はてなキーワード: 儒教とは
いや、新井浩文もマーシーもマッキーもキースもフルシアンテもジミヘンもレノンも今井も勝新太郎もバロウズも、なーんも思ってないだろ世間は。いや、なんも思ってないことは無いにしても、罪人として見ているか?せいぜいが落伍者だろ。しかし、一定の人気を得るまでに至った彼らの才能は凡人のそれではなく才覚と努力はそこにあるため、完全に落伍者としては見れないだろう。
未だに川俣軍司の亡霊に取り憑かれてるのか?
二酸化炭素はいけませんとローマクラブが言ったが彼らのデータは嘘だった。景気は上がってると国が言ったが統計をでっち上げても良しとする国だった。年配の方が偉いから敬えと儒教は言った。神の教えであり愛なのだと司教は曰い少年少女は慰み者にされた。日本はアメリカに勝っていると戦時中は放送された。いざと言うときは竹槍で戦おうとした。日本は優しい人が多い国なんですよ、と誇らしげに言う日本人がいる。
あのさ、アルコールの方が依存の形成は強いワケ。アダルトチルドレンをなくしてくれ。飲酒運転をなくしてくれ。
動物愛護も環境保護も戦争反対も、世の中の問題を誰かに任せて自分は正義の考えを持ってると、世の中は馬鹿ばっかりだと口にするのは楽だし気持ちいいだろう。
儒教っていうのは本来は、上が下を労い察し、下が上を労い察する両輪から成り立つ。
だけど、ここに人間の支配欲求、他人を自分のわがままのために動かしたいという欲求が顔を出す。
かつ、下が上を察するのが当然だから、上がその欲求のために腐ってしまえば、一気に腐る。上が下を見ずに雑務を与え、資源も根性論で賄うのを要求し、過重労働を強いる。
ゆえに、30年で一気に世界有数の新自由主義国になってしまった。人口比公務員比率は世界最低。小さな政府。
だが、下が創意工夫で時間を金をかけてやらないとならないような分野はどんどん崩壊している。上はそのことを気づかずに、今日も自分のしょうもない欲求こそが世界の一大事だとくだらん仕事をふやし
いや儒教の教えロクでもねぇな(アジアの親崇拝は儒教に限らんかもだが)、
親の面倒はデイケア使いつつ、普通に自宅でみたいけど。金があるならば
無いので老人ホームなだけだ
しかもその老人ホームすらも介護士の方の犠牲(安い賃金)があっても
まぁまぁキツイ
こういうのが多数派ならanond:20190304121154 が当たり前になる日は永久に来ないですね
親になるべきものではないものを排除してからお話ですね、家名も家云々も
治安の維持には一役かってるものの儒教はマジでロクな仕事せへぇんよな
まぁ仏教のタイでも、子が身体を売って稼いだ金で親を養うのは当然って文化みたいだが
引用元:https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6695?p=2
儒教の弊害とは
儒教の教えは、為政者が理想の政治を実現するための思想哲学です。教え自体は納得がいくもので、たしかにこのような徳目に従って国家が運営されれば、理想的な世になるだろうと考えられます。
しかし現実はうまくいくことばかりではなく、儒教にも弊害といえるものが存在するのです。
たとえば、儒教では、親を敬うことが奨励されています。しかし亡くなった際の喪に服す期間が3年にもおよび、ボロボロに痩せ衰えてしまう人が続出しました。さらにその姿が周囲から賞賛されるようになると、親を敬い喪に服すことがパフォーマンスと化してしまったのです。
また同族を重んじる儒教では、一族の誰かが殺されれば報復をするのが当然とされていました。裏を返すと、報復されないためには、相手の一族を皆殺しにする必要があります。死刑をする際には「三族皆殺し」という、父方の一族、母方の一族、妻の一族すべてを殺してしまうケースがあったそうです。
さらに、儒教では上下の秩序を重んじています。すると上の者には媚び、下の者には傲慢に接するという差別意識が生まれやすくなってしまうのです。加えて、長幼の序を重んじるため、たとえ長男が無能で次男が有能だったとしても、後継者になるのは長男。努力をしてもしなくても結果は変わらず、競争が起こりづらくなります。
元増田氏の主張は、もちろん世界でそれなりの指示を得ている内容。特にキリスト教(中でも特にカトリック)の影響が強いところでは中絶への反発は強い。アメリカでも以前は違法だったし、今でも違法になっている国も結構ある。
英語圏では、中絶賛成派は自分たちを Pro-Choice(選択の自由擁護派)と呼び、「女たちから選択の権利を奪うな」(Woman'sChoice)と叫ぶ。 中絶反対派は自分たちを Pro-Life(生命擁護派)と呼び、「胎児の命と権利を守れ」と叫ぶ。アメリカでもイギリスでもガンガンやってるよ。
キリスト教の他にも、儒教の影響が強い国では罪悪感が強いとか。主に中国と韓国ね。
日本は割とイデオロギー色や宗教色が強くない国で、あまり原理原則を重視しないので、なんでもなあなあで流されがちとも言えるし、現実的とも言えるしまあ、なんと言いましょうか.........
人権思想・平等思想というのは、そもそも現実世界を観察して、現実の人間の感情に即して作られたものではない。
人権擁護派ですら、ちゃんと考えて勉強した人間は「人権を100%維持できるわけないよね、でも理想を目指すためには理想のビジョンが必要だよね」ぐらいに言っている。
人権が守れない自分は間違っているのでは?なんて考えてストレスを感じるのは甚だ非合理だ。
例えばキリスト教ってのは、全ての人間を平等に扱え、なんて人間の感情に即してない理想は示さなかったね。「汝の隣人を愛せ」と言っただけだった。儒教の場合は、家族のように扱えと言った。仏教は、他人を攻撃したくなるような執着を捨てろと言ったね。それぞれ可否賛否はあるけど。現実の人間に即していたという点では、「人権」よりも優れている。
外国では日本社会と違い、大人や子供のどちらの国民もこれまで社会に参加できていたが、日本では長らく儒教主義の時代があり、今も同じだ。日本の儒教カーストの下位には人権もない状態である。つまり、今の欧米で起きている国民皆兄弟としての建前もなく「自分を支持してくれる大人世論にだけ徹底特化して、そうではない未成年層は無視して切り捨てるような社会」が、日本ではこれまでまかり通っていた。
お金が幅を利かせる大人ばかりが社会に台頭し、そうでない未成年者は例えば人口は大きくても「階層社会」で軽視された。結果、学生は成人に使われるだけ使われ、大量のエネルギーは大人のエネルギーに使われた。学生が汗水たらして学ぶほど、その成果は現状のカーストの維持力に代わっていったのが昭和日本だ。つまり日本では下位の人間は上位をアテにして上位のヒモのような形で寄生して生きていた時代が長かったのである。
平成不況や安倍政権の左傾化などでこうした「利己主義・儒教的な社会」にメスが入ったのが1990年代以降のことだ。結果、これまでのように階層社会を介して弱者に依存するような他力本願で生きていた強者は立ちいかなくなり、あぶれる者が出てきて、そうした者たちの中には、虚業などに手を染める者も出てくるようになった。