はてなキーワード: ミサとは
郊外に住んでる真面目なリーマンだって痴漢しているならただの"痴漢する男"になりますよね。
妄想で語り始める人がいるのは良くないことだとは思うけれど、郊外に住んでる真面目なリーマンが痴漢している可能性だってゼロではないと思う。
だから、そのフェミ?ミサ?が妄想で語っているのか現実を語っているのかはわからないのではないでしょうか?
"痴漢の大半は男がやるから男の責任だ"という発言に対しては、すごく横暴だと思いますね。その方は全体を見ずに、男性主導の痴漢だけしか見えていないのでしょう。
痴漢された女性にも被害を報告しなかったという責任があることは事実だと思うが、同時に痴漢する男性の側にも痴漢してしまったという責任がある。
さらに言えば、痴漢された女性が被害を報告しなかったということに責任を負わなければならなくなったのは、痴漢をした男性が痴漢をしてしまったからなので、まず責められるべきは"痴漢してしまった男性"だと思います。(全ての男性が責められるべきだとは思いません。)
最近、フェミ、ミサ、ミソジニー等、特定の性別に対して一定の考え方、姿勢を持つ人々のことを一括りにする呼び名が流行っていますが、わたしの考えでは、これらの言葉はただのレッテル貼りに過ぎず、本来の問題について話し合うことを妨げる不必要な言葉に思えます。
ミソジニーと言った人はその瞬間にミサンドリストになり、ミサンドリストと言った人はその瞬間にミソジニーになる。
ミソジニーはミサンドリストを産み、ミサンドリストはミソジニーを産む。
悪循環だと思いませんか?
男性はきんモザやゆるキャンや放課後ていぼう日誌等肌色成分売りでない側の男性向けほのぼの漫画を読むのにも申し訳なく感じなければならない、その一方で
女性はゾーニング無しで過激なBL本にNL少女漫画にレディコミを躊躇いなく読み放題とか
どれだけ不公正な国なんだ、この日本は
その結果が今の世の中の歪みだろ。
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https://twitter.com/tk_takamura/status/1301376757174476801?s=19
抱きつかれた子が大人になって「昔男児に抱きつかれた!加害許せない!男児マビマビ!」って言い出すミサンドリになるだろうか
って書いてんじゃん。
実際にそうなったら、その子は大人になってもずっと覚えているくらいに激しく嫌がってた、って事でしょ。
その可能性を自分で指摘しておきながらそうとは限らない!って何言ってんだお前。
お前以外は誰も何も言ってねえよ。お前が勝手にその可能性を考えつつ自分の脳内の「嫌がっている相手の女児」を叩いているだけで。
ほんとモンペだな。保育士が具体的に相手が誰なのか言わないのは当たり前だよ。言ったらお前は相手の女児を攻撃するんだろ?恐ろしいわ。
もうすぐ2歳の息子、保育園のお友達に興味を持ち始めて抱きついたりしてるらしいんだが、抱きつかれた子が大人になって「昔男児に抱きつかれた!加害許せない!男児マビマビ!」って言い出すミサンドリになるだろうか等と考えれば頭がおかしくなりそう。息子は自身の性さえまだ分かってないのに。
許容していないのに急に抱き着いてくるとか変質者かよ。
「子どものしたことだから許そう」って言うのは相手側だからな。勘違いすんなアホ。
お前は同族嫌悪してるだけだよな。そもそもそんな女が一般的ではない。
相手のいないところで悪口グチグチ言うしネチッコイったらねぇわ。
同じ穴の狢同士、仲良くしてろ。
わたしはもう無理。
端的に言うと一旦仕事辞めたいです。
貧乏はすごく疲れることだと知ってる。
そんな疲れることに耐えられそうな気力と体力はないよ。
もう疲れたよ。
もともと自分一人を生かすのもやっと、な体力ない系の女だったんだ。
平日なんとかかんとか仕事して(帰ったら茫然としてた。家事はほぼやらない)、土日にひたすら休んだり家事したり、それで成り立ってた。
子ども生まれたら、仕事のあとにすごい重労働、土日はワンオペ(夫の仕事の都合)。
帳尻が5冊分くらい合わなくなったわ。
職場で周りに子育てママがいなくて、働きながら子育て、がどんなもんなのかまったく思い及んでない様子。
わたしも知らなかったからしょうがないが。何もわかってもらえなくて辛い。
連休は寝るぞ〜ゲームするぞ〜って楽しそうでいいねよかったね!!!
無理です。
人より体力が激しく劣ったわたいが、子育てによりMPとHPがゼロになった状態で、時短内で、かつわたしの低い能力で、その成果出すの、無理です。
これ以上圧をかけないで…
わたしに働きながら子ども育てるなんてできるかな、とは不安には思ったけど、なんとかなると思うじゃん。子どもすごくほしくて、自分がそこそこ働けば経済的にクリアなら産むじゃん。がんばろう!と思うじゃん。
みんな共働きでなんとかやってるからなんとかなると思うじゃん。
でもしんどーーーーーーーーっ!
仕事中によくわからんタイミングで疲れたーって思って涙だらだら出てくる。よくある。
今はマスクでよかった〜
PMSでもないのに。
「みんなそうだよ〜笑」って、ほんとなの?
ほんとにみんなこんなに辛いの??????????????????
すごいねー耐えれて。
よくこういうアドバイスに「もっと手を抜いていいんですよ!」「完璧を求めちゃだめです!」とか出てくるけど
ひくほど手抜きしてっから。
これ以上抜けないー!残念!
そんな手抜いてるならがんばれよ!って思うだろうけど、ほんとに、もとの体力が、ないんだと思う。そしてメンタルが弱いんだと思う。
自分なりにがんばってるんだけど、たぶん他の人から見たら全然がんばってないんだと思う。
ファミサポも以前に週1でやってたけどあまりしんどさの改善につながらずやめたー!そもそも今コロナー!
子どもかわいいだいすき。夫だいだいだいすき。もっと大切にしたい。負担かけてごめんほんとにしんどい、ごめんね。ほんとにごめんね。
ふと、社会人デビューする前にこれを吐露しておくと肩の荷が下りる気がしたので下ろしておくことにしました。推敲は一切しないので悪しからず。
自分は小学校の時、音楽の授業での合唱に何故か強いモチベーションを持っていた。確かあの時はパヴァロッティの演奏のビデオを見たり、ソプラノ歌手のものを見たりしたかと記憶してる。それでもって家に帰るや否やソプラノ歌手の声真似をしようとしていた。声が変わるとそれは厳しくなって少し苦悩はしたが、声は大きかったことと中学に混声の合唱部があったこともあって真っ先に合唱部を選択した。
中学で3年テノール(バリトン寄り)を歌い続けたのは自分にとって一番長い合唱経験になっている。
高校に入るとき、自分は先行き不安定な歌で身を立てる訳にはいかないだろうから、と合唱から距離を置いて勉強に勤しもうとした。が、これにいくつかの失敗を伴った。
合唱から距離を置いた結果中学の合唱部時代の同期達と疎遠になった自分は荒れた自称進学校で格好のストレスのはけ口だったようだ。合唱に勤しみすぎたのか、自分には頼れる人間が合唱部の同期の他にあまり多くはいなかった。それどころか一部の同期には大分冷たい目を向けられていたように今は思う。ただその一方人数合わせに先輩に呼ばれて一度だけステージに立ったこともあった。
高校を出る頃から今まで、自分は合唱から距離を置くべきだったかどうかについては結論が出ないままでいる。そしてこれからも出ないと思う(こういうことを吐露したかった。)
2年を経て上京して、大学に入った際、大学のグリークラブが一曲入学式で歌っていた。ゆるそうな雰囲気を感じてここならやっていけるかと思ったが、ここで思いのほか高い壁に当たった。ミサの聖句の一つ一つが余りにも自分にとって重い物になっていた。かつて中学の頃は文章の意味を追いかけて、恐らくは絵本程度の世界を思い浮かべることが限界だった。大学に入って、あまりにもミサの聖句は苦しいものだった。半年持たなかった。
それから翌年、中学の同期と後輩に呼び出されて歌った。これは昔ともに歌った人間も居て勝手も分かりよかったのだが、やはりミサの聖句は重かった。しかしミサが一番ウケがよかったのも事実だった。結局、1年半ほどたったところで仲たがいしてしまい、それっきり今に至る。
結局自分にとってミサは何だったんだろうか。家は浄土真宗本願寺派と日蓮宗の両親の下に生まれ、それなりに二人とも経を唱える程度のことはし、自分もさせられた。そんな家で育った自分にとって、若いころはミサはもう一つ、どこか別のところで誰かが信じている神の姿を描こうとするものだったように思える。つまり、そこに神は、自分の中では居たように思う。
しかし、恐らくは不登校と化して自傷まがいなこともやっていた(出席日数もギリギリだった)高校時代辺りが節目だったかもしれない。
大学時代に歌うミサは自分にとって余りにどう歌えばいいか分からない、そんな曲だった。旋律を美しく仕上げることは、特に死ぬほど練習した中学時代の勘が多少なり働いてくれる。でもそれだけだった。曲が自分たちを支えている。しかし支えられる自分が何も描くことが出来ないような空虚感があった。神はもう居なかったように思える。
それなりに人を信頼して生きていた中学時代、人を信頼しなくなった高校大学時代ではあまりにもミサに対してモチベーションが違った。
1日経って、やはりある程度肩の荷が下りているのを感じているところです。
思いのほか拙文を人が見ていたので幾分かの追記をしておこうと思います。
グリークラブ=聖歌隊なんだから今思えばバカをしたなと思っています
ではないんですがかなり出身校に偏りがあり、出身の中学から90人程度、ほかの中学も10~30人程度の塊で進学して来ている人が殆どで、既にその中でコミュニティが存在しているというのが実情でした。後東〇予備校に9割の生徒が通っていて、金銭的事情でそういった所に所属しなかったのも大きいかもしれません。
今の自分の思想は無神論に寄っていて、神を熱心に信仰している他人が不思議に思えてしまうのです。
それに、ミサはKyrieなどがそうですが、「私はあなた(神)を讃えます」みたいな内容、つまり信仰の告白を歌詞に含む曲が多い以上それを非キリスト教徒が歌うことに疑問符を隠せないでいます。
言われてみると、合唱と神というスコープを通して興味関心が少しずつハッキリとしてきた人生かもしれません。少なくとも信仰は無神論寄りになって、クラシックな合唱からは足が遠のいているのが実情ですが、時には歌を歌う人、神を信じる人の気持ちを感じる機会を得られればと思います。