2019-06-30

ブッダが私を価値判断から開放してくれた

どんなものに対しても、「これに意味があるんだろうか」「価値はあるんだろうか」と思考してしまう病に罹っていた。

まず、この社会で生きるということは、そういった価値判断を行いながら生きるということだ。

誰かが作った"良い"とか"悪い"とかい価値の中にすべての物事を、もちろん自分さえも当てはめていくことだ。

そんな社会に嫌気が差していた。

この社会は、そういう価値判断を推奨している。

人間はそうやって見出し価値を求めてきた結果、高度な文明を発展させてきたし、

それを否定するつもりはない。

多くの人はその事を良いことだと捉えているような気がするし、

それが人間の持つ知性の持つ素晴らしさであり、

そんな素晴らしい知性を持つ人間は素晴らしい存在だということを信じて疑わない人たちも多い。

でも、そういう"素晴らしい"とか、"良い"とか"悪い"は、あくま人間独断で決めたもので、

この世界の大半の存在にとっては、何の関係もない狭い世界の話だと薄々気づいていた。

ただ私もそんな価値判断が当然である社会に生まれ、気がつけばそれに染まり、あらゆるもの価値判断を行う癖がついていた。

物を認識した瞬間、"意味"とか"価値"を考えてしま自分がいる事に憂い、苦しんでいた。

何より人々が作り出した価値基準指標に、自分さえも当てはめていかなければいけない事に虚しさを感じていた。

自分価値意味も見出せなかった。

大人になるにつれ、自分社会価値基準にそぐわない事がわかってきた。

自分は素晴らしいとされるような人間の一員になれる気がしなかったし、そもそもなりたくもなかった。

だが、素晴らしくない人間は生きるのが大変だ。

未来を考えれば真っ暗で、憂鬱になった。

から死にたい」と思っていた。(これはもちろん「この社会では死にたい」という生への執着なのだが。)

でも、社会価値観に既に染まっている私は「自殺」は社会迷惑をかける"悪いこと"で、"無意味なこと"だと言われるのを知っていたし、

そもそも死ぬのは怖かったのでできなかった。

そこからとあるきっかけで『スッタニパータ』という、ブッダの死後100年程で作られ始めた仏教経典の中で最も古いと言われている経典を読んで、

実際に価値判断世界から"解脱"し、その方法を人々に示してくれたその人の言葉勇気づけられ、納得させられて、

もう社会価値心理的に振り回されることはないという非常に軽い気持ちになった事を詳しく書こうと思ったんだけど、

疲れたのでやめます

この"疲れたのでやめる"という行為も、以前はできなかったのですが、そこに"善悪"の判断必要ないと知ってできるようになりました。

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