はてなキーワード: 井上ひさしとは
1.暴力で育てた子供が立派な人間になる(暴力の犠牲を払い成功を手に入れる)例:堀江貴文、井上ひさし
2.暴力で育てた子供が駄目な人間になる(暴力の犠牲を払い失敗を手に入れる)例:宅間守、和田真一郎、ヒトラー、スターリン、サダム・フセイン、酒鬼薔薇聖斗、加藤智大、奈良自宅放火母子3人殺人事件の16歳少年(東大寺学園高校)
3.非暴力で育てた子供が立派な人間になる(暴力の犠牲を払わず成功を手に入れる)例:ビル・ゲイツ
4.非暴力で育てた子供が駄目な人間になる(暴力の犠牲を払わず失敗を手に入れる)例:高橋祐也、ウダイ・フセイン
4つのパターンがありうる。最終的な結果が成功になるにせよ失敗になるにせよ、余計な犠牲は払わないのが合理的である。なぜなら暴力が教育に有益であることは立証されていないから。
1の例に堀江貴文や井上ひさしを持ってくるのは不適切かもしれないが、他に思いつかなかった。堀江貴文はhttps://twitter.com/takapon_jp/status/10509302595 で体罰と社会的成功の関係を一笑に付している。なお井上ひさしは、幼児期に継父から受けたDVを妻に対してそのまま反復していたようだ。
山口組の田岡一雄も継父から暴力を受けて育った一人。田岡の場合も、暴力の被害体験がそのまま暴力の加害者になるハードルの低さに直結しているように思える。もっとも、ヤクザの組長を「立派な人間」に分類する価値観はもはや通用しないだろう。
ヒトラーやスターリンやサダムは社会的地位だけを見れば偉人ともいえる。ただ人間的でないことは確かだろう。
関連記事:https://anond.hatelabo.jp/20071212135135「受刑者の37%幼少時に親からの虐待経験。虐待は世代を越えて移っていく」
やっぱり失くしたものとか諦めたものを細かく挙げていったら、どんだけ愛が救うって言ったって結局恨み節が出来上がるだけだってことだよな。
そういうのは大人向けにやればええやろ。
「悲しいこーともあるだろさ、苦しいこーともあるだろさ、だけど僕らは挫けない、泣くのは嫌だ、笑っちゃおう!」のなんと元気の出ることか。
泣いた後でも笑おうと思えるではないか。あれこそ、歌詞も曲も完成している。井上ひさしと宇野誠一郎は天才。
ここまで書いて、マテヨと思い井上ひさしと宇野誠一郎のwikipediaを覗く。
なんと井上ひさしはめちゃくちゃなDV加害者で猟奇的嗜好の持ち主、宇野誠一郎ははっきりとはわからないが毒親持ちの様子。思わず笑ってしまった。
結論としては、どれだけ作品が気に入らなかろうと、作者個人の家庭の事情や資質を持ち出して作品の内容を邪推するのは誤りなのではないか。
島村英紀先生が長周新聞元旦号に「権力に囲い込まれた大学の研究崩壊」というコラムを書かれたとのことで、同じ内容がインターネットにも掲載されている。
http://shima3.fc2web.com/kakoikomarerudaigaku201501.htm
このコラム自体は昨今の国立大学事情を憂う含蓄深いものであるが、ちらほらと事実誤認や思い込みやホラ吹き寸前の誇張が含まれている。不思議なことだが、偉い学者先生に教育や大学のことを語らせると普段の科学的で論理的な思考が吹き飛んでしまうことがあるのだ。もちろん、これは科学的な論文などではなく単なるコラムであるから、一種のアジテーションとして書かれたのかもしれない。
このコラムを元にして社会で有益な議論が起こるには、アジテーションを真に受けるだけでなく、頭を冷やして考えることも必要だろう。ということで、本稿では島村先生コラムに対して揚げ足取りのような指摘を行うものである。ただし、この揚げ足取りは島村先生に敬意を込めて行うものであり、決して人格攻撃ではないことをお断りしておきたい。
まず冒頭。
このコラム全体の論旨からすれば、崩壊しているのは国立大学である。国立大学が勝手に崩壊しているのである。不確かな理由をつけて多数派である私立大学を巻き込み、大学全体の問題として論じるのは不誠実である。
他方、国からの予算を少しでも多く獲得するために文部科学省から天下りの官僚を国立大学に迎えることも一般的になっている。大学の経営にあたる理事に天下り官僚が入っていない国立大学はほとんどない。
国立大学の法人化以前から経営幹部である事務局長ポストが文部(科学)省人事だったことをお忘れなのだろうか。法人化後は理事という扱いになったが、実態は何ら変わっていない。国立大学が因循姑息として変わっていないことを批判することもできようが、変わっていないのにも関わらず変わったような印象を作って批判するのはゴシップ誌の手法である。定義不明な「天下り」はなんと便利な言葉か。
また学内の教官たちによって選ばれた学長候補をさしおいて天下り官僚が学長になったところもある。そのひとつ、山形大学では学長が替わって以来、窃盗など学内者による刑事事件が頻発するようになっただけではなく、それまで医師国家試験の合格者数で上位だった順位が大きく下落してしまった。大学のモラルが落ちてしまっているのである。
「天下り官僚が学長になったことで大学のモラルが落ち、刑事事件や国家試験合格率低下を引き起こした」のだそうである。これは一体何を言っているのか。因果関係に相当な飛躍があることが明らかであることを考慮すれば、その意図するところは「俺ら学者の島を荒らす奴は気に食わぬ。悪いことは全部あいつのせいにしろ」ということである。同じ理屈によって山形大学の学生・教職員による窃盗などの不祥事が相次いで地元紙に「報じられた」ことは想像に難くない。
モラルの指標に国家試験合格率を引き出すのもまず失当だが、この医師国家試験合格率は合格率が約9割と高く、各大学の医学部医学科の定員数の規模に大差がないことから、その順位は大きく変動するものであることに留意しなければならない。なお、事実としては昨年度の医師国家試験の新卒合格率は97.9%で全国80大学中19位と上位に返り咲いているが、これをあえて昨年度末に退任した「天下り学長」の薫陶と言う者はいないだろう。
じつは研究の面から言えば、このように「明日のゼニになる」研究はたやすい。研究資金さえ豊富で多くの研究員を雇えるならば、研究目的がすぐ近くにあって明確なものゆえに、材料や手法を替えながら大量の実験を繰り返すことによって「研究」が進むからだ。つまり研究にとっての革命的な進歩である研究の質的な向上をしなくてもできる研究だからである。
なんと、金を生み出す研究は「たやすい」のだと言う。「そんな順列組み合わせ作業なら大学ではなく工場でやればよい」と言っているようにも受け取れる。工学研究者は怒って立ち上がってもいい。が、しかし、
現在の研究全体のありようは、過去にはあった研究の質的な革命を生み出すことを止めてしまって「明日のゼニになる」研究だけに注力しているのが問題なのである。
ということだ。「明日のゼニになる」研究だけに注力しているのが問題。その通りであり、島村先生も基礎研究が応用研究よりえらいと論じているものではない。工学研究者の皆様はご着席ください。「明日のゼニになる」研究にも「研究の質的な向上」が必要なものであり、読者は注意が必要である。
もうひとつ、この種の外部資金頼みの研究には危険がある。それは防衛省が進める大学や各研究機関との共同研究が、近年急増していることだ。
防衛省や防衛産業にとってみれば研究者の頭脳はのどから手が出るほどほしいものに違いない。だが研究者には戦後ずっと軍事研究や防衛省への協力に抵抗感があった。しかし、その「歯止め」も年々弱くなって、旧制帝大7国立で軍事研究を実質的に禁止しているのは東京大と大阪大だけになってしまっている。
軍事研究が是か非かについては意見がわかれるだろうが、ここは島村先生の立場に則り「非」として考えてみよう。現状、軍事研究を実質的に禁止している大学がどういう状況にあるか。軍事研究推進派である右派団体・産経新聞は、大学のこの方針を徹底的に非難する。では、軍事研究否定派は大学の擁護をするかというと、そうではない。否定派の左派団体・労働組合は「この方針は我々の闘争によって勝ち取ったものであり、大学当局の弱腰を許さない!」と、なぜか大学を非難する側に回るのだ。軍事研究を禁止している大学は、賛否両派から攻撃を受ける状況にある。面倒極まりない。それではいっそのこと「歯止め」を外したくもなるというものである。否定派は、党派的な対立構造を作った上での主義主張という古風なスタイルが目的に対して逆効果となっていないか十分に内省すべきだろう。さて、この段落、島村先生の主張とあまり関係なかった。
大学は、井上ひさしの『ボローニャ紀行』にあるヨーロッパ最古の大学、イタリアのボローニャ大学のように、もともと権力とは独立したものとして生まれて育ち、それゆえ文化的で独自の価値を生み出してきた。しかし、いまの日本では、否応なしに権力に囲い込まれた形でしか暮らせなくなっているのである。
あらゆる権力から独立した存在としてのボローニャ大学。大学関係者が好んで取り上げる事例であるが、これも留意すべき点がある。そこには自治はあったかもしれないが、今日で言うアカデミック・フリーダム(学問の自由)、すなわち、教育や研究の内容に対する自由がなかったことはあまり言及されない事実である。アカデミック・フリーダム、特に研究を行う自由は国家権力の庇護下においてその権力に囲い込まれることによって成立した背景を忘れてはならない。「いまの日本では、否応なしに権力に囲い込まれた形でしか暮らせなくなっているのである」。然り。ただし、それは今に始まったことではないかもしれない。
大学は、権力との不可分な関係とどのように付き合っていくか。あるいは、不都合があるならばどのように新たな関係を構築するか。検討すべきはそこであり、この島村先生コラムはその議論に有益なものであろう。しかし、頭に血をのぼらせるようなアジテーションでは「権力の介入を許すな!」という小学生並みの感想にもなりかねないと思い、誰に届くかわからない増田にいろいろ書いた次第である。
逃れられない理不尽さによって自分自身の中に宿った憎しみに対し
1,綺麗事のお題目にすがって自分とは関係のない外部の人間を攻撃し(ウヨ、サヨ、カルト等)その分、自分の属する共同体の内部の人間には優しくなる。
2,自分の内部の身近な存在に徹底的にあたり散らしてその分、外部に対しては善良な人間(と自分自身が思っているモデル)になる(井上ひさし 埴谷雄高)。
3,憎しみを自分自身で抱え込んでさっさと自殺もしくはアル中薬中(カポーティ、ジャック・ロンドン)。
この三つの選択肢の中でどれが人間として一番マシで善良な行いなのかを最近ずっと考えている。
4,で外部内部問わず憎しみをぶちまけたあとに裁かれて死ぬ、と言うのも考えたが(宅間守 ゲイリー・ギルモア)これはそれによって救われる人間がいないので選択肢から外した。
時間薬という言葉もあるが、自分の体験を顧みても憎しみというのは残念ながら上の四つの方法で使い切るまでは、なくなってくれないように思う。
日垣氏がTwitterを始めて以来、著書を買わなくなってしまいました。
著作と著者は別物とはいえ、店頭で手に取っても幾度の炎上が頭をよぎり……。
実際の取材や執筆は大勢いるらしいスタッフが請け負っているのではないか
と思うようになりました。
まあそれなら優秀なスタッフにお金を払う感覚で買えばいいかなとか……。
日垣氏自身がとても優秀な人であるのは疑いないと思うんですけどね……。
秀作であることを否定する人はあまりいないのではないかと思うのです。
著作が良ければ人格がどうでも受け入れられるのは
石川啄木や井上ひさしなど例を上げずとも自明ではあるのですが。
どうしても「◯◯なんだけど……」と割り切れない思いが。
喫煙者次々と死にますねぇ。 忌野清志郎もついに死にましたね。
赤塚先生も死にましたね。 元阪神の加藤博一さんも死んじゃいましたか。
いい人だったというけど「タバコやめろよ」
といってくれる真の友達や家族はいなかったんだねぇ。
阿久悠死んじゃったね(笑) 超ヘビースモーカーだったらしいね。
柴田恭兵も肺がんですかぁ。ヘビースモーカーの二子山も死にましたね。
ファンに同情されるようじゃミュージシャンは終わり。
なんですね。
ヘビースモーカーですよ、彼らはもちろんやめましたがね。
墓穴掘りますよ。
愛煙家の筑紫さんも癌ですか。
しかも肺癌とは(笑)。 鳥越は生きてるか。
今年になってからも公の席で「喫煙率が半減したのに、
といった発言を繰り返していたようだ。
こんなことを言っていたとは。
つくづくタバコは罪深いと思った。