分析は凄いと思った。まるで寝ている内に自分が書いたんじゃないかと疑うほどにすっと染みこんでくる。自分のこのもやもや、蟠っていた言葉にならない部分はこれだった。
同性の友達すら皆無の自分が異性の友を求めるなんていう人道にもとる行為をする気は毛頭ないのだけど、"彼ら"と自分の決定的な違いをただ知りたかったのだ。
お互いにほとんど相手の表情や口調に配慮せず、一方的に自分の話をしてるだけで、
会話が成立していなかったり、相手に反応するとしても
あるあるある。こういう気持ち悪い会話が嫌いでヲタのくせにヲタが苦手だし、ヲタの友を持とうとも思えなかった。
これもよくわかる。相手を慮るという"正常な人付き合い"が無意識にできていないのだ。
自分は相手のためだと思ってしていることは全て自己保身のためで、相手がどう思うかなんて真剣に考えていない。
本来この手の対人スキルは10代の頃に実地で経験し身につけていくものらしいが、そのような経験をできず、剰え都合よく妄想されたヲタコンテンツというぬるま湯に浸ってしまうと、自分を思うことが相手の気持ちを思うことだと取り違えてしまう。
このまま孤独に生きていく勇気はまだないけど、振り返っても別に他の選択肢なんてあるわけがなかったことを識れたのは良かった。ありがとう。
http://togetter.com/li/1028423
このまとめを読んで思ったことを書く。
問題は、このまとめで挙げられている人たちが、法律に規定されていない「犯罪」を持ち出していることである。様々な疑問があるとは言え、日本社会は一応、建前上は法治主義の国家である。よって理想はともかくとして、法治国家としてのあり方に沿うような配慮が、政治的発言にあたっては求められることもあるのが現実である。
だから何かを犯罪と認定するのならば、その根拠法を示さねばならない。しかるにこの件では、特定の性癖「である」というだけで犯罪であるとの呼ばわりがなされている。そういう理由で触法行為であるとみなす法律は存在しないし、実際に「する」ことを伴わずに罰するのは、この件においては内心の自由を侵害するため、憲法違反となって法律ができたとしてもどうせ無効であるし、既存の法律を内心の自由を規制できるように解釈するのも不適切とみなされると思う。
日本国憲法第31条に、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」とある。これは罪刑法定主義を規定していると解されている。罪刑法定主義を否定するようなやり方による「犯罪者認定」は、この精神に反する。
そして本論であるが、この罪刑法定主義の否定は、為政者による恣意的な投獄などの措置につながるのではないか。法律案の国会による審議を経て必ず成立する法律ならば、勿論それでも様々な問題点はあるとは言え、一応国民の意見が反映された法律と言えよう。この法律に従って犯罪を認定し、取り締まるのは形式上正当である。ここで、法律によらず、「犯罪者認定」することがまかり通る世の中になればどうなるか。法律に問題云々以前に、警察官が個人的な恣意で留置所送りなどを行うことも可能となるのではないか。
もちろん、この言い方は極論であり、実際に罪刑法定主義が無視された取扱が行われるのは、ありえないだろう。しかし、リベラルの立場に立ち、人権を擁護する主張をするものが、このような人権が無視されるディストピアにつながる観念を肯定してしまうというのは、そもそもふさわしいことではないと思う。昨今の日本では、リベラル的な言論が衰退していると考える人もいるらしいが、さもありなん、である。勿論ネトウヨのようにリベラルで無かったとしても、この国の法律を尊重する立場であるというのならば、あのような言いようは許容され難いだろう。というかこの件、「ネトウヨ」(この集団もまたまったくの無問題ではないが)とされている人たちのがよほど罪刑法定主義や内心の自由に言及し、尊重しようとしているように思える。
たしかに犯罪行為は良くないことだ。批判されるべきだ。刑法なりなんなり、なんらかの法律に規定された犯罪を犯した人物は批判されるべきだろう。しかし、「犯罪者は批判されるべき」という常識を悪用して、自分に気に入らない思想や思考の人物を犯罪者認定し、「批判されるべき」としてしまうのは、タイトルに書いたとおり危険な考えなのではないだろうか。
9/25追記
はてな当たりでも「そんな恵まれたヤツは死ね」的な言説がまかり通っているし、恥に感じて匿名でやるならともかく実名でも思いっきりやってたりして、本当に程度を疑うんだけど。なんとも思わないんだろうか?
父親が幼い娘に向かって「私以上に、君を愛している男はいない」とか言ってプレゼント買うシーンが出たり、
母親が幼い息子に向かって「今の君は、パパよりずっとカッコイイ」とかいって生意気なことを言う息子にねっとり視線を向けたりするのがあったな。
当時からキンモ~と思ってたんで何を今更って感じ。
とある件により、「クレーマー」問題が再浮上している。今から書くのは、一種の「クレーマー擁護」である。ただし、電車問題は関係ない。
自分は、今、貧困問題に関わる活動に参加している(ちなみに、いわゆる「デモ」は参加していない)。当然生活保護受給者やホームレスの人達と毎週のように接している。汚い身なりだし、クセも強いけど、普通はかなりいい人で、よく笑いながら一緒に過ごしている。もし同じ中学のクラスとかだったら、仲良く過ごせたかなーと思える人達ばかりだ。
ところが、そういう人達が、役所に行くと、途端にクレーマーに変貌したりする。実際に知っている人でも、ホームレスで役所から住宅を割り当てられたというのに、物件が気に入らず散々ケチをつけて、意地はって路上に入るくらいだった。なんでそんな風になっちゃうのか。
99.9%の人にとって、役所というのは、単に手続きをとる場所に過ぎない。パスポートをとったり、結婚したり、身内が亡くなった時に出向いて、いいところ一時間くらいの付き合いで終わる場所だ。けれど、これが貧困や障害、家庭内問題(親、子の暴力など)に遭遇した途端、最後の拠り所になる。そして、その拠り所に何かを否定される(申請した手続きを拒否される)というのは、政治的な死刑宣告に等しい。
というのも、現代の役所というのは、人が生まれた時から死ぬまでを徹底して管理する存在だからだ。そこから否定されるということは、世の中に存在してはいけないと言われるのと同じだ。
僕の知っている人でも、若いホームレスで、自分の関係する団体と出会って、ようやく次のステップに行けると思った時に、「役所に行く」と言い残して、その後失踪した。おそらく何か拒否されたのだろう。無事見つかったものの、以前から患っていた鬱を悪化させたみたいだ。
ニュースでも、「旦那の暴力に耐えかねて飛び出したけど、その直後に孕んだ子供が手続き上旦那の娘になると知って、旦那との関係を持つことを恐れて、無戸籍のまま放置した」「生活保護の申請を断られ、一家心中しようとしたけど自分だけ生き残った」なんて話を聞くが、そういう際の「役所に断られた絶望感」というのは、経験しないとわからない。自分も、著しい困難にぶつかり、「役所の手を離れると、世の中こんなに住みづらいのか」と実感した。自分に関しては、かなりイレギュラーな手続きもとってもらい、役所の人にはとても感謝している。
クレーマーになるか自殺を試みるかは人よりけりだけど、役所との関係はそんなに変わらない。よくある「生活保護の打ち切りを宣言したら途端に暴れ出した」なんてのは、ある意味断られた方に同情してしまう。
最近は「行政サービス」なんて言い方をすることもあって、自分たちを「サービス業」と任じるような人もいるけど、本当はそうじゃない。彼らは「人間の管理者」なのだ。それがどうしたと思うかもしれないけど、少なくともそういう論点を持たない限り、行政とクレーマーの問題は終わらない。それがいやなら、公務員にならない方がいい。
うまく描ききれてないけど、僕の言いたいこと、わかってくれる?
と思うのは、自分が広島在住であることと無関係ではないだろう。
ここは、日本のバスケ界が抱え続けた爆弾の、言わば爆心地なのかもしれないからだ。
ご存知の方も多いかもしれない。リーグ分裂時代の広島では、ドラゴンフライズとライトニング、
新リーグのチームを改めて見てみると、東京にやたらチームが集まっていて、
これでやっていけるのか心配になるレベルだが、広島の規模では2チームが生き残るのも難しい。
結局、県のバスケ協会はドラゴンフライズを支援する一方、ライトニングへの支援は拒否。
チームの戦績や経営基盤は、外から見る限りどっちもボロボロだったと思うのだが、
政治的な何かでも働いたのだろうか。
とにかく、この時点で、広島に残るのはドラゴンフライズに決まったことになる。
一応、試合の結果だけは新聞にも載るのだが、表記は「広島」のみ。
忘れた頃に記事になることもあるドラゴンフライズに対し、ライトニングはラの字も出ず、
チーム自体も1勝51敗と負け続け、広島のチームのはずがやたら山口県での開催が増え、
しまいには試合の開催すらできずに不戦敗になるなど迷走を続けた。
結局、シーズン終了と同時に活動を停止し、以後の行方は不明である。
果たしてこの不毛な戦いは、広島にいったい何を残したのだろうか。
残ったドラゴンフライズも新リーグでは2部スタートで、プレシーズンマッチでは島根に負けた。
五輪やカープ優勝、サンフレッチェに比べれば、これでも妥当なのかもしれない。
ただでさえバスケ自体に興味がないのに、こういう話ばかり聞かされて、いい加減うんざりなのだ。
今すぐリーグごと消えてくれて構わない。
小利口なエリート集団みたいなところと自分は近い位置にいるんだってことを匂わせて
いわゆる底辺層を大義という自分が責任負わなくてもいいもんをバックに
排除することが世の中のためみたいな薄っぺらい自己満足から抜け出せないからなんだよな。
どうせ元ジャーナリスト(笑)としての能力を生かすならその「自己責任で糖尿病から透析が必要になった人」にも医師と同じくらい話聞けばいいのに。
まあ100000歩譲ってヤツに同情するとしたら、今時正論をまっとうな方法で主張しても誰も食いつかないから過激な言葉にすることにしたってことで
ある意味ヤツのあれを作り上げたのは便所の小バエのごときネット民てことになるんだろうな。
ていうかみんな優しいな。
とてもじゃないけど自分からあのアホのブログとか読みに行く気がしないわ。
http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/48511272.html
あとあいつの書く文章のキモいところは、内容に賛成することで「私もそんな小利口エリート集団に近い意識もってまーす」みたいな優越感に浸れる仕組みになってるとこなんだよな。