はてなキーワード: お供えとは
以下のページで「健全な精神は健全な肉体に宿る」の出典が全訳されてるけど。
http://hgonzaemon.g1.xrea.com/juvenal_10.html
それでは何も神にお祈りしてはいけないのか。もし私にひとこと言わせてもらえるなら、どんな幸福が自分自身にふさわしいか、何が自分に役立つかを決めるのは神様に任せることだ。神様は、喜ばしいものではなく、常に最もふさわしいものを下さるだろう。人間が自分のことを考えている以上に、神様は人間 のことをよく考えて下さっている。我々人間は一時の感情と、盲目の衝動に突き動かされて、結婚して妻と子供を持ちたくなるが、どんな女を妻とし、どんな子供が生まれてくるかは神様がご存じなのだ。
それでも、白豚の臓物やソーセージを神殿にお供えして、何か願いごとを神様にお祈りしたいのであれば、心身ともに健康であることを祈るがよい。死に対する恐怖から解放され、長生きを自然の恵みのうちでも最低のものと考え、どんな苦労にも耐え、怒らず、何も欲しがらず、美食と贅沢と快楽に溺れたアッシリアの最後の王サルダナパルスよりも、人類のために厳しい苦難に耐えたヘラクレスの方が素晴らしいと思えるような、健全な心を求めるがよい。私が勧めることは、すべてだれでも自分で出来ることばかりである。自らの行ないを正しくしさえすれば、人生を平穏に過ごす道は必ず開かれる。
つまり「健全な肉体に健全な精神が宿ればいいのに実際にはなかなかそうならないよなあ」とか、
「おまえらは健全な肉体を目指して鍛えてばかりだけどちゃんと健全な精神も育てねばダメだぞ」みたいな話でもなくて、
「大それたことを願ってもロクなことにはならないのでせいぜい健全な肉体と健全な精神が得られますようにと祈るくらいにしておけ」という意味なんだね。
Togetterで献花やお供え物を片付ける人のことを考えたことある?ということがまとめられてたからそれに対して個人的に思ったことを書いてみる。
そのまとめの作成者は言い方はキツすぎるけど、言ってることは個人的にはすごく理解できる。
悼むという気持ちは本当だろうし、現場に時間とお金をかけて訪れること立派だ。でもそのやり方がみんながやってるから……というだけでは今生きている周囲の人に余計なコストをかけさせている。
現場に行って立ち止まって手を合わせるだけでも十分追悼になるし、それでも足りないと思うなら今困っている人やことのためにできることをしたらいいと思う。(安全運転を心がけるとかしかるべき組織にお金を寄付するとか……)
物を供えるにしてもすぐ持って帰るか片付けに来るかでしょう。それができないなら所詮その程度の気持ちなわけだし(これは心無い言い方かな)、手を合わせるだけにとどめておくべきだよ
影響力あるひとが「現場に行って、手を合わせてきました、でもそれだけでは足りないので〜基金、〜機構に寄付しました」とかなんとかSNSに投稿すれば、その人の株も上がるし遺族に対して何かしたい人達は行動に移すことができるしいいんじゃないかな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1360644
理由は3つに分けられる
つまり、お供え物をするという理由で現場に来ているがただの野次馬である。
朝の通勤ラッシュで男も女も老いも若きも機械のように職場に急いでいる様を見ると、たまにこの世界は誰のためにあるんだろうなと思う時がある。缶コーヒーのジョージアの宣伝で「この世界は誰かの仕事で成り立ってる」ってあったけど、みんな社会のために働いて消耗しているので、結局その最終的な成果の受益者って誰なんだろうと思ってしまう。
昔は国王とか大名とかがいたので、誰々様のために頑張って働くってすごくシンプルで分かりやすかったと思う。神様の像の前に「今年の実りです」っつって収穫物とかお供えものを奉納していた昔の人の気持ちすげー分かる。
ちょっと前までは「お国のために」ってことだったし、それがいかにヤバイ思想だったか日本人はバカほど思い知ったわけだけど、皆が納得する答えとしては悪くないんじゃないかとも思う。100点満点でいえば60点くらい。
話は戻るんだけど、今日電車の中でみんな何のために働くんだろうなって1分くらい考えたんだけど、結論現在この世界の最大の受益者は「子ども」であるべきなんじゃないかと思った。
超金持ちの玉の輿に乗って家事すらやらなくていい女とか、資産家のガキで一生遊んで暮らせる奴らとかも社会の受益者だろうけど、そういう連中に比べたら圧倒的に量が多いのは子どもだし、現世界で子どもがおかれる状況は決して良いとはいえない。我々大人は、自分の子どものためだけじゃなくて、すべての子どもが日々を楽しく豊かに過ごせるように働く。そう考えると色々スッキリしたんだけどどうでしょう。
ちなみに、星新一のショートショートで、人類の大半が消滅して、地球の滅亡のカウントダウンが始まった時に、わずかに生き残った人類がこれまで先人が築き上げてきた文明を破壊して回り、この時の「破壊の快楽」のために人類は気の遠くなるような世代に渡って文明を築き上げてきたのだ、という場面がある。子どものためにを年世代にも渡って続けていった最期はこういうのもありなのかもとも思った。
もっともビビりもビビり、呪怨なんて目と耳塞がないとダメみたいな人だったので専ら本で怪談を読むばかりだったけれど。
図書館で週に2,3冊怖い話の本を借りてはびくびくしながら読破する、そんな日々だった。
その中で印象に残っている話が今回の話。
狐というか「お稲荷様」を主軸にした話である。あらすじはこうだ。
主人公の剣道をやっている女の子。赤胴を着て日々練習に励むものの中々上手くはならない。
そこで近所の稲荷神社に参拝して「剣道が上手くなれますように」だかお願いをする。
すると次の日くらいから、道場の卒業生らしいお姉さんが剣道教室に訪ねてきて指導をしてくれる様になった。
中でも主人公には積極的かつ優しく指導してくれて、お陰で主人公も実力がめきめき上達。
そのお姉さんに懐くようになる。
ところが、ある日を境にお姉さんの態度が少しぎこちなくなる。加えて変ないたずらも主人公の周りで起き始め。
そしてお姉さんと対戦する時、面の向こうに吊り上がった目と口がこちらを見ていることに気づく。
「礼の一つもなしかい、え? 赤胴」
そう、やはりというかお姉さんはお稲荷様(=狐?)の化身であったのだ。
実はお稲荷様には『願いが叶ったらお礼をしないといけない。』というルールがあり、主人公はそれを忘れていた。
そこに、「本当に有難いと思ってんだろうな、え? 赤胴」と。
どこからかそんな聞き覚えのある声が聞こえて話は終わり。
当時はこの怪談が結構怖くて印象に残ってたんだと思う。(いたずら描写とか変貌する様とか)
ただ、今こうして思い返すと怪談というより少年漫画にありそうなやつだと思う。
ちょっとドジな剣道小学生っ娘と、見返りがないと祟りを起こす、口の悪い稲荷神(もとい年上のお姉さん)のバディもの。
前者が中心ならスポ根ものだし、後者が中心ならほのぼのなり非日常系なり派生させられそう。
……かつてこの話に戦々恐々としていたちびっ子が。
ブクマがたくさんついてて驚いた。やはり気になる人も多いんだねえ。
私が食べ物を無駄にしても合理的に考えれば別にどうということはないのもわかってるけれども、
これは「悲しい」という気持ちの問題なのですね。だから人には言わないし強制しません。
職場の食品廃棄についてはルール化させてもらおうと思うけれども、あくまでも最後まで責任もってほしいというだけで、捨てるのはその人の自由だから。
そして呪いだとは思ってません。親や祖母に言われたことも特になくて、自然発生的な共感なんだよね。「スーパーの惣菜コーナーで割引シール貼られてても売れ残ってる唐揚げに自己投影してます」って言ってる方がいるけどそれもすごくわかる。感情移入してしまうのですね。
「お供え物の一種と思って、大漁とか五穀豊穣とかを祈りながら捨てたら多少は気が楽になるのでは」というブコメ。これかなりグッと来た。ありがとう~
年齢も性別も何もかも、自分じゃない「視点」で世界が展開する。
あり得ない美しさ。
視たこともないそこへ。
父が亡くなってもう5年にもなるのに
それから夢に、時々父が来る。
つまり「どこの誰でもない私」ではなく
現実の私を夢でも視るようになった。
昼下がりなのか、夕方なのか、もう夜なのか判らない。
(この人たちは知らない。かれらも私を知らないかもしれない)
帰り支度をしている。
その寂しそうにしているその人物に、
一緒に帰ろうか?と声をかけた
すると俯いて佇んでいた人が泣きそうな、何とも言えない表情をして
嬉しいような、感動したかのような、目を潤ませてこちらを見た。
一緒に帰ろうか。
あ、なんで声をかけたのかわかった。この人はお父さんだ。
働き盛りの頃の記憶の中の父だ。
凄く嬉しそうだった。
そして申し訳なさそうだった。
一緒に帰ろう、お願いだから。
そういって東京の
私の独り暮らしを、
強制的に終わらせて、連れ帰ったのも父だった。
私は帰りたくなかった。
一番うれしそうで、嬉しいと言って踊ったりする父。
母が寂しがっているから、母が寂しいと言っていると
私を強引に連れ帰って、帰ろうと言ったのは父だった。
一番喜んでいたのも、父だった
お彼岸なので私の夢の中に、帰ってきたのかな。
台風が来るようだけれど
お供え物を買いに行ってこようかと思う。
落ちも何もない。
お帰りなさい。