はてなキーワード: スッタニパータとは
どんなものに対しても、「これに意味があるんだろうか」「価値はあるんだろうか」と思考してしまう病に罹っていた。
まず、この社会で生きるということは、そういった価値判断を行いながら生きるということだ。
誰かが作った"良い"とか"悪い"とかいう価値の中にすべての物事を、もちろん自分さえも当てはめていくことだ。
人間はそうやって見出した価値を求めてきた結果、高度な文明を発展させてきたし、
それを否定するつもりはない。
多くの人はその事を良いことだと捉えているような気がするし、
それが人間の持つ知性の持つ素晴らしさであり、
そんな素晴らしい知性を持つ人間は素晴らしい存在だということを信じて疑わない人たちも多い。
でも、そういう"素晴らしい"とか、"良い"とか"悪い"は、あくまで人間が独断で決めたもので、
この世界の大半の存在にとっては、何の関係もない狭い世界の話だと薄々気づいていた。
ただ私もそんな価値判断が当然である社会に生まれ、気がつけばそれに染まり、あらゆるものに価値判断を行う癖がついていた。
物を認識した瞬間、"意味"とか"価値"を考えてしまう自分がいる事に憂い、苦しんでいた。
何より人々が作り出した価値基準の指標に、自分さえも当てはめていかなければいけない事に虚しさを感じていた。
大人になるにつれ、自分は社会の価値基準にそぐわない事がわかってきた。
自分は素晴らしいとされるような人間の一員になれる気がしなかったし、そもそもなりたくもなかった。
だが、素晴らしくない人間は生きるのが大変だ。
だから「死にたい」と思っていた。(これはもちろん「この社会では死にたい」という生への執着なのだが。)
でも、社会の価値観に既に染まっている私は「自殺」は社会に迷惑をかける"悪いこと"で、"無意味なこと"だと言われるのを知っていたし、
そこからとあるきっかけで『スッタニパータ』という、ブッダの死後100年程で作られ始めた仏教の経典の中で最も古いと言われている経典を読んで、
実際に価値判断の世界から"解脱"し、その方法を人々に示してくれたその人の言葉に勇気づけられ、納得させられて、
もう社会の価値に心理的に振り回されることはないという非常に軽い気持ちになった事を詳しく書こうと思ったんだけど、
この"疲れたのでやめる"という行為も、以前はできなかったのですが、そこに"善悪"の判断が必要ないと知ってできるようになりました。