はてなキーワード: 自称とは
でも、仮にその自担が性被害を告発したら、裏切り者扱いしてリンチするよね?よってたかって口汚く罵るよね?
ジャニーズに逆らわず、汚らしい過去は隠し、ただ去勢された愛玩動物みたいに振る舞うやつしか「アイドル」として認めないよね?何が推しの幸せだ 何が自担の健康だ お前ら自称ファンが1番のプレデターだわ
そのうえ自称ファンが被害者に誹謗中傷するから、カムアウトして被害者側に加わるのも相当心理的なハードルが上がっている 八方塞がりやね
少なくとも誹謗中傷が止めばいいのだが
昔、アメリカに留学してたことがあってそんときの知り合いに、パーラメントっていうバンドで一時期ホーンセクションやってた(自称)っていうおじさんがいたんだよね。
音楽のことを多少知ってる人に話をすると「ほほーっ」ってな反応になるんだけど、この話のスゴさと凄くなさ具合をパーラメントっていうのを知らない人にどうやって伝えるのかを毎回考えてたんだよね。
無能有能の話をすると「やる気のある無能は害」だのとドヤ顔で言う自称インテリがいる。
しかし比較優位から言えば、無能がいるから社会が回っている側面がある。
つまり、人々が「やりたくない」と思っている仕事を能力が低い人がやることによって、社会が回っているということだ。
トラックドライバーが良い例だろう。頭脳労働では「無能」と言われるトラックドライバーはエッセンシャルワーカーであり、自称インテリが崇高な気分でやっている頭脳労働よりも役立っている。
このようにして、社会には適切な役割分担があり、「無能は害悪」だのと、無知なことを言い出す自称インテリこそが本当の害悪であることを自覚すべきだ。
弱者男性が自分を弱者男性と認めないケースでフェミニストと自称強者は荒ぶるらしく、「俺は弱者男性だ」というと「こいつはいじれないからつまらん」といって無言で立ち去る
俺、なんちゃってエンジニアで、専門学校なんて中途半端に通ってるだけ。ChatGPTをなんとか使って仕事してるけど、自己満足でしかないし、アイデアなんて出せるはずもない。ブレストなんて言葉使おうものなら、ChatGPTに頼るしか能がない自分が情けなくてたまらないんだろうな。
それにもかかわらず、俺がAIエンジニアを名乗ってるってのが滑稽だ。会社ではAI系の学会に出席してるけど、それで俺は一人前のエンジニアだと勘違いしてる。Python、PHP、JavaScriptって、ちょっとだけ触れるけど、実際のところ、俺のコードなんてクソみたいなもんだよ。
"弱者男性"って言葉は、ネットの連中が俺を見下すためにでっち上げたんだろうな。低学歴の俺にはお前らにちょっと言いたいことがある。
今日はエネルギー、角運動量...等々のオブザーバブルの例とシュレーディンガー方程式の関係を学びました。
ところで、Twitterである操作を行うことにより、数学に関連するおすすめが多く表示されるようになりました。
そうして、とある数学者の動画が表示されたので、じっくりと視聴しました。
数学が情報として表示されると、こう言われているような気分になります「政治のことは忘れなさい。数学の問題を解いていれば趣味にもなるし、平和だ」
世の中には様々な政治的問題があります。日本国内のインフレスパイラル、地球温暖化とカーボンプライシング、ウクライナ情勢、石油価格の問題などです。
数学の問題とは違い、これらは価値判断の問題です。排出権取引に賛成する人は将来世代にも考慮して温暖化を解決しようと言いますが、反対する人は短期的に「自分が生きている間」の利益だけを考えます。
あるいはインフレの問題は、インフレを抑えようという実質値を考慮する人は賃上げに反対しますが、名目値だけを見る人は賃上げを要求するのです。
価値判断の問題は、声の大きさで勝負が決まってしまう部分があります。フォロワーだけは沢山いる自称データサイエンティストが「コイツは意識他界系だ」などと言うと、そのレッテル貼りに同調する人が出てくるわけです。
そのような政治の話には、もしかしたら関わらないほうが良いのかもしれません。政治の話を中心的に行う人をミュートし、数学に引きこもりたい気分です。
しかし、寛容さが必要だと思うこともあります。数学の話をする人の中にも、肩書や知識の量でマウントを取るどうしようもない人がいます。こういう人を「見ないようにする」よりは、自分が寛容になるほうが手っ取り早いと思うのです。
つい最近、ある政治活動家が、「各々のミツバチは、ニューロンとして見るのが良い」と言っていました。
人間社会もそういうものかもしれません。誰かがイシューを発見したり、意見したりすれば、それはニューロンのように伝達され、物事が部分的にわかってきます。
そしてその情報は保存されます。一歩々々、何か知識の塊が進化を遂げているのかもしれません。
それとも、それは退化でしょうか。ある話題で社会が二極化した場合、どちらかが間違っているのではなく、異なる前提を持つ人が価値判断で争っているのかもしれません。
いやほんとに自称トランスジェンダーの人達の被害妄想って酷いな
>いよたさんは、性同一性障害特例法が生殖腺除去などの手術を性別変更の要件としていることに、「国が『内臓を取りなさい』と個人に求め、子どもを持つ権利を奪っている」と批判。「手術するかを選択できるようにすべきだ」と指摘する。
っていうけれど、別に国は『内臓を取りなさい』と個人に求めてなんかいないし
手術したくないならしなければいいのであって、ありのままな男性の身体で男性として生きればいいだけの話。
手術するかを選択できるようになっているのは現状が既にそうだよね?この人自身はしたくもない手術を強要されたのか?違うでしょ?
ていうか、男として、自らの男性器と精子で子供を作りたい人の言った何処が「心が女」なの?完全に心も男じゃん
『「手術を望まない人もいる」 性別変更、個人差訴え トランスジェンダー女性』
https://news.yahoo.co.jp/articles/b6349e95476da9625aaee97d5fb41feb1c84b9a9
Xとかヤフコメとかで書くと個人攻撃されそうなんでここに書く。
ここ数日よく出てくる「性別変更手術をしないで戸籍の性別を変更したい」というアレに対する反論というか素朴な疑問について。
先に前提として自分の立場を書くと私はトランスではありません。
手術要件をなくせと言ってる人の主張を見るとその根拠になっているのが
・性別変更をするために不妊手術をさせられるのは過去の優生保護法と同じ人権侵害である
・性別変更をすることでホルモンバランスなどが著しく崩れ健康面をそこなう
・性別変更手術は非常に高額であり、金銭面に余裕がなければ性別が変えられないのはおかしい
・将来的に自分で子どもを出産したいと思っているトランスもいる
・身体上同性パートナーと婚姻をすることができない不利益がある
といったところだと思う。
というかこれ以上になにか説得力のある根拠を挙げている意見を見かけない。他に意見があるなら教えてほしい。
しかしそれらの根拠のもとになっているのは全部「私達はかわいそうな存在なので周囲が変わってほしい」という意識であって、その主張が通った場合にどのような社会的混乱が起こるかを想定してそれをどう解決すればよいかという提案は一切ない。
まるでそこにどんな混乱や不具合があろうと、自分たちが「かわいそう」ではなくなればそれが解決であると言わんばかりである。
私は選択的夫婦別姓や同性婚は全面的に賛成の立場であり、その実現のために法的な根拠や歴史を勉強し、それによって失う可能性のあるものや侵害される権利をできる限り想像したり、誤解(同性婚が導入されたら悪用犯罪者が増える、少子化が進むなど)をしている人には統計や諸外国の事例などを調べて細かく反論をするようにしている。
それでもなかなか政治家に近い人達は理解をしないのが現状ではあるのだけど、この「手術要件の撤廃」についてはそうした姿勢が一切見られていないのが非常に腹立たしい。
当事者ではないので完全に理解することは難しいのだが、ホルモン注射や性器の切除・拡張手術が苦痛を伴うものだということはわかる。
その上でどうしても一言言いたいのが、「何のために戸籍の変更が必要なのか考えたことがあるのか?」という疑問だ。
よくよく考えてみれば「なぜ性別変更手術をするのか」というのは、「法律的にそうしなければ性別変更ができないから」ではない。
自分自身の体の性別に違和感があり、それを解消したいという気持ちがあるからではないのか。
現在の法律の要件というのは「これをしなければ性別変更できませんよ」ということからできたものではなく、自分の体への違和感を解消するために手術をした人に対してその体に合った国民生活(もっと言うと行政サービス)を送れるようにするためという趣旨からだ。
そこをどうも今主張されているトランスの方々は勘違いをされているようで、「変更するための法的要件が手術なので仕方なくやっている」という考えを前提に主張しており、目的が手段へすり替わっている。これがどうもおかしい。
だから「手術要件がなければ自分の体を変更することなく性別を変更できる」と喜んでいるわけだろうが、そこに矛盾を感じる人はいないんだろうか?頭が悪いのか哲学がないのか知らないが。
もし彼ら・彼女らの主張がまかり通って手術をしない体で戸籍の性別変更ができたとしたら、自分の体の性別は生まれたときから変化がないのに戸籍だけが変更されることになる。
その場合だが、その戸籍という紙切れ一枚に性別が変更されたと記載されればそれで彼ら彼女らの「自分の性別への違和感」はきれいに払拭されるのだろうか?
私達の性別は戸籍にそう記載されているからそうだとなるのではなく、自分の体の分類として記載をされるものだ。
しかしトランスとして手術要件を不要にしたがる人たちは、自分自身が自分に対して感じる違和感はそのままでも、戸籍が変更されればそれで性別が変わったと思うらしい。
さらに踏み込んで言えば、過去に自分の性別に違和感を感じて高額の金銭と身体へのリスクをおかして手術をした人たちというのは、「自分の気持ち」の中の違和感をなくすためにそれを行っている。
対して手術をしたくない自称トランスの人たちは「戸籍」という「他人の目」からの客観的事実さえ変更さえできれば自分の中の違和感は払拭できると言っているようなものである。
彼ら・彼女らの言う「違和感」というのは自分の中から出てきたものではなく、他者からの扱いでしかないと言っているわけである。
それがどんなに危険かというのは女子トイレ騒動で十分に世間に知られているはずなのに、自分は一切変わらなくても他人の目が変われば世の中ハッピーになると考えているのか全く反論に対する気概も準備もない。バカなの?と言いたくなる。
性自認がどうであろうとそれは個人の自由だし、好きなように自認して周囲にカミングアウトすればいいと思う。
ですが自分の自認を満足させるために周囲の視線を自分に都合のよいように強制しようとする姿勢はどうも好きになれない。というか愚かだとすら思う。
何より一番この流れにイライラするのは、そうした主観・客観といった深い問題があるこの議論に対し、「かわいそう」だけで認めようとする裁判官や政治家がいてしまうということだ。
もうちょっとましなやつがトランスを代表してもらいたいのだが、どうして表に出てくる連中というのは揃いも揃って頭が悪いのだろうか。