はてなキーワード: 移動の自由とは
富士山の頂上には富士山頂上浅間大社奥宮という神社があり、夏頃には富士山の登山客が多く参拝している。しかし現状ここに車椅子の人が参拝をするのは限りなく不可能に近い。さて五体満足の人であれば行くことができるこの神社に車椅子の人が行けないのは移動の自由の制限にあたるのだろうか?
結論から言えばこれは制限にはあたらないと思う。なぜならそもそも車椅子の人でも登れるように富士山の登山道を改造することは現状の技術力では不可能だからだ。技術的に不可能なことはどれだけ倫理的に問題があろうと改善の仕様がない。
では全ての無人駅に車椅子の設備をつけるべきだろうか?これも不可能だ。ごく一部の秘境駅以外は駅に車椅子用の設備を備えることは技術的には可能だ。しかし財政的にこれは不可能だ。国の施設であるなら車椅子用の設備は必要だが、JRは私企業にすぎず改善するべきであってもある程度限界がある。無人駅というのは人を置くほどではない小さな駅である証拠であり、わざわざ車椅子用の設備を置く必要などない。国鉄からJRに民営化した時、地方路線が廃止され地方が切り捨てられるのと同様に障害者も切り捨てられる運命になっていた。今はまだJRは頑張って設備を整えたり、地方路線を残したりしているが今後利用客が減れば、確実にここら辺は削られることになる。
結局のところ、移動の自由というのは確かに存在するが技術的、財政的に全ての人が全ての場所に行けるようにすることは不可能だ。将来的に無くすようにしていければ最善だが、現状不可能なものをいくら言っても意味が無い。
物を言うのは大事だけど、相手の負担も考えず一方的な立場からの発言は配慮が足りない。
権利は勝ち取る物でなく分かち合う物。
明確に言い切りすぎるのもどうかと思うが、敢えて言うなら、
というのが法治国家ではないのか?
そもそも、この世界が、分かち合う、譲り合う、相手に配慮する、で解決できるんだったら、台湾有事なんて起こらないわけで、
争いごとは法廷か戦争でしか決着はつかない、これは自明だと思う
では、暴力はどうなのかといえば、法治国家での暴力は警察や軍隊といった暴力装置によって規制されるべきであり、
むやみな暴力を許す法治国家というのも一般的にはありえないわけで、
結論としては、権利というのは法廷で勝ち取るものであり、議論や口論には限界がありすぎる
あと、「若い障碍者は頭を使ってほしい」みたいな物言いは障がい者雇用でも企業側によく言われるのだけど、
少なくとも凡人がちょっと頭を駆使して解決できるような悩み事なら、障がい者になんてなるわけないし、
そんなこと言われなくてもとっくに解決している話なわけで、
上述の文章は、障がい者=黒人、アフリカ系アメリカ人に置き換えてもそこそこ互換性のある話だと思うんだけど
結局は、障がい者に配慮するコスト、と、障がい者への配慮は健常者には無駄でしかない、というのは両立しうる話であって、
障害者は頭を使え、
というのは難癖の付け合いと同じである
漫画の話に例えるのもなんだが、
例えば銃夢のモーターボール編でジャシュガンがガリィに、自由とは何なのか?をうまく説明している
(このへんの元ネタは荒木飛呂彦のジョジョなどにあったのかもしれないが
自由というのは、それを手に入れる、勝ち取るために足掻き、もがくことを自由という、みたいなトートロジーだった気がする
しかし、これは言い得て妙であって、少なくとも白人社会での自由の定義をうまく説明しているように思う
そもそも、日本には「自由」という単語が黒船が来るまで存在しなかった
それまでの日本は上に従うのが当然であり、例えば関所などは移動の自由を大いに侵害していると現在なら考えられるが、
当時の日本ではそれが当たり前であり、∀ガンダムの地球人側ではないが、そもそも日本人とは白人に比べれば、そういう点で蛮族だった
フリーダムやリバティーという単語に相当する単語がなかったため、「自由」という単語を造語したのである
しかし、この「自らを由とする」という漢字による当てはめも素晴らしいものだと思う
現代では、少なくとも法治国家においては、権利や自由は法律で争い、勝ち取るべきものなのだ
他人への配慮だの、分かち合いだので、自動車事故が解決するだろうか?よく考えてみてほしい
そして、この勝ち取るために足掻きもがくという行動に対し、法律の下であるならば、何人もそれに規制や制裁を加えてはならない
しかし、ルールを守らない人は当然存在するし、ルールというのが文章である以上、解釈も複数存在しうるのである
法学部でなくとも、法律を学ぶ、研究するというのはそういう意味があるのである
ルールを書いたら終わり、ではない
性悪説で考えるなら、ルールを書いても人はルールを守らないだろう
では、守らない人をどうするか、という所から暴力装置の必要性などに話がつながる
権利や自由は寝ているだけでほっといても与えられるものではない
それから、今ただただ与えられている権利だって、過去に勝ち取った権利を多く含んでいるのだ
我々はその積み重ねで生きているわけだし、
障害者のことを想定していないお前の「通常」だの「常識」だのという安易な物言いを皮肉ってるだけで、お前の現実主義者気取りの「理想はー現実はー」なんて差別的な価値観を内包した言説に納得することはないですよ
差別的な扱いを受けて移動の自由を担保されない人がいるのが現実です
それが企業で言う法令遵守やCSRであり、国家なら人権を守るための義務だからですね
単純に言って意味不明です、謎の足し算を出してきて気でも狂ったんですか?
まぁリソースが無限ではないという、いち利用者には関係のない謎の話をしてるんでしょうが
リニア新設などという国家的実験をしようとしてるのだから鉄道事業全体に身銭がないなんて話はありえない話なので、そもそもバリアフリー化に十分なリソースを割いてない(割く気がない)というだけの話でしょう、1を40にすれば済むだけの話です
40にするのはどうするんだ!とか言うのでしょうけど、何度も言うけど知ったことではありません
利用者はその方法が適切でなければ(運賃2倍)批判するだけで、適切であれば受け入れるだけです
じゃあ何で言ったの?w
馬鹿なの?w
へえ、それで
なんですね
あなたは当事者意識どころか現実に意識がないんじゃないですかねw
お前がそれっぽいことをいくら言ったところで、障害者差別の意識を消せないヘイターで、障害者を尊重しようとする人も気に食わないだけの迷惑野郎でしかないんだよ
なんかいろいろ田舎とか都会とかのQOLの問題が定期的に話題になるので書く。
自分は東京(中央区)出身、本当は東工大に行きたかったけど、いろいろあって関西の大学に行くことになって、最近創業者が話題になっている部品メーカーで働くことに。30代後半、嫁と子供1人。年収は650万くらいで、世帯収入はギリギリ1000万いかないくらい。
研究所が関西の割と田舎にあり、結婚して家を買った。かつては激務の会社と言われていたが今はそうでもない。中古で2000万でリフォームに600万ほどかけている。5LDK。
会社は家からクルマで40分くらい。朝はちょっと混むけど色々考え事も出来るので良い時間になっている。自動車通勤は快適そのもの。家は駅からは遠いけど車があるので特に不自由しない。スバルのSUVとダイハツの軽がある。スバルは中古で200万円くらいだった。ガソリン代は会社からでるし、それ以外の維持費はiPhoneの良いやつを使うのとそんなに変わらない(自分は楽天のスマホ)。駐車場は持ち家なので必要ない。そしてどこに行くにも大体無料の駐車場がある。クルマがあるとびっくりするくらい移動の自由度が広がります。
すぐ近くに大きな湖があるし、休日は山でもどこでも好きなところに行ける。少し足を伸ばせば京都や大阪にでれるし、ネット通販があるので別に買い物にも不自由したことはない。家のローンはもう完済間近で、毎月5万円くらい投資信託を買って地道に貯金している。
思うのだけど、東京で1.5倍くらいの世帯収入の人よりずっと豊かな生活だと思う。自分が東京に住んでたときは、父親は公務員だったけど、小さな宿舎で高校生になっても個室もなく、どこに行くにも電車だった。今は広い家に広い車だ。何も考えずにクルマに乗ってカーナビに目的を設定すれば好きなところに行ける。まあちょっと心配なのが教育だけど、ジャストシステムのタブレットをさせていて塾とかには行かせてない。それで十分な気もする。