はてなキーワード: イデアとは
http://picup.omocoro.jp/?eid=1255
ひとしきり笑ったあと、
そうは言うものの、俺はPC88時代からエロ目的でエロゲーをずっとやってきた人間なので(最近はやってない。多分枯れた。最近のは全然エロいと感じなくなった)
彼らのことを笑えないなと思った。
多分当時の俺は、というか今に至るまでそうだと思うけど、周りの人間から見るとこいつらと似たような感じだったんだろうな。
高校時代に自室で同級生とか下級生とか(二次元少女をナンパして回るゲーム)をやってた俺が彼らを笑い飛ばす資格はない気がする。
とは言うものの、彼らの気持ちがわかるかというと全然わからない。
これにエロを感じろと言われても無理がある。
彼らも別にアバターを脱がせてそれ自体にエロを感じてるというわけじゃあないんだろう。
単なるコミュニケーションゲームとして楽しんでるか(頭悪すぎると思うけど、これについても俺は人のことを言えない)
こういうやり取りを通じて、リアルでのエロ行為につなげることを夢見ているか、なんかあるんだろう。
となると疑問が出てくる。
なぜ俺はエロゲとかドラクエの同人とかにエロを感じられるのに、このアメーバピグとやらには全くエロを感じられないんだろう。
原理から考えれば、アメーバピグの方が、後ろに生身の人間がいるわけだからエロを感じられるという理屈も成り立ちうるはずなのに。
まぁ、あくまで俺的には、むしろその要素こそが、ダメなんだろうなと思ってるんだけど。
なんだろうな。イデアとかなんとかそういう話なんだろうか。
教育産業に従事していると「本当の~力」という言葉を使いたがる人を多く見かける。
なんでもかんでも「~力」という言葉を使い出した元祖は、日本では齋藤孝だと思う。
ただ漠然とした人徳やらコミュニケーションという概念にたいして、ひとつの切り口を紹介しよう、という試みだったように思う。
彼の「教育力」などの本は今読んでも名著だと思うのでぜひ読んでみて欲しい。
ところが、この「軸」「評価基準」を自分で設定して持論を展開するというのは実にお手軽かつ効果が大きかったのだろう。
その後の自己啓発本や教育産業における大きなブームになった。今でも続いている。
「本当の・・・力」を身につければ幸せになれる。成功できる。成功できないのは「・・・力」が足りないからである。
そうやってシステムの問題を個人の能力の問題に還元し、社会の責任を個人の責任に置き換えてみせることで世界を単純化するという手法は、
不安から何らかの指針を求める人間に対して絶大な「力」を発揮した。
自分の手の届く範囲に単純なカタチで問題や責任が降りてきたほうが、遠くで複雑な問題について考えるよりも楽だからだ。
それ以上に、アイデンティティの問題がある。
人間は基本的に自分と他人を差別化することで自分というものを確かめずにはいられない。
そういう時この「・・・力」というのはとても優秀な差別のための道具になる。
自分にその能力があればベストだし、その能力がないやつに負のレッテルを貼るのでもいい。
とにかく何とかして、自分というものを確立したい。しかもできれば正しい存在として。
こういう言葉を使いたがる人間は、もちろんビジネスとしてやってる面もあるのだろうけれど、
本当に社会の中で鬱屈を抱えていて、自分を正当化する必要性が強い人なのかも知れない。
4 ・・・力の功罪
もちろん個人的に「・・・力」を設定してそれを向上させようとすること自体は悪いことではない。
しかし「個人利用は自由だが、商業利用には制限」と言いたくなるような現象がよく起きる。
なぜか「・・・力」という言葉を設定してそれを使う人は、かならずビジネスか宗教チックになる。
1つか2つの「・・・力」によって人間を測り、問題を定義しようとするのでたいていおかしなことになる。
もちろんアメリカでもこういうのは在るのだけれど、向こうの人は合理的だ。
たいてい6~12、多い時には30くらいの指標を持つのだがなぁ
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20110318#p1
そして、今日。
武田邦彦 (中部大学): 原発 緊急情報(47) 汚染・6日に日本全土に拡がる怖れ
http://takedanet.com/2011/04/47_afa2.html
これはどちらかというと玉寄りの記事であると思う。そしてブコメでもそういう評価も多いようだ。
今回の大震災でボロを出した人は多い。一部ではそれ以前からボロが出ていたが、これを機に人口に膾炙したような人もいるだろう。
代表例として池田信夫がいる。彼は玉石で言えばごくまれに玉のような記事を書くが、たいていは石っころの記事を書く残念な「学者」である。
ところで、
NEWSポストセブン|反発覚悟で森永卓郎氏提案「日本は原発のスイッチを入れよ」
http://www.news-postseven.com/archives/20110404_16422.html
森永卓郎は池田信夫よりマシという程度の凡な学者だというのが私の中での評価だが、経済学者はどうしてこうもリスクを度外視した提案をするのだろう。
経済学にはリスク評価や維持コストまで含めたモデルが存在しないのか?それとも経済学とはここまで残念な学問だったか。それはないと思いたい。
とにかく、今回を機に「学者」の権威も失墜したと言える。「東大www」とバカにされるように、「東大教授wwww御用学者の限界集落だろwww」と罵倒される時代が来たのだ。
政治不信にせよ、御用学者不信にせよ、根っこは共通である。彼らに求められているのは超人かつ聖人である。あるべき日本人のイデアを求められているのであり、彼らはそれを体現する圧力に晒されているのだ。そしてそれが実現不能なのは言うまでもない。彼らは失敗するし、無理解もある。
玉石混淆こそ人間の証明である。玉しか求めないのは机上論人間の押し付けでしかない。
そしてこの超人欲求こそが張りぼての神話を呼び起こす圧力になる。失敗しません、なんてのは初めから不可能である。正社員安全神話も鉄道安全神話も崩壊した。そして原発安全神話も崩壊した。それが崩壊することこそが権威失墜の動機であり(権威は失敗が許されず、失敗するということは世間に取って凡人であることを導く)、デマを信じる源泉になるのだ。信頼性に於いて学者の言い分もデマも同列になったのだ(最大限譲歩して、フラットになったといえる)
僕は黒人だ。いまだに差別されていたりする、あの、黒人だ。最近はオバマなどの影響で5年ほど前と比べると差別は薄くなったが、まだまだある。
アメリカでは、人口の1割くらいしか黒人じゃないにもかかわらず、学費の安い公立高校は黒人が大半を占める。そのくらいまだ貧富の差がある。
そんな僕の特徴は、まず、肌が黒い。本当に黒い。黒と言うか、もう、漆黒だ。絵の具の黒を手の甲に落としても僕の方が黒い。7:3くらいで黒い。
少し暗くなるともう僕の姿は見づらくなる。8時なんて過ぎた日にはほぼ透明だ。都会は夜でも明るいからまだ見えるが、山なんかに入ると、
ほとんど見えない。ていうか、山の暗闇より僕の方が暗闇だ。なので、そういう意味では逆に見える。山の中でより一層暗い所があったらそれは僕だ。
それだけでも十分すごいっていうのに、実は、本気を出せばもっと黒くなることもできる。いいタイミングでグッと胸の辺りに力を入れると、
バシュって黒さが増す。そのときはもう、すごい黒さだ。「黒っ!」って言われる。初対面の人にも言われる。で、その後謝られる。
失礼だとわかっててもつい口から出てしまうくらいの黒さってことだ。もう、黒のイデアだ。しかも、バシュって黒さが増すとき、一瞬消える。
体全体が一瞬消える。めちゃめちゃ黒い僕が消えて、一瞬あとに、もっと黒い僕が出てくる。消えてるその一瞬も僕には意識がある。
その消えてる一瞬でも、僕には姿が見えてる。だから、消えてるって知ったのは「消えた!」って言われたからだ。初対面の人に。
「消えた!」って言われた後に「黒っ!」って言われて「あ、すみません、つい」だ。これで1セット。つらい。
で、その一瞬消えてるときの僕は、僕には姿が見えている。その瞬間の僕が、実は、一番黒い。もう、黒い。黒さにも限度があると言いたくなる。
というか、言った。「黒さにも限度がある」って消えてるあいだに言った。でも、一瞬なので、「ろ」のあたりまでしか言えなかった。
悔しかった。なので、次消えるときは、「も」のあたりまで言いたいなと思いました。
ttp://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/03/post-eac7.html
たとえば『マトリックス』では、裏切り者、つまり悪役側のサイファーという人物がこんな言葉を口にします。
「俺はな、このステーキが存在しないことは知ってるんだよ。口に入れると、マトリックスが俺の脳味噌に、これが肉汁たっぷりで最高にうまいと教えてくれるんだってこともな。9年かかって俺がなにを理解したか、アンタわかるか? 無知の至福さ。」
現実よりも仮想現実を選択するという判断が「悪役」のものであるということ。この描写が象徴するように、「現実>仮想」あるいは「三次元>二次元」という価値観は、もはやハリウッド映画の強迫観念ですね。虚構産業の自浄作用のようなものでしょうか。まあそれはともかく。
『アバター』で、主人公ジェイクは、あらゆるハリウッド映画的伝統に逆らって、なんと仮想現実に生きることを選択します。この部分、あまりにもあっさりと描かれているので気づかれにくいようですが、これは二重の意味で画期的なことです。
前衛映画ではありません。超娯楽大作の主人公が、地球(=現実世界)に還らず、仮想空間(パンドラ)のヒロインと生きることを選ぶということ。なんともオタク的な「ネイティリは俺の嫁」宣言です。すいませんわかりにくかったですね。これは一般には、漫画やアニメのキャラクターにリアルな恋愛感情を喚起されてしまった漢(おとこ)たちが口にすべきテンプレートとされています。
さらにいえば、キャメロンはこの映画で「もう現実とか仮想とか区別しなくてもよくね?」と提案しているようにもとれます。アメリカでは本作を観た観客のなかに、「パンドラから帰りたくない」という思いが高じて、うつ状態におちいった人々がすくなくなかったと報じられています。もしこれが事実なら、キャメロンの目論見は見事に当たったといえるでしょう。なにしろハリウッド映画に連綿と受けつがれてきたプラトニズム(イデア>現実>虚構)の伝統を、根底からくつがえしちゃったんですから。
タイトルは単なる直感で、グダグダとまとまらない文を書こうと思う。
まず、下の記事読んで、上のように思っていたことを思い出したんだな。
本当は、ゲハでやろうかと思ったんだが、ちょっと長めの文章になりそうなので、ここで垂れ流すことにした。
http://www.inside-games.jp/article/2009/12/08/39242.html
ソニックの父「日本の強さはマンガ的表現だが、今は活用されていない」と語る
「ゲームは映画や音楽を含んだエンターテイメントの一つです。私は映画がゲームの兄的な役割となっていると思います。日本の映画業界は長い歴史を持っていますが、他国の映画が入ってくるようになるとハリウッド映画が最も人気となりました。そんな環境下でも、日本のアニメーションは大きな賞賛を得るようになりました。これは大きな事です。しかし、我々は現在ゲーム業界がハリウッド化しているのを見ています。そして、カートゥーンスタイル(マンガ的スタイル)における日本の伝統的な強さは隅に押しやられています」
海外市場を意識したリアルなグラフィックを重視するあまり、日本ゲーム界の本来の強さであるマンガ的な表現が活用されていない、とするのが大島氏の考え方である模様です。
まま、言わんとしていることは分かるけど、前提として、漫画の表現とアニメの表現はまた違うということもあると思った。もちろん、アニメーションでもカートゥーン的な表現ならば、100万クラスはごろごろいるのは分かる。だが、例えば、(セル塗りっぽい表現の)日本的アニメキャラを使ったゲームでミリオン突破したゲームがあるのか、という点が気になる。
まぁ最近だと、「テイルズオブ~」はかなり売れているのは分かるけど、自分の記憶では、日本的アニメキャラゲーは、セガサターンのギャルゲー全盛時代に50万本クラス売れていた程度で、ミリオンクラスはなかったような気がした。(多分例外もあるだろうけど。荒い議論として読んで頂ければ)
そう考えると、ゲームにおけるアニメ的表現というのは、マーケティング的には結構リスキーなのかも知れない。(つまり、ゲームユーザーの価値観では、ラブプラスのポリゴン少女>ときメモ4のアニメ少女)
つまり、最大で売れて50万本というのが、ゲームにおけるアニメ的表現の限界性を表していないか。
うまく言えないけれど、ゲームをゲームたらしめている要素とアニメをアニメたらしめている要素は相反しているんではないかとも思う。泣きゲーの「感動(他人を見て感動する訳なので、他者視点)」とモンハンの「手応え(自分の感覚で感じる物なので、自分視点)」が相反するように。
例えば、2D美少女とビジュアルノベルと物語や文学のような東浩紀氏が好きそうな方向性というのは、「コンピュータの演算能力をどうゲームの面白さに活かすか」というゲームの本道とは外れており、ゲームでどうアニメ的世界観(つまり、アニメ的イデアの世界)を構築するか、というやや横道にそれたジャンルなのだと思う。
では、そういう意味では、JRPGというのは所詮、傍流にしかなれないのだろうか?
正直よく分からない。
なぜなら、このジャンルは「感動」と「手応え」の両立を目指しているように見えるから。
現世代機において、その試みは、現在の所、失敗しているとは言えるだろう。
しかし、例えば、スーファミ時代のRPGは「感動」と「手応え」が両立していなかっただろうか?
スクエニ社長の発言を聞いていると、今後スクエニはJRPG路線を縮小させそうな気配である。
ただ、何かがきっかけにまたJRPGが世界に衝撃を与えるかも知れない。
それは誰も断言は出来ないのではないだろうか?
細々とでも良いので、JRPGの血は絶やすべきではないような気がする。
同じことを繰り返す。やり直しではなく、現在を作り出すために。生きる、ということの経験は、同じものとの再会に満ちている。すべてに思い出がまとわりつく。鏡でないものがあるだろうか。彼岸花、水道、ドアの開閉、沓脱ぎ、階段、見るということは似たものを同じものと見なすこと、知覚は感受を名前によってくくる。くくられた以上、感受はかつて出会ったものの異なる再来となる。そうなってはじめて、世界への知識が可能になり、予測と後悔が切り開かれる。それに慣れすぎて、異なるところにしか気がつかない。異なるという意識を可能にする同じであるという知覚には気づけない。
花だと思うから、異なる花だと思うことができる。繰り返し、繰り返す。けれど、同類であることと同じであることは違うのでは? 彼女は彼女の状態のクラスではなく、彼女という個体のはずで、そこにはやはり何か違いがあるはず。たとえ、彼女の細胞が一定の時間ですべて入れ替わるのだとしても。絶対的に分割不可能な単体であるということ、それはきっと不可能な形而上学だが、それなしでは人間的な関係性は成り立たない。わたしがあなたを個体ではなくカテゴリーやクラスだと考えたとき、ひとは現象に出会うことができるのか。であれば花が再来することと、この花が再来することはどのように違うのか。
後悔は理想に通じ、そこから、夢が涌く。存在の再来を回想であると理想主義者は信じている。誰もが予め知っている、あのユートピアを、世界の不完全さを通じて思い出す。トラウマのようなフラッシュバック。思い出す。ぼくらは知っている。あの美しい世界を。あの美しい花を。それがイデアという追想のイデオロギー。逃れられない、繰り返し。まるで、先生にやり直しを命じられているかのよう。追憶への繰り返しは後ろ向きの反復、すなわち、やり直し! 正解はあるし、それはみんなあの夜のまどろみの中で知っている、憶えている。ああ、懐かしい、追憶の、日々よ。
だが、それでは繰り返したことにはならない。(歯車は、繰り返し回転することで、機械を作動させる。それは、仕事をする。だから、回帰は、元の木阿弥ではない)繰り返す。こぼれ落ちたものは失敗だったのか。失敗シークエンスでは、何も起きてはいないのか。起きないのか。何かが起きる。というか、何かは起きる。繰り返しは、どのようにして、同じことではないのか。内容が違う、というのは、結果であって原因ではない。繰り返す。記憶喪失だとしよう。世界は五分前に創造された。わたしが、歌を、それを繰り返しであると信じて歌ったとき、それは繰り返しなのか。本当は世界で初めての行為でも。然り、といおう。それは繰り返しだ。だが、と、そこで、疑問がわく。「誰にとって?、そして何に対しての?」
右と左は、端的に違う。内容的には違うとかではない。同じように、内容が全く同じ繰り返しの1度目と2度目は、端的に違うのであって、こことかそことかが違うのではない。だが、と悪魔はいう。世界の外から観測する悪魔にとっては違う。なぜなら、悪魔は憶えているから。では、繰り返すということ、それは意識の、記憶の属性で、事柄の属性ではない? 奇妙な話だ。歴史は世界の属性か、観測の属性なのか。
いや、もちろん、悪魔などいない、と宣言して片をつけることは可能だ。それが常識的な線でもある。結局、まったく同じ繰り返しなどないのだし、世界に痕跡を残さない行為もない。だから、繰り返しは、必然的に、内容的にも一度目とは異ならざるを得ない、と言い切ることもできる。時間も歴史も世界の側の属性だ、と。
だが、ひとは忘れる。もう、たいていのことを忘れている。
しかし、繰り返さない、ということはどういうことか、と考えてみる。それは、きっと、不可能だ。少なくとも、ひとが意識的に何かをするということは、何かという名前で知っていることを、再来させようと企むことだから、定義上、それは未聞のことではありえない。バンジージャンプをしようと思うということは、わたしがバンジージャンプを飛んだことがなくても、飛んだ人がいることが前提で、それは、繰り返しを意図することのはずだから。(死ぬことですらそうだ、ともいえるし、そうでもない、ともいえる。自殺は、必然的に失敗するから)
だから、意識的にするのでなければ、たしかに、ひとは、繰り返さないことができる、かのようでもある。しかし、今度は、意識的ではない行為は、たいしたことを成し遂げない、という現実が現れる。たいしたことではない以上、たいしたバリエーションはない。そのかぎりで、それは似たようなことの繰り返しだ。けれど、それは、繰り返すという行為とは、わけて考える必要がある繰り返しだろう。それは重力と自然法則の支配権であり、反復というよりも、永遠というべきだ。日常は永遠によって捕らえられている。悪い意味で。
だから繰り返す。そうすると、完全には繰り返せない。それが、繰り返しの成果だ。この認識自体は割と普通だ。だから、考えを始めるのは、ここからだ。繰り返すと、何かが蓄積し、わりと逸脱して、新しいことが生まれる。そうやって、歴史が存在できたし、してるし、進行中。
もう既に情報出回ってるだろうから、既知の方も多いと思いますが、せっかくなので増田でまとめてみようかと思います。一応ネタバレは最小限に留めて書いてあります。
アイテムコンプだとかクエストコンプ、称号コンプあたりは難しそう、でもモンスターを全種類倒す程度なら簡単そう!と思ってコンプを目指すと……、ソロプレーではほぼ確実に氷・水あたりの宝の地図の深層にしか出てこないモンスターで詰まる。
「大いなる」だとか「残された」だとかをDSと宝の地図表を見比べながら探して、ようやく入り口を見つけた中身がだいたい「洞窟」か「遺跡」。これはちゃんと偏る仕様になっていて、氷か水の出る確率はそれぞれ10%程度らしい。
水か氷のマップを見つけても、1階にいる雑魚モンスターのレベルが低いと深いところまで進んでも目当てのモンスターは出てこない。
1階から強力なモンスターが出てきても、途中で終わってしまうマップが多く、小躍りしてドキドキしながら進んでも、階段を下りた瞬間に音楽が消えてボス階、ということも。
名前だけで深層モンスターが出る可能性があると判別できる地図もあまり出てこないし、地図を1つ手に入れるのにも地図のボスを倒さないといけないし。頑張っても1周10分くらいかかる。
しかも、配信ボスとか出てこないと100%にならないしね。チートで出された地図もらってクリアすれば別だけど。
討伐コンプは、すれ違い通信で地図をもらえばリストを埋めることはできる。
ソロプレーでは困難だけど、結構モンスターリスト用の地図配ってる人もいるし、難易度はまだ低いほう。
8でも集めたし、9はレシピから錬金できて楽だからこっちもやってみよう、とか安易に思うなかれ。
それはあのポットによるハニートラップだから。
錬金の元となる武器・防具を集める作業が鬼。
武器は、まだ易しいほう、といっても宝の地図の深層でしか出ない特定の宝箱から低確率で出現する元武器を、剣からハンマーだとかまで全部そろえないといけないんだけどね。
それでも、中断技や神地図の解析でコンプリートはしやすくなってきている。
問題は防具のほう。
黒龍丸やイデアラゴンなど、宝の地図のボスモンスターがそれぞれわずか2%の確率で落とすレア防具を、ひたすら狙い続ける。その数10個。
だから、意外とスライムジェネラルが出て、しかも浅い階で早くボス階層までたどり着ける地図とかが、今人気があったりする。
深い階層まで行って、ボスを倒して、地図をセットし直して再挑戦、そのループをひたすら繰り返してレアドロップを待つ。マジマゾ。
魔法戦士の超必殺を利用して1回の戦闘でレアドロップを狙う手法も確立されているけれど、必殺の扇(レア武器)を4つ用意して魔法戦士の転生証を手に入れて、など開始するまでに手間がかかる。まあ、錬金コンプしようというのに比べれば、魔法戦士の転生にかかる手間なんて屁みたいなものなんだけど。この方法も、全員の必殺が出揃うまで待ったり、超必殺出してもレアドロップ確定メッセージが出るまで繰り返さないといけなかったり、忍耐力が必要。ちなみにレアドロップ確定率は10%。
最強武器・防具は、元素材にオーブとしんかのひせきを錬金することにより、作れる。
だから元素材となる武器・防具が集まったら、次はオーブを集める。
シルバー、イエロー、グリーン、パープル、ブルー、レッドの6種類。これは「魔王」と呼ばれている地図から出るボスモンスターが低確率(5%~)でドロップする。
あとは、天使のソーマを2つ・げんませきを2つ・ときのすいしょうを錬金して作成する「しんかのひせき」を集めればOK。
オーケー、なんだけれども、元素材を錬金する時に極悪な仕様が仕込まれている。
例えば、元素材・グリンガムのムチから最強のムチを作ろうとする。
第一段階の強化に、グリーンオーブとしんかのひせきが1つずつ。これで「続グリンガムのムチ」が完成。
第二段階の強化に、グリーンオーブとしんかのひせきが3つずつ。これで「超グリンガムのムチ」が完成……、するとは限らない。
「錬金大成功」とならないと、「超」グリンガムのムチじゃなくて「真」グリンガムのムチに変化する。ちなみに、成功率はデフォルトで10%程度。
「真」ができてしまってもご安心ください、リサイクルストーンと「真」を錬金することで、「続」に戻すことができます。――つまり、「真」から「続」に戻す錬金も通らないとコンプリートにならないわけなんだけれども。
元素材ひとつにつき、最低でもオーブとしんかのひせきが7つずつ必要。
武器は剣、槍、短剣、杖、ムチ、棍、ツメ、扇、オノ、ハンマー、ブーメラン、弓の12種類。
防具は盾、頭、体(上)、トーガ、ローブ、小手、手袋、体(下)、ブーツ、サンダルの10種類。
合計22種類、最低でも22×7で154個のオーブとしんかのひせきが必要。錬金失敗するとそれぞれ3つ分が無駄になるので、実際はもっと多量に必要。
セーブ・ロードすればいいじゃない?それくらいは錬金の直前に強制セーブという対策がとられてますよ。
魔王のレベルが高いとドロップ率も上がるけれど、その分スペックも上がるので強すぎず、弱すぎずのちょうどいいところを狙って連戦し続ける。
そのため、宿屋・教会が近い船着場近くに出現する地図なんかが人気。
まず、錬金素材の「ときのすいしょう」が50000Gと非常に高価。
これを最低154個、金額にすると770万Gが必要。
オーブのために魔王を狩っていれば金なんてすぐたまるんだけど、770万となるとちょっと……。
ほしのカケラ×2、けんじゃのせいすい×2、天使のはね×2を錬金して作る。
つまり、それぞれ308個が必要になる。
「ほしのカケラ」はひかりの石×3、よるのとばり×3、それぞれ924個ずつ。もしくはドロップ、宝の地図の宝箱にも一応含まれる。
「けんじゃのせいすい」は、まほうのせいすい、まりょくの土、花のみつ×3。宝の地図の宝箱からは若干出やすい。
「天使のはね」は、錬金よりも宝箱と宿屋の泉で集めたほうが早い。
せいれいせき、超ばんのうぐすり、あやかしそう×2を錬金して作る。
ここは天使のソーマほど難しくないけれども、やはり数が……。
天使のソーマもげんませきも、両方とも地図の宝箱に含まれているので、中断技使えば採取できるんだけれど、それを外法とし使わずに集めるとなると……、気が遠くなる。
オンゲーが廃人専用とか言われてる中で、ドラクエのナンバリングタイトルにこんな廃人仕様を仕込んでるスクエニ怖いです。
確かに「オンラインゲームと比べたらたいしたことないよ」という意見はよく目にするけど、果たして同じ土俵に上げていいものなのかどうか。
対人の縛りがないってのが救いなのかもしれないね、PSゼロみたくオンライン連携機能があって、かつそれによる恩恵がデカいとかだと……。
いやまあ、コンプを目指さない人にとってはエンディングまで遊んで、ちょろっと「おまけ」を遊ぶくらいの楽しみ方でいいと思うよ?ただね、エンディングまでだと明らかに物足りない作りになっていて、じゃあと泥沼に足を踏み入れたくなるように仕組まれているのが……、非常に危険です。
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。
いったいこういう前進が、純然たる哲学の力で行われえただろうか。(略)超感覚的なイデアのうちへ人間のイデアをも明らかに含めているプラトンは、しばらくのけておこう、―けだし、この考えから、人間はすべてが同じ本質のものだということが続いてこなかっただろうか。この考え方から、人間たるかぎり万人が同等の価値を持っているという思想までは、またこの本質の共有によって万人に同じ基本的権利が与えられているという思想までは、ほんの一歩でしかない。しかも実に、この一歩が超えられなかったのだ。(略)ストアの哲人たちは、すべての人間は兄弟であり、賢者は世界市民だと宣言していた。だがこの方式は、要するに頭で考えられた理想の表出、それもおそらくは実現しまいと考えられていた理想の表出でしかなかった。ストアの主だった哲人たちのうちだれ一人として―帝位についたあの哲人でさえも―、自由人と奴隷との、ローマ市民とローマ市民ならざるものとの間の障壁が低く出来ると考えていたとは思われぬ。権利の平等と人格の不可侵とを含蓄するかの普遍的兄弟愛の観念が現実の力をもつためには、キリスト教の出現を待たねばならなかった。