はてなキーワード: プロテスタントとは
クリスマスというのはクリスマスだけで成り立っているのではなくて
アドベント(待降節)というものがあって、それが4週続くのですよ。
文化祭の準備に似てる、というのも正解。
アドベントはクリスマス準備期間だから。ドイツとか行くと普通の家庭が本物の木を取り寄せて飾りつけとかやってる…
詳しくは教会暦について調べてみてね☆
アドベントカレンダーでググってみるとカウントダウンカレンダーになってるおもちゃが出てきますよ。
と大真面目にレスしてしまいましたが、別に商売に乗るだけが楽しいことでもないですよ。
(派手さで言えばカトリック行くとビジュアル的に楽しいかもね)の教会に遊びに行けば
似たような人がいっぱいいます…暇してるからって近所の人もけっこう来てます。
ウチの近所だと場所柄なのか、観光で来てる人もいる。礼拝中の写真は勘弁です。
あ、礼拝中にワイン・クッキーorウエハースが出てくるかもだけど洗礼受けてなければ頂くべきでないので
順番が回ってきたら、軽くお辞儀すればいいよ!何も言わなくてもすぐわかってくれるから。
パーティに参加するなら、献金は参加料程度の金額を出せばお互い気分悪くならんでしょう。
あと、面白いのが…世間話ができる(笑)。色んな人がいるから、本当に「社会見学」になる。
そういえば…礼拝堂は基本広いから暖房効きづらいし、行くならぜひ温かい格好してください。
この時期一人で風邪ひくとすごく寂しいしなんか今年は怖いウイルスも出てるし、マスクして行ってもいいかも。
では、お節介おばさんでした。
http://anond.hatelabo.jp/20080723030022
私は片親JWの2世で、小学校5年生でフェードアウトしました。きっかけは金曜の集会よりアニメ三銃士が観たかったからwありがとうアニメ三銃士!あれは本当に自分の人生を変えたアニメだったわー。
小林よしのりがゴーマニズム宣言で、他人に宗教を捨てさせようと思うなら代わりになるものを与えなくてはいけないっていうようなことを書いていたと思うのだけど、私はJWの父に喜ばれることを捨てて非JWの母を得たのでした。片親JW家庭はこれがあるから2世も救われるってなもんだ。
ただ、小学校でフェードアウトしたとはいえ、洗脳は結構強力で、やっぱり聖書の神様以外の信仰をもつことに抵抗があるし、三位一体もマリア信仰も抵抗があるから、プロテスタント寄りのなんちゃってクリスチャンに留まってしまってるんだよな。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
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>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
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ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52410978.html
米国人がこのオブジェクトを見ても気持ち悪いとは思わないだろう。
プロテスタントの立場からすれば神が作り出した人間以外の生き物は所詮ただのモノ扱いだから。
だからケルトゲルマンの自然宗教の意識が残っている欧州や神道の自然宗教の意識が残っている日本と違って
アメリカ人は遺伝子組み換え作物や遺伝子工学を駆使した合成生物を創りだすのに何の躊躇も抱かない。
フィギュアに命が宿ってるかのような汎神論的宗教意識は神道に由来する。
気持ち悪い・マジキチという感想を述べているのは紛れもなく日本人である。
国際化社会において必要な教養とは、己が何者であるのかを外国人に説明できる知識である。
日本が外国人と融和できず移民政策を実行したらかなりの確率で国家解体に向かうであろう理由は、
日本人は自らが何者か知らず、何者か語れないから。日本とはどんな国なのかを外国人に説明できない。
自分が何者か明確でないから、おそらく外人の価値観に”染められる”。
今のまま移民政策を実行したら、外国人の自治区を作られて、排除できなくなる。
日本とはこれこれこんな国だから、郷に入れば郷に従え!と外国人に言えるほど自国について理解しないと国際社会を生きていけない。
古くは中国朝鮮、明治以降は欧米に学んできた日本が、かつての日本自身を学んで日本に帰還する時代がやってきた。
日本の宗教観は自然宗教としての神道があり、そこに大乗仏教が入ってきて神道の影響とともに戒律外しが行われ、土着化し、日本仏教としか説明できない独自の仏教を形成した。
キリスト教が欧州でケルトゲルマンの自然宗教の影響を受けてカトリックになったのに似ている。
長い歴史をかけて神道と日本仏教を土台として儒教、道教、キリスト教などありとあらゆる宗教を取り込んだ。
黒船がやってくるまで、数える程度しか国家の存亡をかけた外国との戦争というものを経験しなかった。
たえず異民族に攻めこまれ安定した国家を築くことができなかった中国とは違い、海に囲まれて異民族の侵入を受けなかったため、
シルクロードを通って日本にやってきたあらゆる文化と宗教が、日本から出ていくこともなく、壊されることもなく、日本列島の中で密閉されてぐつぐつと煮込まれて、融合した。
神道の最高司祭=天皇の存在が日本人が特定の宗教に支配される事態を防いでいる。
天皇がある限り、日本に入ってくる宗教は全て相対化されて平等化される。
天皇の権威を否定したらカルト宗教が流行る。天皇になりたがる奴が後を絶たなくなる。
第二次大戦後、日本でどれだけの新興宗教が権力を増し、あるいは事件を起こしたか考えてみればいい。
皇室を政治利用させず、皇室を守り続けることが日本を宗教先進国たらしめる。
天皇がかつての聖武天皇のように仏教徒になろうが、キリスト教徒になろうが、イスラム教徒になろうが大勢に影響はない。
神道は教義がなく異宗教との二股三股が可能だから。軸を神道に置いてさえいれば、いくらでも世界中の宗教をつまみ食いしてOK。
イスラム教、キリスト教など、経典のある宗教は”意識”である。
神道は教義を持たないからいくらでも変わりうる。神道は”無意識”である。ESである。ゆえに無敵である。
宗教がまったくなければ人間は動物になる。宗教に染まりすぎれば人間は機械のように柔軟性を失う。
文化や宗教や生活様式や立場が違う奴が狭いとこに一緒に居たら摩擦起きるし落ち着かないものなんだって。
当たり前だろそんなもん。
そういう自然な反応を「排外主義」とか絶対悪のレッテル貼って無視しよう排除しようとする方がどうかしてる。
生活様式が全然違う人だったり
こういう差がある同士が暮らしたらそりゃストレスも摩擦も膨らむって。
移住先のその国の奴等の経済レベルにも生活様式にも政治的立場にも民族アイデンティティにも宗教にも
いちいち「あーーーこいつらウゼエ」って思ってるんだよ。
ストレス溜めて暮らしてる。ほんとは母国で同じような奴等と暮らしたい。
単に、立場が悪いとか母国より稼ぎがいいとか母国で酷くいじめられるとかで腹にしまって黙ってるだけ。
学校に留学生が一人二人来るぐらいなら、そりゃ色々配慮して仲良くしないといけないし、出来るよ?
俺の高校プロテスタントだけど、傲慢な感じの白人学生もすげえ人見知りなムスリム学生も来たよ。
白人は英語しか喋る気が無い上になんかどー見ても偉そうなわけ。でも心を広く持って仲良くしといたよ。
ムスリムには学校のキリスト教の礼拝免除の上に、特定の時間に部屋を与えてメッカを拝めるように配慮してた。
でもこれ、こういう奴等が300人とか来て、期間も限定じゃなかったら、どうなる?
大変だよ。リソースを全部そいつ等のために割いて、なにやってんだかわからん奴等にあらゆるものを分けて、配慮して。
不可能じゃないけど大変。何か得が無いならやりたい奴は多くないって。
ある程度同類同士で固まった方がなんでもコストは安いし快適なんだよ。
サヨはウヨと仲良くしてるか?積極的に同じ掲示板で交流してる?
非オタはアキバ系と一緒に休日を過ごしたい?アニメの話題しか乗ってこない奴にアプローチしてる?
そんなことしたくないだろ。
それでいいんだよ、それが普通。
エレベーターで閉じ込められちゃったとか不可抗力で一時同舟するハメになったなら
もうそこは仕方なく歩み寄って摩擦を少しに抑えるために仲良くすべきだけど、
わざわざ種類の違う人種を同じ場所に押し込むのが「進歩的なこと」「善」だと思い込んでるバカがいる。
そういうこという前に、あんたにまるで理解出来ないあんたが嫌いなタイプの人間を思い浮かべて
3時間とか1週間とかじゃないぜ。
期限なしでずーっとだ。
それが苦しくないって奴なんかいないよ。
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はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?
朝日新聞は取ってないので、よくわかりませんが、文学はありますよね、そういうの。
鳥肌実みたいに、「私には言いたいことなんて、何も無いんです!」というのを、全力でやってみたいというか、「何に使うか、まったくわからないけれど、クオリティ(品質)だけはすごい工業製品」を作りたい、というか。
そういう欲があるのです。
ですが、確かに、新しくもなんとも無いんですね。
伝えたい事は何も無いけれど、パーツ化された過去の作品を、レゴブロックのように組み立てれば、(ある程度までは)作品を作ることができる、という、そういう時代な気がするんです。
それがどういう事なのか、よくわかりませんけどね。
サブカルの事をいっているのか、囲い込みの事をいっているのか、私は頭が良くないので、元増田さんの書いている事が、よくわからないんですね。
囲い込みなら、サブカルだけの話ではないし。
しかも、メインカルチャーの理屈で、日本のサブカルを語っているような気もしますし。でも、それって、どうなのかなあ?
http://anond.hatelabo.jp/20100211171907
そうやって仲間意識を強化するためだけの作品が、世界を小さくしているんだ。中世においてプロテスタントは芸術を抑圧したが、今は消費者がそれを行っている。「自分の文化圏が正しい」という正義でもって。
なんという体たらくだ。文化はここまで堕落してしまった。私の耳にはマンガを文化にした手塚治虫の嘆きが、今も遠くで聞こえているよ。
私は、元増田さんの、こういう文章を読むと、「西洋の理論を、日本の現実に、むりやり押し当てているだけ」に読み取れてしまうのですね。
元増田さんが語っているのは現代日本の事(ですよね?)なんですが、この人の根底にあるのは、西洋の論理のような。
文化を語るときは、正しいとか正しくないとか、そういう尺度ではなくて、歴史や伝統などが必要になってくるのですが、現代日本ではそれについて語ることが難しくなってきているとおもうのです。
元増田さんには、文化には、キリスト教のGodのような正解があって、そこから外れると「堕落だ!」みたいな所があるのでしょうか。
仮に「仲間意識を強化するためだけの作品」だったとしても、宗教のように、それを必要としている人達、それを取り上げたら、もう行き場の無い人達、そういう人達は、どうすればいいのでしょうね。
というか、誰か賢い人に解説してもらいたいですよ。
スウェーデンは基本プロテスタントだし、ヨーロッパ主要国じゃ最も無宗教の人の比率が高い、宗教的メンタリティでは比較的日本に近い(宗教が行動に及ぼす影響が少ないという意味で)国なのに効果でてるんだから、日本でも効果がある可能性は高いと思うぜ?
民主制が導入されてから老人優遇策ばっかりで若者にとっては地獄どころじゃない苦難の地。いやマジで。
こんなことなら地獄に落ちとけばよかったわ。
つーかさ、こうならないように聖人による寡頭政治が定められていたと思うんだよな。
なのにプロテスタントの奴らが「神の子はみな聖徒です!」と言い出してさあ……。
なんか正論に聞こえるじゃん?
ヤベエと思って反対運動したんだが「あいつら天使に萌えてるロリコンだからww犯罪者マジキメェww」とかレッテル貼って押し潰されてさ。
そしたらやっぱり老人が意思決定完全に掌握してしまってひでえことになった。
あまりにも無知蒙昧が多いので驚き呆れかえっているところだ。
はっきり言おう。あなたたちには文章を読む素質がない。これっぽっちの才能も持ち合わせていない。
なぜなら文面でこうもはっきりと言い切っている主張を、あなたたちは読み取れていないからだ。
おそらくは気に入らない単語だけに脊髄反射で反発しているのだろう。
私がいつパロディを否定した。前田久くん、キミはライターだそうじゃないか。今すぐ廃業したらどうだ? 同業者としてキミの仕事は全部引き継ぐよ。それが日本文化のためになる。
私の先の文章はパロディやオマージュを一括りにしてゴミ箱に投げ込むようなことではない。
私が言っているのは「作品のクオリティに何の関与もしない、仲間意識で囲い込むためだけの引用」である。
パロディは引用それこそが作品のクオリティに関わるのでこの範囲には入らない。
わかりやすいように極端な例を出そう。例えば、『エウレカセブン』だ。このアニメは名称やサブタイトルのそこかしこに、ニューウェーブ系バンドのバンド名や関連する名称を散りばめている。
そして、それは作品内に何の関連も生みださない。ただ名称としてそこに置いてあるだけだ。
これは宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』の中に出てくるロボット兵のデザインが、フライシャー兄弟の『スーパーマン』に出てくるロボットからインスパイアを受けたのとは180度意味合いが違う。
「模倣からオリジナルは生まれる」だって? 当たり前じゃないか。しかし、好きなバンド名をただ引用するだけの行為は、何のオリジナルも生んではいない。
「それを好きな人」を「あなたは仲間である」と囲い込む効果しかない。本当に厭らしい演出だ。
具体的な例を出しているのに、なぜ読み取れないのか、本当に不思議だ。
こうやって相手が好きな言葉や作品を散りばめ、サプリメントのように慰撫するだけの作品群。
実は私のこの考えには『ボーイズオンザラン』も、『ソラニン』も射程の中に入っている。
前者はダメ人間がダメ人間を肯定するためだけにダメ人間に向けて描かれている。後者はナイーブ人間がナイーブ人間を肯定するためだけにナイーブ人間に向けて描かれている。結局は同じだ。
そうやって仲間意識を強化するためだけの作品が、世界を小さくしているんだ。中世においてプロテスタントは芸術を抑圧したが、今は消費者がそれを行っている。「自分の文化圏が正しい」という正義でもって。
なんという体たらくだ。文化はここまで堕落してしまった。私の耳にはマンガを文化にした手塚治虫の嘆きが、今も遠くで聞こえているよ。
そんなことやこんなことで今話題のウィキペディア。投稿者が減るのはウィキペディアのためにもそんなに悪いことじゃないんじゃないか、とも思ったんだがどうやらそんなに減っているわけでもないのかな。投稿者の減少が何故いいことかっていうと、良くも悪くもノイズが減るんじゃないかと期待するからだ。内容の信頼性とか記事の質は相変わらずだろうけれど、同じ話題に関わる人間の数が減ればおかしな記事はおかしな記事なりに純度を上げて「おかしさ」のS/N比が上がるとすれば、それはいいことだと思うわけ。ザーザー言ってて何を言っているのかよく分からない放送よりはアホな芸人が喋りまくっている番組の方がまだマシなところがあるようにね。テレビを見たがる子供に砂嵐を見せるか民放の馬鹿騒ぎを見せるかというのは究極の選択っぽい気がするけど、幽霊の見えそうな砂嵐よりは民放を見せて「また馬鹿なテレビを見てるのかい」って言った方がまともな子供に育ちそうなものだ。で、それは放送大学を見る幼児に向かって「難しい番組だねえ」と言っているのとあまり変わらない。どっちがいいかは最終的には価値観の問題かな。
だから「おかしさ」って書いたけど、何か特別な要素の純度が上がった状態とでも思ってほしい。で、たぶん、絶対的な投稿者数が減った後に相対的な比率で増えてくるのは、職業的な専門に対するストイックさとか、オタク的な過剰さとかを備えた「熱心な」人達だ。ハタから(つまり「世間樣」から見れば)見ると良くも悪くも常軌を逸して、つまりに真摯に追求している、あるいは配慮を欠いている、つまり常識を変革すべく頑張っている、そういう人達だ。まあ自分の学界の片隅に籍を置かせてもらってるけど、そういう人達のもつ情熱とか執拗さとか真剣さとかは、まさしく人生を賭けた壮絶なものだと感じる。
ちょっと話は逸れるけど、ウィキペディアはなぜ専門家に優しくないのか、という疑問を持っている人は結構いる。専門分野で執筆に参加したけれど、結局「専門家じゃない人たち」に気圧されて撤退してきた本当の専門家を、個人的にも何人か知っている。こうした不幸がどうして起こるかっていうと、おそらく上に書いたような「熱心な人達」と専門家が正面から鉢合わせしてしまった場合、専門家の人達は「おっと、インターネットなんかでシロウト相手に喧嘩している場合じゃないや。今月中に論文仕上げないといけないしな」てな具合に本来の戦線に戻っちゃうからなんだな。研究者はそっちの方で人生を賭けているんだから当たり前のことだ。まあ仕方がないね。
で、宗教の話をしよう。結論からいうと、ウィキペディアにおける生命力という意味では宗教的な情熱を持って行動している人々も市井の「熱心な人達」と張り合ってるんじゃないかと思った、ってことだ。人には物事の「宗教性」に比較的敏感な人たちと、そうでもない人たちがいる。ご存知のようにな日本は圧倒的に「無宗教」な社会だけれども、注意深く暮していれば宗教的な空気というのは比較的よく遭遇するものになっているように思う。まあ創価学会とか明らかなものは置いておくとしても、クリスチャンの多い朝鮮半島からの留学生などが増えているといった事情もあるんじゃないかと思う。例えば東京の都心のカフェで小一時間耳をすませていると、その地元のクリスチャンのコミュニティが会合の場所にしていることが分かったりする。いきなり聖書を読み始めれば分かりやすいけど(そういうことも結構ある)、そうでなくともメンバーが出会ったときの挨拶の言葉だとか、そのグループの顔付きだとかをしばらく見ていると「ああ、なるほど、そういうグループだったのか」って思うわけだ。これはたぶん信者さん自身がもつ「仲間意識」と同じようなものだろう。別に隠しているわけじゃないだろうけど、フリーメーソンの変な握手みたいな、ある種の言語化されない巧まざる符丁が作りあげられている。
それで、定期的にウィキペディアを眺めていると、上に書いたようなのと同じ体験をするんだ。つまり明らかに宗教的な関心で活動している投稿者というのを見付けることができる。僕の個人的な関心のせいもあるかも知れないけれど、クリスチャン、もっといえば福音派の方が以前から熱心な投稿を続けているのに気付くのはそう難しいことじゃない。だってほとんど毎日新しい記事を書いてるからね。その編集履歴を眺めていると、気がつくことは三つ。一つ目は、自分のモチベーション、あるいはバックグラウンドを表明した上で編集活動を行っていること。二つ目は用語法に非常に敏感なこと。三つ目は(たぶん自覚しているはずだけど)自分の視点というものを相対化できている人もそうでない人も、よくも悪くも書きたいことしか書かないということ。二つ目と三つ目の点が悪しき融合を遂げてしまうと百科事典のはずなのに「キリスト教事典」みたいなちょっと文脈が他とズレた項目ができてしまう。内容的には正しいだろうから、まあ必ずしも悪いことではない。というか、文句をいう筋合いは全然ないからどうでもいいけど。
書いておきたいのは、そういった方々が福音派なのは偶然じゃないということ。福音派って何かしら、という人もいるかと思うが、ざっくり言えばプロテスタントの中で一番熱心に「聖書が絶対だわよ」って考えている人たちのことを日本語では福音派と呼んでるみたいだ。で、中学校くらいの知識を総動員して説明すると、プロテスタントってのはもともとのカトリックの人たちが「教会ってステキ。おフダをどんどん買えば天国に連れていってくれるんだから」とかちょっとアレな感じになっていると思って、「そんなアホな。聖書を読む方がよっぽど御利益があるに決まってる。金もかからんし」という感じで喧嘩別れした人たちの末裔のことだね。そんなわけだから貧しいながらもマジメにコツコツ働く人たちに圧倒的な人気を博したみたい。で、福音派ってのはその中でも「聖書が大事だね」っていうところで突っ走っている人のことだと思ってればいい。たぶん。「これ全部本当のことが書いてあるんだぜ」「だよね」「最後の審判くるよね」「ヤバいよね」「でも千年王国チョー楽しみ」みたいな。信じられないかも知れないけど、これ全部本当の話、ってやつ。念のため書いとくと福音派って中にも聖書の話と現実の歴史の対応には諸説ある。というか複雑すぎてよく分からん。
福音派はアメリカで多くて、ブッシュ共和党の支持母体になってることは有名だね。政治に熱心で極端になると共産主義は悪魔の手先、イラク先制攻撃万歳、進化論教えるなら学校やめるし、中絶するなら病院焼いちゃうよ? (実際、焼いてるし、医者を殺してる)みたいな人が多いみたい。中絶反対、てのはカトリックの方が厳しいのかと思いきや、実は福音派の人たちもけっこう過激な人たちが多い。ヨーロッパの国がほとんど中絶を合法化しているのに比べて、アメリカで未だに喧喧諤諤の議論をしているのはそれが原因のひとつかな。福音派が政治とか社会問題に積極的に関わりたがるのは全然不思議なことじゃない。つまり福音派であることと積極的なコミットメントには密接な関係がある。というのは、福音派の人たちは自分たちの考えを広めることをかなり大事に考えているからだ。つまり布教(福音派だと伝道っていうのかな)がかなり大事。まあ宗教は何でもそうだけど福音派は特にそこが目立っていて、ちょっとゴリゴリした感じになっているんだね。みんな、生まれ変わって新しい自分にボーン・アゲインしようぜ ! トゥギャザーだぜ ! みたいな。まあ、回心するのが大事だから回心させてあげよう、ていう感じかなのかな。とりあえず頑張れ、としか言えないけど、個人的には家を焼かれちゃたまらんし、できちゃったら産むしかない、ってのは穴があったら入れるしかない、てのと同じくらい野蛮だぜ、って思う。理性ってのは原理的に自然を抑圧するものなわけで。
最近のアメリカの福音派の政治的な人たち(キリスト教右派と呼んでる)は民主党のオバマが政権取ったし、アフガンもベトナムっぽくなりつつあるし、ゲイの結婚もちょこちょこ合法化されてるし、ちょっとヤバいんじゃない? とか考えてるみたいだけど、とりあえずどうでもいいや。うん。ウィキペディアの話だった。政治的・宗教的荒しが日本の数ケタ上の密度で起こっている英語版なんておぞましくて覗く気もしないけれど、書きたかったのは、日本語版ウィキペディアでも熱心な福音派の人たちが(たぶん二人くらいで)頑張ってます、ってこと。ウィキペディアの編集者の中で二人くらい、っていうのが意外と日本における福音派の「熱心な人」の比率としていい線をいってるのではないかと思ったが、調べてないので分からない。まあヘドが出るほど嫌いな人もいるだろうけど、オタクだと思えば貴重な存在かも知れない。で、オタクが絶滅しないように、そういう彼ら(彼女ら)もきっとしぶとく生き残っていくだろうな、と思ったんだ。ある日突然「ウィキペディアは悪魔の手先だから見ちゃダメ」ってことになるかも知れないけどね(英語圏には実際そういう趣旨でできた何とかペディアもあるし)。
TBを全く読んでないのでかぶってると思うけど。
1歳の子供の親です。
確かに赤ちゃんはどこで何するか全く予想がつかないので、嫌がる新婦の気持ちもわからないでもない。
でも、だからといって最初から釘をさすなら呼ばない方がマシ。
今まで家族として付き合ってきた俺の嫁を全く信用していない事にも繋がるし、何より非常に不愉快。
俺が弟の結婚式で同じような事を言われたら、俺の家族は参加しないしさせない。
「だったら呼ぶな」と言う。
しかし、奥さんは最初は赤ちゃん締め出しから渋々の参加を認めているのに対し、元増田はあまりにも強硬すぎると思う。
「歩み寄る余地はない」で突っぱねたら、奥さんとしてもショックだし悲しいだろ。
君たち夫婦に必要なのは歩み寄りだと思うよ。
ちゃんと話せばだいたいの事は解決する。
何年か経って「ああ、そんなこともあったね」と笑い話にもなる。
だから離婚を視野にいれるとか悲しい事を言わずに、歩み寄ってはどうだろう。
因みにキリスト教(プロテスタント)的には一度夫婦になった2人が離婚するにもありえないんだそうな。
信仰してる嫁が言ってた。
聖母マリア・十二使徒・パリサイ派・イスカリオテのユダ・十字架刑・キリストの復活・マグダラのマリア・タルソのパウロ・新約聖書・ローマ教会・コンスタンティノープル教会・アレクサンドリア教会・ローマ教皇・カノッサの屈辱・十字軍・ラテン帝国・ヴァチカン市国・カトリック・プロテスタント・免罪符・マルチンルター・カルヴァン・イエズス会・フランシスコザビエル・コンキスタドール・ピサロ・正教会・東ローマ帝国・ロシア帝国・イコン・英国国教会・コプト教・異端・魔女裁判・ジャンヌダルク・グノーシス主義・ ナグ・ハマディ文書・トマスの福音書・マニ教・ネストリウス派・景教・カタリ派・モルモン教・エホバの証人
http://anond.hatelabo.jp/20090910014230
僕も、中・高校生のころ、キリスト教を信じてしかるべきか?と悩んだときがある
キリストは、踏み絵を踏んだ人の痛みに涙するだろう、ということを言っていた。人の弱さに寄り添う存在だと思う。それが、「心貧しき人は幸いである」ということだと思う。
カトリックの話が続くので恐縮だが(なんとなく、あなたはプロテスタント、のような気がする)、僕の行っている教会の、ヨーロッパ人の神父さんと、日本人たる僕の信じているものが、違うものじゃないかと感じた時もある。だけど、教会にはヨーロッパ人だけでなく、フィリピン人も沢山来たり、ベトナム人も沢山来ている。キリスト教はやっぱりヨーロッパが本場だけど、だけどフィリピン人のキリスト教も、ベトナム人のキリスト教も、もちろん、日本人のキリスト教も、それぞれ、別なんじゃないかな。それはそれで良いんじゃないかなあ、と思います。それは、遠藤周作の「深い河」を読んで感じました。
いろいろなキリスト教の姿がある、と分かると、まあ、カトリックでもいいんじゃないのかなあ、という余裕が生まれました。最近では、プロテスタントとカトリック間の対話(エキュメニズム)をやっている人達もいるので、そのあたりも調べてみるとおもしろいのかもしれません。
僕は幼児洗礼なので、いわば親から信仰を押しつけられた面があります。
だから、神の存在を「肯定」するか「否定」するかの二つしかない。だけど、もし、信者でなければ、特に日本にいれば、「神」を意識することすら無かったんじゃないかと思います。
ネット限定と言うよりも、身内限定で話していたものがネットだと外からも見える様になっただけなんじゃないかと思う。
例えばだけど、プロテスタントの中には「カトリックとかマジおかしい」とか言ってた人達が居たと思う。
ただ、そうゆうのはプロテスタント同士の内輪の憂さ晴らしみたいなもので、外からは見えなかった(大爆発しない限り)。
プロテスタントだけでなく、バプテストとかメソジストとかも同じ様な事をそれぞれやってた。
それが今だと、2chのプロテスタント板とかバプテスト板とかメソジスト板になる。
個々のマイノリティ板住民の中には、そこを「公共の場」だと思ってない人も多いんじゃないかな。
ところがネットだとそういう内輪の憂さ晴らしが外からも見える。
マイノリティ板に主流派住民が来て如何にも主流派な文句を垂れたら、主流派は来るな空気嫁って事になると思うんだよね。
プロテスタント板住人が、バプテスト板とかメソジスト板とか見た時に「ああ何処も同じだな」と思うか「何こいつらキモイ」と思うか…。
単に見え過ぎるのもどうかなってだけの話かも知れない。
子供のころからなんやかやで周りにキリスト系の人やら集団があって、
一緒におやつ作ったり、バザーでお店役させてもらったり、
お金を取るわけでもないのに、見も知らぬ子供の面倒を見てくれる、
なんかいい人ばっかり、というイメージがあった。
高校になって、家で自分だけがプロテスタントという知り合いができた。
生まれて初めて聖書を読めと勧められた。
しかも、あげると。
子供のころ周りがそんなんだったから、図書館で関連の物語やら、聖書やらをを読んだ事はあって、
折角の機会だからと借りた聖書を再読。
気になっていた部分を聞いてみた。
聖書って、真面目に読めば読むほど、比喩的な表現ばっかりだから、
途端に知人の顔が曇った。
「なんで信者でもないあなたに、聖書の説明しなきゃいけないの?
あなたにはなんの関係もない事なんだから、興味なんて示さないで」
じゃ、なんで本くれたのよ?
と思ってたら、何故か住所を聞かれ、
近くの教会を「私の紹介だって言えば、お説教が聴けるから」と紹介された。
(そこは定期的に礼拝やっていて、何時でも誰でも来て、って教会)
それ以来、キリスト教が途端に胡散臭くなった。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20081214/p1
上記エントリーへのブクマコメに対してIDコールを頂いたので、ここで回答を書いておきます。
自分のブログで書け、と言われそうですが、既に全く更新してない廃墟なので。
id:thoughtplace 取り敢えず「努力しないことは道徳的な悪ではない」には異を唱えておく。怠けているせいで低待遇なのは当然であって、働き者にとっては比較対象にすらならない。クリエイティブなものを生み出す「怠け者」って何? 2008/12/15
id:y_arim 単なる賃金の差に道徳上の善悪を見出すってほとんどメンヘル思考だぜ、それ。それとも16世紀のプロテスタントか何か? クリエイティヴなものを生み出す怠け者については、村上春樹の執筆時間とか考えよう 2008/12/15
単なる賃金の差を悪だとは思いませんよ。
元エントリの前提は「スキルアップ努力も貯金もせずに浪費しまくり、ギャンブルや女遊びなどの自堕落な生活を続けて失業しちゃった人達」です。
元エントリ自体が、「職も維持出来ない程に怠けきった人」と「職は確保した上で適当にやっている人」を混同して書いている節があるので、認識にずれがあるかも知れませんが、前者を「単なる賃金の差」で済ます方がメルヘンだと思うんですが、如何でしょうか?
では、前者を何故「悪」と呼ぶかと言えば、「ただ怠けている」と言うだけの理由で、他の人に「救済」して貰っているからです。
「国家」なんて持ち出さなくても、何の収入もなく生活している以上、その人を養っている人(多分家族)が居るでしょう。
そういった人達の収入を食いつぶしても平気で「努力しない」で居られるのは、充分「悪」だと私は思います。
そんなのはカビの生えたプロテスタントの考えだ、ニート万歳! と言う方も居るかも知れませんね。
私とは相容れませんが。
一応補足しておくと、「職は確保した上で適当にやっている人」に対して発生する「単なる賃金の差」に対しては「怠けているせいで低待遇なのは当然であって、働き者にとっては比較対象にすらならない。」とコメント済みです。
日本でも裁量労働が導入される様になって大分経つのに、随分前時代的な思想ですね。
まぁ、そういう考え方もあるでしょう。
ですが、村上春樹が村上春樹である為に掛けている時間は執筆時間だけですかね?
村上春樹と同等の知識や発想力や表現力を得る為に必要な時間はどれ程のものでしょうね?
村上春樹はそれを「努力している時間だ」とは言わないでしょうし、むしろ「俺は怠け者だ」と言うでしょうが、「スキルアップ努力も貯金もせずに浪費しまくり、ギャンブルや女遊びなどの自堕落な生活を続けて失業しちゃった人達」とは次元が違う事は議論する必要も無いと思いますね。
こんな所で回答になったでしょうか?>id:y_arim
from id:thoughtplace
私は、プロテスタント系の教会で、日曜学校を教えている。先生もクラスも年齢別に複数ある。
感謝なことに、それなりに人数が多く、定期的に新しい人も来てくれる状況。
しかし、最近気になることが。
とある小学生と幼稚園児の兄妹。母親(ノンクリ)に連れられて私の教会に来た。
聞くところによると、ネットで私の教会のサイトを発見し、来たのだという。
以前彼らが通っていた教会は、子供がほとんどいなくて、日曜学校や託児室もない。
子供は必然的に親と一緒に礼拝に出席することになるんだけど、その年くらいの子供が
じっとしていられるわけがない。
そのうち、教会員の人達(割と年配の人が多かったらしい)に疎まれるようになり、
居づらくなってその教会に通うのをやめた。
でも教会には通いたいので、いろいろ探していくうちに私の教会にたどり着いたらしい。
その話を聞いて、すごく悲しくなったし、イエス様の憐れみが注がれるように祈った。
だけど、その年配の人たちの気持ちも分かる(礼拝に集中できないとか)。どっちが悪いとかの話ではないんだよね。
私の教会は小さい子も多いし、日本の教会の割には平均年齢が若い。若いファミリーが来やすいと思う。
だから私の教会ではもちろん大歓迎だった。
ただ・・・その子達の母親が、どうも「キリスト教の価値観で道徳心を持たせてほしい」=「しつけに期待」みたいなことを
思っているフシがあって、少々困っている。
確かに、聖書に書いてあることを教えるし、実践してほしいと考えていて、授業中しゃべれば注意するし、友達を叩いても
注意する。でもそれはしつけじゃない・・・というか、その子が本当に変わるかどうかは親にかかってると思う。
私はクリスチャンなので書いてしまうけど、聖書的なしつけを実践する責任を神様から委ねられてるのは親。
ぶっちゃけた話、日曜学校の先生にそこまで踏み込むことはできない。
例外として、親がトンデモない親だった場合、牧師と相談してそれ相応のフォローはしていくけど、そもそも教会に
通おうかと思っている親に、そんなにトンデモない親はいない・・・いたとしても表面上は分からない。
分からないと対処のしようがないから。
私はその子、母親のことを愛しているしイエス様のことを知ってほしいと心から願っている。
けど、日曜学校に必要以上の期待をされると、ちょっと困ってしまう。
つまりそれは集団の意思決定=政治学であり
集団での金やらモノやらの動き=経済学だ
そういう「自然ではあるはずがない」単純な仮定空想の状況を作り出して実験することも容易い。
やっぱりさ、人間をある程度捨象してしまうことだよね。つまり類型論。類型論って、ステレオタイプのこと。
そうすれば、因果関係も見えてくるじゃない?でも、類型をつくる時点で、それは人を捨象する学者の価値判断がそこに含まれてしまう。
やっぱり科学っぽくない?まあしかし厳密な正当性なんてものを社会みたいに相関的、イコール互いに影響しあう対象の研究に求めるのは酷。
ある程度の妥当性が認められれば万歳でしょう。
じゃあどういう風に類型を作るのが一番妥当なんだろう?マックス=ウェーバーはプロ倫を考えてみる。
まず事実があるじゃん。資本主義ができる前にはプロテスタントが広がってった
プロテスタントには商工業者が多い。プロテスタントは現代でも重役につくことが多い。
フランスはナントの勅令を廃止してから財政難に陥った。スペインはゴイセンを迫害してから没落していった。
適当だよ?ウェーバーさんがどういうやり方したかは知らないよ。適当適当
でもこれら個別の事実を並べて、ある色メガネでみるとそういう法則が分かるんじゃないかってこと
色メガネは絶対に必要なんだよね。つまり他の色を捨てるってことだよ。
まぁ結論ありきでやらないってことが重要だよね。どの色メガネを使うか最初からきめてたらそれは「ただの今頃の若いもんはおやじ」だよね。
統計に余計な価値判断を加えるのが社会科学、というか社会学?ですが!その価値判断が社会学のすべてなので!スマートでアクロバティックな価値判断がよろこばれます!つまり多様な価値観!複眼的な分析が重要なのです!
あんまり気にしなくて大丈夫。
(韓)>でも敬虔なクリスチャンには、「イスラーム(?)が汚れの象徴の豚をキリストの聖女(主人公はジャンヌの生まれ変わり)に食わせようとしている」と映る。
手元にある「豚料理大全」にはフレンチの技法もイッパイ、なぜだろうねw
フランス人はレビ記や申命記の戒律(コシェルってヤツね)を嫌い、
以下、聖書はJSS版からの引用。新共同訳は探すのが面倒でね、すまん。
(旧約聖書)>
Gen 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
Gen 1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
(韓)>ほかにもサブタイトルにいくつか性やら麻薬を連想させるものがあってアウト。
いやいや、そもそも聖書の記述が「性的恥辱を感じました」そのものだから。
(旧約聖書)>
Gen 3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
Gen 3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
(韓)>イブ=ジャンヌ=まろん(主人公)という設定も完全にレッドゾーンらしい。
(韓)>仏教の考えである輪廻転生がなぜか使われていたりする。
(韓)>「これはクリスチャンぶち切れるよ」とのこと。
まあ確かに魂の継承や輪廻という概念はキリスト教からみれば「異端」だけど
(少なくともプロテスタント、カトリック、ロシア正教、ギリシャ正教はそうだろう)、
reincarnation や karma という言葉が一般的なくらいに神秘思想も知られているよ?
そもそも輪廻は仏教思想じゃなく、元はヴェーダから来たヒンドゥー思想。
(韓)>たぶんイブは誘惑に負けてリンゴを食べた者なのに…。ってことかな?
イブが食したのが「リンゴ」であるという記述は聖書のどこにも書いてないw
確かにヨーロッパで「知恵の樹の実」は伝統的にリンゴだとされているけど、
創世記の最初の舞台メソポタミア周辺の気候はリンゴ栽培にあんまり向いてないんだもの。
(旧約聖書JSS)>
Gen 3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
Gen 3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
Gen 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
Gen 3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
Gen 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
蛇の言ったことの方が事実だったんだから。
神が自分を「われわれ」と呼んでいることにも注目!
これは多神教時代の名残の消しそこないで、「唯一神」の自己否定(w)が旧約聖書に載っている。
神の呼称のひとつ「エル」に複数形「エロヒム」が存在する理由でもあるw
(旧約聖書JSS)>
Gen 3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
Gen 3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
Gen 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
(韓)>ほかにも、(まあこれはこじつけ見たいにも思えるんだけど。)ロザリオの形がハーケンクロイツに見えるコマがあったり、
うん、こじつけ。
スワスティカは「調和」「秩序」のシンボルとして十字架よりはるかに長い歴史を持つ。
キリスト教自身でスワスティカを変形十字架として使ってた例がある(コレ重要w)。
ここ数十年の反ナチという刷り込み、思想制御、言論統制の方が私には恐いね。
(韓)>それと韓国人が「子供の頃フランス人の女の子にジャンヌダルクってあだ名を付けてからかったら、
(韓)>その女の子の父親がマジ切れして殺されかけた」ってゆってた。
日本人が韓国に行って、韓国人に「ヒデヨシ」と呼ばれ続けたら俺も怒るw
これはジャンヌうんぬんが問題なわけじゃないぞ。
「名前を無視されること、名前を尊重されないこと」を侮辱と感じただけジャマイカ?