はてなキーワード: 否定形とは
突然だが、「~しない」「~できない」のことを「~しやん」「~できやん」と表現する方言をご存知だろうか。
昔から三重県・和歌山県・奈良県南部・大阪府南部で使われている方言らしい。俺は大学時代の三重出身の友達がやたらとやんやん言ってたので、三重県の方言のイメージだ。
実は最近、関西の若者全体にこの方言が広がっているようなのだ。
最近関西の大学生と喋る機会が増えたのだが、学生の出身地に関わらず、しやんできやんという表現をよく聞くようになった。
初めは大阪南部からじわじわ北上しているのかと思ったが、大阪から遠く離れた京都人や神戸人の学生でさえ使っていた。俺は神戸生まれだが、神戸の生粋の方言でしやんできやんという表現はまず使うことはない。
なぜかと思いググって見ると興味深い論文が見つかった。
https://ci.nii.ac.jp/naid/110009920476
2015年の論文だが、関西の若者に急激に「~やん」という否定表現が広まっていることをデータで表している。
論文によると元々「見ない」の方言の「見やん」という表現は和歌山県・奈良県南部・三重県のみで使われていたのが、関西全体や徳島にまで広まっているというのだ(京阪神では「見ーへん/見ーひん」が本来の表現)。
「来ない」の方言の「来やん」に至っては三重県の一部地域のみで使われていたものが、関西全体に広まっているようだ(京阪神では「けーへん/きーひん/こーへん」が本来の表現)。
また、本来の関西的な否定表現の「~へん」の使用頻度自体下がっているようで、「やん」が使えない動詞の否定形は「~ん」の使用頻度が上がっているようだ。
元増田は自分自身の中にブレない価値観を持っているようで羨ましいが、そういう人間ばかりでもない
私も40代になった今なら、まあ自分が不審者扱いされないことより2歳児が保護されることの方が大事かなと思えるが、それでも咄嗟に体が動くかどうかは微妙だ
これが20代の頃だったらば、自分の価値観や判断力に自信が無くて、何が大事で何がそうでないのか、何が正しく何が間違っているのか、そう簡単に決められなかっただろう
その頃の私なぞは馬鹿だから、非難されるようなこと=悪い行動だと思っていたし、否定形で何か言われる=非難だと思っていた
すなわち「不審者扱いされる=非難される=やってはいけないこと」となる
幼児を保護するのがやった方が良いことなのは何となく分かっても、それが不審者扱いされるというやってはいけないこととバッティングしたら、どうしてよいか分からなくなる
だから不審者扱いはクソだとか、幼児を保護しなくても仕方ないとかいう極論ではなくて
価値判断をそれなりに自信もってするためには、それなりの訓練やバックグラウンドが必要だと思う、というのが言いたいこと
今だって別に自信ができたからというよりは、単にそういう判断をすることに慣れてきて、深く考えなくなっただけのようにも思う
あるいは年を取って怒られる経験自体が減っため、怒られに対する恐怖心が薄れてきたのかもしれない
この訓練やバックグラウンドを教育の問題だというなら、まあそうかもしれない
しかし多くの人がああいった場面で逡巡を覚えるのなら、迷わず行動できる教育を受けた人間はむしろレアだということになるし
別に好き好んでおかしな教育をしている親や学校もそうそう居らんだろうから、「良い」教育というのはかなりハードルが高いものなのであろう
平易な文だが、わけがわからない。「バスの揺れ方で」「人生の意味がわかった」「日曜日」。それぞれの繋がりに全く論理性がない。
「運命の人」の冒頭部がわけがわからない?とは僕にとって驚愕である。各々解釈の揺れ(それが良い詩の証明だろう)こそあれど全くそのドラマを想定できないなんてことが日本語話者にあって良いものなのだろうか。こうやって個人の妄想でしかないものをもっともらしく解説者ぶって書き連ねるのは、作詞者である草野さんに対する不遜なのは重々承知している。僕自身あまり好きでない類だ。しかし全くわからないという人間を目にしてこの3日心のもやもやは晴れないままだった。心待ちにしたスターウォーズ鑑賞中も頭の中はスピッツだ。夜眠ろうにもはーしーるーはーるかーと頭の中でループする。
もういてもたってもいられない。ここに駄文を書き連ねる。
「バスの揺れ方」というのは不規則でとても強力なものだ。電車のような規則性はなく、タクシーのような微々たるものではない。乗客は常に見当もつかない方向から強い力で揺さぶられときにはその力でよろめく。
続く「人生の意味がわかった日曜日」は、逆説的に言って、日曜日でなければ気がつかなかったということを表している。多くの人にとって日曜日は休日である。つまり平日では行われないことがその日起こり、平日では気にとめなかっただろう些細なことがこの気づきをもたらしたのだ。
そして日曜日は週末である。日々の営みが7日で循環するよう設計された人間社会において、日曜日は一つの区切りになっている。労働や勉学に励む小市民ならば、7日間のうちに起こった悲喜交々はこの日を最後に一旦清算され、人々は次の1週間もまたひたむきに日々を過ごしていく。日曜日を意識するこの歌詞の主人公もまたそんな人間の一人だと言うことが読み取れる。
改めて一文を読むと「バスの揺れ方」が連用修飾語として「解った」に係り、「解った」は続く「日曜日」の連体修飾語になっているため、主人公がバスに揺られていたのは「人生の意味がわかった」のと同じ日であるといえる。それぞれが別の日であるなら、バスに揺られた日を示すためにさらに「バスの揺れ方」を修飾する必要がある。なお、バスの揺れかたはバス内部でなければ感じ取れないので、主人公が日曜日にバスに乗車しその日のうちに「人生の意味」に気がついたと断定できる。
ここで一旦まとめると「バスの揺れ方で人生の意味が 解かった日曜日」というのは、
「毎日つつがなく規則正しい生活を過ごしている主人公が、休日が故に起きた特別な出来事をきっかけに思慮にふける。彼はこの日乗車したバスの不規則な振動と、不意な出来事に翻弄されることもある社会の悲哀を重ね合わせた。そして『人生の意味』を悟る。」という内容であると推定される。
不可解な点がまだ残るが歌詞の次行に進みたい。
歌詞を読むに彼は「君」の手を握れるほどそばにいることがわかる。注目するのは「でもさ」という否定形の接続詞で、これにより主人公が「君」の手を強く握るという方法で「人生の意味」に抗う姿勢が示された。
話が戻るが日曜日という日は週末であり曜日の中でも特異な地点である。あくまで僕の考えであるが、歌詞の主人公からすれば日曜に思い巡らせたことは月曜にはリサイクルされてしまうので、「日曜日」に発見した「人生の意味」がこの主人公の行動に影響を与えるのはその「日曜日」に限定されるはずなのだ。そういう意味でもなければわざわざ日曜を指定する必然がない。月曜でも水曜でも歌詞は成立する。よって「強く手を握る」ことで「人生の意味」に抗うことが可能なのは「人生の意味がわかった」日と同日であると考えるのが自然ではないだろうか。
とすると彼はバスに揺られた日曜日に「君」と会って過ごしたということになる。おそらく彼と「君」は同じバスで揺られている。
そして「君」がバスの中でよろめいてその手を彼が支えるという場面があったのだろう。彼は「君」が人生に翻弄されてもずっと支え続けていこうと心に決めるのだ。
つまり「バスの揺れ方で〜」のまとめで述べた"特別な出来事"は、「君」と休日の行動を共にしていることなのではないだろうか。普段ならバスの揺れに不快な思いをしているはずなのに、君がいるときはなんだかそれを感じない、そのことが彼の日曜日を特別にしたんじゃなかろうか。
出だしの2行を僕なりにまとめると
「週末に『君』とのデートをとりつけ心が弾む主人公。普段なら不快なバスの揺れも『君』が側にいれば全然苦でない。そのことに気がついた彼は、小市民として淡々と日々を過ごしているはずの自分にも時々ハプニングが降りかかるその人生の理不尽さと不規則で激しいバスの振動を重ね合わせた。『生きていて辛いことがあっても傍らのこの人がいればそんなことは全然気にならない。』彼はそれを確信する。その時またバスは揺れて『君』が大きくよろめいた。すかさず『君』の手をキャッチした彼。彼自身はその揺さぶりに動じないとしても、この相手は『運命の人だから』挫けることがないように支えていかなければならないと決心する彼であった…」
なお直後3行目の「優しいだけじゃなく偉大な獣」は、この優しく相手を守り支える姿と、揺さぶりに翻弄されず過酷な環境であっても生きていける野獣のようなタフネスという二面性を集約した言葉だと考えて僕は納得した。
確かにこれらには何の確証も論理性もない。しかし聞き手の中にファンタジーを想像させられれば詩はそれでいいんだと思う。
まだまだ書き続けたいが時間がないので書き控える。
ちなみに僕が好きな歌い出しはBLANKEY JET CITYの「ガソリンの香りがしてる」だ。何もわからない。
余談だがスピッツの2ndアルバム「名前をつけてやる」にはその名も「日曜日」という曲が収録されている。「運命の人」が可愛く思えるほどに奇々怪々な歌詞で「晴れた空だ日曜日戦車は二人をのせて」と言葉で歌は始まり、サビで「蜂になろうよ」と相手を誘う。それから6年が経ちデートはちゃんとバスを使うようになり、蜂への変身願望から偉大な獣になる誓いをたてるまでに成長したんだと思うと、なんと立派になって…と親戚のおばさんのような気分にならないこともない。
なんで一人だけ否定形なんって思ったわ
たくさん反応があってびびった!この前の中二病増田は全然だったから油断した。
半日でこんなにコメントついたのは初めてだからおもしろかった。ありがとうな。
でも増田民は夜中に右手がうずいたりしないのがわかって切なくなった。
のたうちまわる中二病キャラって愛すべき存在なんじゃないのか?
何にしても、タイトルありきの内容ってことは心においといてな!
「エモい(中二病ぽくて抽象的な文章)+否定形」のタイトルにしたら反応増えるかも~くらいのノリでかいた!
実際こういうタイトルの記事なんか多いじゃん。否定形にするのが大切なんだよ。
そしてタイトル以上の内容は本文にないよ。だから本文の内容はフィクションです。
~なんじゃないかと思った。ほんとただそれだけの内容(という虚構)。
ほんとに、文章で飯食ってる人はすごい…。
自分の言いたいことを、必要最低限の適切な言葉で表現するってめっちゃ難しいやんけ。
以下カエルの解剖。
選好じゃなくて嗜好じゃないかってブコメがあったけど、この「選好」は学術的に厳密な意味で使ってるんじゃないんだ。ごめんなさい。
指摘はごもっとも。なんだが、選り好みってニュアンスを持たせたかったのと、こういう学術用語的なのを一行目に挟んどけば
関心を持って読んでくれる人が少なからずいるんじゃないかと思ってこう表現した。
物語と物語性の混同があるって指摘もあったね。ヘタクソだった。
たぶんこんなに反響が得られたのは、「彼ら彼女らの歌やダンスには物語がない。」っていうところに
相当数の人が反応してくれたんじゃないかと思うんだが、ここはあえて「私(自分)」って言葉をぬいて書いた。
>>彼ら彼女らの歌やダンスには<自分にとっての>物語がない。
もうすこしいうと、自分にとっての物語が生まれえない、くらいのニュアンス。
それつながりの(おそらく)誤読で多かったけど、アイドル各々に物語があることは否定してないぜ!
だから、その(大衆に喜ばれるとされている存在の)物語が「自分」のものにならねーなクソ!くらいの内容しかないぜ!
大衆のために用意された物語が自分のものにならないってどういうことだ?
ついでに大衆であるはずの自分なのに大衆になりきれてないってのはどういうことだァ?絶望ォ~!
ここはいっちょ<自分の物語になっている>なつかしのメジャーソングでお茶を濁しとくゥ~?
終始自分の話しかしてないので、他人はどうとかそれ以上の文脈を読み取ったならおめーすげーよ!
いろいろヘタクソだったがありがとうな。嘘を嘘と楽しんでいこうな。
【やってはいけないこと】の中に否定形で書かれている項目があって、それをすべきなのかしちゃいけないのか一瞬判断に迷う。だいたいわかるけど。