フェミニズムは、男性にとって労働の代替物である。結局のところ。
フェミニズムに関わる女性が何を求めているかと言えば、それは、男女双方にとって住みよい社会――ではない。
あらゆる社会運動において言えることだが、その運動の究極目的やイデアールな理想像が運動の開始とともに即座に達成されることは無い。それらが達成されるのは、多くの場合その運動が開始されてから長い年月を経た後である。
その限りで、運動への参加者は時にその理想よりも、その理想を達成するまでの過程に惹きつけられる。目標達成へと浮き沈みしながら向かっていく運動そのものを、社会運動の参加者は求めるようになるのである。
特にフェミニズムという社会運動に関わる人々は、自分の行動や自分の自意識が、よりよく社会を変えていくという実感を求めているのではないかと思われる。あるいは、仮にその運動が目的達成に寄与しなくても、自分が社会をよりよく変えるための運動に従事しているという実感を得ることを、運動の参加者は求めている場合が多いのではないだろうか。社会生活を送る上での女性ならではの苦しみ、自意識、そして女性ならではの努力、そういうものが、個人の中で閉じて完結してしまうのではなく、社会の(よき)変化へと繋がっていること、その理想へと向かう道程に属していること。それこそが、社会運動に関わる人間が往々にして求めていることである。社会運動を行う限りで、そのような実感を求めていない人間はまずいないだろう。
(勿論、そのような社会運動に参加するていでいながら、実際には特定の人間を攻撃したり嗜虐的な感情を満たしたりすることを求めている人間もいる。しかし今回はこのような人々を「フェミニズムに参画する人々」からは除くことにした)
また、そのような運動に従事するもの同士での連帯感を味わうことも、社会運動に参画する人間にとっての滋味である。自分が現実社会のプラクティカルな文脈に含まれ、自分の自意識や思考や行動が、現実社会などのプラクティカルな実体と連続し、相互の作用を与えあっているという実感、また、運動に関わる他のメンバーとも連続しているという実感。それらの実感を、社会運動に参加している人間は求めるものなのだ。理想的な社会というものがすぐには手に入らない以上、運動の参加者は往々にして、そのような魅力的な過程に愛着を抱くものである。
して、男性にとってそのような実感を得る機会はあるのだろうか?
女性にはフェミニズムがそのような機会に当たり、参加者のプラクティカルな実感へと寄与する。自分の意識は社会から切り離されておらず、自分の思考や行動もまた切り離されておらず、また、自分以外の他人とも切り離されていないという実感。自分の思考や意識や行動は、社会や他人にとって大なり小なり意義を持つものなのであるという実感を得ることに、フェミニズムは大きく寄与することになる。
男性にはそのような機会――つまりフェミニズムに代わるような機会――があるのだろうか。
そのような機会は女性により独占されており、男性はそのような機会から遠ざけられ、社会やその社会に関わる人々とのプラクティカルな連続性から引き離されているのだろうか? 実際のところそうではない。
男性は、そのような実感をフェミニズムを通してではなく、労働から得るのである。労働によって、男性は社会と自分がプラクティカルに連続していて、よりよい社会に変遷していく過程の中に自分が属しており、また、そのような社会に属している他人との連続性の中にも属しているという実感を得るのである。