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はてなキーワード: 突然の恐怖とは

2024-03-30

anond:20240329224225

そうですね、基本的には相手の心を知るということが重要です。

練習として、自分の心を観察してみましょう。

1. あなたの心はどんなとき快楽を感じますか?いつ不快を感じますか?いつ苦しみを感じ、いつ喜びを感じますか?つまり、感じたことに気づいてください。

2. その感情は、なぜそう感じますか?原因はなんですか?あなたをそのような感情にさせる経験に心当たりはありますか?

3. 感情はどのような順番で訪れますか?

分かりづらいですね。ちょっと私の視点で例を考えます

例えば、目の前の人が包丁を握って玉ねぎを切っていたとします。私が後ろから声をかけると、その人は振り向く。そして包丁の先も一緒に私の方を向いた。キラリ

私は不快を感じるでしょう。関係性によっては、それを口にするかもしれません。

ですが、重要なのは不快を感じたことに気づくこと、そしてなぜ不快を感じるのかということです。考えてみましょう。

これを探るためには、感情が成立しない条件を挙げるとわかりやすいです。

例えば、もし包丁が視界の外にあれば、包丁の先を向けられた事による不快は感じなかったでしょう。つまり、それを認識たか不快になった。

例えば、包丁が何なのか知らなければ、不快は感じなかったでしょう。つまり包丁が固く、鋭く、そのようなものは人を傷つけると私は学習していて、だから不快になった。

例えば、より遠くの位置関係であれば、不快は感じなかったでしょう。それはなぜ?

私はなぜその条件なら不快を感じなかったか

私は思い返してみます。あのとき何を感じたのか。ゆっくりスローモーションで。

包丁気づき、その後、包丁の先が向けられていることを認識します。

そして……想像したことに気が付きました。その先が自分に突き刺さる事故を。人間本能的な予測衝動に従って。

そして、想像によって私は架空の痛みを感じ、それが真実の恐怖になったことに気が付きました。突然の恐怖は、驚きの発生に繋がります

人間はそのように驚かされると、その事自体不愉快に感じるものです。自分攻撃を受けている(と錯覚する)からです。

そして、怒りが訪れます攻撃には、報復を。おお、驚嘆するほど一瞬の、精緻で語り難い、複雑で出来事です。人間の妙。

私が包丁を向けられ、不快になり、ひとこと言いたくなったのは、このようなメカニズムが私の中で働いていたからでした。一件落着。

…というのが、私の言う「心の観察」です。

自分ではない人間として自分を観察し、どのように感じるかを理解することが、まず一歩。

これを無意識にできるようになると、自然相手の心の動きにも目が行くようになります

これが、言葉ではない話し合いの一歩、心を聴くということへの手がかりです。

ただし、他者の心の機微を知ることは、ご存知のように大変難しい。

基本的に分からないことは実験で試すのみです。

いろんなものを見せてみましょう。いろんなことを言ってみましょう。そして観察するのです。目線、表情、呼吸、声色、仕草……

話を聞いてみてください。相手の前に立つのではなく、横に立って同じものを見てください。相手が何を想像しているかを知る必要があります

提示と、リアクション確認。この繰り返しです。

ひとつひとつ出来事は一面しかしませんが、百回行えばその人の百面が見えます。知りましょう。

自分を知ることも、人を知ることも、実験と観察の繰り返しです。

あなたの言う問題というのも、その延長線上で観察する必要がありますあなたに起因するのか、相手に起因するのか、どちらもなのか。あなたとその人の間に、何が起こっているのか。

何をして、何のリアクションがあって、それが起こるのか。因果を観察し発見してください。因果のない出来事存在しません。

問題というのが何のことか、具体的には書かれておりませんので、具体的なことは申し上げられません。

ただ、まず観察の手段、知ることの正しい手段を取ることが重要だと私は主張します。

知れば、道が見える。

人の世は複雑です。だからこそ答えは観察からしか得られません。そして、人は道理因果を見つけたなら、干渉できます

そのときようやく、あなたは、あなた自身の力によって、問題解決できます

未熟な私から申し上げられることは以上です。

幸運祈ります

2022-01-04

マイノリティを「嫌い」だと公言する自由は許されるべきだ

去年のはじめに炎上したわたし増田が、年末増田TOPなんちゃらにまとめられていたことで、再び自身の目に飛び込んできた。

忘れていたい気持ちもあったが、今ならもう少し冷静に考えられるかも知れないと恐る恐るながら開いてしまった。

そうして自分意見と周りの反応をあらためて読んでみて、あの時よりは少し整理できた気がする。

その上でもう一度提言したい。

マイノリティを「嫌い」だと公言する自由は許されるべきだ。

そして許されるべきではないことは、大多数がわたし意見に対して行ったような「嫌い」を公言することを「非難」することにほかならない。

当然わたしのことを嫌いだと公言したことに対しては一切非難するつもりはない。わたしあなたわたしを嫌いだという気持ちを大切に受け止めるつもりだ。

しかし、だからといってわたし趣味嗜好が人間として間違っていると非難することは切り分けさせてもらいたい。

非難している人の中にある、わたしを嫌いだという気持ち尊重するが、それを理由として非難攻撃を行うことは加害でしかないはずだからだ。

多様性のある社会とは、個人趣味嗜好が許される社会だ。

趣味嗜好とは、簡単に言えば好き嫌いであり、そこには紛れもなく好きと嫌いが含まれている。

好きが許されるのと同じく、嫌いが許されないのであれば、結局は個人には趣味嗜好の主張が許されない抑圧社会となんら変わりがなくなってしまう。

では許されるべきではないことは何か。

それが、他者に対する攻撃であり非難であり不寛容である

そこにはマイノリティマジョリティ関係がなく、個人価値観ルールでそれらの行動が正当化されることが許されるべきではないのだ。

「嫌い」という言葉は、個人趣味嗜好を表現しただけであり、存在否定したり善悪判断する言葉ではない。

それを被害だと受け止めて反撃することは、加害性の正当化に過ぎない。

そもそも「嫌い」という言葉に加害性を見出ししまうことこそが間違いであり、人々に抑圧を生み出してしまっているのだ。

もし「嫌い」と言われることが「嫌い」なのであれば、行うべきは非難や反撃ではなく、「嫌いだと言われることが嫌い」だという意思表示である

そうすることによって、人は人との距離感を作り上げることができる。

好きな者同士が距離を詰めて、嫌いな者同士が距離を保つことができる世界が、お互いに多様性を保ち合える世界といえるのではないか

非難攻撃が直接的に届くような世界とで、どちらのほうが心の平穏を保っていることができるかは考えなくてもわかることだ。

そう考えてみれば、やはり何かを「嫌い」だと公言する自由は許されるべきであり、人々は、人から嫌われることに対してもっと寛容になるべきなのだ

誤解のないように受け止めていただきたいのだが、あくまで「嫌い」と「非難」は別だ。

「嫌い」は単なる個人意思表示であって、「非難」は善悪という価値観の押しつけだ。

非難は数によって正義が決まり、量的な圧力で少数派を駆逐しようとする加害だ。

これこそが多数派の中において少数派が認められるべき多様性のある社会において最も忌むべき敵ではないか

あの増田ではまさに少数派であるわたし意見に対して、多数派による駆逐が行われようとしていた。わたし意見尊重存在肯定しようとする意見可視化されることはほとんどなかった。

わたし意見が好きではないという意見であれば、わたしはすんなり受け入れることができるし、その意見尊重したいと思う。

しかし、わたし意見が間違っていると多数から押し付けられれば押し付けられるほど、わたしの心は頑なにその意見を拒む。

わたしにはそれこそが不寛容であるしか思えなかったからだ。

あのときは雑にくくってしまたことで余計な非難を生んでしまたことは反省している。

でも、マイノリティの方にももう一度考えてみていただきたい。

あなたのことは嫌いだけど、存在は受け入れる」と言われることと、「あなた存在は間違っているか修正すべきだ」と言われることとではどちらのほうが受け入れることができるだろうか。

あなたのことが好き」だと嘘をついて、実は嫌っている存在が身近に隠れている現実を本当に望んでいるのだろうか。

正直に嫌いだと言われて、適切に心の距離を保てることのほうが、本当は心の平穏が保たれるのではないか

もし「嫌い」という表現の棘が尖すぎるというのであれば、「好きではない」という言葉でもよいと思う。

そして、加えて提案したいことは、そこに「今は」という言葉をつけてほしいと思う。

なぜなら、人の趣味嗜好は、流動的なものであり絶対的ものではないからだ。

ふとした拍子に変わることもあれば、時間をかけてゆっくりと変わっていくことだってある。

わたしが嫌いになったきっかけは、突然の恐怖だった。

それを今すぐ好きになれといわれて好きになれるほど、わたしの心は強くない。

だけど、認められるべきだからと隣にいることを強要されるのではなく、そうして適切な距離を保ちつつも十分な時間があれば、「嫌い」ではなくなることはできるかも知れない。(もちろんわたしのことは一生嫌いでもかまいません。)

今のSNS社会において、誹謗中傷と見分けをつけることができない非難があまりにもまかり通ってしまっている。

そこに明確な線を引くことができない以上、非難のものが認められるべきではないとわたしは考える。(わたし個人意見としては、行き過ぎた称賛もまた、少数派にとっての無言の圧力になり得ると考えている。)

わたし自分の考えに、多様性のある社会に向かってみなが進むべき道があると確信している。

そのためには、マイノリティマジョリティ関係なく、自らの「嫌い」が安全公言できる自由が許されるべきなのだ

それでも尚、わたし意見非難が集まるというであれば、この世界にはもう希望なんて無いかも知れない。

2018-07-15

anond:20180714224552

七五調にすると「もしもしかめよ」のメロディーで歌えるんだねー

♪(「もしもしかめよ」のメロディーで)

ごちそうさまで お茶碗に こめつぶ残す やつ死刑

テーブルマナー 違反です こめつぶ残す やつ死刑

\ ほのぼの雰囲気突然の恐怖 /

2018-01-03

anond:20180103153258

求めてる答えと違ったらごめん

私も周期的にきっかけもないのに突然恐怖感に襲われることがあって

増田とは内容が違うが、社会には自分意識してないだけですごい虐げられた人がいる的なことで頭の中がいっぱいになる)

まさしくメンタルというほどでもないけど非常に気持ちが落ち着かなくなる感じ

別件(睡眠不足)で心療内科に通っているのでついでにこのことを話したら

エビリファイを処方された、恐怖感が起きたら随時頓服する形

気休め程度ではあるけど効いてるとは思う

ただ心療内科って長期にわたって通わないといけないかくそ面倒くさいし医者との相性もある

それに突然の恐怖感そのものは抑えられない(多分)

結論言うなら増田が今の症状を発作と割り切れるならそのままでいいし

多少面倒でも不安感を克服したいなら心療内科行けばいいと思います

 
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