はてなキーワード: ラテンアメリカとは
■ 世界で起きる誘拐の件数は、過去十二ヵ月で百パーセント増加している。
■ 誘拐事件の七十パーセントは身代金の支払いで解決する。力ずくでの人質救出はわずか十パーセント。
■ 拉致の七十八パーセントは被害者の自宅、または仕事場から二百メートル以内で起きている。
■ メキシコでは毎年、七千件の誘拐事件が報告されている。実際起きた件数はそれをはるかに上回る。
■ コロンビアでは誘拐が一日に十件発生し、誘拐犯が起訴されるのはたったの三パーセント。対照的に、アメリカ合衆国では誘拐事件の九十五パーセントが起訴に持ち込まれている。
■ 世界的にみて、誘拐の被害者は九十パーセントが地元の人間である。海外居住者や旅行者ではない。
■ ロンドンでは、K&R(キッドナップ・フォー・ランサム=身代金目的の誘拐)を対象にした保険料が年間一億三千万ドル以上も発生している。
■ 二十一__ラテンアメリカで、救出作戦によって無事生還する人質のパーセンテージ。
国立国会図書館調査及び立法考査局レファレンス(2009.1)より。
我が国政府は、集団的自衛権(right of collective self-defense)を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」としている。
成立経緯についてのこの人の説明としては、
具体的にはこれからみんなで国連憲章つくろうねってサンフランシスコ会議が開かれたときに、ラテンアメリカ諸国が安全保障理事会の許可なしでお互いの身を守れるようにしたいって言うから憲章内に盛り込まれたとのこと(wikipedia参照)
集団的自衛権の法的性質については、(1)他国の権利を防衛するとする正当防衛論、(2)個別的自衛権の共同行使とする自己防衛論、(3)攻撃を受けた他国の安全と独立が自国にとって死活的に重要な場合に防衛行為をとることができるとする議論の3つに分けられる。現在の通説は(3)であるといえるが、攻撃を受けた国と集団的自衛権を行使する国の関係が具体的に明らかではなく、軍事介入を幅広く認める結果となる恐れがある。
(3)の「攻撃を受けた他国の安全と独立が自国にとって死活的に重要な場合に防衛行為をとることができる」っていうのが増田への回答になるんだろうか。
今、AがBに喧嘩売られてて、負けるとAが持ってる舟はBにとられちゃう。
俺は毎朝その舟に乗って仕事に行ってる。
じゃあAがやられたら俺仕事いけなくなるじゃねーか。
「A殿、助太刀いたすぞ。」
っていう感じかね。
けどこれはあくまでも通説の(3)による理解なので、(1)(2)の理解もあるし、安倍政権がどういう解釈をしてんのかはわからん。
あとそれから、
その濫用が疑われてきたことは否めない。
ってのも書いてあるねー
以上参考になればとシェア。
これから本文読んでみる。
―国際法上の議論―
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200901_696/069604.pdf
皆さん当然ご存知かと思いますが、日本は世界一のポルノ大国です。
よって、日本人男性は普通の女性とのセックスでは興奮できません。目が肥えているのです。
たいていの女性はAV女優や二次元美少女よりブスでスタイルも悪いです。
ポルノ慣れした日本人男性にとってはゴミみたいなものです。自尊心をずたずたにされます。
日本人男性は世界的に見てもロリコン傾向が強く、若い女性にこだわりがあるため、
結婚しても妻が30歳を過ぎたら性的に反応しなくなります。羊水腐敗BBAとか言われます。
日本人男性の風俗利用率は先進国中1位です。結婚したらこれも男の甲斐性といって受け入れなくてはなりません。
約40年間のセックスレスを受け入れて、家事と子育てと介護に専念するのはばかばかしく感じます。
世界でワースト1位の韓国人男性よりはマシですが、東アジア人は基本的に小さいのです。
ペニスの平均的な大きさは、黒人>ラテンアメリカ人>白人>東アジア人。
ですので、女性の膣が「ユルい」と感じ、セックスを楽しめません。
さらに、日本人男性の間では「膣内射精障害」が多数報告されています。
前述のポルノ慣れに加え、日本人男性はオナニーテクニックの追求に余念がありません。
そのため「床オナ」や「強グリップオナ」など刺激の強いオナニーを愛好する傾向があり、
通常の膣ではまったく快感を得られないのです。
この「膣内射精障害」は、日本でしか報告されていない世界的には特殊な障害ですが、
日本国内では多数の例があるので、日本人男性と結婚すると膣内射精障害者に当たる可能性が高いです。
「サイズ」と「感度」という二つの大問題を抱えた日本人男性とはセックスする気になれません。
年齢や禁欲期間などの条件を揃えた調査でしたが、フィンランドの男性の6割しか無かったそうです。
原文: Schumpeter blog: Angst for the educated(http://www.economist.com/node/21528226)
裕福な国の何百万人もの卒業生が、泣く泣く両親に別れをつげて、大学での新生活を始めようとしている。学生の一部は純粋な学問への愛ゆえに大学に向かうのだろう。しかし、ほとんどの学生は、大学で3年か4年過ごせば、そのために多額のローンを組むことになったとしても、実入りのいい安定した職に付ける見込みが強くなるのだと信じて大学に進んでいるのだ。
大人たちは常に「教育こそがグローバル化した社会で成功をつかむための最良の道だ」と子供たちに言い聞かせてきた。そしてこのお馴染みの話は次のように続く。ブルーカラーの仕事はやがてオフショアされるか機械化されてしまうし、中退したら金に困る一生を送ることになる、世を勝ち抜くのは学士号を手にしたエリートだ、と。これは証拠によって支持されている見解でもある。ジョージタウン大学の教育・労働力センターが最近発表した研究によれば「中等教育以上の学位を取得すれば、ほぼ必ず十分なリターンが得られる」という。学歴と収入には強い相関関係があるのだ。専門学位をもつアメリカ人の生涯賃金は360万ドルだが、高卒の場合はせいぜい130万ドルでしかない。さらに、学位を持てるものと持たざるものの差はますます広がりつつある。2002年の研究では、大卒は高卒の1.75倍の生涯賃金を得ているという結果が得られたのだが、今日ではこのプレミアはさらに大きくなっている。
しかし、過去というガイドは未来において役に立つだろうか? むしろ、私たちは仕事と教育の関係が変化する時代の境目に立っているのではないだろうか? 実際のところ、古いパターンが変わりつつあり、今は不況によって引き起こされている西欧社会の大卒需要低迷という事象も構造的なものに転化しつつあるのだと考えるべき根拠は十分にある。数十年にわたって多くのブルーカラー労働者を揺さぶり続けた創造的破壊の強風は、今や教育エリートにも牙を向こうとしているのだ。
大卒者の供給は急速に増大しつつある。高等教育統計によれば、1990年から2007年の間に、大学に進学する学生の数は、北アメリカでは22%、ヨーロッパでは74%、ラテンアメリカでは144%、アジアでは203%に増大したという。2007年には世界中で1億5000万人もの人が大学に通い、そのうち7000万人はアジアの大学に在学している。経済的新興国、中でもとりわけ中国は欧米のエリートに対向しうるだけの大学の育成にリソースを注いでいる。この新興国では、タタ・コンサルタンシー・サービスやインフォシスのような専門サービスを業とする会社も生まれつつあり、これらの会社は新卒生を世界クラスのコンピュータープログラマやコンサルに育て上げている。詰まるところ、富かな国の最優秀層は、より少ない賃金で沢山働いてくれる貧しい国の最優秀層と競合しつつあるのだ。
同時に、教育を受けた労働者の需要のあり方もテクノロジーによって変わりつつある。この状況は19世紀に農業労働者が直面し、20世紀に工場労働者が直面したそれと非常に似ている。コンピューターは反復的な知的作業のみ成し得るというわけではない。コンピューターは、アマチュアにプロのごとく仕事をこなせるようにする力を与えるのだ。どうして生身の会計士を雇って納税申告をしてもらう必要があるだろう? そんなものは、Turbotaxを使えばわずかな費用でやれるのだ。今後、論調と言語的曖昧さを処理できる機能が備わるようになれば、コンピューターがこなせる仕事の種類は今の何倍にもなるだろう。
Paul Krugmanを含む経済学者の一部は、ポスト工業化社会の特徴は絶え間なく続く知的労働者需要の増大ではなく、巨大な「空洞化」にあるのだと論じている。この「空洞化」は、中級職が賢い機械によって取って代わられ、上級職の増加が鈍化することによって起こるのだという。MITのDavid Autorによれば、このコンピューター時代におけるオートメーション化の主たる効果は、ブルーカラー職の消失というより、ルーチン化できるあらゆる職の消滅にあるという。プリンストン大のAlan Blinderは、低賃金の仕事よりも、大卒が伝統的にこなしてきた仕事の方が比較的「オフショアしやすい」と論じている。配管工やトラック運転手はアウトソースすることができないが、プログラマの仕事ならインドに頼むことができるからだ。
大学教育は、未だに医療・法・学問といった巨大なギルドの入会資格になっていて、このギルドは安定した高賃金な職を生み出している。これらのギルドは前世紀において非常に強力な参入障壁として機能してきた。この障壁は時には正当な目的に出たものだったが(誰も床屋に手術されたいとは思わないしね)、他方で自分たちの利益を目的としたものでもあった。しかし、ギルドは次第に没落しつつある。新聞はブログとの戦いに負けつつあるし、大学はテニュア付きの教授をテニュアの無い職に置き換えつつある。法律事務所は「discovery」(訴訟に関係のある資料を探し出す仕事)のようなルーチンの仕事を、Blackstone Discoveryに代表される電子検索の専門集団に外注しはじめている。医者ですら安泰ではない。患者たちはオンラインでアドバイスを受けた上で、ウョルマートの新しい医薬品センターを利用して治療を求めるようになりつつあるからだ。
MITのThomas Maloneは、このようなオートメーション化・グローバリゼーション・自由化といった流れは、もっと大きな変化 - すなわち「知的労働の分業化」という流れの一局面かもしれないと論じている。アダム・スミスの工場マネージャがピンの生産を18の手続きの分割したように、企業はますます知的労働を細切れにしつつあるのだ。例えば、TopCoderはITプロジェクトを小さな塊に分けたあと、その細切れをフリーランスのコーダーに分配するという方式を採用している。
このような変化は間違いなく知的労働者の生産性を高めるだろう。消費者はサービスに対して高い対価を要求する専門家ギルドを避けて通れるようになるし、多くの知的労働者は退屈な仕事を外注することで自分の最も得意な仕事に集中できるようになるのだ。しかし他方で、この知的労働の再編の流れは、次の世代の大卒者の人生を、はるかに不確定で安住できないものにするのだ。
そんなクズみたいな益田たちのことはもう忘れろよ。ハチにも刺されたと思ってさ。
あいつらは本来益田にいちゃいけない奴らだったんだよ。だってあの当時からもうちょっとなんか浮いてたじゃん。
みんなブレザーなのにあいつらだけキャビン・アテンダント顔負けのタイトな着こなし、みんなロールパン食べてるときあいつらだけおかゆ、みんながガンダム見てるときあいつらだけ(太陽の牙)ダグラム見ててさ、、、。見てるこっちが恥ずかしかったよ。
でももうあんな奴らは益田にはいない。今頃増田にでも帰って朝から晩までポテロングでも食べてるよ。くっだらねえやつらだな。
で、あの戦いのあと本来の状態に戻った益田には天使、悪魔、バスの運転手、NC旋盤工、ラテンアメリカ人、杉田玄白などが跳梁跋扈する楽しい世界になってるんだよ!
学ぶ手順というのは人それぞれだと思いますが、学問というのは車輪の再発明のために悩む時間を省いてくれる高速道路ですから、その成果を利用するのは一つの王道だと思います。
簡潔に事件や人物、文物について知りたいのであれば、適当な百科事典なり、『日本史小辞典』や『世界史小辞典』などの小項目事典で十分でしょう。
しかし、研究史や論文まで調べるのは門外漢には敷居が高いものです。そこで、研究上の主要なテーマについては、初学者向けに入門書というものがあります。
ここでは、専門の事典や細かな研究案内を網羅する能力も時間もないので、最初にあたりをつけるためによく見るものをまとめてみました。なるべく少しは解説があったり、ソースが書いてあるものを挙げました。詳細な文献情報についてはリンク先を見てください。
個人で所有するには物入りでも、都道府県下有数の都市の図書館や大学図書館にはあると思います(絶版のものもありますが、ない場合はリクエストして入れてもらってよいレベルだと思います)。
それぞれの専門を専攻している人にとっては初歩の更に手前といったレベルのリストでしょうから、やや恥ずかしいので増田に書いてみました。詳しい方に補足して頂けるとうれしいです。
*文献リスト
・全般
『国史大辞典』(吉川弘文館)
http://www.yoshikawa-k.co.jp/kokusidaijiten.htm
『アフリカを知る事典』『オセアニアを知る事典』等の『知る事典』シリーズ(平凡社) 巻末に文献目録があります
『歴史学事典』(弘文堂)
http://www.koubundou.co.jp/books/furoku/21031sub_series.htm
・日本史
http://www.tokyodoshuppan.com/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=4-490-10396-4
http://www.tokyodoshuppan.com/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=4-490-10389-1
http://www.tokyodoshuppan.com/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=4-490-10256-9
http://www.tokyodoshuppan.com/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=4-490-10515-0
『日本史文献事典』(弘文堂)
http://www.koubundou.co.jp/books/pages/25058.html
http://www.yoshikawa-k.co.jp/bunken.htm
・西洋史
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-022016-3.html
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0517-2.html
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0542-3.html
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-003202-5.html
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-001030-6.html
http://www.shinhyoron.co.jp/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi?j1=4-7948-0679-5
・東洋史
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0527-X.html
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/01/5/0110700.html
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0594-4.html
・雑誌
『史学雑誌』毎年五月号の「回顧と展望」(取り上げられていない論文もありますが、重要なものは大方拾われていると思います。史学を学べる大学の図書館なら所蔵しているでしょう)
・参考
日本近代史研究のABC(日本史近代を楽しむ野島研究室のページ内)
http://www4.ocn.ne.jp/~aninoji/lets.study.index.html
東京外国語大学南欧史研究室のページ(「歴史学読書案内」、「リンク集」、「卒業論文を書くために」)
http://www.tufs.ac.jp/st/club/historia/index.htm
近代の経済発展の始点が「資本の蓄積」なのは高校世界史の産業革命や帝国主義で教えられている、いわば日本の常識。
「人口の増加」以前に「大量生産」が必要(大量生産品は購買層が無ければ不良在庫の増加でしかないわけで)。そのためには「大量生産装置」が必要で、そのためには「資本」が必要だったり「手工業」に従事している連中との主導権争いとかさまざまな経緯を経ないと「経済成長」には到達しない。帝国主義ってのは自国内の人口が頭打ちになったから海外の国に売りつけることから始まっているし。
というわけで、何の前提も書かずに「人口の増加」が机上の空論と書く奴は馬鹿。
経済成長の諸要因が揃えば「人口の増加」は経済成長に必須だし、諸要因を欠いた「人口の増加」は貧困の増加でしかない。
ちなみに白人がアフリカから黒人を奴隷としてラテンアメリカ地域に輸入していた時代、アフリカ側には輸出していた国というか部族があった。戦争で勝った部族が負けた部族を奴隷として輸出していたのな。
当然対価は受け取っていたんだが、族長とかが装飾品とか武器の購入に使ってしまい、「資本の蓄積」にはならなかったんだってさ。
インフレターゲットは導入すべきでない
多くの国の中央銀行が導入しているインフレターゲットを日本も導入するべきだという声が一部にはある。
中央銀行制度は宗教のようなものだ。ほとんどの国の中央銀行が熱烈に報じているいくつかの信条があり、
彼らはそれを確信を持って唱え、その論理の進め方にはまるで判で押したような画一化が見られる。
しかもこれらの信条には往々にして、それを裏付ける科学的証拠がほとんどないのである。そのため、
彼らのご託宣はえてして間違っており、彼らの政策は予想された結果や望ましい結果をもたらさないことが多い。
一九八〇年代にミルトン・フリードマンの感化を受けて、世界中の中央銀行がマネタリズム、すなわち中央銀行のなすべきことは マネーサプライ(通貨供給量)をコントロールすることだけだ、という信条を採用した。通貨供給量を厳しくコントロールすれば、低く安定したインフレ率に導くことができ、それによって安定した高成長を実現できる、という考えである。
改めて言うが、マネタリズムを裏づける理論は存在せず、限られた実証分析結果があるだけだった。
実際、マネタリズムは機能しなかったし、いくつかの点では完全な失敗だった。今日では、
事実上すべての中央銀行がこの信条を捨て去っている。(この破棄された信条の名残りとして、
アメリカが、そして世界が、一九八〇年代に経験した経済的苦難の多くは、マネタリズムに対する
盲目的な信仰にその原因があった。中央銀行が通貨供給量のコントロールに関心を集中したことは
未曾有の高金利を招き、短期で借り入れて長期で貸し付けていた金融機関―――とりわけ
何百万人ものアメリカ人に住宅ローンを提供していた貯蓄貸付組合(S&L)―――は、一夜にして
事実上、破綻した。レーガン大統領の規制緩和―――そのおかげでこれらの金融機関は高リスク、
高リターンのローンに乗り出すことができた―――と、いくつかの会計上のトリックによって
崩壊は先送りされたが、それは必ず訪れる報いの日が来た時、納税者が負担するコストが
さらに大きくなるということだった。この救済事件のあと融資基準は当然引き締められたが、
今度はそれが、一九九一-九三年の景気後退の一因となった。
アメリカにはこの嵐を比較的楽に切り抜けるだけの資源があった。(もっとも一九八〇年代
初めの景気後退は、巨額の財政出動にもかかわらず大恐慌以来の厳しいものになったのではあるが。)
だが、マネタリズムが発展途上国に及ぼした影響は悲惨だった。金利の上昇は、
ラテンアメリカ諸国が一九七〇年代の石油価格ショックを切り抜けるために借り入れていた債務が、
突如として背負いきれないほどの額に膨らんだということだった。ラテンアメリカ諸国は相次いで
デフォルト(債務不履行)を起こし、この地域は一〇年にわたる停滞―――いわゆる「失われた一〇年」―――に陥ったのである。
中央銀行はいつも単純なルールを求めており、今日の単純なルールは「インフレターゲット
(目標インフレ率)」である。目標インフレ率を設定して、インフレ率がその目標より低ければ金利を下げ、
高ければ金利を上げろ、というわけだ。インフレ率の変化を生んだショックが
どこから来たのかも、失業率や為替レートがどうなるかも気にする必要はない。その論旨はこうだ。
インフレ抑制に専念することが「信頼性」を生み、その信頼性こそが、経済がショックに対して
より効果的に反応することを可能にする。石油価格が上昇するときは、インフレ率は(一九七〇年代のようには)
上昇しない。中央銀行が素早く行動してそれを抑え込むことを
市場参加者が知っているからだ。インフレ率が将来上昇しないことがわかっているということは、
世界の大部分でインフレ率がこれほど低く抑えられてきたことには、もちろん別の理由がある。
グローバリゼーション全般、そしてとりわけ中国である。海外からの低価格の財が
供給されることで、国内の物価が抑制されてきたわけだ。貿易財は多くの非貿易材の優れた
代替財となる。グローバリゼーションは製造業分野(および他の貿易財分野)の賃金に下降圧力をかけ、
それが経済全体の賃金に下降圧力をかけてきた。市場に十分な競争がある限り、これは
とりもなおさず物価はどの国でも安定を保つということだ。
インフレターゲット論は、少なくとも短期的にはマネタリズムより害の少ない宗教である。
それは一九八〇年代初めのアメリカの異常な高金利のような極端な振る舞いには、概して繋がらない。
しかし、長期的には、ヨーロッパが実証してきたように、景気の悪化を招くことがある。
高レベルの失業にもっと関心が払われていたら、ヨーロッパの金利はもっと低く
抑えられていたはずだ。
高金利は投資を抑制してきただけでなく、為替レートの上昇ももたらし、
それがヨーロッパの景気を低迷させてきたのである。
日本の場合には、インフレターゲット論はデフレ対策として唱えられてきた。
デフレが問題なのは、一つには名目金利がゼロであっても(デフレを考慮すると)実質金利はプラスになる
からだ。デフレが続く限り政府は金利を低く抑え続けるとわかっていれば、市場参加者は、
長期実質金利がやがて低下することを確信して、消費や投資にもっとカネを使う気になるだろうと、
インフレターゲット論者は主張する。日本の場合のインフレターゲット論の問題点は、それが
短期的に間違った変数に着目することにあり、インフレターゲット政策への
コミットメントが信用できるものだとすれば、そのために金融当局は間違った戦略を長期にわたって
推進することになる。
金融政策は実質金利(インフレターゲット論者はこれに着目する)よりも、むしろ
信用のアベイラビリティ(可用性)を通じて景気に影響を及ぼすのである。金融当局が景気をどの程度刺激しているかは、今現在の実質金利(あるいは長期実質金利)よりも信用供給の拡大に注目
した方が正しく測定できる。金融当局が信用のアベイラビリティに影響を及ぼす方法は
いくつもあり、これらの方法が金融政策の中心に据えられるべきである。
さらに、金融当局が長期実質金利に影響を及ぼすことを望んだとしても、それを達成するには
インフレターゲットの導入よりも効果的な方法がある(インフレターゲットの効果は、
せいぜいよくて不確実といったところだ)。一例を挙げると、短期国債と長期国債の相対的な
供給量を変えることによって、これらの資産の相対的な価格に影響を及ぼし、それによって
長期実質金利に影響を及ぼすことができる。
いじめられている子が親や先生に訴えづらい、“チクリ、イクナイ”という意識がそれを体現してそう。
自力で解決しなくてはいけない→自力ではどうにもならないから黙って収まるのを待つしかない
自力で解決しなくてはいけない→一部の格闘マンガがもてはやされる
など、話しを広げられそう。
あ、あと探偵を雇って虐められている証拠を掴んで合法的に訴えるって発想が日本じゃ少ない。
以前何千万も恐喝されていた事件があったが、村上龍がラテンアメリカの人にその事件を紹介したら、
「それだけのお金をむしり取られていたのなら、こっちじゃ傭兵を雇えて復習できるぞ!日本は違うのか!」
みたいな感じで驚愕されたとか。
少子化という事態は、人口の減少は消費の減少を意味する。だから政府は個人消費に頼らない経済政策を打つだろう。高所得者優遇を進めることで、個人消費の激減を抑えるようにはするだろうが、貧民の増加に対しては、手は打たないだろう。自己責任原則の過剰さが言われ始めるようになったが、その言葉はすでに10年前から一人歩きを始めている。もう、全てが遅い。失業した人間や給料の低い人間、雇用が不安定な人間は、その人自身の責任とされ、政府による経済政策の失敗、ひいては官僚機構の無謬性と無責任性の維持のために、自己責任原則はこれからも跳梁跋扈し、大企業の正社員たちは自らの幸運に安堵し、生活を維持するために、そうではない人々への同情は、形にはならず、それを訴える声に耳は貸さなくなる。ネットでの叫びは、匿名性の名のもとに、罵倒される。
階級社会の現実というものなのだが、社会は連帯ということが必要とされる。いつしか、それが消えてしまった。大晦日の格闘技興行で、韓国系日本人を破った選手が日本人は強いとか勝利後のマイク芸でしゃべったそうな。それはそれでよい。負けた韓国系日本人は、大ブーイングを浴びるだけのことをしたのだから。あの勝利のローキックに快哉を叫んだ日本人は多いだろう。しかし、日本人は強いという言葉に素直にうなづくくらいしか、社会の連帯がなくなってしまったのかと思うと、悲しい。連帯が消えてしまった国家・社会は崩壊するしかない。崩壊した後に何があるのだろう。どこに自己の帰属を求めればよいのだろう。自己の帰属が会社だった時代が羨ましい。国家が前面に出てこない幸福な時代。もうそういった幸福な時代はやってこない。
連帯も失われ、セーフティネットも形骸化していく中で、若い連中は将来が描けない。描けるのは、高所得を得ることができる人々だけで、それ以外の連中にそれは無理な相談となりつつある。自己責任原則はここでも登場する。将来が描けないのは自業自得だとか、趣味の世界に走って、異性に関心を持たない嘆かわしい連中が増えた、何だと、萌えだぁ? こんなことしているから、少子化になるのだといわんばかりのマスコミによる大合唱。マスコミに勤める人々は、基本的に勝ち組だ。将来テレビがなくなることはない。テレビを持てなくなる人や見られなくなる人が出ても、彼らは安泰だ。現状のビジネスモデルは、若干の変更が加えられて存続するだろう。そういった連中は、ステレオタイプの若者像を過去何年にもわたって報道し、増幅してきた。ネットでの抗議などは蚊ほどにも感じない。炎上と称しているのもあと数年で、炎上対策がなされ、ネットでの抗議などは意味を持たなくなるだろう。
事実ではなくイメージが先行するのは、さして驚くことではない。イメージで社会が、政治が、国家が語られ、事実や正確な統計は省みられない。イメージが100%正確ではないということではない。一部の人々にとっては正確なのだ。その一部の人々の利益は守られるだろう。そしてそこからあぶれている人々は、貧民としてラテンアメリカのような陽気だけど貧困にあえぐという像を押し付けられる。江戸末期に外国人が来て、日本の一般庶民が大変従順で、幸せそうであることに注目している。彼らは武士たちの巧妙な統治によって、従順化させられていた部分が多分にあるだろう。おそらく数十年後にはきっとそうなる。大して面白くもないお笑い番組を年末年始に放送しているのは、愚民化への一歩ではないだろうか。芸人は罪はない、としておこう。一部芸人を除外すれば、多くはフリーターのようなものだ。今年の今頃にはあの人何処に行っただろうとか言っている、某筋肉自慢の高学歴芸人だっているはずだ。それに多くの人は笑い、年末年始を過ごし、貧民化した人々は、また仕事に向かう。明日とも知れない不安定な生活を少しでも支えるために。ああ、忘れていた。年末年始も仕事だという人もいる。そういう人もまた、不安定な生活を支えるために、懸命なのだ。人間らしい生活など、何処に行ったのだ?
19世紀の労働者たちは生活向上のために戦った。社会主義やら共産主義という方向に行ってしまったのはさすがにアレだったが、それでも権利獲得のために戦い、いくつもの権利を勝ち得た。しかし、権利とは勝ち得た後が大変であることを忘れていた。権利が形骸化させられること、これは最も恐れるべき事態だが、21世紀日本ではそれが起こっている。貧困が自己責任化するまであともう少しだ。生活保護も形骸化し、雇用保険も同じく形骸化する。ありとあらゆる国民生活を支える社会制度が、崩壊する。崩壊しても制度は残るし、運用者が要る。すなわち。それらを運用する官僚たちだけが生き残るのだ。そういった、本末転倒な事態まであと少しだ。日本は22世紀には存在しないだろう。21世紀中に国家の態なさず、事実上崩壊するだろう。希望というものなど、もはや何処にもない。絶望しかない。政府が少子化を訴えても、危機感が迫らないのは、政府自身が手を打つ気がないからだ。
将来、世界史史上稀に見る、統治能力を失って自己崩壊した国家の一例として、日本国が挙げられることとなるだろう。若者たちよ見えないか、ブレードランナーのような情景が眼前に広がるのを。最低限の秩序もないが自然状態をかろうじて回避している、夜警国家以下の情景が。
絵に描いたような生き方をしたら
絵に描いたような悩みを持ったんだ
それはこんなカンジだ
「かといってまじめに研究すんのもめんどくせえ」
「そもそもおれは何がしたいんだ」
「そもそも人生って何なんだ」
極論をいえば、何十億年後には地球も消えんだ
人生なんてその最たるもんだ
年端もいかない子供が「はい、夢に向かって頑張ります」と
生に向かって肯定を宣言しても
もちろん、富裕層まで全て、
一番の衝撃を喰らうのは死の瞬間だ
なのに、困ったことに、なぜか、どうしてか
どいつもこいつも毎日生きる
そばやうどんやめしを喰って、
寝て起きてセックスして殖える
そしてたまに「僕の人生はバラ色に変わった」とか言って、喜んでる
みんないきてる?
みんないきてるから俺もいきてる?
みんながいきてるから俺もいきなきゃ?
俺も含めて、おまえら正気か?
小さなプライドは捨てるんだ
そのうち死ぬものは死ぬと言え
目の前の「いきてる」は本当にそれでいいのか?
そこで「死のう」と言えない事情がある
そんなことを言っても死ぬのは怖い
なんだか良くわからないが生理的に怖い
曲がりなりにも家族や友人を持って、悲しませるのも好きじゃない
面倒が残る
葬式にも金がかかる
なら人を幸せにすればいいんだ
けれどどこからどこまでが他人だ?
全体のパイの大きさは変わらない
そんなことを言っても力への意思がある
完全な再分配はできない
国家や民族や会社や組織や家族を持って、抗争しあう中でボロボロ人が死ぬ
不幸せが起こる
みんなが幸せにはなれない
そりゃ鬱になるよ
俺のできることじゃねーよ
べらぼうな全能感が閉塞を生んでる
もしこれが、
おれの乏しいコミュニケーション能力に起因するとしても、
行動もせずに自分を探して迷い迷ってる甘えだとしても、
こんなのは虚栄だ
こんな星に未来はない
これを見ているアングロアメリカ人、ラテンアメリカ人、アジア人、ポリネシア人、ヨーロッパ人、アフリカ人、宇宙人でもいい
先生の言うことに全て「はい」
親の言うことに全て「はい」
偉い人が言うことに全て「はい」
恋人が言うことに全て「はい」
読んだ教科書に全て「はい」
目で見たものに全て「はい」
生を全肯定、鵜呑み、疑いなし
「しょうがないから」
「みんな言ってるから」
「教えられたから」
「あるある大辞典が言ってたから」
「あの人に褒められればいい」
「あの人に好きになってもらえればいい」
お前が喰い、寝、セックスする間に、惨めな生を与えられてるやつがいる
俺が神に投げかけたい言葉
「もっと私たちのことを考えてください。
愛のせいで憎しみが、出産のせいで殺人が行われています、みんな苦しんでいます。
これでは結果的に、あなたも含めて、誰も幸せになりません。」
これは、この世界に対して、誰でもいいから手当たり次第に言うべきだと思った
けれどキチガイ扱いされそうで言えなかった
だから、ここで言う
誰か、聞いてくれ
――――――
http://anond.hatelabo.jp/20070529230957
触発されて作ってみたがあまりおもしろくならなかった。