はてなキーワード: 巡回セールスマン問題とは
数学者が頑張っても巡回セールスマン問題解けないけど。
あともうちょっとな気がする。
おそらくあると思われる
https://www.google.co.jp/amp/s/news.mynavi.jp/article/sugaku_recipe-35:amp/
https://wired.jp/2019/10/27/slime-mould-the-blob-paris-zoo/
神経細胞も脳もないが記憶をもつと思われ、新しいことも学習できるのだ。
フランス国立科学研究センターの研究者は、毒物があってモジホコリが通常なら避けるような場所に入る方法を教え込んだ。その行動様式は1年後も維持され、知識は異なる細胞でも伝達されていた。
奇妙なのは、記憶の形成に通常なら欠かせない生物学的な要素をもたないにもかかわらず、モジホコリが記憶を獲得しているように思えることだ。進化の過程での学習能力の発展に関する疑問や、「認識」の定義を拡大して人類以外も含めるべきなのかという疑問がもち上がる。
4)何か人類の役に立つ?
数学ができる。モジホコリは、アルゴリズムのテストにしばしば利用されるような複雑な問題を解くために使われてきた。そのタスクは「巡回セールスマン問題」と呼ばれる。都市のリストを見て、各都市を一度だけ訪問するような最短経路を見つけることをコンピューターに求める、古典的な経路最適化の問題だ。
慶應義塾大学の研究チームがモジホコリにその問題を出したところ、都市の数を4から8に増やしても、モジホコリが問題を解く時間は予想よりかなり短かった。新たな解法を試し、視覚的なフィードバックに非常に素早く反応するモジホコリの能力が、さらに高速のコンピューターを開発する助けになると科学界では考えられている。
例えば碁盤の目の上に電子をずらっと並べて、スピンはどっちを向きますか?みたいな研究。
スピンがよくわからないなら小さな磁石を考えてもいいよ。隣り合う磁石と反発しあって向きを変える様子を想像してみて。
高温ではみんなバラバラの方向を向いていたのに、ある温度になったらみんな向きをクルッと揃える。これが相転移。
どんな方向を向くのかな?相転移の温度はいくつかな?みたいなのを調べるのに物理学者たちはイジング模型を計算していたわけ。
たとえば、巡回セールスマン問題。これは「佐川急便の配達トラックはどのルートを通るのが最短か?」みたいな問題ね。こういうの最適化問題と呼ぶんだけど。
並んだ電子のスピンの向きを計算することで佐川の配達ルートがわかっちゃうのよ。すごいね。でも、スパコン使って時間と電力とたくさん消費するの。大変。アルゴリズムめっちゃ研究されているけど大変。
何も計算しなくてもさ、実際に電子をずらっと並べてスピンがどっち向くか観測したらいいんじゃない?
これが量子コンピューター。
現実的にはそんなことできないので、実際に並んでいるのはちいさな回路(超電導閉回路)。
回路を電流が「左に回る」か「右に回る」かが、スピンが「上を向く」か「下を向く」かに対応しているの。(D-waveとかね)
この発想すごいよね。
もっと身近な話で例えてみる?
放物線状に飛んだよね?
実はね、量子力学によるとボールはあらゆる軌道で飛ぶ可能性があるのよ。
で、それらの可能性を全部重ね合せると打ち消しあって(経路積分)、
エネルギー(正確には作用)の最も低い軌道だけを残して消えるように見えるの。
ここでさ、
単にボールを投げたのが、エネルギーについて最適化問題を解いたとも言えるわけ。
こんな感じの発想。すごいよね。
計算をするのに物理現象に手を入れる(イジング模型の結合定数をいじったり外場いれたり)という発想がね、
ちょっと思いつかないな、考えた人すごいなって感銘を受けたんだよ。
誰かと共有したかったんだ。
読んでくれてありがとう。
子供は電車をみてガタンゴトンと叫ぶ。走るときは両手を拡げてキーンと言うとそう昔から決まっている。
ガタンゴトンは対象の重要性を重みづけ、キーンは行為の妥当性を評価していることにお気づきだろうか?
タモリの音楽は世界だが終わってから生まれた脱ゆとり世代の君達は。(倒置法)
西欧では擬態語は幼稚な言葉とされるが日本では擬態語は幼稚とされることもあれば立派な言葉とされることもある。
日本の擬態語の豊かさについては、擬態語辞典を見て貰おう。海外ではどこの国にもそのような辞典は存在しないと国語学者は指摘する。日本固有の文化である。
しかしながら日本人特に近現代の日本人は擬態語を十二分に活用できていない。つまり我々は人生において
物事の重要性を決めたりそれに対する行為の妥当性を評価することで日々の生活をコントロールをしていきたいと考えている。
にも関わらず、それに最適なツールである擬態語をまるで活用していないという事実にばったり行き当たるのである。
シュミラクルという芸術用語はご存じか?パクリのパクリ、パクリのパクリのパクリと模倣の連鎖が起きることで
やがてオリジナルのパクリの境界がとろけてオリジナルという概念そのものが喪失する。シュミレーション(模像)がクルクル回ってオリジナルが喪失する。
擬態語というのもこれと極めて似ている。ある対象を模擬した擬態語があるとしよう。その擬態語はやがて拡大解釈されて意味があいまいになる。
つまりオノマトペの「使用が」シュミラクルの無限廻廊に取り込まれ、真正性はやがてどこにも見当たらなくなる。
そのような過程を経て、擬態語は本来の機能を失い、物事の重要さの重み付け、またそれに関する行為の妥当性の評価という機能を喪失する。
子供はそのような喪失からは至って自由である。すなわちアラレちゃんはキーンと感じた時にだけキーンと言う。キーンと感じない時にはキーンと言わない。
しかしそれをまねする大人はどうだろう?キーンと感じなくてもキーンと言う。それはもはや演技である。言行不一致。
言ってることとやってることが違うのである。還元すれば自由妖精もとい物事の重要性と行為の妥当性との間のマッピング(写像)が歪んでいる。
ここで議論を明確にするため、重要度関数と妥当性関数という概念を導入することができる。
例えばロボットの性能評価は時にだめ人間とは何かという哲学問題を提起する。無駄なことに無駄な労力を使うのがダメであろう?つまりこれは近似的にはコスト分配の問題である。
巡回セールスマン問題の近似解を求めるよりははるかに複雑であるが。
話を戻すけど擬態語の問題は音楽にもついて回る。ノーミュージックノーライフと拳を突き上げるまでもなく人生は音楽、世界は音楽というプロパガンダがある。
それは結局のところ音楽で世界のあらゆるものを重み付けできることを指している。ところが、音楽の中で消費文化のJPOPが絶えず流れ
アレアの一擲に身を任せているような人はそのような機会をすべからく失っている。
もうお解りだろう。