はてなキーワード: 品種改良とは
ファミレス、コンビニ、ほとんどの冷凍食品(冷凍野菜などの食材除く)を「まずい」と感じる人間だけど、
まず
>たとえば0〜100の数値で美味しさを評価するとして
>「不味い」っていうのは、まあ30以下とかじゃん。
(略)
>そういうイメージだよな。
この時点で「あまりにも感覚が違う」としか言いようがなくて絶句してる。(念のため言っておくけど、優劣はつけていないぞ。)
美味しいってそういう階段状に一直線ではない、一つしかない感覚ではまったくない。
「うまさを偽装して美味いと感じさせる作りになっていると知覚するので不快である、
しかもその偽装したうまさも単調で自分の好みに合うほどの幅がなく、
さらにその偽装の具合にディストピア飯感を感じる惨めさもあいまって嫌気がさす」に近い。
美味しいの尺度に話を戻そう。
無理やり「数値で美味しさを評価する」に合わせると、レーダーチャートがもっとも適切ではないか。
そしてその輪郭が真円に近いほど美味しいと感じるような感覚だろうか。
そしてレーダーチャートの項目は料理によって違い、同じ項目でも料理によって適切な数字・幅が違い、
同じ要素でも項目が複数あるような感じ。
(たとえばワイン、渋みが適切だと美味しいと感じるはずだ。しかし、違うワインになれば違う渋みの量が適切になる。
そして渋みが最初に来るか後から来るか、徐々に盛り上がるかすとんと切れるか、残り方、など、でどのように他の要素と干渉するかが変わり、感じ方は変わる。)
さらにいえば人間はというより動物は美味しいはずのもの、美味しいと感じているものでも心が「美味しくない」と受け入れないこともある。
慣れていない味・組み合わせは美味しいと感じる要素をすべて満たしていても美味しいとは感じない。
生物としての本能だ。性別だと雄・男のほうが、また成人のほうが子どもよりも警戒心が強く、味覚が保守的だ。
(だから人間でも食の新規のブームはほとんど常に若い女から広まる。男から始まる場合、警戒心を上回る強い刺激が特徴のものになる。激辛とか。そしてマイノリティであり続ける。)
子どものころ、ダイアナ妃も好物だったというキュウリの生クリームスープを食べてそれを実感したことがある。
生クリームもキュウリも好物だったが、自分は冷製スープに慣れておらず、キュウリと生クリームの組み合わせも初めてだった。
美味で有名な高級フレンチレストランだったのもあり、そのスープは実に美味かった。
それはわかった。が、自分はどうしても舌が伝えてくる「これは美味い」を受け入れられなかった。美味いと感じつつ不味いと感じたわけだ。
たとえば、野生のニホンザルが普段食べているそのへんの木とか草だ。品種改良されている野菜ですら生では美味いとは感じないのに、そのへんの草が美味いわけがない。埼玉県民にはなれない。
数字で測るのなら、ほぼどれも0.これを食べなければ明日飢え死にするのでなければ口にするのはごめんだ~1.飢饉のときには食べられることを思い出すかもしれない、優先順位は下のほうだが~2.千年ぐらい品種改良をした後ちゃんと調理すれば食べる気が起きる、の間にある。まれに3.これは普段から食べたいかも…のものもある。
が、この不味さは不快な不味さではなかった。
渋み苦味が強すぎる、うま味がない、など美味いからは確かに程遠いのだが、ごまかしや偽装がない部分は旨くもありすらする。しかもそのまずさ95%の中にほんのり甘みを感じたりする。
ぜんざいにほんのり入れる塩が甘さを引き立たせるように、まずさ要素が主体の中に漂うあえかな滋養はよりクローズアップされるのかもしれないとなんとか思ったが自分はサルじゃなくてよかった。
味覚は0~100の一つの尺度だけで測れるような単純なものではない。
ほとんどすべてのファミレスやコンビニの食べ物を不味いと感じる理由は、不気味の谷に似ているとも思う。
味付けの組み合わせは非常に上手い。塩分やうまみ、調味料のバランスを真円に近づけて出せるのは大手企業ならではのさすがの部分だ。
が、実際に口にしてみると「まがいもの」と感じる不気味の谷に落ちている。
素材の質があまりよくないのを無理やり何か、普段自分が口にしないもので補って人間に見えるように皮をかぶせましたというような感覚に陥る。
それを一言で不味いと言っている。
野生のウマは既に絶滅している。
つまりサラブレッドに限らず全てのウマは、ブタやイヌと同じ「人間の都合のために品種改良された家畜動物」である。
ウマは「移動手段」もしくは「兵器」として使われるために品種改良されてきた。
そして今となっては移動手段および兵器として使われることはほとんどない。
現代においてウマの利用目的は「競走用」か「食用」が大半である。
食用馬は別に輸入されており、馬刺しなどの全てが競走馬由来というわけではない。
「肉が硬いから人間の食用にはならない」と言われることもあるが、実際には人間向けの馬肉としても提供されている。
怪我をした競走馬が殺処分されるのは「稼げなくなったから」ではなく「歩けなくなった馬は脚が壊死して死ぬ」からである。
「競走馬の99%が殺される」ということがしばしば話題になるが、これはかなり印象操作されている。
「99%が殺される」という話は、そうして繁殖に上がったり乗馬になったりした馬も、最終的には病気や怪我などで「安楽死」処分にされるということだと思われる。
それにしても心臓発作などによる突然死も多いはずで「99%」は盛りすぎている。
「繁殖に上がれず乗馬にもなれずに殺される馬」のはっきりとした数字はないが、おそらく年間3000頭程度だと推察される。
優生思想とは平たく言えば「人類を品種改良して、より優れた存在にしようず」というものだ。
そして問題だらけ。
人間には多種多様な評価軸があり、客観的に優等/劣等性を判定するのは不可能だ。
評価軸を絞れば客観性はある程度確保できるが、今度は評価軸の選定が恣意的になる。
数学の能力が高い人が優等であろうか。それとも身体能力が高い人?遺伝的な疾病リスクが低い人はどうだろう?アーリア人こそ優等だと抜かしたチョビ髭もいたな。
何を以て“優れている”と言えるのか、優生思想における核となる部分は、完全に主観に依存しているのだ。
言ってしまえば「○○は優れている」という“お気持ち”に立脚した思想なんだね優生学は。
元増田君が判断した“上位互換”と“下位互換”だって、結局は君がそう決めただけなんだ。
「××は優等/劣等である。僕がそう判断した。そして優等は保護される/劣等は駆除されるべきである」という思想があれば、それが批判的にみられるのは当然と言える。
まあ「思想だけ」なら、今ほど批判されることもなかっただろうけど、悲しいかな優生思想は(悲惨な)実践を伴ってしまった。
言わずと知れたホロコーストを筆頭に、優生思想の現実での実践は悲惨極まりない結果を招いた。
実践方法が悪かっただけで思想は悪くないと言いたくても、“お気持ち”ベースの欠陥思想(なお、この“欠陥”というジャッジも私の主観に依る)じゃあそうもいかない。
全部。
褒めるとこがない。
私の考えでは、秀でた能力をいくつも持つ人だけ存在していればいいという考えなので、ナチスドイツの「優生思想」とは少し違っている。
ナチの人種に基づく優等判断は間違っているが、自分の“秀でた能力”に基づく優等判断は正しい、というお気持ち表明。
“秀でた能力”を判断するのは誰?元増田君?それが人種に基づいた判断に比べて適切である理由は何?というかアーリア人は“秀でた能力”を持ってるから云々はナチも言っとったぞ。
→一理あるが、たとえば生まれたときから常に介助が必要な重度な障害者などはどう説明を付けようか。
生きていても価値を生産しないし、他人の手を一生借りる必要がある点で社会に与える利益はマイナスである。
強いてギリギリプラスになる要素はと言うならメディアのお涙頂戴ものに使われるのが関の山。
もし私がこの立場に立ったら殺してくれとさえ思っていると思う。
ナチのチョビ髭はアーリア人以外全部マイナスとか言ってたけど、それとどう違うんだい?
自分の判断は正しい、というところから一歩引いてみたらどうか。
初マスダ…ども…
バトル用の6V厳選個体がポケモンコンテストでも優れているか?
品種改良された家畜や農作物は食味という点では優等かもしれないが、野生下での生存力は劣等である。
「勝手に決めるな!!」
以上。