はてなキーワード: 独りよがりとは
バービーではマンスプレイニング(男が女に上から目線で、趣味などについて説明したがること)について、表面的には「男の馬鹿げた習性」として描いてるけど、
それと並行して女性達が、女がいかに虐げられてるか「説明」して回ることで蒙を啓いていくという展開について、まだ上手く咀嚼できないでいるけど、気になっている。
バービーの映画パロディネタ(いくつかは男性向け映画のネタと思われる)が、必ずしもフェミニズム一辺倒の意味ではないっぽくて、
それを男達が説明したがること、この映画によって説明を封じられることも視野に入れて仕込まれてるんだろうか?
今まで俺が書いた日記はほとんど反応なかったので、反応貰えてびっくり。
映画全体としては男女関係なく、「人間として云々」みたいな着地だと思うので、
このシーンが男女のどちらかに偏った悪意が向いてたとしても、まあいいやと個人的には思ってる。
同じ監督の「レディ・バード」でも、主人公はいささか強権的な母親に反抗しつつ、最後は母親側の事情を知ったりして和解するという展開だったし、基本スタンスはフェミニスト側なんだろうけど、それなりに正気というかバランスとか複雑さを持った監督なんだろうなと感じた。
「男が説明したがるのは鬱陶しい習性かもしれないけど、バービー達が今しているように、必ずしも独りよがりな快感のためにやっているだけではなく、バーニングマンの『ギブの精神』よろしく、頼まれもしないのに無償で知識を与え合う事で男達はブンメーをシンポさせてきたのだから、女もそうしていけば良い」
というような、男女両側にポジティブな解釈できないもんかな、なんて思った。
あるいは、
「このバービー達のように他人の説明で目が覚めるなんて事は現実にはありえない。ただのサウスパーク的なやり過ぎステレオタイプ演出なんだから、女達は男の説明に頼る事なく自分自身で学んでいかなければならない」
みたいな事なんだろうか?
どのみち深読みし過ぎかもね。
個人的な体験談になるけど、昔一人の腐女子と仲良くしていた頃、その腐女子から早口のオタク喋りでよく分からない知識を延々語られるというのが日常茶飯事だった。
だからマンスプが男特有のものという実感が、俺にはあんまりない。
当時はインターネット男女大戦なんて全く知らず、俺もよくオタク喋りをやり返して、共にオタクとして深化していったのが今となっては良かったのか悪かったのか、ただの懐かしい思い出になっている。
事務所盲信擁護派「ジャニーズ最高!中居もTOBE(だけ)に苦言言ってる!」
事務所アンチ過激派「中居くんのことも好きだったのに事務所擁護してTOBEに苦言って失望した!」
中居担当わたし「芸能界全体に圧力忖度するなってデカい釘ぶっさしたの、ファンじゃないとわからないのかな?」
どれでもない他の視聴者「中居くんは音楽の日でも事務所の垣根こえたこと喜んでたもんな〜」
しらない人向けに解説すると(あくまでわたしの解釈ですが)だれだって独りよがりはダメだよ、協力していきましょうって言ってるだけです。
どっちかじゃなくて両方、なんなら全体に向けて言っていると捉えたほうが良いです。
それにトニセン(とくに子会社とはいえ社長である井ノ原くん)が理解を示す画は業界にでかいインパクトになると思います。
圧力や忖度を求めていると思われている人がそれはいりませんと示したわけですから、番組を見た業界人がどう動くのか見ものですね。
文字だけでは伝わりにくいニュアンスを多分に含む内容を、ネットの切り取り記事や他人の言葉だけで判断するのはもったいないですよ。
活動家に片足突っ込んでるな。
認知が歪まない保証なんかないのは、小説でも井戸端会議での陰口でもすべて言えることだろ。フィクションと現実を区別できない幼児性は性犯罪者とフェミニストの大きな共通点だぞ。この点に関しては、イコールと言っても差し支えない。
とは言っても、一方で氾濫する盗撮動画とか性犯罪ビジネスの資金源を断つのは正攻法なので、それに関しては好きにやればいいと思う。
ただし、一番大切なことは「殺したかった」気持ちになっている彼女から復讐心を取り去って正常に戻してあげることだろ。目を具体的かつ眼の前にあるものに向けることのほうが大切で、独りよがりの正義に酔った活動はそれに必要ないことに気づけよ。活動家になるのは余裕ができてからにしたらどうか。
言及先が完全に引用記事の内容を曲解しているのでなんちゃってコミュニティノートとしてエビデンスをつけて読者に注意喚起する。
Aがこのエントリの言及先で、AはBを引用してBについて書いている体で全く関係のない内容を書いている。
Bは個人のブログでCを引用してCについて理由を考察している。Cは消えてるので魚拓から最新を取得している。
まず、BとCの流れをざっくり要約する。
Cでは30歳になったばかりの増田が高齢者のオタク差別が異常だと書いている。ただし、差別しているのは40~60代と思しき人としてオタクに限定していない
Bでは、差別される側であるブログ主が『「自分はオタクだけど」と断って非難する』理由を考察し、オタクを見下すことを非難している
これを踏まえてA増田を読み解く。A増田は以下のように記述している。
意見が違う部分はブコメでコメントされてもいる「今の(若い)「オタク」と従来の「オタク」は違う層であり、混同するとズレが生じる」という所。
私もこのブコメに同意で、そもそも今の「オタク」とオタクを見下し批判している高齢オタクは全然層が違う。だから本当はこれは「同族嫌悪」ではない、そもそも同族ではないから。
この人結局対立炎上商法に走り始めちゃったか。こないだはてブでも話題になってたように、今世間に受け入れられてる「オタク」はそもそも従来のオタクと違う層なのに混同してるからズレが出てるんだと思っている。
ブコメもA増田もBを全く理解していない。Bは現在のオタクと従来のオタクは違うものと明確に分けており、批判対象を従来のオタクに絞っている。A増田は不一致点として「今の(若い)「オタク」と従来の「オタク」は違う層であり、混同するとズレが生じる」という点を挙げているが、Bでは宮崎駿や第一世代の庵野秀明をプレオタク世代として、彼らの世代にあったオタク差別を背景とした従来オタクの階層意識を批判対象としCの理由と説いている。混同など全くしていない。
さらに全く逆の層を従来のオタクにすり替えている上にテーマが全く変わっている。
BやCが従来のオタクとしているのは表現規制を支持するフェミニズム、すなわちミサンドリー側である。ブログBの題名を見たら明白である。萌え批判や表現規制、統一協会と関わりがあると発言しているのは専らこのタイプである。以下、それぞれC、Bからの引用。
Twitterではオタクでありながら表現規制に賛成し、「萌えオタク」を過激に非難する人々が散見されるが、その背景にあるのもこのような階級思想である。
必要ならid付きでブコメを引用するが、端的に言えば、BやCが差別する高齢オタクと批判しているのはA増田のようなミサンドリーでありA増田が言及しているのとは真逆の層である。その上で、「高齢オタクの異常な同族嫌悪はもうやめよう、若いオタク達の為に」という題名をつけながら全く関係のないフェミニズムの話を主題に据えている
AはBやCを全く踏まえていないどころか完全に曲解して独りよがりの持論を展開しているものである。
ブログBについて、若干記載不足による誤解を生む危険があるので追記する。
本エントリでは、”BやCが差別する高齢オタクと批判しているのはA増田のようなミサンドリーであり”と記載しているが、Bが批判しているのは、「立派」で「まとも」ではないオタクを見下すオタク内ヒエラルキー思想をもったオタクである。その例として表現規制を支持して萌えオタクを過激に非難する人を挙げている。フェミニストと称するミサンドリーはまさにその典型例だがBが批判する対象の全てではなく一部である。
フェミはお気持ちに任せて意味不明の長文を書く傾向にあるのでAIに要約させた。リンク元も読ませてある。
ミソジニー連呼する高齢オタクのエビデンスのかけらもない独りよがりの論理だということがわかると思う。AIはこう指摘する。
自分と他人は違うから、自分にとっては当然の事でも相手が納得できなさそうなら注釈を入れるよね "普通は"。
例えば
"嫁とは子供のころから家族ぐるみの付き合いだから、昔から俺の実家でも気遣いはない"
とか
"嫁とうちの両親は正月も一緒に酒飲んでくだ巻いたりしてるから、今回も変に気疲れはしないと思う"
とかなら別に、へーよかったね、と思って終わり。
いやまぁ、それでも2週間は長いんじゃない?くらいは思うか。
"うちの両親は信用できる人だから、妻は子供を預けて気楽でいられる"
なんて言われると、まぁ "わかってない旦那の独りよがり" と見分けがつかないよね。
なんなら、その "独りよがりと見分けがつかない" に共感できない事がもう、自身の発言を客観しできない証左にすら見えてしまう。
だってさぁ、
・仲がよかろうが、夫(妻)の実家では気をつかう
・自分の育った家の文化と、夫(妻)の育った家の文化は異なる。当然子育ての方針も
この辺全部、単なる一般論だと思うよ?べつに個人的な経験とか関係なく。
こういうの一つも言及しないで "いや全然大丈夫、ヤバくないよ" としか言わないって、アスペかサイコパスかな?と心配になるよね。"普通は"。
正直宮﨑駿というアニメーターのお遊び以前に、今まで日本国内に刺激を与えた数々のジブリ産アニメ映画そのものが見たかった。
宮崎駿のアニメは日本に限らず、世界中ほとんどの人は一度も鑑賞もしくジブリというスタジオの名を聞いたことがある。
この時代の人間が持っている心象風景、時代精神は宮崎駿を語らずにいられない。現代のロックソングは、ビートルズという背景があるから発展して来たのと同じだ。
というか、宮崎駿作るのがアニメだけではなく、幼少期の「見る」冒険である。幼い頃に、みんなはもものけの壮大な自然に神秘を感じ、千と千尋のトンネルから冒険心を育つ。ラピュタで男女の純愛に目覚め、トトロで友愛を知った。
ジブリの映画が存在しているだけで、確実に世界はある程度優しさが増えた。
ところが、君生きはなんだろうか?
君たちはどう生きるかという思想の強いタイトルを挙げながら、ただただ今までの作品の二番煎じのように、主人公は自由意志がなく、ひたすら母を求める。その母への愛情ははっきり言って共感しにくい、特に若い世代に関しては、エディプスコンプレックス的な描写あるいは哲学思想は、陳腐以外他ならない。
宮﨑駿の独りよがり、彼だけにしかわからないエディプスコンプレックス、徹底的なエゴイズムだったことは明白であり、宮﨑駿という人間へさほど関心を持たない人々にとっては、どうでもいい話。どうでもいい映画なのだ。
それでもこの映画を深いとか、教養が要るとかと漠然と代弁してくれるものがいるが、こいつらは夢から目覚めたくない人たちである。
この作品は深淵であり、洞察しようと近いたら何もない闇に堕ちてしまう。宮﨑駿が長年に渡り、隠して来たニヒリズムそのものの固まり。
エヴァの卒業式みたいなスッキリした気分にはなれず、捨てきれずに残った元カノのメモリアル的な存在だった。風立ちぬで終止符を打ってくれるとダンディではあるが、君生きで〆るのが、無敵の人の無差別テロかストーカーの未練ダラダラみたいで気持ち悪い。
一昨日映画見に行ったのに、未だにこの不快さが取り除けない、あと褒める人がいることを見てさらに陰鬱な気分になってしまう。
とりあえず最後の最後に無差別テロをやってしまう宮﨑駿は、所詮人間だった。
追伸
25年近くオナニーしてきた。
その間一度もセックスはなかった。彼女もいたことがないし金も度胸もないから風俗にも行ったことがない。
というかどうやってパートナーを作るのかも自分はよくわからない。ただ無頓着で、だからオナニーをしてきたのかもしれない。
まあ一応惰性ではするんだけど、今まで感じていたような気持ちよさを感じることがなくなってしまった。
これは肉体面の老いもあるだろうが、精神が死んできてしまっているということもあるだろう。
ただコレによって相当なストレス解消方法がなくなってしまった。
自分は、酒もタバコもギャンブルもやらない。身体も弱く少食なのでスポーツや美味しいものを食べるというふうにもなれるわけじゃない。
結局独りよがりの世界で生き続けることができない人間だったのだ。
俺は死ぬよ。もうたくさんだ
価値観をアップデートしなきゃいけないのはむしろ増田でしょう。
性的消費といった漠然とした概念、きちんと説明できますか?アダルトビデオから風俗まで生身の女性が働いてる現実が見えてますか?萌え絵書いてる女性もいます。彼女たちの中には家族を養うためにやむを得ずやってる人もいますが、人の役に立つと考えてやっている人もいます。いずれの場合においても仕事の価値に対して客がお金を払って取引が成立しているので女性がしているのは無価値なものではありません。価値あるものです。
女性の尊厳を踏みにじると言ってますが、性的消費という独りよがりの価値観をもとにこういった女性たちの仕事の価値を認めず尊厳を踏みにじってるのはむしろ増田でしょう。フェミニストが非オタの男性どころか女性からも否定的なのはあなたのような身勝手で極端な主張をしつこくやっている人がいるからですよ。
性的消費とはなにか、性的搾取とはなにか、一つ一つ何がOKで何がNGなのかを「具体的に」説明してくれますか?自分の価値観の言語化もできないで価値観のアップデートを他人に求めて恥ずかしくないですか?
なんかさ。
女性を助けるとか善いことすれば認めてもらえるとか
感謝されるとか報われる、って思ってる男、多くね?
荒廃した世界だろうと、どこだろうと、ただ一人誰に向けるでもなく踊り続けるマン。
世間からは、そんな風に見られてると、そう思っておくくらいで丁度いい。
先んじて突っ込まれてるけどさ。
でも、女性にAEDを使って感謝されると無邪気に考えてる奴も有害なんだよ。
フェミニストにも様々な考え方があるように、表現の自由戦士の考え方も一つではなく、表現の自由が公共の福祉によって制限されることを認めない原理主義的な表自戦士は表自を代表しているとは言えない。表自を自称はあえてしていないが、考え方は表自に近いので反論しておく。
まず、判決文の原文 (https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/271/051271_hanrei.pdf)を読んだがこの判決については特に異存がない。
事件概要なんかは載せてくれているしわかりやすくまとめっているので割愛する。ここでは増田が書いていない社会通念部分について判例を要約する
つまり、刑法175条における猥褻は社会通念で決まり、裁判所が決める社会通念に基づいて判断した結果が判例として基準となる。
明示とは言えないが、ある程度境界線の場所は見えていて共通認識を持てている。それこそが社会通念と言える。
問題は、その線からはるかに離れた独りよがりの社会通念を振りかざして排除しようとするフェミの姿勢である。
6月23,24日に県営施設であるしらこばと水上公園において「水着撮影会」が行われます。入場料は1万円から3万6千円と高額なもので、過去のイベントの動画をみると水着姿の女性がわいせつなポーズやわいせつなしぐさで映っており、明らかに「性の商品化」を目的とした興業です。
猥褻の基準を刑法175条の過去の判例とすれば該当しないのは明らかである。陰部を露出していないどころか乳首すら出していない。もしこれをもって猥褻とするのであればオヤジ雑誌の袋閉じどころかヤングジャンプの発行責任者ですら逮捕されているだろう。もちろん、刑法175条における判断基準は出版物に対するものなのでイベントに適用されるものではないが、イベントを中止に追い込むのであれば、同様な根拠(我々の観念こそが社会通念であるという証拠)を法令と類似事例の判例で示す責任が中止を求める側に存在する。
とあるが、裁判所がいうように判断の基礎は一般社会において行われている良識または社会通念として存在している。そこから逸脱した社会通念とは違う別の何かを持って中止に追い込もうとする輩に対して基準を示せというのはごくごく当たり前の主張と言えるのである。
追記: