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はてなキーワード: 家内とは

2020-05-29

家内の同僚野熱が下がらんらしい

さて私はいつ頃かな?

2020-05-27

anond:20200527220008

「彼は」「彼女は」は上下関係なく対等に第三者呼称するとき使用するでしょう。小説いくらでもでてくる。

自身パートナー呼称するとき使用する「彼」「彼女」には全く従属感を感じない。「旦那」「主人」や「愚妻」「家内」だったらまた違うけど。もしかして相方」推奨派?

2020-04-22

公務員に10万円不要というのはあながち間違ってはいない

民度の高い、はてな民には、橋下ふざけるなで一色だけど、

世間はそうではない。



これらの人には10万円いらないではないかという意見も多く聞かれる。

これ、わたし家内公立学会教員)や、姉夫婦(県職員)に聞いても、

仕事は格段に減ったと言っており、

「大変なさなか、がんばっている公務員じゃない人」もたくさんいることがわかる。

独立行政法人国立大学機構職員はどうあつかうのか?といった問題はおいといて、

一部、公務員10万円支給する代わりに、ほんとうに困っている貧困家庭に配って欲しい。

anond:20200422080835

社長社員打ち上げ奢ってるから経費レシートが手元に残るんか?

あんまり家内消費を多めにつけると税務署くるぞ

ところでオレが一番時間かかるのはブクオフレシート

買ったにせよ売った(買い取ってもらった)にせよ

書名が全部乗ってるからいつまでも眺めてしまって鬼門

2020-04-20

身の回りコロナ患者さんが増えすぎて厳しい

都内住まいでいまは在宅に仕事シフトたから、稼ぐことについては厳しくないけれど。

管理組合をやっているマンションコロナウイルス患者さんが今日でもう4人目。80世帯ぐらいの中層マンションから確率からすれば確かに出てもおかしくない。

でも独居のお爺さん、本当に辛そうだった。救急車に乗って行ったのを見送ったけど、たぶんお見舞いにも行けないしこれで私からすれば最後見送りになるのかな。

それと、小さな一間で暮らしてたシングルマザーに娘ちゃん二人のご家族、一人で奮闘してた奥さんコロナ疑いで緊急入院

エレベーターホールで一昨日体調悪そうにゴホゴホやってたけどやっぱりか。

ちゃんたちどうするんだろう、家内ピンポンしてお家にいるのは分かったので、お弁当買ってきて、渡してあげたけど食べられているかな。

の子はまだ歯もちゃんと生えてなくて一歳ちょっとだろうし、瓶詰の離乳食を温めて。

どこにも行くところ、無いよなあ。可哀想すぎる。こっちの身も危ないけど、どうにかしてやらないとなと思いながら、清掃のおばさんも来なくなったし、仕方なく買ってきた消毒液をエントランスに巻き、一日三回、エレベーターボタンや出入り口の取っ手を拭く。

とはいえ私も家内もどちらかダウンしたら家事育児も回らない。明日は我が身だし、外出控えたいけど身の回りで困っている人がいるのなら少しでも助けないといかんだろうし。

みんな、どうか、生き延びてくださいますように。とにかく、だいじに。元気に。

2020-04-13

自分主義主張をするために他人をダシに使う奴

この間Twitterで「ノンポリの子供に安倍コラボ動画見せたら〜」みたいなやつが流れてきた。

自分の子供のお気持ちにをダシに、批判してる奴を批判してたんだけど

死んだ小池一夫もよく家内をダシに自分主義主張をカマしてたけどほんと汚いやり方だなと思う

マック女子高生とかも拍手喝采もその流れだよね

自分がそう思うなら「自分はそう思う」と言えばいいのになんで家族とか自分以外の人間をダシに使うんだろう

2020-03-03

anond:20200303133152

まりやす設備トイレは実際ある

ウチは、そーゆー紙を落としたときは、

できるだけ多量の水を流しておくようにしているが、

その便器から集配の下水管までのルートを把握してない(便器から下水管までの建家内での配管途中での詰まりやすい箇所の特定ときは、避けたほうがよい。

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-23

「ご主人」「旦那さん」「奥さま」に代わる相手パートナー呼称

伝統的に「夫婦」と呼ばれてきている関係性について、事実婚同性婚ステップファミリーからポリアモリーに至るまで、あらゆる多様性社会的是認すべきとの意識が──おそらくは電博広告代理店がらみであろう──逆に「多様性を認めなければならない同調圧力」とも受け取れる風潮にまで高まるにつれ、最近では夫を「旦那(さん)」「(ご)主人」「亭主」、妻を「奥さま」「家内」などと呼ぶことも憚られると聞く。なんでも、知り合いの知り合いのアメリカ帰りのフェミニストによれば、それらには主従関係が含意されているから、代替として日本でも「パートナー」と呼ぶべき、と提唱しているらしい。

かに男尊女卑は良くないし、近代女性解放運動婦人参政権運動には敬意を抱きつつも、だかしか現実我が国日常会話で唐突に「ところでお宅のおパートナーさん最近お見かけしないわねえ」などと切り出そうものなら、日米パートナーシップ協定ことなのか夫婦関係ことなのか混同されるリスクも相まって、こちらの気が触れたのではないかと勘繰られても文句は言えまい。

どうせ横文字を使うならdarlinghoneyぐらいが洒落っ気もあって妥当な線だと思うが、何でもアメリカにならえではどうも釈然としない。第一文化的多元度が高く、発した単語が一人歩きしがちなアメリカと違って、ここはハイコンテクスト日本社会なのだ、仮に字面に「主」が現れていようと、特定宗教語源があろうと、そこに女性を蔑む意図のない文脈であればどんな呼称を用いようが受容できる社会こそダイバーシティだろうに、とは個人的偏見だろうか。

とはいえ、今後「ご主人」「旦那さん」「奥さま」などと呼ばれることに拒否反応を示す人が増えることも見込まれる。試みに類語辞典検索をかけてみると、男性には「宿六」がヒットしたが、女性側に主従関係から独立したフラット呼称は見当たらなかった。もっとも、男女の区別をしている時点でまだまだ私もフェミニストの標的になりかねないので、以後、男女問わず「宿六」の呼称を用いて行くべきかとも思う。

2020-01-11

吐くまで飲むやつが心の底から嫌い

本当に法で規制してほしいくらい嫌い。

世の中に無駄もの等ないというが、酔っ払いゲロだけは無駄だと確信している。

飲んで吐くのが許されるのは程度が分からない若い人、100万歩譲って社会人1~2年くらいまでだと思う。

いい大人が吐くまで飲むのは本当に人間としてとても恥ずかしいことと、いい加減自覚してほしい。

特に路上や駅で吐くやつは、重罪だ。

公共面前野グソをしているのと同じだ!! 

そしてそのブツ放置すれば、遭遇した人の一日をたちまち不幸にするトラップ型の戦争兵器だ。

まりこの平和日本地雷を設置したといっても過言ではないと思う。

個人的には憲法違反だと主張したい。

トイレで吐けばセーフとか、酔って体調が悪いのだからしょうがないだろうという問題ではない。

一応前提として、酔っ払いが吐くのと、一般的に体調が悪くて吐いてしまう人とは扱いがまったく違う。

病人や体調が悪い人はどこで吐いてしまっても気の毒で心配対象である

体調を崩しやす子供病人が具合悪くて吐いてしまうのはしょうがない。

誰も自ら好き好んで体調を悪くするわけではないし、普段から予防を心がけても胃腸炎になってしまったりするからだ。

それは酔っ払いのと同じ掃除だとしても、誰もがなりうるし、しょうがないものだと許容できる。

しかし、飲んで吐くやつはどうだろうか。

飲まない、もしくは吐かない程度に抑えるという簡単なことで調整できるはずだ。

かに世の中にはそれが簡単ではない人たちもいるかもしれないが、

普通に正社員会社めしているような大人ができないわけないだろう。

簡単にできるのに、それをわきまえずに平気で『不幸』をまき散らしている。

いくら稼いでいようが、地位の高い人だろうが、すごい功績を残したやつだろうが、

吐くまで飲むやつは平気で他人犠牲にし、思いやりがない。これは真理だ。

そういうやつは「人間として」信用できない。

そこまで言う理由説明しよう。

残念なことにあまり自覚がなく吐くまで飲んでいる人がいるかもしれないが、

そういう人たちはまず、他人ゲロを片付けるボランティアでも5年くらいしてみてほしい。

常日頃から自分が出す100倍の人数分は片付けているという人であれば、納得はできないがこちらも理解はしよう。

お金をもらって片付ける人たちはいるが、そもそも積極的に汚す人たちがいなければ必要最低限で済むはずで、

もっと必要不可欠な仕事に手がまわるはずだ。

そういう意味社会に逆貢献しているのが許せない。汚す奴が片付ければいいのだ。

にも関わらず酔いつぶれてそのまま寝て、あろうことか記憶をなくしてその贖罪を怠り、繰り返すということが本当に腹立たしい。

また、吐くまで飲むやつは、酒造メーカーが飲んだくれを吐かせたくて酒を造っているとでも思っているのだろうか。

きっと小学生に聞いてみても「みんなでおいしく飲んでほしいと願っていると思います」と答えるはずだ。

一緒に食べる料理もだ。

酒と一緒に苦しそうに吐いてもらいたい!と心を込めて作っている料理人がいるとでも思うのだろうか。

使われている食材を作った人たちもだ。

吐くまで飲むやつはそういう提供側の思いを台無しにしている。

直接知ることはないにしても、本当に思いやりがない。

お金を払ってるんだからいい、トイレで吐けば迷惑がかからないという話の問題ではないのだ。

例え直接迷惑をかけてないにしても、他の行動、習慣、決断でもそういったスタンスは表れているはずだ。

きっと自分が気づかないうちに誰かに見透かされて信用をなくしたり、いつか大きな失敗につながる。

それでも、そんな吐くまで飲むやつでも身内であれば、家に帰ってくれば保護するしかあるまい。

しかし、それは捨てられた子猫や、迷子の子供を保護する感覚とは違う。

とはいえ最初のうちは、そういう日もあるし、誰だって失敗はあるしとあたたかく家に迎え入れ甲斐甲斐しく介抱する。

でも段々気持ちは変わり、「今回は酔いがさめるまで断固として家の敷居を跨がせたくない」という気持ちになるが、

大事お金や貴重品をとられたり、警察のお世話になってしまったりしては後々面倒になる」と考えるようになる。

後者のほうがよりいやだから家にいれる。

もう、責任とか愛情とかじゃない。

いやといやを天秤にかけて、家に入れるほうが総合的な被害期待値が少ないと見るから家に入れるようになるのだ。

それも通り越して、「もう後々面倒になってもいい。いい機会だからどうにでもなってくれ。」となるとドアにチェーンがかかっている事態となる。

かなり重篤だ。

うちの家内は、多少小言をいうくらいで許してくれているようだし大丈夫と思っている人がいたら要注意だ。

何事も警報、警告を無視し続けると大変なことになる。

過去に1回でも酔っ払った時のゲロ掃除ゲロを吐いたトイレ掃除をさせたことがあるなら、普通の人であれば少なくとも多少根に持っている。

可能性を考えると、ある意味リーチがかかっている。

「飲んだら乗るな」という言葉日本全国に周知されてて久しいが、

私はここで勇気をもって、声を大にして、酔っ払いに伝えたい。

いか、吐くまで飲むな!

絶対にだああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!

2020-01-08

配偶者呼び方

嫁→息子の配偶者ことなので誤り

妻→添え物扱いが×

家内→家に押し込めてるのが×

奥さん→奥に押し込めてるのが×

女房使用人扱いが×

かみさん旅館

細君→文学

家人召使い

相方漫才

同居人→一緒に住んでるだけか

お前→何様だ(女がいう「あなた」も男の増長を招くのでよくない)

パートナー日本語

ワイフ→日本語

結論:「配偶者

これならば性別立場も状況も関係なく使える。

「家のことはすべて配偶者に任せてるよ」

配偶者を質に入れても買う」

配偶者元気で留守が良い」

配偶者や、飯はまだかい」「あらやだ配偶者、さっき食べたでしょう」

極道配偶者たち」

「奴は所詮、先の時代配偶者じゃけェ」

2019-12-24

anond:20191224163458

「husband」と「主人」に関するつぶやき2019年分 その3)

anond:20191224163418

「husband」と「主人」に関するつぶやき2019年分 その2)

anond:20191224162530

「husband」と「主人」に関するつぶやき2019年分 その1)

2019-12-08

日本人は知らず知らずに毛を食べている

炊いた白米を食べていて茶碗のへりや米粒の表面からミリの小さい毛を見つけたことはないだろうか?

   ~ ←こんなのとか   ^←こんな感じの小さく薄く細い毛だ

それは 手(甲側)の指の付け根より少し上にある産毛みたいな小さな毛だと思われる。

米を素手で研いでる時に指がそこまで浸かり毛が抜けているのだと思われる。

それでその毛と米が混ざり、炊いてる時にその毛のダシが出ているのである

「米は自分で炊くし指が浸からいか無関係」という人もいるかもしれない。

いままで家内や知人や第三者が炊いてくれた米は素手で研いで毛が混入した可能性がある。

そして今日も知らず知らずに誰かの毛を食べているのである





































































































.                                                                                                    .

…話は変わって、次は「人は知らず知らずにやられたら誰かにやりかえしてる」ということ。

なぜか?

今この記事を読んで「何か」思って 記事登録して留めておこうしたり、コメントしたくなったかもしれない。

この記事を共有して結果広まり巻き込むのである

2019-10-31

猫がやってきた

昨晩遅くに帰宅すると、家に子猫がいた。

家内に聞くと、家の前で箱にいれられて捨てられていたとのこと。

ぱっと見で生後2ヶ月ぐらいのサバトラのソックス。

ほっとくと死んでしまいそうなので連れてきたとのことだった。

サバトラにゃんは、

にゃーにゃ鳴いて、脚をふみふみしてかわいい

でも、野良猫だし、外に帰ってもらうことにした。

家内は、

わんわん泣いて、ぶーぶー言っていたが、

近所の実家へ帰っていった。

2019-10-23

奥さん」の呼び方は難しい

奥さん引きこもり連想させる

家内奥さんに同じ

嫁→女に家と書くので上に同じ

妻→刺身のツマを連想させる

女房乳房連想させる

夫人→夫の所有を連想させる

細君→やせ細る、DV連想させる

名前愛称等も含む))さん→馴れ馴れしさを連想させる

(夫の苗字)さん→夫の苗字

生来苗字)さん→未婚を連想させる

2019-09-05

anond:20190905112851

いとおかし 家内が言うと いとおしい

(家内→かない→か無い)

2019-08-02

家内温度36℃とかいってて、ほぼ裸になって扇風機を全力で固定にしてシーブリーズ塗ってアイスノンが冷たいうちに寝るという方法ですら眠れなくなってしまったので、もう一日中クーラーつけっぱ生活になってしまった

まあクーラーも新しいのに変えたし

2019-07-18

[]2019年7月17日水曜日増田

時間記事文字数文字数平均文字数中央値
007314167194.143
01447033159.852
02355073144.944
0318109560.823.5
047856122.3126
05182085115.851.5
06183305183.684
0760256042.723
0876435757.332.5
091131050893.039
101751243571.139
112512018280.436
121341313198.041.5
131441290189.641
14155809452.224
151541018766.132.5
161751020558.341
171301179390.734.5
181791787999.938
191271160991.438
201221100590.237.5
211571299282.835
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2019-07-17

いつから妻のことを

家内と呼んでもいいの?

3年くらい?

anond:20190717114745

年寄りだけだと思う

2、30代くらいで家内と使ってたら驚くが60代以上なら普通(というか、むしろ社会的地位高い人なイメージ

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