それって、自分の中にあるかまってちゃんを私は頑張って抑圧して生きてんのに、
どうしてお前は我慢できねえんだよ、っていう気持ちからなんだなって最近気がついた
法律なんかどうでもいいと思うが、
未成年で判断力が未熟な相手に対してはこっちのほうが圧倒的に有利なわけで、普通はどうやってもフェアじゃない。
「フェアじゃない」ということをお互いに納得できるなら(特に自分が納得できるなら)付き合ってもいいんじゃないかな。
この世の中を生きていくのに一人でも味方がいたほうがよい。
長くは働けない仕事をしている。
独り暮しで結婚の予定はない。
家庭環境に難あり。
その他いろいろ難あり。
いまは何とかなっている。すべてが何とかなっている。
何となく、一人で生きていけている。
いや、殺されていく、というのは間違いだ。
いつかとりかえしのつかなくなる日が来るのはわかっているのに。
何をやってもうまくいかない気がして立ち止まる。
そうしているだけでも時間だけが過ぎ、さらにとりかえしがつかなくなるのもわかっている。
無力感。死んだ目。靄がかかったように、ボーッとしてしまう日が増えてきた。
誰かがどうにかしてくれるなんて思っていない。
でも、自分でどうにかできるなんても思っていない。
早く終わりにしたいのになかなか終わらない。
人生は長すぎる。
ただ、年齢と共に新しいことへの順応の力や記憶力は衰えていくので仕方ないと思うところもある。
じゃあおまえは3000万稼げばいいじゃん。
何かを作って配信するのは15年前に比べるとずっと簡単になった。一緒に作っていこうぜ
ジャニーズJr.っていうのはテレビに出てるジャニーズの後ろでペラペラな割に色やスパンコールやフリンジのきついジャケットと黒いタンクトップを着て踊ってたりするアレで、今まで全くそういうのに興味がなかったのに大学生になってからはじめて本格的に好きになった。山Pはずっと好きだったけど毎月毎月見たいっていう欲求はなかった。テレビでよかった。今はテレビでよくないので、これは異変なんだと思う。
いろいろあって、そのジャニーズJr.にはまってから1年間で100万円使った。これはチケット代だけの金額で、遠くの会場でのコンサートにも行ったから交通費もたくさんかかったしいろいろなプレゼントも渡したけどその費用は別。計算が面倒なのでしません。
100万円という金額が多いのか少ないのかはわからない。都内実家在住、親からはジャニーズのために1円も出してもらってないのでそこそこ頑張ってる方だとは思う。上を見ればいくらでも上はいるし、若手のジャニーズでも舞台の最前列はヤフオクで15万円くらいで転売されてると聞く。そういう良い席を買い集めるために風俗をやっている人もいるし、突き詰めていけばキリがない。
(ちなみにこの記事、ジャニヲタの金銭面のサンプルとしてとても参考になると思いますので興味のある方は是非。 http://jma.hateblo.jp/entry/2013/08/26/120132 )
ジャニーズJr.はすぐ認知してくれる。もちろんひとりひとりにタイプの違いはあるから一概には言えない、全くファンの顔を覚えないし手を振ったりもしないことで有名なJr.もいればその逆もいる。でも恐らくテレビに出てるアイドルよりは遥かに難易度が低いと思う。
匿名ダイアリーに書くのに隠す意味がないから書くけど、帝国劇場や日生劇場やNHKホールには「列」といわれて出待ち文化が未だに根強く残っている。待っている間はあまりしゃべってはいけない(という空気だ)しスマホもいじってはいけない、若い女の子がひとことも発さず有楽町の地下にずらっと列を作っている光景は宗教っぽいなと毎度思う。全然関係ない一般人が「ここで待たないでください」とか怒鳴られてるのを見ると可哀想だなと思う。
出待ち文化はジャニーズ事務所半公認で、ファミリークラブという「ヲタク統括組織」的なものの下っ端がその出待ち少女の大名行列を整理している。未だに存在している事実をジャニヲタはなぜか必死に隠したがって「れ◯」とか「並んでくる」と婉曲的な表現に終始するけど、バカっぽいからやめたほうが良い。
そういう意外とローカルな「アイドルとファンの繋がり」が未だに残っている。自分でも出待ちは80'sアイドルの代名詞だと思っていた。その反面いまは誰でもスマートフォンを持っているからSNS文化に則した発展もなされている。
ジャニヲタのあいだで伝言ゲーム的に広げられていくアングラ匿名掲示板が存在する。海外の無料サーバーに何者かが設置していて、パスワードがついている。パスワードも伝言ゲーム的に広がっていく。
「ヲタ糧」とか「列糧」とかある。ヲタ糧は「ヲタクの話をする糧(=カテゴリの略)」でひたすらジャニヲタが特定個人を誹謗中傷してる。例えば「松本潤担」(担=担当。「推し」と同義)っていうスレッドがあると「今日どこどこの席にいた松本担のツイッターわかる?」とかそういう書き込みが延々なされている。裾野の広い相互監視社会って感じである。「列糧」は出待ちに関する話を延々としてる。今日は◯◯くんの機嫌よかったね、とか。
つまりファミレスとかですればいい女子特有の噂話をジャニヲタはみんな顔を合わせずにアングラ匿名掲示板で行っている。特定個人の誹謗中傷をする掲示板があるという事実だけでも冷静に考えてみるとヤバすぎるし、容易に一般人が首を突っ込んでいいかというと恐らくよくない範囲の話になってしまう。
そして一般的な認知に至るまでのプロセスとしては、出待ちに通ったり、毎月あるジャニーズJr.歌番組の収録に行ったり、舞台に行ったりコンサートに行ったりして認知されていく。
最初は自分にとってそのジャニーズは神にも等しい存在で、多少遠くてもその姿を確認できて踊っているところが見られるだけで「美しい」という感想を抱きながら家に帰れたし、たまに良い席に入ってそのジャニーズが近くに来ようものならもう狂喜乱舞といった感じで、はじめの頃は泣きながら駅のホームで電車を待ったりしていた。うちわに「◯◯くんダブルピースして」とかの文字を書いてダブルピースされようものなら途端にすべての悲しみや苦しみがスッと失くなって足元がふわふわと浮かぶような気分になった。
「リア恋」という言葉がある。リアルに恋してる、の略で恐らく「ガチ恋」等の単語と同義。アイドルを本気で好きになってしまう現象、その状態、そうなっている人のことを指すけれどまさにその単語に当てはまると思う。恋で頭が混乱して、「好きなジャニーズが近くに来る座席を狙ってヤフオクで落札する」という行為がどうしても辞められなくなってしまいものすごく働くことになった。ものすごく働くと疲れるけれど、アイドルのことを考えると全然つらくはない。肉体的な疲労はあるけれど精神的なものはすべてアイドルが癒してくれるので、肉体は横たえておけば良い。
最初から認知されようと思って追いかけていたわけではなくて、「とにかく好きすぎて見に行かないと耐えられない」という衝動から追いかけ始めた。自分は「副産物としての認知」タイプだと思うけれど、もちろん最初から「アイドルに認知されたい」という承認の欲求ありきで追いかける人もいるだろう。それもひとつの形だし、原動力がなんにしろ、どんなにやましいものにしろお金を落とすなら別に良いんじゃないかなと思う。
1年近く「◯◯くんを近くで見たい」以外の感情が無かった。「◯◯くんダブルピースして」の少し特殊なバージョンを長くやり続けていたら、見せなくてもやってくれるようになってそのときに「あ、覚えられてるんだ」と思った。はっきり言ってあまり人気がない方のジャニーズで、同じジャニーズのファンで現場に通っている人はあまりいない。いても毎回、執着的に良い席ばかりでは来ていない。
あっという間にそのファンコミュニティで有名になってしまい、最近では自分が知らない人にも知られているようになった。
近ごろ、なんとなく落ち着き始めた。
毎回、自分が視界に入ると彼は「いつもの」合図をしてくれるし、目も意識的に合わせてくれるようになった。手紙も返事が来て、出待ちにいることも把握されている。(冗談だと思われても良いし、イタい妄想だと思われても良いように匿名で書いてる)
最初そのアイドルを好きになった時の自分は「見たい」という原動力で追いかけていたのに、最近では「見られたい」「いることをわかってほしい」ことがメインになっているように思えてはっとした。副産物が主な目的になってしまっている、という自覚を持って恐くなった。
この前、わざと後ろの方の席をツイッターで譲ってもらって舞台を見た。「わたしは見ているのに、彼からは絶対に見られない」という状況が好きになった最初の頃を思い出させて、ぼんやりと認知ってなんなんだろうと考えた。
本質的に自分がお客様、お金を出しているから優位に立っている。アイドルファンには選択の自由がある。Aが気に入らなかったらBに担降り、ないしは推し変すればよい。でも向こう側に「自分の客」として認識されてしまうとその自由は奪われる。一対一で接客してくれるセレクトショップで「やっぱり良いです」と言いづらいのと同じ心理状況。
もちろん、そんなの気にしなければ良い、と言う一般人はものすごくたくさんいると思うけれど、どんな人でも文字のついたうちわを持って横浜アリーナのセンターに座って景色を見てみればきっと少しは理解してくれる、とまだ私は信じている。
「認知の重圧」というフレーズが気に入っていて最近よく使っている。自意識過剰と言われるかもしれないし、「バカっぽい」と自分を形容することも多いけれど、"俺のファンでいて"、"応援していて"というメッセージを受け取って、そして自分よりも熱烈に強烈に応援しているファンがいない状況を目の当たりにすると、彼の応援を放棄して他のことに眼を向けることができない。
わざと後ろの方の席で見たのは舞台期間の10日目だった。数回目の舞台で、はじめてどういう舞台なのか、どういうストーリーなのか、誰が出ているのかを把握できた。
彼の視界にいるとどうしても彼以外に目線を向けることが憚られる。アイドルは自分たちが思っている以上に目線を気にしている。彼しか見ていないので一切舞台の内容が理解できていなかったし、彼しか見ていないと彼以外のことがどうでもいいから全体像を把握する気にもならない事実を改めて認識して本末転倒さを感じた。
「認知されている」優越感はものすごい。何も持っていなくてもピンポイントで手を振ってもらえること、ある程度遠くの席でも見つけてもらえること、周りのファンから羨望の目で見られること。
でもそれは絶対的な優越感じゃなくて周りのファンとの力関係を前提にした相対的な優越感だから、毎日毎晩不安に苛まれている。わりと本気である日ものすごいマダムが彼のファンになったらどうしようと思っているし、そもそもある日彼にぷいっと気を損ねられて嫌われてしまったら何を生き甲斐にしたら良いのかわからない。
それでも根底にあるのは「好き」という気持ちだから、悩んだりしつつ明日も私はバイトに行くし休憩時間には執拗にチケット流通センターをチェックすると思う。
はっきり言って何も残らない。思い出が消えたら半券しか残らない。でもけっこう本気で、死ぬ間際の走馬灯に横浜アリーナが映ったら良いなと思ってる。
高浜寛の「蝶のみちゆき」がkindle化されていたので読んだ。
素晴らしい作品だと思ったので、感じたことを書いておきたい。
------------------
こんなにダイレクトに"悲しい"という感情をもったのは久しぶりだ。
最近のマンガは良くできていて、いろいろな形で読者の心にリーチできる作家がとても多いと感じている。素晴らしい。
でも、"悲しい"という感情は久しぶりに味わった気がする。
物語の中に選択的な場面や、想像可能な分岐的な要素が無く、やたら自然で固定的に話が流れていくように見える。
運命とかいう話とも違う。物語における運命は外部からの予想外のバイアスであることが多いと思う。この作品にもそうした要素がなくはないが、サプライズ的に扱われてはいない。不幸な出来事や過酷な環境も、読者が自然に受け入れられるよう細心の注意と一体感で描かれている。作家の表現手法の"美しさ"と、丸山という場所が持つ一面の"美しさ"がそれを大いに助けていると思う。
そして、あらゆる要素が物語の中にかっちり収まっていることに驚く。舞台装置も登場人物も無駄なく重要な役割を担っている。
これが完成されているということなのかと改めて認識させられた。
多くの場合、完成された物語は長い年月をかけて多くの制作者達の努力によって積み上げられたものであり、悪く言えばありきたりだったりするものだが、「蝶のみちゆき」はそうした退屈さは見当たらない。完成された物語は見せ方で面白い作品にできる?。いや、この作品は逆ではないか?。完成された物語を見せ方で面白くしているのではなく、各種の要素をゼロベースで組み上げたら完成された物語になったのではないのか?。と思わせる力強さすら感じる(いまどきゼロベースで作品ができるなんてことはありえないので、先行する多くの作品から要素を得ているんだろうけど、比喩として)。マンガ、小説、映画などに類似の作品があるハズなのだが、それらを霞ませている。
主人公である几帳(人の名前)は多方向に要素の線を伸ばしており、その線の先にいる(ある)要素同士が有機的に絡み合う。と書くと珍しくもない構図なのだが、その関係性が高密度かつ自然に描かれている。そして何より几帳は多くの要素を持ちつつもフリーダムな人にならずに統一されたキャラクターを強く保っている。そうした丁寧な描き方から感じるダイナミクスは、線と点のそれではなく面のダイナミクスだ。
読者は、無駄なく高密度に流れていく物語に自然に飲み込まれ(怒涛の!とかじゃなくてあくまで自然に)、気が付くと悲しい終着点に立ち会っている。何の議論も寄せ付けない、ゆるぎなく悲しい終着点だ。
最初に書いたように、最近のマンガは表現が高度になってきており、多くの作家が読者の心にリーチする手法を確立していると思う。
にもかかわらず「蝶のみちゆき」がユニークなのは、ダイレクトな悲しさで読者にリーチしているところではないかと思う。
ストレートな悲しさの表現型は昔の小説や漫画、映画にはよくあったかもしれない。ただ、最近はあまり取り上げられない表現型ではないかと思う。高浜寛はそれを現代的な感覚と、高浜寛自身の持つ細やかさと高度な表現手法によって類のない完成度でリメイクしたといえると思う。
------------------
面白い作品なので紹介したいと思ったのですが、訳の分からないことを吐き出しただけでした。
とりあえず、高浜寛を読んでる人はこれもすぐ読んでー。知らない人は上の感想などは気にせず、検索するなどして興味あればどうぞ。
私は歳のせいにする奴が大嫌いだ。「歳だからできない」という言葉は非常にたちが悪い。理由は2つ
1つめは、お前も歳をとれば俺の言っていることがわかるさという侮蔑に似た態度をとっているようにみえるからである。なんかこっちが悪いみたいじゃないか。
2つめは、反論したくてもできないからである。聞き手が年下である以上、話し手のほうが長く生きているという事実は絶対に覆らない。
何でこんな挑発じみたことを書いたのかというと、「もう歳だからものを覚えられない」って人があまりに多すぎるからである。
そりゃ、歳をとると、記憶力が低下するのはしっている。けれど、その欠点を今までの人生の経験やかちえた技術で補うことは可能だと私個人は実感している。
中学生の時の勉強の仕方は今から振り返ればすごく要領が悪かったはずだ。
高校生の時はどうだろうか。中学よりは多少要領のよい勉強を行えただろうが、それでも今から振り返れば要領が悪かったはずだ。
こうして、私たちは歳をとるごとに勉強とか記憶するコツ、技術を向上させている(はず)なのである。
私から見れば、あることができないのは、歳のせいだからではなく、若いころの怠慢のせいだからである。
「歳だからできない」ではなく、「若いころにさぼった影響が今になって来ているためできない」のである。
ともかく、平気で歳のせいにするのはやめてくれないかなぁ。
まず公式リファレンス読もうよ。つぎはぎの知識じゃ人に教えれることはできないよ。
早く人に相談しようよ。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。
全部僕のことです。
今年から一次ソースを参照するよう意識しています。英語の勉強始めました。開発メンバーへ話しかけやすいようチームビルディングの一環で社内勉強会の主催を始めました。