はてなキーワード: 公言とは
「炭水化物制限やグルテンフリーを実践している」とネット等で公言すると、「コメ農家の気持ちを考えたことがあるのか」と批判されることについて。
はあ?なんで私達消費者が生産者のことなんて考えなくちゃいけないんだ?
1.ビーガンは自分の主義主張を発言すると、酪農家の人達を貶めていることになるのか?
2.車に乗らない人間が「車はいらない」と発言すると、自動車産業を貶めていることになるのか?
3.「テレビは見ない」と発言すると、テレビ業界を貶めていることになるのか?
そんなことはないよね。
昨日も新聞の部数が1年間で200万部減少したニュースがあったけど、ブコメは全員が「捏造アカヒなんか読むわけねーだろバーカ」と書いていた。
いらないモノに対して、はっきり「いらない」と口にして何が悪いのだろうか。
あいつら減反政策のせいで、米を作れば補助金がもらえるから他栽培から米作りに転換しているだけで、逆に日本の農業衰退の戦犯だよ。
去年のはじめに炎上したわたしの増田が、年末の増田TOPなんちゃらにまとめられていたことで、再び自身の目に飛び込んできた。
忘れていたい気持ちもあったが、今ならもう少し冷静に考えられるかも知れないと恐る恐るながら開いてしまった。
そうして自分の意見と周りの反応をあらためて読んでみて、あの時よりは少し整理できた気がする。
その上でもう一度提言したい。
そして許されるべきではないことは、大多数がわたしの意見に対して行ったような「嫌い」を公言することを「非難」することにほかならない。
当然わたしのことを嫌いだと公言したことに対しては一切非難するつもりはない。わたしはあなたがわたしを嫌いだという気持ちを大切に受け止めるつもりだ。
しかし、だからといってわたしの趣味嗜好が人間として間違っていると非難することは切り分けさせてもらいたい。
非難している人の中にある、わたしを嫌いだという気持ちは尊重するが、それを理由として非難や攻撃を行うことは加害でしかないはずだからだ。
趣味嗜好とは、簡単に言えば好き嫌いであり、そこには紛れもなく好きと嫌いが含まれている。
好きが許されるのと同じく、嫌いが許されないのであれば、結局は個人には趣味嗜好の主張が許されない抑圧社会となんら変わりがなくなってしまう。
では許されるべきではないことは何か。
そこにはマイノリティもマジョリティも関係がなく、個人の価値観やルールでそれらの行動が正当化されることが許されるべきではないのだ。
「嫌い」という言葉は、個人の趣味嗜好を表現しただけであり、存在を否定したり善悪を判断する言葉ではない。
それを被害だと受け止めて反撃することは、加害性の正当化に過ぎない。
そもそも「嫌い」という言葉に加害性を見出してしまうことこそが間違いであり、人々に抑圧を生み出してしまっているのだ。
もし「嫌い」と言われることが「嫌い」なのであれば、行うべきは非難や反撃ではなく、「嫌いだと言われることが嫌い」だという意思表示である。
そうすることによって、人は人との距離感を作り上げることができる。
好きな者同士が距離を詰めて、嫌いな者同士が距離を保つことができる世界が、お互いに多様性を保ち合える世界といえるのではないか。
非難や攻撃が直接的に届くような世界とで、どちらのほうが心の平穏を保っていることができるかは考えなくてもわかることだ。
そう考えてみれば、やはり何かを「嫌い」だと公言する自由は許されるべきであり、人々は、人から嫌われることに対してもっと寛容になるべきなのだ。
誤解のないように受け止めていただきたいのだが、あくまで「嫌い」と「非難」は別だ。
「嫌い」は単なる個人の意思表示であって、「非難」は善悪という価値観の押しつけだ。
非難は数によって正義が決まり、量的な圧力で少数派を駆逐しようとする加害だ。
これこそが多数派の中において少数派が認められるべき多様性のある社会において最も忌むべき敵ではないか。
あの増田ではまさに少数派であるわたしの意見に対して、多数派による駆逐が行われようとしていた。わたしの意見を尊重し存在を肯定しようとする意見が可視化されることはほとんどなかった。
わたしの意見が好きではないという意見であれば、わたしはすんなり受け入れることができるし、その意見は尊重したいと思う。
しかし、わたしの意見が間違っていると多数から押し付けられれば押し付けられるほど、わたしの心は頑なにその意見を拒む。
あのときは雑にくくってしまったことで余計な非難を生んでしまったことは反省している。
「あなたのことは嫌いだけど、存在は受け入れる」と言われることと、「あなたの存在は間違っているから修正すべきだ」と言われることとではどちらのほうが受け入れることができるだろうか。
「あなたのことが好き」だと嘘をついて、実は嫌っている存在が身近に隠れている現実を本当に望んでいるのだろうか。
正直に嫌いだと言われて、適切に心の距離を保てることのほうが、本当は心の平穏が保たれるのではないか。
もし「嫌い」という表現の棘が尖すぎるというのであれば、「好きではない」という言葉でもよいと思う。
そして、加えて提案したいことは、そこに「今は」という言葉をつけてほしいと思う。
なぜなら、人の趣味嗜好は、流動的なものであり絶対的なものではないからだ。
ふとした拍子に変わることもあれば、時間をかけてゆっくりと変わっていくことだってある。
それを今すぐ好きになれといわれて好きになれるほど、わたしの心は強くない。
だけど、認められるべきだからと隣にいることを強要されるのではなく、そうして適切な距離を保ちつつも十分な時間があれば、「嫌い」ではなくなることはできるかも知れない。(もちろんわたしのことは一生嫌いでもかまいません。)
今のSNS社会において、誹謗中傷と見分けをつけることができない非難があまりにもまかり通ってしまっている。
そこに明確な線を引くことができない以上、非難そのものが認められるべきではないとわたしは考える。(わたし個人の意見としては、行き過ぎた称賛もまた、少数派にとっての無言の圧力になり得ると考えている。)
わたしは自分の考えに、多様性のある社会に向かってみなが進むべき道があると確信している。
オタク的なものは、密かに楽しめばいいと思う。極個人的な、密室的な、内面的な楽しみとして。広げたとして、鍵のかかった匿名的なネットワークの中で、同好の士たちと、密談をするように楽しみや喜びを分かち合えばよい。
というのは、自分はライトオタクにあたると思うが、それを公言したりはしない。本当にライトなあたり、たとえば今で言うと鬼滅の刃みたいなものは、見たよ、楽しんだよ、と話すことはあるが。
なぜそうするかと言うと、自分が楽しんでいるものの中に、ある種の非常に一方的な、思い込みの強い、恥ずべき欲望が含まれていることに自覚的だから。最近流行りの擬人化もの、女体化もの、いわゆる美少女動物園的なコンテンツが好きだが、主要キャラクターが概ね若い女性で、露出度が高い格好をし、主人公に常に好意的な設定は、どこかおかしいと感じているから。そこから自分がなにを得ているかとなると、ある種の安らぎ、受容の安心感、疑似恋愛的な幸福感、興奮。客観的に考えると、こんなに自分勝手にキャラクター、さらにはその原型となる現実、特に女性を消費的に扱っているというのは、なんというか…大変気持ち悪いと思う。
だからこそ、大っぴらに言わず、自分の部屋の中で、ひとりの時間に、頭をカラッポにして楽しむ。これが楽しいのは確かなので、無くなってもらっては困る。ただ、消費している自分の、消費の仕方、消費の前提となるマインドは、大変気持ちが悪いものなのだ。呆れられて当然のもので、正当化も擁護もできない、自分勝手で子供じみたものなのだ。
それには常に自覚的でありたいと思っている。
実際俺はランジャタイ好きだったので面白いと言ってくれる人が増えるのは結構なんだが著名人が突然それを公言すると勝ち馬に乗る狙いもあるだろうなと思う。
レトロゲームや絶版本の収集が趣味なのでゲームショップや本屋で手に入れられない、手に入れられても法外な価格で売られている品物を安く手に入れるのに活用し主に買う側として月に娯楽に使える金額の半分以上の万単位の金をメルカリでの買い物に注ぎ込んでいる。
ツイッター等のネットでは転売ヤーや一部のマナーの悪いユーザーだけが悪意を持って切り取られているが実際には善意の利用者が圧倒的に多く最低価格の300円や相場より安い金額で品物を譲ってくれる人が大勢いる。
そんな中ネットではメルカリを使わないと公言している人が大勢いる。
欲しいものを買う権利を不当に奪う転売ヤーが憎い気持ちも十分にわかる。
だがそれを理由にメルカリを使わないのは品物を欲しい人の手に渡らないようにすると言う点で転売ヤーと同じだと思っている。
まだ使える物を捨てると言う行為は欲しがっている人のいる中古品の流通を阻害する行為だ。
まして限りある資源であるレトロゲームや絶版本は一度捨てられたら二度と同じものが生産されることがなく取り返しがつかない。
そもそもメルカリが潰れたとして転売ヤーはヤフオクや他のサイトに移るだけだ。
名前が書いてあってもページが抜けていてもいい、お願いだから捨てないで欲しい。売って欲しい。