はてなキーワード: 化現とは
「一方的な愛情を向ける」というのが何を指しているのかというと、まあ端的に「自分と今後一切関わりを持つことがないであろう有名人」とか「2次元のキャラクター」だとか、そのあたりのことだ。
人から愛情を向けられるというのはとにかく恐ろしい。私は、自分というものを正しく認識することができるのは他の誰でもない「自分自身のみである」と思っていて、そこにひとを介入させること、それどころか私を解釈する余地を人に与えること自体がとにかく末恐ろしい行為だと思っている。
近日、「蛙化現象」という言葉があたかもミームのように流行った。流行ったそれ自体は誤用ではあったが、いっとき社会現象にまでなった。
あるとき自分を分析してみたら、単に自己肯定感がすこぶる低いだけという訳ではなく、その自己肯定感の低さの中に同じくらいの「自身の持つ気高さへの陶酔」を抱えていることに気づいた。
これが、適当な意味で使われた時の「蛙化現象」を自身が引き起こすときの根底にあるんだろう。
己のことを、何よりも愚かでおぞましくて汚いゴミみたいな人間だと本気で思っていて、だけどそれと同時に「そんな自分のことを理解し寄り添ってくれるのは自分だけ」だとも思っている。改めて文章に起こしてみるととんでもない自慰行為である。
だから、「自分のいちばん近くで自分を理解し寄り添ってくれる」、所謂恋人のような存在を作ることが怖い。
ここまで話した上で怖い、という言い方を今更しても自己保身でしかないので、言い換えると 「嫌」 なのである。紛れもなく。
だから、「私を瞳に映すことがない」「私の本性に介入することがない」「こちらもあなたを知ったような顔で語るつもりもなければ知るつもりもない」ような存在に陶酔することがいちばん心地よくなる。前述した「一方的な愛情を向ける」ということを長々と噛み砕いてみると、恐らくこんな感じ。
本題。
私は、ひとりの人間のことがすごく好きだ。 仮にAと置く。
特定されることは意図していないので、この記事を書く上で必要な最低限の要素だけ取り出して、尚且つ暈しを加えながらAのことを説明すると、主に言葉を書いているアーティストである。
ただ、私は自分のことをちゃんちゃら性善の擬人化のような人間であると思っていて、そうなるとここで既に矛盾が生じている。
「自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」、凡その人が義務教育中には会得するだろう一般論である。性善の擬人化なので、勿論日頃からこれを踏まえた行いを心がけている、のに。
私は、なんの関わりも無ければ何も知らない他人に、Aに、心底惚れている。
世に出ているAの書いた言葉は辿れる限り辿った。特に好きなフレーズを自分の中に書き留めて、反芻してをひたすら繰り返していた。
そもそも私は頭のいい人が好きなのだが、それだとアバウトすぎるので最近は「素敵な言葉を紡げる人が好き」と形容している。
要は、私はAのことをきわめて頭のいい人間だと思っている。
だから凄く辛い。
「自身の尺度で他人の持つポテンシャルや性格を測る」ことって、きっと凄く馬鹿馬鹿しいことなのに。
なのに、私はAの持つ性格上の性質や口調、趣味、その趣味を持つにあたっての根本の考え方、友達への接し方とファンへの接し方の違い、それを産んでいるであろう根底の考え方、その全てが好きで、そんな自分の盲目さと当人への申し訳なさが、果てしなく苦しい。
Aが紡いでいる「言葉」というものをもう少し詳しく話すと、架空の人物の言葉の代弁だったり、まあカテゴライズするのであれば「詩」だろうな、というものが多数。
ただ、その中に、さながら自伝のようなものがチラホラと存在する。
とどのつまり、どうしてもその言葉を紡ぐに至った、その考え方に至った思考回路やバックグラウンドを空想してしまう。
まあ、ただ考察するくらいなら至って個人の自由だとも思う。ただそれを「Aのことが好きな理由」として自分の中でつらつらと並べている自分自身が恥ずかしくて苦しいのだ。
どの角度から見ても考えすぎである。これを書きながら自分自身でも「素直に好きって言えばいいじゃん」と思っている、が、プライドと自分の性質がそれを許してくれない。
薄々感じている方も居るだろうけれど、これだって「厄介ファン」だ。紛れもなく。
私がAの言葉を好きなことは事実で、それを産んだA自身のことが好きなのも事実だ。
だけど、「自分と関わりのない人に心酔することで得られる心地良さと安心感」を求めている節が、間違いなく存在している。
私は、自分が仮に有名な活動者だとして、自分の全く知らない人が水面下で自分に対してこんな感情を膨らませてつらつらと文章を書き連ねていたら、そりゃまあめちゃくちゃに恐ろしいなと思う。
拗らせ具合に対してもだが、やっぱり「例えその考察が事実であろうと、他人が私の秘めたる感情を時間をかけて推察している事実」に不快感を抱く。
自分を測られることへの不満や知った口を聞かれる不快感、「特定の誰かに宛てた言葉では無い」ということを全面に押し出すような書き方。
そんな書き方をしているのに、分かり易く示してくれているのに、その言葉を自分の中で大事に大事に仕舞っていることが極めて愚かであると感じる。
あくまでも自伝であるのに、その言葉に共感したり感銘を受けている私が。
だけど、好きなのである。どうしても。
人に測られたくないから、きっと私と同じような考え方を持っているAの言葉と性格に惹かれる。
けど、この「きっと」こそが人を測っているに他ならない。
だから、絶対にAに近寄りたくない。 答え合わせをしたくもない。 これはほんとうに仮の話だが、何かの縁でAと知り合いになり、友人になり、推察が上手いこといって、同じような考え方なんだね!なんてことになってしまったら。
私はこんなにも好きなAのことを好きなままでいられるのか、わからない。
乱雑でこんがらがったままだけれど、自分の感情を推察する余地を他人に与えられるようになるまで、きっと今後とも手の届くことの無い誰かにひたむきな好意を向け続けるのだろうなと思う。
最初の方に綴った通り、自身を高尚な人間だと奥底の方で謳っていることがこの現象の原因だと考えられるので、まずはその傲慢さを取り払わないことには私は一生ひとりぼっちである。
「他人に一方的にひたむきな愛情を向ける」ことは、すごく明瞭だ。ただ、そろそろ成長したい。ひとからの好意を受け入れたい。自身の根本を推察されることを拒絶したくない。
とにかく、この半ば依存のような好意をとやかく向ける行いはそのうち卒業する予定だ。
このジレンマから抜け出せて、しがらみが解けきったときに、私が至って健全な「好き」をAに向けることが出来ていたらすごく嬉しいなあ、と思います。
言い過ぎか
女性側が勝手に理想の相手を脳内に作って、それとのギャップで白けるって話でしょ
ないよ男側では
女が繊細過ぎるだけ
https://anond.hatelabo.jp/20240312182628
お砂糖は「友達」としての親密さなのか「恋人」としての特別な位置なのか議論されることがあります。しかし、「友達」の間の距離感は、特に曖昧で広範囲に渡ります。それでは、この微妙な関係性について、もう少し詳しく探ってみましょう。
『とも‐だち【友達】の解説互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。「—になる」「遊び—」「飲み—」
[補説] 2013年10月に実施した「あなたの言葉を辞書に載せよう。」キャンペーンでの「友だち」への投稿から選ばれた優秀作品。』
goo辞書より引用https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8F%8B%E9%81%94_%28%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%A0%E3%81%A1%29/
"互いに心を許し合って、対等に交わっている人"と"一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人"という表現は、確かに"友達"という言葉で表現されますが、その深さや距離感に違いがあります。
互いに心を許し合って、対等に交わっている人: この表現は、相手との関係が深く、信頼関係が築かれていることを示しています。このような友人は、自分の内面を理解し、支えてくれる存在であり、困難な状況でも一緒に乗り越えてくれるでしょう。また、対等な関係というのは、互いに尊重し合い、意見を自由に交換できる関係を指します。
一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人: この表現は、一緒に楽しい時間を過ごすことができる友人を指しています。このような友人とは、共通の趣味や興味を共有し、一緒に活動することが多いでしょう。しかし、それは必ずしも深い信頼関係があるとは限らず、個人的な問題を共有することは少ないかもしれません。
一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人について話していきます。
「遊び友達」、「喋り友達」、「ゲーム友達」、「ソシャゲ友達」など、これらは特定のコンテンツやゲームで楽しむためにつながっている友達を指します。彼らとは同じコミュニティに所属し、雑談したり遊んだりすることがありますが、それ以上の深い関係はありません。
私生活に入り込むことはなく、お互いの個人的なことには触れず、純粋に趣味を楽しむ相手としての友達です。
これが悪いというわけではありません。むしろ、インターネット上の友達との距離感としてはこれが普通で、健全な付き合いだと思います。それぞれの友達との関係性を理解し、適切な距離感を保つことが大切です。
ですが、インターネット上の友達という距離感を保ったままお砂糖になるケースが見受けられます。リアルな友人とネット上の友人との間に存在する距離感の壁を超えられていない場合、それは誠意があるとは言えません。お砂糖が友人であるか恋人であるかを問う前に、互いに心を許し合うという基盤がないまま、不確かな関係性を築いてしまうことは良くありません。
それでも、それはまだマシな方かもしれません。なぜなら、"フレンドを切ってしまえばただの赤の他人でしかない自分にとって都合のいい遊び相手"という浅い考えで人を見下して、都合の良い相手として付き合っている人々が存在するからです。これは、人間関係を軽視し、他人を尊重しない態度を示しています。このような考え方は、健全な人間関係を築く上で全く適切ではありません。
それぞれの関係性を理解し、適切な距離感を保つことが大人の人間関係です。ですが、人間関係を深め、信頼関係を築くために近づこうとしないまま形だけの関係になっていませませんか?お砂糖という言葉で誤魔化さずはっきりと、どういう距離感で居たいのかを伝えることが大切だと思います。
奇跡的に距離感の擦り合わせに成功したとしても、価値観の擦り合わせという工程がまっています。もはやvrchatの領分ではありませんが、自分の思う価値観の擦り合わせについて書いていきます。
人々が他人の欠点を見つけて大騒ぎし、マスコミがそれを叩き、インターネット上で集団で非難することは、不寛容な社会を反映しています。完璧を求める就職活動や、欠点を許容しない傾向は、生きづらい世の中を作り出しています。
「カエル化現象」という言葉が、近年よく使われています。これは、愛する人の些細な欠点を見つけた瞬間、その魅力が色褪せ、感情が冷めてしまうという現象を指します。しかし、この現象は、私たちが他人に対して持つ過度な潔癖性の表れではないでしょうか。例えば「樽一杯のワインにスプーン一杯の泥水を入れると、全てが泥水になる」という言葉がありますが、人間関係においても同じように厳しい基準を適用してしまっているのです。
しかし、人間は完璧ではなく、欠点を持つことは自然なことです。お互いの欠点を認め、許容することで、より健全な社会を築くことができるでしょう。完璧を求めるのではなく、人間らしさを受け入れることが大切です。それによって、より寛容で、生きやすい世の中になるはずです。
自分は距離が近い人と上手くやっていくコツは「嫌いを許容する」事にあると思います。
人間関係において、「嫌いを許容する」というのは、相手の欠点を受け入れ、それを乗り越えることで、より深い信頼関係を築くことができるという意味です。私たちは完璧ではなく、誰もが何らかの欠点を持っています。しかし、それらを認め合い、サポートし合うことで、互いの絆は強まります。
嫌いな部分を見つけたとしても、それを単に指摘するのではなく、どうすればその部分を改善できるか、またはその部分を受け入れて支え合うかを考え話し合うことが大切です。お互いの長所を認め合い、短所を補い合うことで、関係はより豊かなものになると信じています。
まあ、vrchat民の殆どは指摘すらしない事なかれ主義者ですが。
人との距離が近くなるほどに、相手の嫌な部分が見えてくるかもしれませんが、それを乗り越えることで、より強固な関係を築くことができるのです。そして、それは人生において非常に価値のあることだと思います。
ですが、現実はそう甘くはありません。
SNSの普及により、私たちはいつでもどこでも人と繋がることができるようになりました。しかし、その結果として、人と深く関わり合うという行為が希薄になってしまったのではないでしょうか。かつては、人間関係を築くことは時間と労力を要するものでした。しかし今、私たちは「人間関係に対して代わりがきく」という新たな現実に直面しています。嫌いな部分を持つ人間関係を見つけたら、簡単に切り替えて新しい関係を探すことができるのです。
このような状況は、人間関係の価値を軽視する傾向につながりかねません。一つの関係に問題が生じたとき、解決する努力をする代わりに、新しい関係を求める方が容易になってしまったのです。しかし、これは本当に良いことなのでしょうか。人間関係においては、困難を乗り越えることが成長につながる重要な過程です。簡単に関係を切り替えることは、その過程を省略することに他なりません。
私たちは、SNSがもたらす便利さと、人間関係の深さを保つことのバランスを見つける必要があります。人との繋がりを大切にし、一時的な不快感や問題を乗り越えることで、より強固で意味のある関係を築くことができるのです。それは、メタバースの時代においても変わらない人間関係の本質であると言えるでしょう。
彼氏いない歴、年齢
ただ、それまで何の気遣いもなく友達づきあいしていて、何ならかっこいいとさえ思っていても、好意を寄せられたと知ってしまうと、だんだんと生理的に無理になっていく
その人の何かに冷めるんじゃない
私を好きになってしまうようなその人の器に冷める、のでもない
ただ、ただ、その人が私を特別なものとして考える、それだけでどうしてもどうしても無理なのだ
そしてやがてパニックになって、その人の中から私の痕跡が全て消えて欲しいと願いながら、必死で、逃げるように関係を切る
説明もこれ以上はできないし分析しても確かめようがないし、原因がわからないから直しようもない
一生まともな恋愛はできないんだ、という事実だけが、ずっと私の中に絶望となって沈んでいる
この不可解で身勝手で絶望的な現象を一言で呼び表す言葉が昔はあったんだよ
蛙化現象って
いつそれが世間様に漏れたのか知らないけど、いつの間にかそれは普通の恋愛ができる奴が、ただただ相手の些細な欠点に冷めるというクソどうでもいい概念を表す言葉として奪われてしまった
そんなん「冷めた」でいいだろ
「蛙化現象」って言葉、概念を誰かがすでに作っていたということは、自分の異様な心の動きを「ある」ものとして認められている、そしてそれを誰かに説明できる(理解してもらえるかは別として)ということで
それは私にとって一縷の救いだったのに
この先私が「蛙化現象」と言っても、「あー些細なことですぐ冷める奴だろw」ぐらいの理解しか得られないし、それはまったく理解されないよりなお質が悪い