はてなキーワード: イコールとは
要するに、評価経済、ってやつか?
こうして明文化すると、上手くいくわけがない感じだな。生産が伴ってないから、イコール実態が伴わなくて、不正と暴走の温床だろうな。
「女性専用車両を用意しない」と「痴漢を放置する」はイコールではないんだが、そこを区別しないから「女性専用車両反対=痴漢放置=痴漢賛成」みたいに短絡してしまうのだよ。
たとえば、いま大阪や北海道の被災者のために東京人の預金の1%を強制徴収する、という話になれば誰もが反対するだろうが、それは被災者を放置することでも、被災を喜ぶことでもない。
普通のアニメなら、声優を意識せずにキャラを見られるが、アイマスみたいな実際にライブをするコンテンツだとなかなか難しい。
先日、杏の中の人が軽率な発言をして炎上していた。杏Pとして残念だとか、中には杏が嫌いになったという人までいた。
わからないでもない。
自分はあれがキャラ個性として演じられていたとは思わない。声優が暴走しただけだと思っている。
だが、中の人があれかと思うとどうしてもキャラも好きになれない。
声優はアイドルの一要素でしかなく、イコールではない。ただ、一要素であることもまた事実だ。
この先、浅利七海とか太田優とか、声がつくのを楽しみにしていたが、いっそこのまま声がつかない方が幸せなこともあるかもしれない。
そうそう
「男が女を守る」というのはまさに旧来のジェンダーロールやパターナリズムに他ならないわけで、そこでは女イコール弱者、半人前というのが前提になっている
本来なら男女平等論者こそ、そういう上から目線のお情けなんかはねつけなきゃいけないはずなんだけど、
それでフェミがなんでミサンドリーこじらせるかっていうと、結局本人の感情や好みが古い世界から抜け出せてないし、新しい世界にも適応できてないからだよね
本当は強い男に守ってほしいのに守ってもらえず、弱い男がイキるのがムカついてしょうがないという
男女平等を叫ぶくせに、強い男から守ってもらえること、社会から優遇してもらえることが男女平等だと誤認してしまっている
最近、文章を書くのが億劫になってきたのと、SNSやブログでは人格と文章がイコールとみなされるので、リハビリ中は切り離しておきたい、そういった媒体だと、なぜか肩肘張った文体になりがちなのを直したいなど、色々あって、増田であれこれ書いていこうと思う。
私は五輪へのe-sports導入に断固反対だけど、これは会長&増田の言い分が変だと思うわ。
別に実際に人を殺しているわけじゃない。死ぬのはゲームの中のキャラクター。
ゲーム内でも人を殺しちゃいかんのか? ゲーム内での殺人技術を競っちゃいかんのか?
それはリアルの人物に向かってフルーレを向けたり大外刈りかけたりするよりタックルするより危険な行為か?
リアル人間にハイキックしたりリアル人間同士で殴り合ったりする方がよっぽど野蛮だろ……
でもそれなら、e-sportsは導入するが、倫理に背くものは排除する、といえばよくない?
格闘ゲームとか、人殺し要素のない冒険ゲームとか、レーシングゲームとかを導入すればよくない?
なーんか会長さんの言ってることは筋が通ってないように思う。
しかしそれはそれとして、e-sportsは断固として五輪に導入すべきではない。
なぜならそれは不公正だからだ。
サッカーを例にしよう。仮にある業者が、サッカーボールの供給を一手に握っていて、有力選手は事実上そのメーカのものを使わないといけない状況だとする。
しかしそれでも、私的に作った規格外のボールを使って草サッカーすることは自由である。新しい業者が規格を満たしたボールを作って競争に参入することも自由である。ルールブックは万人に開かれており、特定のメーカのものを使わなければならない、という決まりはどこにもない(あるメーカの技術力が卓越しているおかげで寡占状態になっているとしても、より優れた技術をもって参入する余地は常に残されている)。
あるいは、e-sportsではないがマインドスポーツを例にしよう。囲碁もチェスも将棋も、ルールを知ってさえいれば誰でもどんな道具を使ってもプレイできる。ノートに線を引いてそれを盤面にしてもよいし、頭の中だけで完結させてもよいし、地面に木の枝で書いた盤を使ってもよい。
ルールが同一であるならば、名人や竜王と地面に駒を書き入れる子供たちは同じゲームを遊んでいることになるはずだ。たとえ使う盤がどんな業者に作られていようとも。ネイマールや本田圭佑と、スラム街でボロボロのボールを蹴る子供たちもまた、同じくサッカーをプレイしていることになるはずだ。
e-sportsの問題は、この公平性がまったく存在しないことだ。特定のゲーム会社から特定のタイトルを購入しなければ、そもそも遊べない。お金がない囲碁好きの子供でも、ノートに書いた盤面に白と黒の点を書き入れていけば囲碁を遊べる、というような余地はどこにもなく、まずゲームをスタートするためには特定の業者から特定の商品を購入する必要がある、そんなものを公的団体が競技として公認すべきじゃないと思う。
これは単なる理想論ではない。一歩間違えば癒着にも繋がる。なにせ、ある競技を採択するかどうか、が、そのままある特定の民間企業を優遇するかどうか、につながるのだ。寡占状態にあるので事実上そうなってしまう、という話ではなく、ある競技を採択することは論理的にある民間企業を優遇することとイコールになる、というのは大きい。
IOCが高潔な組織というのならばまだしも、そうでないことは幅広く知れ渡っているというのに、なんでこんな腐敗臭に満ちたものを競技として採択しなければならないのか。
スポーツあるいはマインドスポーツは、皆に開かれているべきだと思う。ルールの策定の段階である程度権力が絡むのは仕方ないにせよ、そもそも特定のメーカによる特定の商品を購入しないと遊べない、ようなものを、公的なスポーツの大会であるオリンピックやアジア大会などに持ち込むべきではない。
もちろん、ゲーム会社が自社のゲームを使った大会を企画するのは、経済の自由、趣味の自由として大いに肯定されるべきだ。何も悪いことではない。日本法でそういうレジームが賭博にあたる場合があることについては、不当なので賭博罪に関する条文を改正する必要があるとすら思う。
しかし、e-sportsは公的なスポーツ大会にはそぐわない。むしろ積極的に排除されるべきだ。ゲーム内で人を殺そうが殺すまいが、それは公平なスポーツという理念に反しているのだから。
親が子を養育するのは当たり前の事なのに、何故こう上から目線なんだろう。
「当たり前のこと」なら愚痴を吐いたらフルボッコにしていいと?
世の中に愚痴を吐いてる父・母がどれだけいる?
そいつら全員
ほぼ精子出しただけじゃんこんなの。
ここまで言われないといけないの?
やすかったので久しぶりに買ってみた
そしたら驚いた・・
いや・・・なんだこれ
少なくともうどんじゃねーわ
カップ焼きそばの麺をそのまま平べったくしただけの「モノ」
まあカップっつーことで余熱でやるレベルならこれが関の山なのか
最近カップ焼きそば食ってそれなりの味に満足してたから、同じカップものってことで過大評価しちゃってたわ
つゆもまずくない
ただ肝心の麺がダメダメだわ
こんなに駄目だったとはほんとショックだわ
異議あり! これまでの日本の家電産業の衰退は、技術が海外に流出したこととイコールではない! 海外は海外で独自に技術を発達させてきた! 日本が相対的に技術を伸ばせなかっただけである!
好きだからって自分のことを「焼肉」とか「ウニ」とか「白子」だとかいう人が嫌い。
誰もが好きだろ。その食べ物を。でもイコールお前じゃないじゃん。
たとえば好きだからってアイドルの名前でツイッターやってたらどう思うの。
こんな文章ネットにどっぷり漬かってるような奴にしかわからんだろ。
お前の親はこれ読んで理解できるんか??
それともお前の親も「たまにいるそうゆう奴」なのか?
どうせそれがわかったからと言ってみんなが金持ちになるわけじゃないから包み隠さず話したいと思う。
まず大前提
人間はもともと数を正しく把握できる生き物ではありません
頭の中にリンゴを思い浮かべてください
数字を使って数えずに、何個までだったら瞬間的に個数を把握できますか?
5個?7個?11個?
人によって多少の差はあるかも知れないけど、せいぜいそれくらいが限界でしょう。
つまり、人間が数として正しく把握できるのはそれくらいの数までということ。
違いますか?
みなさんちゃんと義務教育を受けてきたのでかなり大きな桁の数字まで理解できていると思っていますよね。
では、体育館いっぱいに人が入ったとして、その人数を瞬時に正しく把握することはできるのでしょうか。
そんなわけありませんね。
だれだってあの手この手で数を数えはじめて、ある程度の予測で済ませたり、きっちり気が済むまで数えたりして初めて数字として測定されます。
そうやって数字に変換されたら把握できたと感じるかも知れませんが、それは数えた後に数字という概念として捉えているに過ぎなくて、目の前の数を正しく把握出来ているわけではありません。
つまり人間は、本来ほんの数個までしか数を正しく把握できないんです。
それを数字という概念に置き換えることによって、本来ならば把握できるはずのない規模の数まで取り扱えるようになっているに過ぎないんです。
逆を返せば、概念として数字を扱うことができるようになったから、ここまで進化できたのも人間だと言えます。
それは違うという人はもうここでお引取りいただいて結構。
論点を変えてこの話しを否定したいだけの人も同様にお引取りください。わたしとは考えが相容れないだけのことです。
お金を稼ぎたいなら、大きな桁を扱う仕事をしろということです。
逆を返せば、貧乏になりたくないなら小さな桁の買い物で満足するなということです。
乱暴な言い方をすれば、数字の桁はつまりその人の経済ランクとイコールです。
金持ちは、あの手この手で貧乏人が桁を繰り上がることを阻止してきます。
少ない桁の金額しか持たなければ、それで満足できる生活を求めてしまうかも知れませんがそれは間違いです。
その桁で生きようと思えばいくらでも生きられるのがこの世の中です。
抜け出そうという意思がなければいつまでたってもその桁からは抜け出すことが出来ません。
いまの資本をもとに、細かいものを売るのではなくて、次の桁を扱う層に響くものを売ればよいのです。
そうして扱うものの桁を増やしていけば、自然と自分の生活もその桁にあったものになります。
貧乏人から少しずつお金を巻き上げる商売は、いまや何をやってもあとから来た大きな資本に根こそぎかっさらわれてしまいます。
だったらこれからお金を稼ぎたい人が相手にするのは、今すでにお金を持っている相手です。
そして、人間は数値を正しく把握できる生き物ではありません。
だったら自分がその桁を扱えるようになればよい。たったそれだけのことです。
どれだけ才能があっても、どれだけ努力をしても、そこに金がなければ稼ぐことは出来ません。
ならば変えるべきは稼ぐ場所であり相手にほかならないわけです。
自分はお金よりも時間や生活を大切にしたいのでもうこの桁で満足です。
自分を取り囲む環境がすでにその桁ですので、今の仕事にあぶれても同じ桁の仕事を探すことは難しくありません。
難しく考えず、自分が生きる経済圏を着実にステップアップさせていけば、自ずと自らが満足するランクまでは上がることができるはずです。