はてなキーワード: 弾圧とは
そりゃ、当時の大日本帝国にあっては、直接的に皇軍に加わりアジア諸国を侵略したわけじゃなくとも、多かれ少なかれ悪事に加担はしていただろう。
工場勤務の青年は、他国を侵略する兵器を作っていたかもしれない。銃後の婦女子であっても、息子や夫を戦地に送り出して侵略の片棒を担いでいたかもしれない。軍人とは縁遠い教師が、軍国主義を子供たちに吹き込んでいたかもしれない。
あるいは生まれたばかりの赤子であっても、その子に乳を含ませた母親は、植民地から収奪してきたコメを食べていたかもしれない。とすればその赤子の幸福もまた、植民地の人びとの血と汗の上に成り立っていたことになる。
『この世界の片隅に』で主人公が泣き崩れるシーンを想起されたい。あのシーンは、自分たちの「平穏な日常」が植民地からの収奪の上に成り立った「暴力」であると気づくシーンであり、主人公に自覚していなかった「責任」を突きつけるシーンだった。
そういう意味で「無辜の人々など本当に存在したのでしょうか?」という問い自体は正しい。が、同時に、その問いを「この文脈で」持ち出すのは間違っている。
第一に。なるほどそういう意味で「責任」はあろう。だが、それは核の炎で焼かれても仕方ないほどの「罪」なのか。
ホロコーストを計画・実行した連中だって、生きたまま焼かれはしなかった。ニュルンベルク裁判で死刑宣告を受けた死刑囚たちは、どれだけ残虐なナチであろうと絞首台に吊るされる程度で済んだ。
それなのに、戦争犯罪や侵略を命令したわけでも実行したわけでもない、せいぜい「喝采を叫んだ」「止めなかった」「のうのうと暮らしていた」程度の人たちが、あんな殺され方をしていいのか。
罪には軽重というものがあり、罰はそれに応じたものであるべきだろう。
被抑圧者の膏血を絞って暮らしていたことに対して、下の世代から糾弾され反省を迫られる程度のことは受け入れるべきだ。でも、原爆で焼き殺されてもいいなんてとても思えない。
第二に。その論理を敷衍していくとヘイト野郎やテロリストどもにお墨付きを与える結果になるだろうが、それでもいいのか。
たとえば現在の中華人民共和国による少数民族への迫害に、中国人民は責任を負っている。外国に観光旅行に出かけるような都市部の裕福な人びとの暮らしを支える資源の一部はチベットから収奪してきたものだし、彼らの享受するテクノロジーは新疆でウイグル人を監視することによって発展してきた側面もあるし、彼らの抱くチベット人やウイグル人への偏見は政府による民族弾圧を側面からアシストしている。
では、彼らには迫害や弾圧への責任があるから、秋葉原で楽しく観光しようとしたときにヘイトスピーチを浴びても仕方ないと、暴力的なデモによって威圧されても仕方ないと、そういえるのだろうか。あるいは、だからテロで殺されても仕方ないといえるのだろうか。
アメリカは悪の帝国だから、その経済的中枢にあるニューヨークの人びとがビルに突っ込んだ飛行機に殺されても正当性があることになるのか。イスラエルはパレスチナを侵略しているから、イスラエルの空港で銃を乱射して民間人を虐殺しても正しいといえるのか。
世界貿易センタービルにいた人びとは、アメリカ帝国主義による他国への侵略や経済的収奪に責任の一端を負っていた。ロッド国際空港にいたイスラエル市民は、イスラエルの植民地主義に加担していた。だから彼らは崩れ落ちるビルに巻き込まれても仕方なかったのか。だから彼らは自動小銃で撃ち殺されても仕方なかったのか。
無辜の人々など存在しない。現に私たちは今も外国人技能実習生の汗と涙で育った安いレタスを食べ、ブラック企業にすり潰された人々の血で染まったシャツを着て、過疎地に押し付けた発電所から電気を供給されて暮らしている。現代日本で豊かな生活を送る私たちには責任がある。だがそれは、私たちが惨たらしく殺されてもよいことを、決して意味しはしないのだ。
その昔から女たちは教室の影でボソボソするオタク達に侮蔑の目を容赦なく浴びせ唾を吐いてきた。女たちはオタク達にキモい、消えろ、何度となく呪いの言葉をかけた。オタク達はこの世に絶望し、機械の中に救いを求めた。オタク達は機械を友達とし伴侶とした。社会が少しずつ機械文明になるに従って、教室の隅っこ暮らしだったオタク達に少しずつ光があたるようになった。女たちは相変わらずオタク達に唾をしていたが、オタク達の中から成功者がでてくると喜んで尻尾を振った。普通のオタク達には変わらず唾を吐いた。オタク達が社会の中で一定の存在感を示すようになるとオタク達の文化が社会のここそこに表れてくるようになった。女たちは激怒した。女たちにすれば、オタク文化は気持ち悪いオタクのスペルマが社会のここそこに撒き散らされたようなものだった。女たちは叫び声をあげ、仲間を集めてオタク達の弾圧を始めた。
ネットでの攻撃やリンチを規制する政策を作りましょう。もはや今の匿名アカウントによる人々在日や女性のような被差別者へのやりたい放題は現実の暴力よりひどい結果をもたらしている。ネットという公共空間での言論の自由を個人から剥奪するのだ。 https://t.co/qlgDwJ4MLv— 青地イザンベールまみ (@aojimami1) November 11, 2018
フェミや韓国人に逆らう者からは言論の自由を剥奪せよと言ってるわけだが。
男性や日本人へのヘイト、オタクへの表現弾圧もTwitterに溢れている。しかしそちらは全スルー。あくまで在日と女性への発言だけが対象である。
恐るべきことにこのクソフェミは履いているほどいるそこらの無名ツイフェミではなく、都議選に立候補した事もある有力なフェミである。仮にも政治家を志した者が「基本的人権を奪え」とは。
「ゾーニングしろ?見たくない人もいる?それは単なるお前のお気持ちだろ!」
「そんな何処の馬の骨かも分からん奴のお気持ちへの配慮で我が国の表現の自由を侵害する気か!」って
えらく怒ってらっしゃいますけど、別に根絶やしにしろって言われてるわけじゃないじゃん。
「見たくない人もいるから住み分けしてちょ。」ってすげえ穏当なクレームだと思うんだけど。
例えば俺はデスメタルが好きだけど、「みんなのうた」や駅の発車メロディにデスメタルが採用されたら
さすがに場違いすぎるってのはすぐ分かるし、苦情が山ほど来るであろうことも全然頷けるんだよな。
98.85%ぐらいの人にとっては単なる雑音だって事も理解してる。それでも好きなんだから仕方ないわな。
コンビニや飯屋の有線でデスメタルが流れないのも当たり前だろう。これらは別に差別やら弾圧じゃなくないか?