はてなキーワード: 日和見主義とは
人生の地獄はきっと誰にでもあるが、自分にとっては「健常な社会」こそが人生の地獄だった。
「健常な社会」に適応するくらいなら犯罪を犯すか自死した方がまだ自分の人生を手に入れられる。そう思う人間が生まれる必然は「健常な社会」を維持するシステムに組み込まれており、つまるところ何をしても堂々巡りな訳で、やっぱり世の中の未熟さと本能のどうしようもなさに揺さぶられながら、忘却を繰り返して日和見主義で他人に干渉しすぎず生きていくのが幸せなんだろうなという結論に達する。
健常な社会が設けた「児童養護施設」というシステムは、内部で虐待が横行しており、児童の中でもイジメがあり、「何のための施設なのだろう」と気を病んだ私に何度も「そんなんじゃ社会でやっていけないよ」と声をかける健常な社会人であるところの職員は、気を病んだ私から見てもキチガイであった。
養護施設では勉強時間が確保できないので勉強して逆転するような子は少ない。
施設の規則に従って規律正しい生活を送れば、自由時間などほとんどないに等しい。
自分の部屋でダラダラ夜更かししてゲームしたり、本を読んだり、そんな時間も個人の発達には必要であることも全く理解されていない。家畜や囚人以下の扱いである。一般家庭の人間の特権が羨ましくて仕方ない。
さて、こんなひねくれた性格であったせいか、基本子供嫌いな施設職員からも取り分け嫌われていた私は、さらに人に対する恨み辛みを募らせて、どんどん人格が歪んだ。
信頼できる人間に悩みや苦痛を打ち明けても、「辛かったね、大丈夫だよ」と声をかけられても救われない事は明白で、というかあの時の私にアドバイスをするなら「悩み相談をするなら優しい人間ではなく、態度が悪くても解決する能力を持った人間を見極めて選べ。それ以外は屑のようなもの」という事だろうか。こういう境遇の人間は頷くと思うが、「人に優しくしよう」なんて考える人間にロクな奴はいない。
自死を何度も考えた。正直、世に生きる価値があるとは全く思わなかったし、自分より恵まれた人間から受ける説教ほど価値のないものはなかった。恵まれた人間に、人を救済できるだけの知性があればこんなことにはならなかった、肥えただけだろうが。頼むから今後、人命に関わる組織の運営は全てAIとかにやらせて欲しい。その方がまだマシな社会になるだろう。
「普通の人間」にアレルギー反応が出てしまった私は、行政や福祉や一般就労のようなものからなるべく遠い所で生きて行きたいと思い、案の定水商売を始めた。
あらゆる業種を転々としたが、1番面白かったのは性産業で、取り分け「客もキャストもどんな職種の人間でも脱げば同じ」「美人でもブサイクでもどんな人間にも扉が開かれている」という世界が、私に人間性を取り戻させた。ここは誰に対しても優しく、最も平等で、寛容で、安心をくれる社会そのものだ。
私の在籍していた店は多様で、子供に当たり前の生活を渡すために稼ぐシングルマザー、奨学金を返すために働く高学歴の大学生、障害があるけど作業所で働きたくない女の子、銀行に頼らず起業資金を集めたい50代の女性、若いうちに好きに海外に行きたいアラサーの女性など、あらゆる年齢の人が自分の自由と自立のために働いていた。そんなキャストさん達と話す穏やかで豊かな時間が私は好きだ。
ネットでは風俗業の過激さに目が当てられがちな為、ふとこういう話もしてみたくなった。
「死ねば同じ、脱げば同じ」
この仕事で体得したそんな精神は、私の人生にとって大きな慰めであり、今は生きる意味にもなっている。
私の指名客は官僚からホームレスまで様々だ。普通の人間なんて、私の幻想だった。
幼い頃の痛みも恨みも悲しみも、きっと一生癒えることはないけれどしばらくここで頑張ってみようと思う。
非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。
日本人の宗教批判は主にオウム神理教や創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教はやばい」となり、それが「宗教的なものはやばい」となっているのではないか。たしかに新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会の問題がある。
日本人全体で、なんとなく「宗教はやばい」というゆるやかな共通認識があると思う。
そこから「宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間だけが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。
ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質に嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力・権威・金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブな意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教のネガティブな部分についてのものが多いと思われる。
また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか。
宗教的なものがやばいの1つの例でいえば、ガチのドルオタはキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りからは理解不能なのである。アイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分の人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。
アイドルの推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドルの状態を維持可能な状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドルの存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味を見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。
宗教のはじまりはアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないものを発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。
日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分の主観による)。「科学的な権威がありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。
そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。
自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。
宗教が必要かどうかは置いておいて、その発生過程や宗教が果たしてきた役割は、歴史を学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たかが宗教ごとき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である。現在の今の自分にとって宗教は全然必要でないと感じていたとしても、その自分が存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなものが人類の中で大きな役目を持つようになったのか。
真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しかし宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。
科学的であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教の政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか。
また「宗教が必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。
実際にとりあえず「宗教は必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である。仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。
ありとあらゆる宗教的なものは不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。
宗教と宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間の主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである。
宗教と科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。
つまり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。
いったいなぜ、科学的であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか。
そして、自分にとって宗教が必要ないからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。
それから自分は、ロジカルシンキングや科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分はロジカルシンキングそのものや科学的思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。
彼らは科学や論理というアカデミックな権威のおこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的な人間が宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。
Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である。
もちろんあなたはVimを導入しないという選択をとることもできる。
こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である。生臭坊主と言われる。
自分は、そうした既製品の宗教や、新興宗教の教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。
宗教はおもしろい。とりわけ理系で哲学や文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。
ソシャゲはペラペラなゲーム性にあえて価値を認めて金を突っ込む遊びなんだよな。
この「あえて」が出来る人は何かしら見どころのある人でそういう人らの集まる場所は必然的に面白い場所になってく。
もちろん無課金でも遊べるから見どころのないガキが一定数入り込むものの、基本的には見どころのある人たちが引っ張るから安定して面白い。
でも人気が出過ぎるとダメだな。見どころのないガキの絶対数が増えて居場所を主張してくる。
見どころのないガキをたしなめるポジションにも見どころのないガキが入り込んでいよいよ軌道修正が難しくなり斜陽になる。
「あえて」の価値を理解しないガキを追い出せば済む話なんだが、多様性をはき違えて目の前のお気持ちに阿る日和見主義者に権力を禅譲したのが悲劇の始まりだった。
もっともredditのモデレーターはガキの抗議運動ごっこに毅然とした対応を取っていたようだからまともな場所は探せばあるようだ。
ソシャゲは一方で子供の遊びだが、そこに金を突っ込んで大人の遊びへ作り替えるところに創造性を発揮する余地があった。
今の時代は何でもかんでも平等で、子どもも大人も平等だからこそ、この関係性をさりげなくずらせるソシャゲがウケたんだと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20221117054344
この件で北村氏が本質的には謝っていないという話はまあそうだと思うのよ。北村氏に限らず、本件で謝らない(謝れない)フェミニストがいるのもそう。
なぜかというと、「①性被害の告発は基本的に証拠がない状態でなされる」うえ、「②告発を疑うことは、告発が本当だった場合にセカンドレイプにつながる」。
だから、「③性被害の告発は疑うことができない/疑うべきではない」し、「④嘘の性被害による偽の告発を初手で弾けない」んだよ。
もっと言えば、性被害は密室で行われる事が多く、証拠が少なくなりがちであるから告発の論拠が被害者の証言によるところが大きく、そのことが被害者にとって大きな負担であるから歴史的に泣き寝入りさせられがち。その為、そのような状況を改善するために、「⑤性被害の告発がしやすい状況が作られるべき」。
だから、④と⑤が組み合わさって「⑥性被害の告発が嘘である可能性が高まった場合でも、性被害の告発がしにくくなるので「謝罪」ができない」。
今起きてるのはこういうことだと解釈している。
そういう話をすると、「だから性被害の告発に乗っかるフェミニストは駄目なんだ」という話になるんだけれど、個人的にはしゃあないのかなと思ってる。たとえば、山口敬之氏や園子温氏みたいな「告発された側の対応がひどく、外から見てこいつは黒」とそこそこの強度で告発を信用できる例なんかは、やっぱり告発の味方をすべきだろうし。それができるようになったのはフェミニズムのいいところだとは思ってるので。
ただ、山口氏の「運転手やホテルスタッフの証言で警察が逮捕状発行してる」とか、園氏の「同様の告発が複数人から出ている」みたいなのは、外からみても「こらあかんやろ」って判断できる案件だったわけじゃん。それくらいなら告発に乗っかっても違和感ないのよ。でも全部が全部そうじゃないわけで、今回みたいな一件があると、フェミニストじゃない人間は基本乗っかるべきでないと思っちゃうんだよ。なぜなら、そもそも性被害の告発って「告発を信用したら、えん罪に荷担するリスクを追う」し、「告発を疑ったら、セカンドレイプに荷担するリスクを追う」んだよ。どっちを支持してもえん罪かセカンドレイプのリスク追うのって結構厳しいぜ? フェミニストの人からしたら日和見主義って言われるんだろうけど、こんなん静観一択でしょ。
フェミニストは被害者のエンパワーメントの為にえん罪のリスクを追う選択してると解釈してるが、やっぱり草津町の一件はウカツだったと思うよ。もうちょいえん罪リスクについて敏感になろうよ。
元の話題に戻るが、だから北村氏が謝罪しないのは別に一貫してるのよ。ここで謝罪しているのは「フィクションに引きつけて現実の出来事をフレーミングし批判に安直に乗っかったうかつさ」であって、「性被害の告発の味方をしたこと」は謝罪できないってことなのだと思うから。いや流石に好意的に解釈しすぎかもしれないが、自分は誰に対しても可能な限り善意を読み取っておきたい方なので。
なお、本増田は現段階においても結局ことの真偽は判断がつかないので、判断保留です。正直「草津町の性被害は嘘だった」という前提で話を進めるのもかなり危ない。司法に任せとけばいいでしょ。
https://ja.asayamind.com/squanto-true-story-native-american-behind-first-thanksgiving
(和解後)
両者は彼らの関係について批判を受けた。エックフォードはナイーブまたは寛容すぎると非難され、ブライアンは偽の日和見主義者であると非難されました。
彼女は特に、何年にもわたって人種差別の顔であった後、彼女が和解の顔であることに憤慨した白人から批判を受けました。
エックフォードは、ブライアンが本来あるべきほど自分の過去を所有していないと信じており、彼女があまりにも注目を集めているのではないかと疑い始めました。
何も和解できてなかった。
友情は育まれなかったし、許すことも無ければ許されることも無かった。