はてなキーワード: 優生学とは
「優生学が倫理的な問題を抱えていることは知っているが、なぜタブーとされているのかわからない」って問題提起してるのに、科学的的な立場からの解説に「こういうのが読みたかった」って納得するのは増田本人も何が聞きたかったのがあやふやだったのかな…
それか増田自身が優生学は良くないって思える具体的な理由が欲しかったのか
そもそも聞きたかったのは国家プロジェクトで優秀な遺伝子を保護しようぜ!って思想が倫理的に受け入れられないのはなぜかってところだと思ってるし、俺もそこ気になってる
形質に遺伝的因子があるなら、優生学的操作をすれば人類は必ず優秀になる・・・というのが元増田の議論の開始点だと思いますが、そこ、すでに間違ってるんです。
これ藁人形じゃない?
いやまぁ元増田は本当に「必ず」優秀になるという勘違いマンだったとしても俺の知ったこっちゃなくてさ。
「優生学的操作をすれば、その国の平均を現代社会で望ましい形質に寄せることができる」ならどう?たとえばダウン症には国が不妊手術を施す新優生保護法のようなものが提案されたとき、自然科学は歯止めになるの?
設定する目標の値によってかけられるコストの幅とか変わるだろうし、金だけじゃなくて時間もかかるし、馬に関して言えば成熟するまでの期間世話するコストがあるわけだから「どうでもいい馬100x100から生まれた100頭」を育てるよりは「優秀な馬2x2から生まれた2頭」の方が期待値が高いんじゃないの。血統書があれば、育てた馬がより高く売れたりするとかあるし。
優生学は個人単位で実践出来る部分があるけど、共産主義は集団・国家単位にならないと機能しないからかね。
新左翼や極左暴力集団のように集団化すれば公安にがっつり監視されるし、国家単位では共産主義政党なんて大勢として見れば相手されてないし。
「ナチスドイツが振り回して大量に人が死んだのでアレはもう抹殺です」っていうなら、例えば共産主義なんか、もう永遠に「次の機会」なんて与えちゃダメだと思うんだけど
なぜかそういう話にはならないんだよな
「人の能力なんて遺伝子じゃわかりませえええん!」っていうおなじみのアレにしたって、科学は嫌でも日々進歩しているわけで、明日どうなるかなんて誰にもわからない
「確かに今までは失敗しましたが、それはやる側が不完全だったからで優生学自体が間違ってたわけじゃありません、次の優生学はきっとうまくやるでしょう」
と、そういう奴が出てきたっておかしくはない
まあそれはそれでいい
でも↑の優生学を共産主義に置き換えると、今でもマジなノリでそんなこと言ってるのがいる
どうなんだあれは
というコメントを見て。
それは確かにあるんだけど、その裏面の意味では、福祉国家ワイマール・ドイツでこそ優生学は発展したんですよね。
「みんなで支え合わなければならない」という前提があればこそ、優生学は受けた。
ナチスの作成したポスターで、屈強なゲルマン人男性が2,3人の障害者を背負って苦しんでいる、という構図のものが、それをよく表していると思います。
ほんと聞きかじりでね。
医療社会学?の人なのかな、(たぶんフーコー研究とかから入ってると思われる)市野川容孝先生がよく書いておられるモチーフなんですよね。
最近?では「優生学と人間社会」の書評をfinalventさんも書いておられた。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/05/post-25f4.html
一方ではヘーゲル左派?で社会主義者のラサールなんかとも交流があったようだし。
ちょっと気になるのは、各国兵士の公衆衛生問題、有り体に言えば慰安婦制度との関係。
どの国にも戦時性犯罪は付き物だが、ここまで国家主導で強く介入し、コントロールしようとした国は日本とドイツで、これ福祉国家の思想が背景にあるんじゃないかと。
日本の慰安婦制度は周知の通りだし、ナチスの占領地における慰安所政策はまだ明らかではないが、相当な規模のはずだろう。
対極などころか、兵士に対する福祉政策ど真ん中の事例だよ、慰安婦制度。あなたこそご冗談を笑。
伝わってないみたいだけど、そういうことが言いたいんじゃないと思うんだよね、市野川先生。
いまだにオバマケアであれだけ紛糾する合衆国と、日本やドイツを比較してごらん?
よく分からないから、何が起こるか分からないから、人類全体としてのリスク回避のために優生学は受け入れられない。というロジックなんだとすると、人類のリスク回避とやらのために外れくじ引かされて一生あうあうあーの面倒見る羽目になった人については人類全体として補償してあげないと辻褄が合わないと思うんだけど、そういうことはしないんだよな。
・ヒトの個人ごとに異なる特徴を「形質」という。
・形質への遺伝情報の影響には「単一遺伝子型」と「多遺伝子型」がある
・単一遺伝子型形質は稀である。単一遺伝子型に対する優生学的操作は有効ではない。
・ほとんどの形質は多遺伝子型である。多遺伝子型では、理論的に超優秀な親を集めれば超優秀な子が生まれる確率が高くなるとはいえない(平均への回帰)。また、思っても見ない影響も起こす
以上でどうでしょうか
まあ、なんちゅうか、トラバも盛大に伸びているので、私の書くここまで、元増田は辿り着かないかもしれませんが・・・
私はゲノム科学者ですが、元増田の持つ疑問は、別に自然なものだと思うんですよね。というより、ゲノム配列決定が非常に身近になっている昨今、ちゃんと向き合っていかなければならない疑問だと思っています。私は私の持つ知識の範囲で、疑問にお答えしたいと思います。倫理は専門外なので扱いません。タブーとか扱いません。裏の意図を読もうとしているブコメが多数ありましたが、理系なのでよくわかりません。
まず、元増田の挙げているような、運動能力、将棋の能力、見た目の美醜とか、学歴、といったヒト個人ごとに異なる特徴を「形質」と言います。形質を遺伝学の観点から見ると大きく分けて二つあり、単一遺伝子型(メンデル型)と多遺伝子型(多因子型)です。
おそらく優生学にせよ遺伝にせよ、専門外の人が通常頭に思い浮かべるのは単一遺伝子型です。この場合、メンデルの法則により顕性(優性)または潜性(劣性)のモードで、親から子に形質が伝達されます。単一遺伝子型の形質として最も簡単に思い浮かべられるのは遺伝病です。あと、お酒飲める飲めないもギリギリそうです(これは本当は少数遺伝子+多遺伝子型だけど)。あと、耳垢が乾いてるか湿ってるかとか。親指が90度以上後ろに曲がるかとか。
そして、この遺伝病に対して優生学政策を行ったのがナチスドイツというわけです。遺伝病の人を断種させようとしたんですな。流石に元増田はそんなことが良いと思っているわけではないと思いますが。
遺伝病の断種は、遺伝病の根絶について特に有効ではないと考えられています。まず、潜性遺伝病の場合はどうでしょうか。これは、両方の染色体に、多くは遺伝子機能欠失型の遺伝子変異があると起こります。親は、片方しか持っていなければ健康なのですね。すると、両方の遺伝子変異を持つ遺伝病患者を断種させたところで、片方だけを持つ親が世の中にたくさんいるわけです。どれくらいの数いるか?実はね・・・地球上の全人類で、これを持ってない人はいないと考えられています。今、個人の全ゲノム塩基配列決定とか普通にできてますからね。観察的にそうです。さてそれでも、両方の遺伝子欠失を持つ遺伝病の人を断種させれば、徐々に遺伝病は減っていくでしょうか?実はね・・・そうならないと考えられます。ハーディ・ワインベルクの法則って言うんですけどね。
さてそれでは、顕性遺伝病の場合はどうでしょうか。これは、染色体の片方にでも遺伝子変異があれば発症するもので、つまり、遺伝病を発症している人を断種させれば理論的に根絶できます、が、実はね・・・ヒトゲノムには突然変異が起こるのです。もちろんこれが進化の原動力なわけですが、これにより、顕性遺伝病も発生します。つまり、両親が健康で、遺伝子変異を片方持つわけではない場合でも、子に突然変異が発生して顕性遺伝病は起きるのです。デノボ突然変異って言います。
ただしね・・・現在では、人工授精の際、受精卵の染色体やゲノム配列を調べて、遺伝病になるゲノムを持つ受精卵を選択しない、という医療、これって、実現化してるんですよ。ダウン症はすでに一般化してますが、単一遺伝子疾患もできます。この、遺伝病の子になるなら産まない選択・・・これは優生学的判断ではないのか?これってめっちゃ難しく、元増田を多くの人が簡単に批判しているほど単純な問題ではないと思います。私は、個人の選択は優生学とは言わず、個人の自由であるとは思うものの。倫理の専門家ではないので理論武装がしっかりしているか、自信はありません。受精の時点で人権が生じるという考えからすれば、これは殺人であり、虐殺です。ただ一つ言えるのは、ナチスドイツの断種法と異なり、この受精卵選択は、科学的に有効な医療であると言うことです。
さて、ここまで読んでくれば読者は気づいたでしょうが、運動能力、見た目の美醜、学歴、といったものは、これは単一遺伝子型ではありません。もし、学歴を問わない父親と、東大卒の母親から生まれた子の1/2が東大卒になると言うなら、これは単一遺伝子型の顕性遺伝と言うことになりますが、そんなわけはありません、経験的に。誰も行かないこともあるし、佐藤ママみたいに4人全部行くこともあるでしょう。単一遺伝子型なら、こういうばらつきは起きません。ばらつきが起きるが、一定の遺伝性はあるように見える形質、これは多遺伝子型です。
単一遺伝子型は、確かに、遺伝情報を調べると病気になるかどうかかなり高い確率がわかって、この事実だけを見ると、遺伝子決定論を信じたくなります。ところがですね、幸いなことに、遺伝病ってとっても稀なんです。世の中のほとんどの病気は多遺伝子型です。あなたのコレステロール値すら予測が難しい。多遺伝子型は、遺伝的変異が多数関わるだけでなく、環境によって大きく変化するんです。学歴も、運動能力も・・・そして見た目もです。
この多遺伝子型の形質には、単一ではないとするならどれくらいの数の遺伝的変異が関与するでしょうか。これはここ10年くらいで確定してきた最新のところではあるのですが、どうも最低数千あるようです。それぞれの形質に、それぞれ数千です。こんなにたくさん因子があるとどうなるかというと、中心極限定理により正規分布します。多遺伝子型の形質は、正規分布するのです。すると何が起こるでしょう?
平均への回帰です。
いみじくも優生学の創始者ゴールトンが明らかにしたのが、親の身長とその子の身長を比較すると、極端に身長の高い親の子は、どちらかというと平均側、普通っぽい身長の方にシフトする、と言う現象です。それで回帰というわけですね。平均に戻る、ってことです。どういうことでしょうか。メジャーリーグMVPの大谷翔平の子は、みんなメジャーリーグとかよりもずっと普通っぽい才能になるだろう、ってことです。ええ、皆さん、知ってますよね。長嶋茂雄の子もそうだった。野村克也の子もそうだった。あれが理論通りなんです。教育環境がいいから、それでも普通よりはいい方に行くわけですけど、親と同じような超絶スーパーエリートにはならなくて、それは統計学的に予想通りでして、確率統計の基礎の基礎、正規分布の性質により説明できます。大体さ、大谷翔平の親はどうなのよ。メジャーリーガーだったわけじゃないわけですね。
まあ、それでも、意味があるじゃないかっていうかもですね。平均への回帰って言っても極端だったのが極端でなくなる、ってわけで、身長が高い親の子の平均値は、身長が低い親の子の平均値よりは高いです。平均だけの話で、大幅にオーバーラップしますが。それでも平均を徐々に上げていけばいいじゃないかと。ところが、多遺伝子型には数千もの遺伝的変異が関係するというのはどういうことかというと、単一遺伝子型のように、どれか一つの遺伝的変異はどれか一つの遺伝病に対応する・・・ということになりません。重複しちゃうんです。ある遺伝的変異は、ある形質にも、別の形質にも、関係する。多面的関連と言います。例えば身長を高くする遺伝的変異は、同時にがんになりやすくする多面的関連を持つことが多いことがわかっています。するとどうなるか。身長を高くするように、集団の結婚相手を操作していくと、がんが多くなって寿命が短くなるでしょう。では学歴はどうか?学歴を高くする遺伝的変異は・・うつ病になりやすくすることがわかっています。どうでしょうか。基本的に優生学というのは、国家の文脈で語られます。学歴の高い国民をより多数生み出し、国家の生産性を上げたい、というわけです。しかしどうでしょうか。うつ病が増えると、生産性はどうでしょうか。私はうつ病の人は生産性が悪いと言いたいわけではありません。しかし、優生学論者のロジックは成立しますか?(明示的に成立するとは言えないのではないですか?)と言いたいのです。
多遺伝子型の遺伝構造はまだわかっていないことも多く、「優生学的操作」をしてどうなるかすらわかっていないんですよ。形質に遺伝的因子があるなら、優生学的操作をすれば人類は必ず優秀になる・・・というのが元増田の議論の開始点だと思いますが、そこ、すでに間違ってるんです。
論理と倫理を混同してるレベルの知性ではいくら丁寧に説明されたところで理解できないだろうな。
本能の語が用いられなくなった理由のひとつは、これが説明的な概念としてはあまり役に立たなかったためである。(中略)アメリカの科学史家カール・デグラーによれば、1920年代から30年代にかけてアメリカの人類学と心理学の文献からこの語が急速に消えた。これは人種主義と結びついた優生学運動の人気の凋落と、行動主義や文化決定論のような空白の石版説の人気の高まりの時期と一致する。
それこそ昔の本一冊読むことすら贅沢でバクダットの知恵の館か天竺にでも行かないと経典見れねーじゃんって時代は
環境要素より遺伝性が優位だったからという背景があって優生学というものがある
でも今は環境要因の方が多く左右されるってだけ
生まれついて身長180cmの恵体DQNの小汚い団地で行う腕立て伏せ程度でカロリー以外取り柄のない安飯と我流殺法よりも
スポーツとして技術やトレーニング技法が発達してその恩恵を受けてる金持ちの格闘技やってる子とかに絶対勝てないようになってるのと同じ
元増田が競走馬や品種改良を例に挙げている通り、人間においても、優秀な(望ましい)遺伝子を掛け合わせたら、優秀な(望ましい)個体が生み出せる確率が上がる、というのは真でしょう。もし、人間のみが例外だと考える人がいれば、それは人間を神聖視しすぎでしょう。
実際に個人で実践したのが室伏重信であり、その成果物が室伏広治ということになります。
ただ、国家や他人がそれを強制して良いかというと、そんなことはありません。その理由は単純に人権で、ある個人が誰と子を成すのか成さないのかは、個人の自由だからです。ましてや、人種や障害で人を差別したり、虐殺したり、断種したりはもっての他なわけです。
"優生学"は優秀な人間同士を掛け合わせて、優秀な人類を作っていこうという、思想自体を含み、人種差別などにも繋がることから、人権観点で否となるわけです。
なお、人権のことをいったん忘れて、実践するとしても、ある時点での優秀さの基準が未来での基準に合致するか分からず、またある特性を追い求めた結果、別の特性が悪化することも考えられます。そのため、実践してうまく行くかは難しいところでしょう。