とある件により、「クレーマー」問題が再浮上している。今から書くのは、一種の「クレーマー擁護」である。ただし、電車問題は関係ない。
自分は、今、貧困問題に関わる活動に参加している(ちなみに、いわゆる「デモ」は参加していない)。当然生活保護受給者やホームレスの人達と毎週のように接している。汚い身なりだし、クセも強いけど、普通はかなりいい人で、よく笑いながら一緒に過ごしている。もし同じ中学のクラスとかだったら、仲良く過ごせたかなーと思える人達ばかりだ。
ところが、そういう人達が、役所に行くと、途端にクレーマーに変貌したりする。実際に知っている人でも、ホームレスで役所から住宅を割り当てられたというのに、物件が気に入らず散々ケチをつけて、意地はって路上に入るくらいだった。なんでそんな風になっちゃうのか。
99.9%の人にとって、役所というのは、単に手続きをとる場所に過ぎない。パスポートをとったり、結婚したり、身内が亡くなった時に出向いて、いいところ一時間くらいの付き合いで終わる場所だ。けれど、これが貧困や障害、家庭内問題(親、子の暴力など)に遭遇した途端、最後の拠り所になる。そして、その拠り所に何かを否定される(申請した手続きを拒否される)というのは、政治的な死刑宣告に等しい。
というのも、現代の役所というのは、人が生まれた時から死ぬまでを徹底して管理する存在だからだ。そこから否定されるということは、世の中に存在してはいけないと言われるのと同じだ。
僕の知っている人でも、若いホームレスで、自分の関係する団体と出会って、ようやく次のステップに行けると思った時に、「役所に行く」と言い残して、その後失踪した。おそらく何か拒否されたのだろう。無事見つかったものの、以前から患っていた鬱を悪化させたみたいだ。
ニュースでも、「旦那の暴力に耐えかねて飛び出したけど、その直後に孕んだ子供が手続き上旦那の娘になると知って、旦那との関係を持つことを恐れて、無戸籍のまま放置した」「生活保護の申請を断られ、一家心中しようとしたけど自分だけ生き残った」なんて話を聞くが、そういう際の「役所に断られた絶望感」というのは、経験しないとわからない。自分も、著しい困難にぶつかり、「役所の手を離れると、世の中こんなに住みづらいのか」と実感した。自分に関しては、かなりイレギュラーな手続きもとってもらい、役所の人にはとても感謝している。
クレーマーになるか自殺を試みるかは人よりけりだけど、役所との関係はそんなに変わらない。よくある「生活保護の打ち切りを宣言したら途端に暴れ出した」なんてのは、ある意味断られた方に同情してしまう。
最近は「行政サービス」なんて言い方をすることもあって、自分たちを「サービス業」と任じるような人もいるけど、本当はそうじゃない。彼らは「人間の管理者」なのだ。それがどうしたと思うかもしれないけど、少なくともそういう論点を持たない限り、行政とクレーマーの問題は終わらない。それがいやなら、公務員にならない方がいい。
うまく描ききれてないけど、僕の言いたいこと、わかってくれる?