去年のはじめに炎上したわたしの増田が、年末の増田TOPなんちゃらにまとめられていたことで、再び自身の目に飛び込んできた。
忘れていたい気持ちもあったが、今ならもう少し冷静に考えられるかも知れないと恐る恐るながら開いてしまった。
そうして自分の意見と周りの反応をあらためて読んでみて、あの時よりは少し整理できた気がする。
その上でもう一度提言したい。
そして許されるべきではないことは、大多数がわたしの意見に対して行ったような「嫌い」を公言することを「非難」することにほかならない。
当然わたしのことを嫌いだと公言したことに対しては一切非難するつもりはない。わたしはあなたがわたしを嫌いだという気持ちを大切に受け止めるつもりだ。
しかし、だからといってわたしの趣味嗜好が人間として間違っていると非難することは切り分けさせてもらいたい。
非難している人の中にある、わたしを嫌いだという気持ちは尊重するが、それを理由として非難や攻撃を行うことは加害でしかないはずだからだ。
趣味嗜好とは、簡単に言えば好き嫌いであり、そこには紛れもなく好きと嫌いが含まれている。
好きが許されるのと同じく、嫌いが許されないのであれば、結局は個人には趣味嗜好の主張が許されない抑圧社会となんら変わりがなくなってしまう。
では許されるべきではないことは何か。
そこにはマイノリティもマジョリティも関係がなく、個人の価値観やルールでそれらの行動が正当化されることが許されるべきではないのだ。
「嫌い」という言葉は、個人の趣味嗜好を表現しただけであり、存在を否定したり善悪を判断する言葉ではない。
それを被害だと受け止めて反撃することは、加害性の正当化に過ぎない。
そもそも「嫌い」という言葉に加害性を見出してしまうことこそが間違いであり、人々に抑圧を生み出してしまっているのだ。
もし「嫌い」と言われることが「嫌い」なのであれば、行うべきは非難や反撃ではなく、「嫌いだと言われることが嫌い」だという意思表示である。
そうすることによって、人は人との距離感を作り上げることができる。
好きな者同士が距離を詰めて、嫌いな者同士が距離を保つことができる世界が、お互いに多様性を保ち合える世界といえるのではないか。
非難や攻撃が直接的に届くような世界とで、どちらのほうが心の平穏を保っていることができるかは考えなくてもわかることだ。
そう考えてみれば、やはり何かを「嫌い」だと公言する自由は許されるべきであり、人々は、人から嫌われることに対してもっと寛容になるべきなのだ。
誤解のないように受け止めていただきたいのだが、あくまで「嫌い」と「非難」は別だ。
「嫌い」は単なる個人の意思表示であって、「非難」は善悪という価値観の押しつけだ。
非難は数によって正義が決まり、量的な圧力で少数派を駆逐しようとする加害だ。
これこそが多数派の中において少数派が認められるべき多様性のある社会において最も忌むべき敵ではないか。
あの増田ではまさに少数派であるわたしの意見に対して、多数派による駆逐が行われようとしていた。わたしの意見を尊重し存在を肯定しようとする意見が可視化されることはほとんどなかった。
わたしの意見が好きではないという意見であれば、わたしはすんなり受け入れることができるし、その意見は尊重したいと思う。
しかし、わたしの意見が間違っていると多数から押し付けられれば押し付けられるほど、わたしの心は頑なにその意見を拒む。
あのときは雑にくくってしまったことで余計な非難を生んでしまったことは反省している。
「あなたのことは嫌いだけど、存在は受け入れる」と言われることと、「あなたの存在は間違っているから修正すべきだ」と言われることとではどちらのほうが受け入れることができるだろうか。
「あなたのことが好き」だと嘘をついて、実は嫌っている存在が身近に隠れている現実を本当に望んでいるのだろうか。
正直に嫌いだと言われて、適切に心の距離を保てることのほうが、本当は心の平穏が保たれるのではないか。
もし「嫌い」という表現の棘が尖すぎるというのであれば、「好きではない」という言葉でもよいと思う。
そして、加えて提案したいことは、そこに「今は」という言葉をつけてほしいと思う。
なぜなら、人の趣味嗜好は、流動的なものであり絶対的なものではないからだ。
ふとした拍子に変わることもあれば、時間をかけてゆっくりと変わっていくことだってある。
それを今すぐ好きになれといわれて好きになれるほど、わたしの心は強くない。
だけど、認められるべきだからと隣にいることを強要されるのではなく、そうして適切な距離を保ちつつも十分な時間があれば、「嫌い」ではなくなることはできるかも知れない。(もちろんわたしのことは一生嫌いでもかまいません。)
今のSNS社会において、誹謗中傷と見分けをつけることができない非難があまりにもまかり通ってしまっている。
そこに明確な線を引くことができない以上、非難そのものが認められるべきではないとわたしは考える。(わたし個人の意見としては、行き過ぎた称賛もまた、少数派にとっての無言の圧力になり得ると考えている。)
わたしは自分の考えに、多様性のある社会に向かってみなが進むべき道があると確信している。