はてなキーワード: ナショナリズムとは
ナショナリズムに対するスタンスは個人についてはその通りと思うんだけど、曲がりなりにも国政政党の看板背負ってる議員の発言でしたからね。
「国政政党の議員なら少なくとも日本代表に負けてほしいと公言すべきではない」
というものですよね。
もちろん、「人権」という人類普遍の概念の前では日本の国益なぞ二の次だ、という政治的スタンスも自由だけど、それでも「勝ち負けに関心はない」くらいに留めておけばいいわけで、あえて「日本が勝って残念」まで言う必要はないわけですよ。
そのような文脈での「日本が勝って残念」発言に対して有権者が、「その溢れ出る日本disのパッションはどこから湧いてきてるの??」と疑問に思うのは、そんなに不当なことではないですよね。
増田が理想としたように、もし羽鳥議員が熱心なドイツサッカーファンで政治とサッカーを綺麗に切り離した上での発言であれば、何の問題もないのだろうけど…
あれって、もし自国チームにマイノリティ出身の選手がいても負けを祈っていいものなんだろうか?
マイノリティの活躍を支援するというリベラルのもう一つの希望が果たせなくなるんじゃなかろうか。
ドイツのリベラルも、マイノリティ選手がいるだろうに関心低下しちゃっていいのかな。
ウェルト紙は「消極的なドイツが日本相手に恥をさらした」と非難。フランクフルター・アルゲマイネ紙はスペインとの次戦を控え「もう敗退の危機」と報じた。
ドイツでは、カタールが出稼ぎ外国人労働者や性的少数者の人権を侵害しているとして観戦をボイコットする動きも広がる。市民らのW杯への関心は初戦敗戦でさらなる低下が危惧されている。
↑左翼
左翼。
資本主義は格差が激しくてついていけないから、もっと平等で公正な社会を目指そうぜ、という感じ。
資本主義によって、土地や工場などを私有する資本家が労働者をこき使って搾取するようになったので、それを打破して平等な社会を目指す。
そのためには、労働者自身が土地や工場などを管理する体制(プロレタリア独裁)を武力を用いてでも築くべきだ(暴力革命)、という感じ。
暴力革命を志向するテロリストや、スターリン・毛沢東のような独裁者を生み出した。
マルクス主義を反省して、暴力革命やプロレタリア独裁を否定し、民主主義を通じて政府に働きかけ、平和的に社会主義を達成しよう、という感じ。
政治面においては「俺たちには自由に生きる権利があって国王や貴族でさえそれを侵害できないぜ」という感じ。
民主主義や共和主義を志向する。フランス革命時における「左翼」。
経済面においては「俺たちが自由に商売すれば自然とバランスが取れるんだから政府は余計な口出しすんな」という感じ。
資本主義や市場主義を志向し、個人の権利を重視して「国家権力は小さくあるべき」と考える。
「社会自由主義」の台頭後は、区別のために「古典的自由主義」と呼ばれる。
古典的自由主義のように野放しにしていると、差別や格差が広がって個人の自由が制限されるから、むしろ国家権力が介入して積極的に差別や格差を是正すべきだ、という感じ。
社会自由主義の反動から、一周して古典的自由主義に戻ってきた感じ。
自由な市場を実現するために、規制緩和をしたり、法人税を下げたり、国営企業を民営化したりする。
右翼。
何らかの急進的な政治運動に対して、それに反対する立場が「保守」と見なされる。
それぞれの政治体制や歴史的経緯によって何が「保守」となるかは異なってくるが、現在の日本においては、政治的には「国家主義」を、経済的には「新自由主義」を指すことが多い。
もとは自由主義と連動していて、誰かに支配されたりするのではなく「俺たち」が中心となって行動すべきなんだ、という感じだった。
しかし国民国家が成立して「俺たち=国家」となると、「おまえも俺たちと一緒だよな」と均質化を強要したり、「おまえは俺たちと一緒じゃない」と排外主義になったりした。
「俺たち」を結びつけるものは「民族」「家族」「宗教」「伝統文化」などであることが多い。
さらに行き過ぎると「個人の権利よりも国家の利益が優先される」という「全体主義(ファシズム)」となる。
↓右翼
その手のやつな、現状の分析としては一理あるけど、一理以外は何もないだろ。
まさか個人の幸福と人権概念ほっぽりだして全体主義ナショナリズムに戻るわけにもいかんし、そもそも戻るのは不可能。
お前がここに書いてる"解決策"は、これまで右派論者が述べてきたのと方向性を同じくしてると思うが、俺には「何もできませんし、しませんので、とりあえず話のオチのために夢だけ語っときます」と言ってるとしか思えん。
もはや疑いなく、未来においても、ますます公共は不可能になっていくし、それで滅びるようなら社会と人類は滅びる。
まあ滅びないとは思うよ。
ナショナリズムの定義がよくわからんからナショナリズムと、個人の権利との対応がわけわからんことになってるぞ。
ホッブスの「万人の万人に対する戦い」と消極的自由と、積極的自由の話ぐらい踏まえてるよな。
個人の自由をフルで認めると権利同士の衝突となるから、共同体に一部権利を預けて衝突を回避する。共同体のことをナショナル= 国 全体 または 国家 に属するとするならそれもよかろう。
君の言う左派ののナショナルな団結と、右派のナショナリズムを前提としてその権利を認めるという話の違いはないように見えるがな。
その上で、「「縛りや邪魔がない」という自由」を指向する消極的自由主義と「「自分の意志で好き勝手にできる」という自由」を指向する積極的自由主義のどちらを取るかだ。
消極的自由主義は金持ちが好き勝手できるということで強者寄りで右翼とも言えるが、もはや右翼左翼なんて対立校は邪魔なだけだ。
いわゆる左派の主張する大きな政府とか福祉国家というビジョンはフランス革命以後の国民国家を前提にしていて、その限りでナショナリズム自体は左派にも内在している。順序としてはリベラルな価値観である個人の権利を擁護するためにナショナルな団結を要請したわけだ。
ここから個人の権利をラディカルに主張して国民や国家を含めたナショナルなものの解体にまで行くと左翼の極北、アナーキズムに至る(共産主義の最終目的地でもある)。
他方で右翼の場合、一般的にはナショナリズムを前提としてその限界内で個人の権利を認めるという形になる。
つまり左翼にせよ右翼にせよ市民革命以後、国民国家以後の概念なので、前提としているところはそう変わらず、個人の権利とナショナリズムをどう位置づけるかに相違がある。
だからナショナリスティックな左翼もありうるし、リベラルな右翼もありうる。
これが極右や極左になると、どちらも国民国家以後の「近代」という枠組みからの脱却を志向するものになる。大ざっぱに言えば、極右は近代以前に近代の超克を求め、極左は近代以後を想像する。