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はてなキーワード: 国語学者とは

2024-04-12

anond:20240412183443

だけど明治時代国語学者論文にも「全然〜だ」という肯定形で受ける形でバンバン使われてるぞ。 

そもそも「〜然」という熟語の語構成を考えれば、他の「〜然」の語にはそのような制約が無いのだし、「全然」だけを否定呼応させる方が無理があるように思う。

まあ、そのような新たな規則を作ろうというのはわからないではないが。(昭和期に出てきた動きらしいね

2022-09-08

はじめてマナー講座を受けた

ネット胡散臭いと散々言われがちなマナー講師マナー講座。

うちの大学ではインターンシップに出る前にマナー講習(オンデマンド配信)を受講しければならないため、受講した感想を書いてみる。

感想

言葉かいなどなど、マナーの内容はもちろんたくさんあったが、インターンシップに行く目的メモの取り方など、インターンシップ仕事体験をするにあたって役立つ注意やコツなどの説明もあったのが意外だった。

マナー講師と言うと、ヘンテコマナーを説明してボロクソ叩かれるイメージが強いが、解説の内容は全体的に当たり前で納得できるものだった。

ネットで物議を醸してる内容について

就活マナーで物議を醸すような内容についても話していたので、ちょっとだけ紹介。「黒スーツでなければダメ!」とか、ガチガチ就活マナーを紹介するWebサイトも多いが、全体的にそこまで厳しい印象は受けなかった。

スーツについて、基本的な形であればOK。色の指定は無く、どちらかというとサイズの方が重要度が高い印象の解説だった。ネクタイは明るい色で、派手でない柄のものであれば良し。ペイズリーはセーフ。

カジュアル服装が認められた場合であれば、スーツを着用しなくても良い。指定範囲内で、清潔な身だしなみを整える。

・「了解しました」はNGで「承知しました」と言いうべき、とのこと。とある国語学者によると、「了解しました」はNGだが「了解いたしました」ならセーフらしい。このあたりの細かい表現について講師理解しているだろうが、シビアな所なので、安牌な解説になったのだろう。

2021-07-12

病気」と診断を受ける意味

かつて自分ネットで絡まれた奴の一人にやべーやつがいた。

そいつは一つの国語表現固執するあまり不特定多数に自説を吹聴して回り、

あまつさえ特定国語学者のアンチまで務めるという壊れっぷりであった。

自分国語表現の正しさには素人なりに厳しいつもりであるが、

流石に目に余るのでそいつプロフィールを見たところ「発達障害」という文字列が入っていた、

ああそういうことね、と冷たくレスを返してみると、案の定相手がいきり立ったものである

ひたすら自説の正当性大義名分を主張しヒートアップしていく一方、

発達障害のものには一言も触れることはなかった。


私はそれを見て、かわいそうなやつだなと思った一方、

「なんのためにこいつは発達障害自称しているのか」と思ったものである

自分素人なので詳しいことは知らんが、ネットちょっと調べた限りでは、

発達障害はどうでもいいことに固執する傾向がある」というような話があった。

(下手に曲解するといけないので、そういうふわふわした理解にとどめておく。)

その性質自覚しているなら、そうなっていると指摘された時に、

「すまんな」「ええんやで」とならなくては意味がないのではないか

逆に言えば、それができないのが発達障害なのかもしれんが。

いずれにしろ、彼が発達障害と診断された意味微塵も感じられなかったのである




そういえばもう一つ、「病気の診断」に関して思うことがあった。

一昔前に「新型うつ」という概念流行たころ、それを否定する風潮が強かった。

お茶の間にとって「うつ」とは「常に気分が落ち込んでいるべきもの」という偏見があった時代で、

(あるいは今もそう変わってはいないのかもしれないが、少なくともメディアの扱い方は違う気もする)

「やるべきことに直面すると落ち込む、解放されると嘘みたいに明るくなる」という新型うつを見て、

「甘え」や「仮病」の二文字が頭に浮かぶ人は少なくなかったであろうと思われる。

その様子を見ていた自分は当時まだ子供であったが、子供なりにその風潮を憂えたものであった。


いざ自身大人になってみると、うつ病の人が周囲にちらほら出てくるようになる。

私の交友関係はだいぶ狭いほうだが、それでもあんな人やこんな人がカウンセリングを受けている。

仕事で心を破壊された気の毒な人もいれば、体育大学に通いながら精神を病んでしまった人もいる。

健全精神健全な肉体に宿れかし。そう思わずはいられない。

無知の知ではないが、うつ病とはわからものだなという事だけがわかってくる一方、

彼らが日々己の心身と闘っている様子が切実に見えてくるものである


しかしながら、うつ病患者からといって100%同情されるわけでもない。

知人のとあるうつ病患者は、日々の体調管理すら苦労している様子が見て取れる一方、

もともと愚痴が多いうえに「かわいそうな自分」に酔うタイプであった。

それを日々聞かされる周囲の人はだんだんと耐えられなくなり、距離を置くようになってしまっていた。

うつ病であることそのものではなく、自分に酔うことを苦々しく見られていたのである


私の身内にも距離を置かれているうつ病患者がいる。

元々ヒステリックな部分があり、機嫌がコロコロ変わりやすく、

子供のころから見ていた自分は「こいつ病気なんじゃね」と思っていた。

私が大人になるにつれて傾向は見えてくるようになり、

どうやら忙しいだとか面倒なことが控えると機嫌が悪くなり、

思うようにならないことがあると、それをしばらく引きずる形でまた機嫌が悪くなるようであった。

それにもかかわらず自身勝手なこだわりでタスクを増やし、

頼れるものに頼ろうとしても結局文句ばかりで一向に楽になろうとせず、

そうして忙しくなるとまた機嫌が悪くなるというマッチポンプばかりをしていた。

ネットを通して「そういう人もいる」という知見を得て、そういう人なら仕方ないなと思っていた矢先、

本人からうつ病であると打ち明けられたのである診断書を見せられるでもなく。

そのとき私が抱いた感情は「かわいそう」とか「お気の毒」ではなく、

申し訳ないが「それ見たことか」「何を今更」「で?これからどうする?」という気持ちであり、

正直言って同情は一切わかなかったものであった。

なぜなら自らを病に落とし込んでいるようにしか見えなかったかである




近年は様々な病気、あるいはナントカ症というものが多数生まれてきている。

先日某ラジオでも取り上げられていたが、とくに恐怖症になると枚挙にいとまがない。

お酒恐怖症でーす!なぜなら目の前にあったら飲んじゃうから!違うかw」という投稿には個人的にムカついたが、

ほとんどは「落ち着きをなくす」「立っていられなくなる」のような割と切実な訴えであったし、

自身の友人知からもそういう話は聞いたり、あるいは付き合ってきたものである

そうした新たな病気やらなにやらというものの周知が試みられているのもまた現代であるが、

じゃあすべて見て聞いて覚えられるかと言えば、そんな余裕は多忙な一個人にはないし、

公の場で突然異変を起こした人を「あ!これネットで見たやつだ!」と100%適切に助けられる自信もない。

ましてや「病気認定差別的ものになりうることは過去現代も同じであり、

無垢マイノリティの方々が切実な訴えをなさっては、様々な人間が入り乱れて大騒ぎになるところである


では「病気」という診断は何のために存在するのか?百害あって一利なしなのか?

そもそも病気」は「病気」のレベルでなければいけないのか?

私はそうは思わない、というか、「病気」だけが特別である必要がないと思う。




西川貴教という歌手がいる。

彼はかなり前に、声帯ポリープ発見されたことがあったらしい。

声を出すお仕事の人にとっては特に厄介な病気であり、切除をしてしばらくお休みをいただくのが常である

しかし彼は「付き合っていけば味になる」と割り切り、手術をしなかったというのである

そのせいもあってか度々喉の不調で活動休止ということもあったようなのだが、

2011年の時には「プロとして情けない」とツイートした履歴もある。

そういう心持ちでいらっしゃることがまさしくプロである


身体と心の不調では話が違う、と言われるかもしれない。

しかしながら私が言いたいのは、彼はある種の病を「個性」として受け入れたということである

先ほど述べたように現代病気の種類が増えていく一方で、

病気とまでは言われないものや、単なる性格に過ぎないものも細分化されつつあるように感じる。

あなたはこだわり屋さんです」とか「あなたネガティブです」とか言われても、

それは正式病気や障碍ではないし、なんらかの公的な援助が受けられるわけでもない。

あるいは病気や障碍とまでは言い切れない「グレーゾーン」なるもの存在するようである

そういう「個性」が明らかになったときに、自分はどうするのか?

自分がその個性とどう「付き合ってい」くか考えていくべきなのではないか


もちろん病気や障碍には「どうにもならない」「仕方がない」部分はあるし、それに伴う人並み以上の苦労もある。

では病気や障碍であるからといって何もかも許されるのか?

自身身体コントロールできない病なら、どんなに偉そうにして厚かまし要求をしてもいいのか?

自身精神コントロールできない病なら、コントロールを諦めて好き勝手罵詈雑言を吐いてもいいのか?

一般人にとっては、大義名分があるから批判することは難しい。でも人として嫌な思いはする。

そうして直言を受けることなく、一部の優しい人に甘やかされ続け、他の人からは疎まれ

傍若無人にしてある種の孤独モンスター、言い換えれば「裸の王様」が生まれる。

とくにマイノリティにおける過激派は、どいつもこいつもこうなってはいいか




実は私も一度だけ、カウンセリングをすすめられたことがある。

相手は肉親でも何でもない、大学一助教授であった。

大学の授業に通えていない現状を憂えてのことであったと思われる。

当時の自分は「怠けているだけなのに病院に行かせてくださいだなんて…」と、

周囲に言い訳がつかないからと助言を封殺したのであるが、

今思うと「たとえ病気でなくても」医者にかかったほうがよかったのではないかと思っている。

自分が怠けてしまう原因を明らかにできたかもしれないから。


結局二度と機会は訪れなかった私であるが、

大学時代におけるリアルネット交流を通じて多くのことを学び、

時には大きなトラブルを起こして教訓を肝に銘じ、

また時には友人からの諫言も受けつつ自分自分なりに成長させることができた。

かつては絵に描いたような「メンヘラ」だった私も、

今では精神疾患を冷静に分析し、自身客観的に見られるようになり始めた、と思う。

そうか?と思われるかもしれないが、少なくとも昔よりはマシである

なぜなら今思い返すと「昔の自分」が恥ずかしくて仕方ないかである

未だに昔の自分に同情する部分もないわけではないが、

一方で人の振り見て我が振り直すことも多くなった。

それだけ人の、自身の「醜さ」というものをより理解できるようになったのである

自身の気分の落ち込みも「これは見苦しいな」「こうすればおさまる」と自己分析し、

専門家によらないセルフコントロール自分なりに築き上げてきた。

そんな自分から見ると、コントロールのもの放棄している人が理解できないのである




現代科学西洋医学時代であり、「病気を治す」ことに邁進しているものと思う。

しかし一方で、「付き合っていく病気」というものは決して無くなるものではない。

今のコロナ禍においてもワクチン接種が進む一方で感染は防げない!と言われたり、

変異株に対する懸念が未だワイドショーをにぎわせている。

一方で人類は今まで毎年インフルエンザと付き合ってきており、

新たな生活習慣においては鳴りを潜めたことで、日々の感染対策重要性が浮き彫りになった。

ワクチン打てばかからない!でもなければ、タミフル飲めば大丈夫!でもなく、

自分ができることをして病気と付き合っていくことこそが大事であると改めて示されたものと思っている。


以前ネット上で「自分の機嫌は自分で取る」という言い回し話題になった時には、

元ネタを離れた曲解もあってか賛否両論を呼んだようであるが、

それができるかどうかはさておき、やろうと思わなければ始まらないのである

不機嫌な自分正当化するだけでは、だだをこねる子供と変わらないのである

自分の心をなだめてあげること。

心の不調の原因に向きあうこと。

それをやらずして「病気」に甘んじていては何の意味もないのである


人はたいてい、何かしらのハンデを抱えている。

それでも人は、一般人に混じって生きていかなくてはならない。

病気や障碍を隠して生きるよりかは、カミングアウトできる世の中であってほしいが、

カミングアウト免罪符と誤解している人間は、その秩序を乱してしまう。


自分に対しては、病気個性を認め、なるべくコントロールしてみよう。

他人に対しては、病気個性を認め、なるべく受け入れてあげよう。

それらが並立して初めて、やさしい世界体現できるのではないか




そんな自分の願望を尻目に、今日ネットの「病人」たちはレスバトルにいそしむのであった。

2020-07-19

○○在住とか○○住まいって言葉があるのに○○住みがはびこるの嫌い

国語学者にはなれんな

2019-10-27

これは世間的には小説やらなろうの乱れとか言ってそうかなと思った。

何かなろうで小説レベルが下がっただの00年代エロゲやれだの言う話あるみたいだけど、個人的には例の日本語時代と共に変化する一種なだけじゃないかなと言う様な気もしてきた。

多分小説家や創作界隈の人間よりも古文国語先生とか日本語学者かに話を聞いた方が面白い回答が来ると思うよ。

基本的自身がこの手の事に難癖を言い出したり思ったりしたら、自身年寄りになって、老害化してきた事を意識した方が、良いのかも知れないと読んでいて思ったりもした。

多分今更00年代エロゲ表現をしたら、逆に古臭いだの言われそうな気がするよ。

それに読みにくい人の小説なんか昔からあるもんだし、今の人間でも読みやす小説もあるから、結局は書く人次第だと思うよ。

読みやすさは確かに面白さの一つの目安でもあるけど、ぶっちゃけて言えば内容や設定、アイデアとかの方も大事なわけで。

私の素人視点ではあるけど、一つの要因ではなく、結局は複合として評価されるもんじゃいかなぁと思う。

2019-02-12

日本は「支付」を輸入して訓読みを当てるべきでは?

国語学者?とかそっち方面エライ人たちはとっくに言ってる話なのか知らんけど、

中国語で「支付」ってのは、英語で言うところの"pay"を意味するのだが、最近QRコード決済でキャッシュレスが云々…の話題でしばしば目にするよね。

古来、日本人

 買付→かいつけ

 売付→うりつけ

 取付→とりつけ

 貸付→かしつけ

 組付→くみつけ

 焚付→たきつけ

などなど、多くの「付」のつく熟語を輸入もしくは創作して「訓読み」を当ててきたわけだが、そろそろ「支付」もそうするべきではないのか?

じゃあ、何て読むのが良いのか?

 しつけ? →躾とカブるのでダメ

 はらいつけ? →なんか語呂が悪い

 やりつけ? あるいは やっつけ? →これも何かヘンだよなー

…って考えたのだが、良い案が思いつかない。

このさい"PayPay"みたいに、同じ音の繰り返しにしちゃえば、カワイイ感じで親しみやすいじゃん!

てことで、オレのオススメは「つけつけ」。

2016-09-15

http://anond.hatelabo.jp/20160915014058

国語学者の間ではいわゆる「ら抜き言葉」は容認されています

というか尊敬語との混同を避けさら文字を一文字節約できるためむしろ推奨されています

あなたおっくれってるう~

2016-07-13

 「明治」の出典は『易経』の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとって名付けられました。明治改元にあたっては、学者松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶応四年(明治元年)九月七日の夜、宮中賢所(かしどころ)において、その選ばれた元号候補の中から明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました。

五経の一つ。儒家重要経典宇宙原理・万象の変化を陰陽二元をもって説き、人間道徳も陰陽消長して万物を生成する天道に従うべきだと説く。

※『書経五経の一つ。上は尭舜から下は秦の穆公(ぼくこう)にいたる政治史・政教を記した中国最古の経典

※『五経中国古典である経書のうちでも代表的な五つの書物。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいう。前漢武帝時代に、この五書を五経と名づけ、それを専攻する五経博士を置き、儒教国教化したときに始まる。儒家基本的教科書であった。

※『史記二十四史の一つ。黄帝から前漢武帝までのことを記した紀伝体の史書。

ふーん。て事は、やっぱ漢文とか国語学者みたいなのと一緒に決めるんかな

公募はないよね

2016-05-23

http://anond.hatelabo.jp/20160523100830

ら抜き辞書的、教科書的には正しくない。

表に出る文章は、ら抜きにしていると当然校正される

ただ、「日本語は変化していくもの」と考えている国語学者の中には許容している人もいるらしい。

 

1.「食べられる」

2.「食べれる」

●2は同じ意味なのに1より1文字少なく、効率がいい。

●1は「尊敬」の意味と「可能」の意味があり文脈から判断必要だが、2だと「可能」の意味限定され判断不要。つまり効率がいい。

 

あと口語ら抜きが浸透してるのに文語をかたくなに変えないってのもどうかと思う。

 

みたいなことをサンキュータツオがいっていた

おおむね同意

2016-05-05

なぜ「一般」という表現ネガティブに受け取られるのか?

相武紗季結婚した化粧品会社社長でさえ「一般男性」なら底辺の俺はゴミムシか、というようなネタを見かけたんだが、

つのまに「一般」という言葉がこんなにもネガティブ意味になってしまったんだろうか。

そう言えば五輪エンブレム騒動ときにも、「一般国民」という表現に反発があって、「上級国民」という言葉が生まれたりしていた。

当たり前だが、「上級」の対義語は「下級」であり、「一般」ではない。

一般教養」は「程度の低い教養」のことではないし、

一般論」は「幼稚な議論」ではないし、

一般相対性理論」は「特殊相対性理論」よりも難しい。

ごくフラット表現として「一般」という語を使ったつもりでも、

「俺たちを馬鹿にしている」と受け取られて大炎上するのだから

これはあまりにも恐ろしい「日本語の変化」だと思うのだが、

そのあたりのことを研究している国語学者はいないのだろうか。

2016-02-22

http://anond.hatelabo.jp/20160222203448

1. ひとつ言葉複数意味を持っていてもまったく問題ない

2. 言葉意思疎通のために存在するので当事者間で話が通じていればまったく問題ない

3. あなた国語学者なら問題あるのかもしれないが、普通の人にとってはどうでもいい

2014-07-22

音楽世界を作るまで、またはシュミラクル無限廻廊

子供電車をみてガタンゴトンと叫ぶ。走るときは両手を拡げてキーンと言うとそう昔から決まっている。

タンゴトンは対象重要性を重みづけ、キーン行為妥当性を評価していることにお気づきだろうか?

タモリ音楽世界だが終わってから生まれた脱ゆとり世代の君達は。(倒置法)


西欧では擬態語は幼稚な言葉とされるが日本では擬態語は幼稚とされることもあれば立派な言葉とされることもある。

日本擬態語の豊かさについては、擬態語辞典を見て貰おう。海外ではどこの国にもそのような辞典存在しないと国語学者は指摘する。日本固有の文化である


しかしながら日本人特に現代日本人擬態語を十二分に活用できていない。つまり我々は人生において

物事の重要性を決めたりそれに対する行為妥当性を評価することで日々の生活コントロールをしていきたいと考えている。

にも関わらず、それに最適なツールである擬態語をまるで活用していないという事実にばったり行き当たるのである


シュミラクルという芸術用語はご存じか?パクリパクリパクリパクリパクリ模倣連鎖が起きることで

やがてオリジナルパクリ境界がとろけてオリジナルという概念のもの喪失する。シュミレーション(模像)がクルクル回ってオリジナル喪失する。


擬態語というのもこれと極めて似ている。ある対象を模擬した擬態語があるとしよう。その擬態語はやがて拡大解釈されて意味あいまいになる。

まりオノマトペの「使用が」シュミラクル無限廻廊に取り込まれ、真正性はやがてどこにも見当たらなくなる。

そのような過程を経て、擬態語本来機能を失い、物事の重要さの重み付け、またそれに関する行為妥当性の評価という機能喪失する。


子供はそのような喪失からは至って自由である。すなわちアラレちゃんキーンと感じた時にだけキーンと言う。キーンと感じない時にはキーンと言わない。

しかしそれをまねする大人はどうだろう?キーンと感じなくてもキーンと言う。それはもはや演技である。言行不一致。

言ってることとやってることが違うのである還元すれば自由妖精もとい物事の重要性と行為妥当性との間のマッピング(写像)が歪んでいる。


ここで議論を明確にするため、重要関数妥当関数という概念を導入することができる。

例えばロボットの性能評価は時にだめ人間とは何かという哲学問題を提起する。無駄なことに無駄な労力を使うのがダメであろう?つまりこれは近似的にはコスト分配の問題である

巡回セールスマン問題の近似解を求めるよりははるかに複雑であるが。


話を戻すけど擬態語問題音楽にもついて回る。ノーミュージックノーライフと拳を突き上げるまでもなく人生音楽世界音楽というプロパガンダがある。

それは結局のところ音楽世界のあらゆるものを重み付けできることを指している。ところが、音楽の中で消費文化のJPOPが絶えず流れ

アレアの一擲に身を任せているような人はそのような機会をすべからく失っている。


もうお解りだろう。

2013-12-30

びっくりするほど作文力がつくたった1つの方法

お笑いコンビ米粒写経」の居島一平はとびっきり面白いと思わないか?彼のネタを繰り出すスピードマシンガンをも超えた。そんな逸話がある!

ttp://www.youtube.com/watch?v=ED4vVeQO1kU

一方、相方サンキュータツオ国語学者でもあり、学者芸人って肩書きの持ち主。学者芸人って、すごくね?国語辞典200冊も持ってる、国語辞典マニア。どんだけ。

それはさておき。国語辞典を読むのってとびっきり面白いと思わないか?言ってみれば、国語辞典を読むことというのは最強のエンターテイメントである、とここに声高らかに宣言しよう!

つーか、これ読んでるそこのお前。ああ、おまえのことだよ。国語辞典を最初から最後まで熟読したことはあるかい?それを何周もやったり複数の辞典で実行したことは?

9割は「No!」と悲鳴交じりに答えるだろう。

騙されたと思って毎日50ページ国語辞典読んでみ。「お前・・・最近変わったな」と引き気味に言われるから(笑)

ここでBGM入ります

ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm4375117

標準的国語辞典の見出し語数は7万くらい。これって実は成人男性の平均的な認識語彙数にひとしいのだよ。認識語彙というのは見れば意味が分かる語句のことだ。

であるからしてだな、「ボク日本語ちょっと苦手なんすよぉ~」と思ってる奴は、国語辞典を何度も通読すればいいんだよ。なぜなら、それが必要にして十分な量なのだから

そうだな、『新明解国語辞典』あたりがオススメだ。

余談だが、広辞苑レベルになると見出し語数30万になる。これは専門用語ほとんどだ。さっき言った日常語7万に加えて、専門用語23万がオプションでついてると考えてもらって差し支えない。

日常語7万の部分が他の辞典と比べて特別優れているわけじゃあない。いやまじで。若者よ、広辞苑ブランドに騙されるな!

てわけでレッツ国語辞典。毎日50ページなら『新明解国語辞典』は1ヶ月で1周だ。ちょろいものよふはは。

おまえの励みになるブログを1つ貼っておく。

ttp://pv50000.blog78.fc2.com/

こまけぇ話をする。国語辞典を読む時は最低でも見出し語は音読しよう。しかも大声で。ただし、近所迷惑だけはかけてはいけないぞよ。それが鉄の掟だ!

次。書いてある意味を1つ1つイメージしよう。だだ読み厳禁。意味1、意味2、意味3と1つ1つ塊で捉える感じ。用例も1つ1つイメージすること。

次。意味は素早くイメージしよう。言葉スピードが命。言葉を見聞きして瞬時にイメージできるよう鍛えなさい。

次。関係を捉えよう。それは何の一種で、同種の他者との違いは何か、などの把握に少し時間をかける。

次。細部はさっと流そう。1周目は特にガンガン流そう。目標は1ページ3分

そんなこんなで、国語辞典の知識をムシャムシャ食べて言語感覚をメキメキつけて作文力をムキムキつけるって寸法ですわ。ボディビルのようにボキャビルスローガンに!!

1つ注意しよう。

国語辞典で身に付くのは単なる「暗記モン」の知識ではない。愚かにもそのように考えてしまったら最後、哀れかな辞典の通読不毛な作業へと堕してしまう。

国語辞典で身につくのは知識の上質な枠組みである。いや、枠組みてゆーかあれだよ、整理棚だ。そこにあらゆる知識を保存できるような、そんな整理棚を手に入れるのだ。それが目的であるぞ。目的を履き違えてはならぬ。しかと心に刻みたまえ。

そのためにも何周も通読したほうがよい。2周目は1周目でうっすら出来た整理棚で整理しながら読んでいく。するとさらに整理棚がパワーアップする。この繰り返しなのだ。分かる?

「7周の法則」を知ってるかい

ttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/20944?page=4

気功にはな、「空車を回すことなかれ」ってゆう戒めの言葉があるのな。だがっ!国語辞典は、断じて、空車ではない。むしろ極上の歯車ゴールデンギアとでも呼んでもらおうか?(キリッ)

空車はな、むしろ、整理棚も持たぬまま、無限荒野に繰り出すことなのだ(笑)

分かるかな?いかに、いかいかに、語彙というもの大切なことか、それはもう、強調しても強調し過ぎることはぬわぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああい!(ち~ん)

て~な感じで、今日も色々話しました。

それでは皆さんまった来週ぅ~。まったねぇ~。よいお年を~~。

ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm6416696

2013-07-28

http://anond.hatelabo.jp/20130728203350

おまえって優れた国語学者なの?意見が分かれてるのにすごいね

どの事案にも俺だけが正しい、それ以外は全て間違いだというスタンスを取ってるのがバレバレw誤謬を恐れない奴が投票素晴らしいとか言ってるならこれはひどいなw

頑張れwwwすごいすごーいwww

2011-05-10

http://anond.hatelabo.jp/20110510193213

それはフィクション世界で用いられる「役割語」の働きのせい。

翻訳に限らず、日本人の書いた日本語小説マンガなどを見ても「~だぜ」「~~ですわ」「~~じゃ」など、不自然な語尾の特徴付けは行われている

そうする理由としては語尾に特徴を着けることによってキャラクターイメージを強化すること、

セリフ部分を一読して誰の発言なのかよく分かるようにするため、などがある

これらを「役割語」と言って、金水敏という国語学者がこれに詳しい

翻訳というものは、ただ単に語から別語への移植をするだけではなく、移植の際に翻訳者の新たな創作が加わるという一面もあるので

英会話の訳(外国人インタビュー翻訳等のことを言っているのでしょうか?)もフィクショナルな付け足しが行われるものと思われる。

(また日本語だけでなく英語にも、日本語の「~~ですわ」等にあたるような口調の特徴はあります

私は英語に詳しくないのでよく知らないが、イングランド調であったり、スノッブな口調であったり、オカマ田舎言葉黒人言葉、などなど)

2011-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20110119225947

意味作用をもたらしているわけで、らが抜けていようが「チョベリバ」だろうが

言語今日も正常動作!面白いなぁ」と考えるのが言語学者。

言語ってのは基本的に伝わっていればオールオーケーなので、そこにはそもそも正しいとか間違いとかって概念がないです。

言語学には「正」とか「誤」って無いんですよ。伝わってるってことはラング作用してるね!ってことで。

んで、「日本語学的に」という話になると、「そもそも日本語とは何か」という話になり

国語学者たちが連綿と作り上げて来た「聖典」を参照するしかないわけで、となると「的を得る」は誤用だね。

という話になります

2010-07-26

http://anond.hatelabo.jp/20100726095650

そもそも「正しい日本語」なんてもの自体が、国語学者言語学者に言ったら鼻で笑われる架空概念

日本語の乱れ」とか言って騒いでも、その規範を出している国語学者が味方してくれないという落ちw

2009-09-29

http://anond.hatelabo.jp/20090928151627

しかし、かうして歴史的仮名遣ひといふひとつ正書法が「ウヨク的よそほひ」の一道具に堕してしまふのは、じつに悲しいことだな。

歴史的仮名遣ひそのもの(あるいは現代において歴史的仮名遣ひを選択すること)がそのやうなマイナスの印象をまとってしまったことは、非常に残念なことだ。

その原因の一端を作った「国士様」には腹を切って明治大正文学者とか国語学者とかにわびてほしい気分である。

2009-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20090717213416

まあね。カタカナでもいいんだけどね。

国語学者技術者が本気で協議すれば別に漢字でも、短く便利な言葉が出来ると思うんだけどね。

造語能力よりは付けた名前トップダウン式に浸透させることの方がネックかもしれません。

2007-09-14

「鹿をさして馬という」史記説(最も普及している説だが根拠は薄い)

http://anond.hatelabo.jp/20070914151443

秦の2代皇帝・胡亥の時代に権力をふるった宦官・趙高が、あるとき皇帝に「これは馬でございます」と言って鹿を献じた。

皇帝は驚いて「これは鹿ではないか?」と尋ねたが、群臣たちは趙高の権勢を恐れてみな皇帝に鹿を指して馬だと言った、という『史記』にある故事からくるとする説。

馬鹿者」の初期の意味である「狼藉をはたらく者」の意に近い。

ただし、漢語では馬鹿は「バロク」としか発音せず、「バカ」と読むのは重箱読みであるという根本的な問題をかかえている。

国語学者は、この説を後世による語源俗解(語源の項を参照)としている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%B9%BF

2007-06-08

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http://anond.hatelabo.jp/20070608043016

「煮詰まる」についての指摘ですが、私は誤用だと知ってて使っています。それは口頭や文章で、本来の意味での使用を全くと言っていいほど見聞きしていないからです。同じように本来の意味とは違う使われ方をしている言葉に「失笑」がありますよね。元々「思わず吹き出して笑うこと」という意味ですが、日常では「苦笑」や「嘲笑」に近いニュアンスの使われ方がされています。こういった現状で本来の意味で「失笑」を使っても伝わりにくくなるだけです。なので、私は誤読されないように誤用しているのです。

トラックバックには反応しないでおこうと思っていましたが「作家知識人ではない」と言ってる記事に、こんなのがきたのでつい反応してしまいました。作家国語学者でも、言語学者でもありません。文章で人を楽しませて、それをお金にして飯を食っているだけなんです。漫談家は口頭で人を楽しませますが、作家はそれが文章に置き換わっただけです。漫談家は言葉スペシャリストですか? 違いますよね。作家漫談家も人を楽しませるスペシャリストなんです(自らをスペシャリストと呼ぶのは嫌ですが、今回はあえて)。

作家も間違った表現はたくさんします。そこは時間をかけて推敲したり、編集側がチェックしたりで、売り物にするときは減っているだけなんです。それに売り物にしようとして書く文章と、ネットに書く文章とじゃ姿勢が何もかも違いますし、お金にならない文章に力を入れることは無意味だと思っているので、私はしません。その代わり少しでもお金になるのなら、骨身を惜しまず全力を尽くすのが私のポリシーです。

余談ですが「本当に作家?」のような反応も「作家は頭がいい」と同様に作家無意味に特別視していますよね。この反応の背景には「作家になるのは難しい」という意識があるんだと思います。毎月出版されている書籍雑誌の数を考えれば作家という職業がそう珍しくもないことがわかると思いますが……。

2007-01-28

言葉が悪いんじゃなくて使う奴が悪い

http://anond.hatelabo.jp/20070128114943

正直、なんで人間力とか美しい国とか愛国心とかがこんなに叩かれてるのか、

その手の言葉を語るのは国語学者とか社会学者とか教育者仕事であって

政治家が(主として歳出をケチる為に)持ち出すのはお門違いだといってるんだ。

政治というのは社会を廻すためのシステムを作る仕事であって

糞の役にも立たない言葉遊びに国民がギャラを払う理由は無いんだ。

 
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