はてなキーワード: アングロサクソンとは
え、(アングロサクソンが)「私は人種差別と黒人が大嫌いだ」ってのが元だよね?
#竜馬とたけち#
身分制度に疑いを持たないため、将来彼を自分の手足として使うことを当然と考える武市と
そもそも身分制度に頓着がないため、純粋な友人として見ている竜馬の違いは大きいのう
#大村益次郎の知恵#
「竹竿台場も江川台場も役に立たぬ意味では同じです。画餅にすぎぬ。
もともと実現不可能なものを命じられているのであれば、幕府に差し出さねばならぬ図面や設計書もうんと立派なものにする。
図面さえ出しておけば幕府は安心し納得する。5~6年以上かかる大工事の計画書でなければいけません。
なに、心配入りません、3年待たずして必ず状況は変わります。程無く幕府も砲台設置は無意味と気づくでしょう。」
「吉田寅次郎はアホな人ですね。
天下の佐久間象山に就いておきながら、なぜ蘭学を学ばない、なぜ科学を収めようとしなかったのか!
蘭書を読み科学を学べばわざわざ命を捨ててアメリカに行く必要はない。」
あの船の動力室を見れば、西洋の合理主義もオランダの国力も手に取るようにわかる。
→多分これが可能なのは佐久間象山と大村益次郎のふたりだけで、
吉田は日本の中ではとても優秀ながら、これが出来なかった、というか普通できないから海外に行こうとした。
子供の頃から山鹿流を極めて、外国と合戦するという視点に囚われていたから
逆にそれをUnlearnするのはなみたいていのことじゃ難しいというのもあったと思う。
大村益次郎や福沢諭吉レベルの合理性というのは、なかなか難しい。
しかし吉田松陰は合理性の鬼ではないどころかその逆に非常に忠義や友情と言った人間的なものに強かったから
教育者としては短い人生で歴史に名を残すほどに多くの人に影響を与えているというのが面白い。
大阪には、庶民のためにここまで命を投げ出す人がおったんか、と何やら胸が熱うなったな。
それまでわしにとって大阪は出世前の足場に過ぎず、いずれ若い頃学んだ江戸に戻って一旗揚げるつもりやったんやが
何やしらん、大阪の町と底で暮らす人々が愛おしゅう思えてきてね
「この土地に骨をうずめるのも悪うないか」と思って、大阪で異形を開き、適塾をスタートさせることにしたっちゅうわけや。
アヘン戦争が最も愚かな戦争であれば、こちらは戦争と呼ぶのもおぞましいヤクザのゆすりたかり。
アヘンで荒廃した国を蹂躙し、さらに絞り足りぬといえに土足で入り込んで略奪放火までしていくとか。
勝利後の条約がまたひどくて、お前紳士の国とかそれ歴史の教科書見ながらいえんの?レベル。
(ただ、当時の補給線・調達や、兵隊の編成事情を見ても多少は納得する部分もある。
アングロサクソン系はもともとどうしようもない野蛮人であり、それをよく知っているからこそ
自分を律する啓蒙主義みたいなのも流行ったんだと考えると、今やたら紳士ぶってるのもわからんではない
特にロシアの領土拡大・不凍港獲得は、開国後の日本を威圧することに。
→アヘン戦争とか見てると、本当にこの当時のゲスでヤクザなイギリスを相手にしないためにも
鎖国というのは全く不合理ではなかったかも、と思えてくるから困る。
当時のイギリスのゲスさ強欲さ残忍さなどどれをとっても、松前商人をはるかに上回るレベル。(ただし頭も良いから余計たち悪い)
(日本が侵略されなかったのはこちらを食べつくすのに忙しかったからと、日本はそれほど旨みがなかったから、なんだろうか)
→にも関わらず、イギリスはなぜか日本に対しては国と国としての対応をシてくれている。(フェートン号事件をはじめ3件くらい海賊行為があったけど)
実際オランダと同じように、軍艦を一隻無料で寄贈してくれたりとよくわからない。
オランダやロシアとことを荒立てないみたいな駆け引きがあったんだろうか・・・なぜ他の国も辛抱強かったんだろうか、とかいまだによく分からない。
さて、タイトルで「議院内閣制」「二院制」「二大政党」と並べられていますが、これはそれぞれ制度として次元が違う話です。また「この3つの制度を組み合わせて使った方が良い」とかいう根拠は政治学的には特段存在しません。例えば、「強い大統領制-二院制-二大政党」のアメリカ、「議院内閣制-一院制-二大政党」の現在のスウェーデン、「議院内閣制-二院制-多党連立」のイタリア、といったように各制度とも、様々に他の制度との組み合わせが存在します。もちろん英国のように「議院内閣制-二院制-二大政党制」でやっている国もありますが、これが特別にメジャーな組み合わせというわけではありません。
そしてこの3つの次元の違う制度の中でも、「二大政党」は他の2つとレイヤの隔たりが大きいです。「議院内閣制&二院制」と違って「二大政党」は時に「二大政党制」などという風に「制度」として扱われますが、厳密に解釈すれば「制度」として(すなわち法的な根拠を以て)「二大政党であるべき」と定められているものではないからです。「二大政党」というのは「結果としてそうなってる」という状態を指していっているものですので、本来的には制度ではありません。それでも「二大政党制」という言い方が(政治学においても)許容されるのは、二大政党の国の大半は、小選挙区制度等で「二大政党になるよう誘導している」実態があるからです。直接的には「二大政党制度」という法的規定が無くとも「立法精神において二大政党を期待・想定している」と言えることが多い、という程度の根拠なのです。
日本の政治制度も、もちろんこの区別の原則から外れるものではありません。「議院内閣制&二院制」は「日本国憲法」という最高法規で規定されている制度of制度な代物ですが、自民、民主の「二大政党制」になったのは、あくまで「選挙制度(及び政党助成金等の法規定)を大政党に有利な制度としたこと」「大政党有利な選挙制度をひっくり返す程の大きな民意の動きはなかったこと」の結果でしかありません。
長々と前置きしましたが、「議院内閣制」「二院制」といったレベルの狭義の『制度』と、「二大政党」のような実際的な『政党のありよう』は、政治制度論的には全く別レベルの話だ、ということです。
以下、本題。
●他の国のように二大政党制に~
良く聞く言説ですが、これは「間違い」に近い話です。日本では米英の政治が有名なため、あたかも二大政党制が欧米の標準的な制度のような印象がありますが、政党結社の自由が保障されてる国に限っても、二大政党になっている国はむしろ少数派です。しかもその過半を英連邦またはその流れを引く国家で占めています。二大政党は「民主主義国の標準的な制度」ではなく「アングロサクソン系国家での標準的な制度」です。
更に言えば大国で単独政権が普通な国は英米と昭和日本、サイズを広げてギリシャくらいで、二大政党制の国でも連立政権の方が普通です。英米の政党のあり方はかなり特殊で、英米それぞれに、特有の固有事情によって成立している面が大きいのです。
●一党優位用の仕組みを二大政党時代に利用しているのが問題だと~
日本の政治制度は、憲法で規定されているような大枠の部分では、別に一党優位を想定した仕組みではありません。日本の政治制度を大枠で分類すると、「立憲君主国-議院内閣制-(民選第二院型の)二院制」と言うことになりますが、これは結社の自由が保障されている民主主義国家では比較的ありふれた組み合わせです。天皇制を維持することを前提とした上では最も無難な標準パターンと言えるでしょう。このありふれたタイプの政治制度の国での政党のありようは、分極多党制、穏健多党制、二大政党制、一党優位制(例は戦後日本とマレーシアぐらいしか思いつきませんが)など様々です。従って、この「大枠」の部分について「一党優位用の仕組みである」とするのは無理があるでしょう。
そもそも日本国憲法には「一党優位」どころか「政党」に関する規定そのものがありません。日本には戦前から政党政治の伝統があったにも関わらず「国会運用の主体は別に政党である必要はないよ」というのが日本国憲法の立場なのです。
●何かシステム的に抜けているところがあるのでしょうか。
「大枠」が特に関係無いならば「細部」で抜けている可能性が高いでしょう。二大政党制が定着している米英の日本との違いを挙げてみます。
強い大統領制(首相がいない)を採っていて、議会と大統領が別個に選ばれるアメリカでは「大統領-議会」及び「上院-下院」のねじれが日常茶飯事です。どちらでもねじれが生じていなかった期間の方が短いくらいのはずです。それでもアメリカの政治が何とかなっているのは(実は「レームダック現象」のように結構止まってるのですが)、「大統領権限の強さ」及び「習慣的に党議拘束が無い」ことが挙げられます。実は日本の首相も法制度上は非常に権限は強いので(後述)、違いとして大きいのは「習慣」でしかない党議拘束の面です。アメリカ議会においても党の決議というものはありますが、党の決定に反した投票を行っても除名されるというようなことは滅多にありません。従って、大統領が少数派政党所属でも野党の一部を引き抜いて政府法案がとおってしまうことが良くあります。もちろん一部と言えども説得するためには、法案の修正などを余儀なくされることも多いですが、「0か100か」ではなく話し合いで妥協案が作りやすいということです。野党の中核が認めてくれる(かつ与党が我慢できる)ような修正は困難ですが、野党の一部を納得させるだけなら説得でなんとかなることが多い、という感じです。「与党40、野党60、このままじゃ法案通らないので、修正して野党から20人賛成に取り込み。修正を批判して与党から8人離反したけど可決」なんてことを日常的にやっているのが米議会です。
当然ながらアメリカでも日本でも「党議拘束をどうするか」というのは政党内部での独自の取り決めであって、法律で規制しているものではありません。
イギリスではそもそも「ねじれ」は問題になりません。第二院が「貴族院型第二院」であり、貴族院型の通例として非常に権限が弱いからです。貴族院が否決しても庶院が可決していれば、再議決等もなく法案は成立します。
ただ、この両院の権限については「細部」というより「大枠」に近い部分です。日本でも衆議院の優越具合は憲法上で定められています。ちなみに「日本の参院は強すぎる」とよく言われますが、政治制度論的にはこれは怪しい話です。確かに「貴族院型第二院」の場合は第二院の権限が非常に弱い(しばしばイギリスのように形式的存在)場合が多いのですが、日本のような「民選型第二院」や「連邦型第二院」の国では「ちょっとだけ第一院が強い」というのが標準で、日本の参院の権限は(どちらかと言えば強い方には入りますが)「第一院がちょっとだけ強い」の範疇に収まる話です。
●(なぜ)ねじれた時点で機能不全になる仕組みがまかりとおっているのでしょうか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E9%99%A2%E5%88%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%99%A2%E5%88%B6
あたりをご参考に。
もちろん二院制には欠点も多いのですが、実は世界の主流は二院制です。一院制をとっている国は「軍事政権or一党独裁時代の歴史的な経緯を引き継いでいる国」もしくは「人口数百万以下の小国」が大半です。
確かに二院制は本質的にねじれ可能性を内包しています。にも関わらず二院制が主流だということは、多くの国が「ねじれ」を始めとする二院制のデメリットよりもチェック&バランスのようなメリットの方が大きいと判断している、ということです。
制度論としての正面からの回答としては「なぜ両院の与野党構成がねじれた程度で簡単に機能不全になるんだ?ねじれ議会なんて良くある事じゃないか?」という話になります。
実は(二院制とは別の側面ですが)日本の採っている議院内閣制は、行政府の安定性が最も高い制度になります。強い大統領制や、大統領と首相が行政権を分け合う半大統領制は、議会勢力と行政府の代表が独立した選挙で選ばれますので、制度の本質として行政府と議会の一致を担保していないため(両院間の対立ではありませんが)、行政府と議会の対立は議院内閣制より遥かに起きやすいのです。フランスのコアビタシオン時代にせよ、アメリカ大統領の任期後半(たいてい議会が野党多数です)にせよ、ひどい政治停滞にはなっていないわけで、普通はねじれても何とかなるよ、というのが民主主義国一般での実績なのです。
●それとも二大政党制の作法を政党も国民もマスコミも知らないのが問題なんでしょうか.
そもそも二大政党制と「ねじれ」とは直接的な関係はありません。
議院内閣制の日本では「ねじれ」が「両院対立」として現れましたが、「ねじれ」の問題点の根本は「行政と議会の対立」なわけです。この対立は「一党が圧倒的に優位で行政も議会も常に押さえている」という(自由主義的民主国家としてはかなりレアな)状況でない限り、しばしば起こる方が普通な訳です。
「作法を知らない」とするなら「二大政党制の作法」ではなく「議会制民主主義の作法」というべきでしょう。そもそも英米以外の大国はほぼ常に連立政権ですので、どの政党も最終的に何らかの妥協すること無しには政策が実現しないため、閣内/閣外双方の政党間での政策のすりあわせや、政権交代/政権与党組替時の継続性、について不文律が確立しているケースが多いです。
「日本の政治制度は大枠としてはごく標準的なもの。それが上手く行かないなら、制度大枠に起因する本質的な欠陥ではなく、日本特有の事情による欠陥と考えた方が良い」
ということになると思います。(その特有の事情って何だ?という話は政治制度論の範疇を超えますので、ここでは省略させてください)
もし「ねじれ」のような問題を解消するなら、制度論から言っての解決策自体はいくつもあって、例えば
・狭義の「制度」面からの解消→イギリス流に実質的一院制にしてしまう。
(自由主義的民主国家において最も行政府が強力となる政治制度は大統領制ではありません。議院内閣制&一院制の組み合わせになります)
・運用面による解消→アメリカ流に各党が党議拘束を外し、個別の議論で成否を競う。
の2つの方法なんかは、二大政党との相性に100年以上の実績があります。日本の国会の「ねじれ」については制度の大枠の問題、運用面での政治行動の実態の問題、の双方が重なったゆえに生じているので、どちらか片方の解消だけで解決するはず、という考え方ですね。
最も前者は憲法改正が必要な点で、後者は政党の内部規定という法律で縛りにくいものである点で、実現可能性が非常に厳しいのですが。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
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>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
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ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
すみません、森永卓郎さんのことを学者と呼ぶのは、多くの学者さんのためにやめてあげてください。コメンテーター または タレントだと思います。
ちなみに、森永さんはいま見たところ、博士号を取ったということもなく、国内だけでなく、MBAなどの海外修士課程をおさめたということもなく、学卒らしいです。東大の教養学部理科2で入って、経済学部卒というのも今知りました。
つhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E8%80%85
理系の場合には、世界的に見て博士が必要条件であることが多い(アングロサクソン文化では、修士卒で研究職にあっても、研究補助員としか見なしてくれない)
というのが、一般的な見解で、経済学にするにしてもMBA程度、修士程度は収めるべきで、実質からいえば、すくなくとも、博士号というのは、誤りではないと思います。
※多くの誤解を受けますが、博士号というのは、いわゆる研究職の最初にもらえる称号でゴールではありません。これから、研究の道を歩むにふさわしい第一歩を記した物というのが博士号です。
ゴールはないんですが・・・あえてあげるならば、ノーベル賞のような著名な賞という事になるでしょう。という 狭義の学者の定義もある中で・・・森永さんを広義で学者に入れてしまうのは・・・ちょっと 違和感があります。
国家社会主義ドイツ労働者党が誤訳であるというのは、アカデミックな世界ではもはや当たり前となっていますが、
未だに浸透してないことがよく分かりました。ナチスドイツ=民族社会主義が常識となるのはいつの日でしょうか。
用語の話以外のことに、うかつに触れるのはあまり好ましくない(正直、眠い目をこすりながらエントリをざっと読んだだけです)ですが、
印象とすると、大陸ヨーロッパ型の社会的市場経済、国家社会経済、民族社会主義、アングロサクソン型自由主義経済
の4つがごっちゃとなって語られているようですね。
混乱を生むのは仕方がないような気もしますが、教養レベルとして認知されて欲しいものです。
結局、大陸ヨーロッパについての教育がほとんどないのが問題の発端なんでしょうね。ナチスドイツの誤訳は、日本語のセンスの問題ですが。
どちらも日本に比べればエリート主義的だけど、英米と大陸欧州でずいぶんコンセプトが違うからね。
君が例に挙げてるような考え方は英米流での話。全世界的に見て「一流」と目されてる大学は圧倒的に
が英米流が多い。
日本人は、ついつい「欧米」とひとくくりにしがちだけど、「日本と欧米の違い」を問題にしてるつもりで、
実際には「日本と英米の違い」を問題にしているケースが多いよ。大陸欧州は、普通は日本流よりは英米流に
近いけど、「じゃあ日本と英米、どっちに近いの?」というとアングロサクソンよりも日本に近い、ってことが
案外多い。
会計やIPの法務はなんとかなってるんだが、労働関連と資本関連をなんとかせんと駄目。
まずはなんといっても解雇規制。クビ切れない国に外国企業は来てくれない。解雇4要件とか特にアングロサクソン系からみたら論外なんで、労働基準法から変えて判例全部チャラにするくらいの勢いでw 個人的には日本の規制の問題の半分はこれだと思う。
他の労働市場関連では派遣法とか整備して、しょせん先進国水準とは言えなるべく安い労働力を用意しておく。後、本国から赴任する人のために労働ビザ発給と永住権はばんばん出す。
次に株式関連の規制撤廃。会社法関係もだいぶいじらんと。三角買収なんかはようやくできるようになったけど、持ち合い規制(これは緩和と逆だけどな)とかして、外国企業がどんどんM&Aとかしやすいようにしないと。あちらさんだって日本で商売するなら日本企業と資本提携したいだろうに、持ち合いとかあるとどうしようもない。がんがん日本企業買収してもらって資本投資してもらわんと。
アメリカの政府や支配層も、日本の政府や支配層も「大衆の扇動に使った」のではないかな。
正直、よく調べていないから分からないけど。
もちろん、日本側には「見通しの甘さ」はあったのは認めるし、狡猾なアングロサクソンに負けるはずだと思う。意見が分かれるかも知れないが、太平洋戦争なり、大東亜戦争なりを日本が好きで起こしたとは思えない。仕方なくやったのではないだろうか?左翼の多いはてなだとフルボッコにされるような意見だと思うけど。
でも、「日本人だけが特殊」で、素晴らしい論、あるいは、劣っている論、どちらも間違いだと思う。そんなに変わらないと思う。
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」じゃないんだけど、俺が気になるのは「格付け会社はなぜ潰れないのか」だ
そもそも需要あるの?誰が必要としているの?お金は誰が出してるの?なんの目的で?
なぜ調査結果が当然の信頼があるように思われてるの?
リーマンショックであんなことになったのに、だれも調査会社に対して言わないの?
考えれば考えるほど不思議だよ。
日本やドイツ、フランスの大学は10位に入っていなくて笑ったよ。
東京大学が15位くらいに入ってたかな。
百歩譲ってアメリカイギリスは良いとしても他のアングロ国はないだろwってかんじに思ったのよ。
こんな洗脳記事が日常の記事に紛れ、シャワーのように浴びている事に恐怖を感じたわけ。
しかもググってびっくりするのは、ランキングに日本の大学が入ってる事に一喜一憂して
「アメリカの大学はすごい><;」なんて書き込みしてるブログが大量にヒットするのよ。
誰も疑わないその光景に恐怖を感じるよ
格付け会社の評価を、会社ページのTOPに掲げてる間抜けな会社をたまに見るし
アメリカ企業は一流で先進的というイメージや、MBA取得ブームはなんなんだと
なんというか、アングロサクソンの世界戦略でもやってるんじゃないかと
陰謀論めいたことをたまに思うよ。
話が変わるんだけど、和田アキ子っているじゃない。芸能界のご意見番とか言われてるんだけど
和田アキ子が話題の芸能人に苦言を呈すニュースが流れて、普通の人は、和田アキ子偉そうだなと思うだろう。
でもニュースになるということは、誰かの流そうという意志がそこに存在するということだよね。
つまり、問題は和田アキ子にある訳ではないわけで。
その周りにいる誰か、または業界といわれる物で、問題の多くは問題そのものではなく外側にあると思うんだ。
だから、格付けだの、大学ランキングだのもそうだし、芸能から政治、国際問題まで言えるんじゃないかと。
なにかが起こったときに、誰かの発言ばかり取りあげられて
称賛や批判、どちらにしろ一方的に報道されたとき、そこに誰かの意志が存在する
番付がなされたときも、もっともな理由をくっつけて語られるが、本当に妥当なのかだれも分からない。
ただそれを消費して、いつのまにか当然のようにみんなで情報を共有する現状にすごく恐怖を覚えるよ。
歴史的には身体尺、つまり体の一部を使うとかが多いらしい。長さの単位が決まってなくても大きさは表したいから「指3つ分」とか「30歩」とか「歩いて2日」とかになるのは必然だろうね。
以下、主要な長さの定義や起源をwikipediaから抜粋。メートル策定時の「半周期が1秒になる振り子の紐の長さ」がいい感じ。
現在は1/299,792,458秒に光が真空中を伝わる距離。
1960年の第11回国際度量衡総会において、「クリプトン86原子の準位2p10と5d5の間の遷移に対応する光の真空中における波長の1,650,763.73倍に等しい長さ」という新しい定義が採択された。
1983年の第17回国際度量衡総会において、光速度を基準とする現在の定義が採用された。
以下の3つの案が検討され第1案が採択された。
これらはほぼ同じ長さであるが、その元となったのは、ヨーロッパ各地で使われていた、キュビットの2倍のダブルキュビットに由来する単位であった。
肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺である。
紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。
紀元前2750年ごろ古代エジプトのサッカラで、キュビットであると考えられる長さの標準(523.5〜524mm)が用いられていたことがはっきりしている。
0.9144メートル。
キュビットの2倍のダブルキュビットが元になっているものと考えられる。しかし、ヤードの起源とされる説は多数ある。
1/3ヤード。
足(かかとから指先)の大きさに由来する身体尺であるとされている。
1/12フィート。
これとは別に、イングランド王エドワード2世が、大麦の穂の中央から取った3粒を縦に並べた長さを1インチとしたというような説もある。
1,760ヤード。
マイル(mile)という単語は、ラテン語のmille(千)に由来する。古代ローマには、2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)分の長さに相当する"passus"という単位があった。これの1,000倍の"mille passus"がマイルの由来とされている。
3マイル
元々は、人や馬が1時間に歩くことができる距離として定義されていた。
元々の定義は、「地球の大円上における1分(角度)の長さ」であった。
現在は、国際海里(正確に1852メートル)が世界中で使われている。
10/33メートル。
元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。
後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。
大工が使用していた尺は長い間たってもほとんど変化しなかった。これが曲尺である。1歩(単位)の半分を曲尺の1尺とした。
歩幅2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)を「1歩」とする身体尺であった。
後に尺と関連づけられて、8尺または6尺の長さとされるようになった。
1/10尺。
当初の寸は親指の幅を指す身体尺であったと考えられている。
周代に尺の10分の1とされるようになった。
漢代には黍一粒の幅を1分と定め、10分を1寸とした。
6尺。
中国において一般的な建物の柱と柱の間隔を指す長さの単位として生まれたものである。
60間。
丁とも書く。
条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていた。
太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となる。
後に6尺を1間とする60間となった。
里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。6町四方の面積を表していた里が、後に6町を表す長さの単位となった。
日本にもこの ころに里が伝えられ、律令制では5町をもって1里としていた。
律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町から6町の間であった。
ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになる。
ポルトガル、スペイン、南仏、イタリア、もちろんギリシャ、それに北アフリカ沿岸とか。さり気無くトルコ人も食う。大体「欧米キリスト教圏でも地中海沿岸を除いて」とか良く書いてあるけど、少なくとも欧州から地中海沿岸国除いたら半分になっちゃうっつの。アングロサクソン連中とゲルマン人が食に蒙昧なだけなのにさ。
しかしあの「タコは日本人とギリシャ人しか食わない」という都市伝説は何処で生まれたのか。やっぱメリケンとエゲレスというタコ食わない連中だけが日本人にとっての「外国」だった頃だろうかね。あとアジアでも中国とインドの二文化大国が食わないのはでかいかもしれん。