はてなキーワード: 瀉血とは
その通りだと思います。
日本の透析医療は透析利権と結びついて、病院側と製薬会社、医療機器メーカーなどとのズブズブの関係で、異常ですもの。
医師が、患者さんの「その後の生活がどうなろうと関係なく、どんどん透析に誘導してゆく」のが日本。
生体腎移植ですら、なかなか進まず、欧米諸国と比較しても、腎不全に関しては明らかに医療後進国なのが日本。
腎臓関係の学会論文やシンポジウム、講演の資料などpdfでも色々でてくるから、誰でも理解できますよね。
脳死腎移植は多くて年間100件程度。これでは33万人もいる透析患者は救われませんね。
生体腎移植はドナーの定義が決まっているから、60歳以上の人からは健康な成人であってもドナーにはなれません。
今だからこそ、もう透析を中止したい=自分の命を「死」と受け入れた覚悟のできた患者さんには、尊厳死を認めるべきだと思います。
人工呼吸も胃ろうも本人の意思でやめられて、尊厳死=自然死に行き着くのに、腎不全患者だけは透析があるからって、尊厳死が認められないおかしいですよね。
透析中止の緩和医療もこれからは、全国の医療機関で、本人の強い希望があれば行われるべきです。
https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/report/t308/201803/555278.html (透析中止後の呼吸困難は「瀉血」で緩和できる)
いつ何時でも、医療側が患者の生死を決めるのではなく、患者自身が自分の人生を決めるのが、患者の意思を尊重したこれからの医療の責務ではないかと思います。
完治できない病であるならば、患者の苦痛を緩和し、残された時間の間、患者が苦しまずに自然死へと導いてゆく「緩和ケア」も、これからは対応してゆくべき!
勘違いさせてしまった献血ルーム側も悪いかもしれないけど、基本的に、200ml献血は
罪悪感とか、恥ずかしい気持ちとか、それをルームに転嫁させて少し憤慨しているような、そういう気持ちがあると思います。
でもそれらは抱く必要はありません、献血は、(たとえ募集してる人がどんなに必死だったり強い言葉で叫んでいても)、
やりたい人、かつ、できる人が、できる時にやることだからです。
だから、200を断られた増田がそれならやりませんということは、なんら悪いことでもなんでもありません。
それをまず認識してください。
あのですね、献血ルームはそもそも牛丼屋のように「お客様」が「並、大盛り」を選べる場ではありません。
「やりたい人」と「必要なもの」があって初めてできるものです。
しかも「200を用意しておくな」などと文句を言う筋合いも君たちにはありません。
仮に新生児が200人単位で事故にあったりすれば、もしかしたら200の需要が急激に高まるかもしれないですし、もしそれがなくとも、それを変えるのはあなたがたの「文句」ではなく、日赤が医学的根拠に基づき必要があれば変えることです。
日赤の日々の医療への貢献と比べて、あんたらのブコメがなんの屁の役に立ってるのか少しは考えてみてはいかがでしょう。
まぁ、日赤にとっても献血って儲かるんですけどね、それは別の話として。
200を現在必要ないのに採れば、血液の提供者にはそれだけ負担もかかるし、針を刺すことで指に麻痺などの障害が残るリスクがあり、また看護師含めスタッフの人件費、ディスポーザブルの器具のコスト等がかかります。だから断られます。
来てやったのに断られた!と憤慨する必要はないので、(今知ったかのように憤慨するということは今まで献血に興味も持たなかったのでしょうし)、何も知らないのに献血ルームのネガキャンをするのはやめなさい。
その前に、自分の無知を恥じろとは言いません、自分を一度振り返ることくらいはしてみてはいかがでしょう。
私は一介の献血好きですが、16歳になって意気揚々と200mlをやりにいったら18歳になってからと断られ、
今も血管の細さや貧血で毎度のように断られ、血管が細いため血液を「返す」ことが難しいので、成分献血はできず、うまくいっても400ml献血しかできません。
そんな献血好きの私が、「よいルーム、よいスタッフ」にあたるコツを最後に少しだけお教えしましょう。
これが大間違いです。いや、増田は悪くない、それどころか、呼びかけに応じて入ってくれて、とても良い人です。
その善意を活かすなら、今度は「大声で献血を募集している献血ルーム」または、「その日だけ来て血を集める献血カー」は、避けましょう。
どうせそこを避けていい献血ルームにいっても、困るのは患者ではなく当該のルームだけです。
県内で一括して集めるのだから、どうせなら、いい待遇で安心して献血しましょう。
「穏やかに協力者を募集している献血ルーム」または、「協力者を募集していない献血ルーム」へ行くのです。
新しく、きれいで、少し混んでるくらいのところがいいです。
そういったところでは、「献血できないのに来るな」などという扱いはほぼ受けません。
仮に検査値が満たなかったり、こわくなってやめたとしても、ビスケットやポカリスエットなんかを持たせて、にこやかに送り出してくれます。
献血カーなんかより広々、清潔で、お土産やサービスも豊富です。
看護師も腕のいい人が多いです。
一度でも嫌な思いをさせて献血離れを加速させる一部の献血ルームスタッフはもちろん良くないです。
しかし、一度嫌な思いをしたくらいで、避けるには献血は勿体ないですよ。
きれいな看護師さんに優しくされ、お医者さんに心配され、献血ルームのスタッフ全員に入った瞬間から出る瞬間まで感謝され、献血ルームによっては美味しいコーヒーが飲めたり新刊のマンガが読み放題だったり、献血自体もなんとなくデトックスになったりする。
帰りにお米とか歯磨き粉や洗剤がもらえる。
(私は何回かでけんけつちゃん×ハローキティ×横浜赤レンガ倉庫の謎コラボタオルをもらいました、あまりにシュールな品で、かつ何回か献血しなければもらえなかったので、その達成感もあいまって今も宝物です)
また、巡り巡ってどこかでそれが助けになってる難病の患者さんがいる。
私は針を刺されるのがとても苦手です。針を刺されるとき、刺さっている腕、絶対に見れません。
なので解剖学的構造を理解している、信頼できる看護師さんにされるのがいちばん安心します。
そういった看護師さんは、いくつかルームをまわらないとなかなか見つからないですが、それもまたルーレットのようで楽しいです。
いいルームでは、難しい血管は上手な看護師さんにすぐに代わってもらえます。
こわい旨は素直に伝えましょう。
そういったオプションではなく、本質として「血を抜かれる」ことも、昔は「瀉血」として治療法とされていました、今は医学的効果は否定されてます、ですがやはりスッキリするのでそれも私は好きです。
お帰りの際は立ちくらみにはくれぐれもご注意ください。
小綺麗でも、必ず安心できるいいルームとは限りません。それに関しては、いくつか回ってみることが必要です。
のやり方をもっとフィードバックする必要があるかもしれません。
でも、自分にとって行きつけの献血ルームができたら、数ヶ月おきにそういった「2~3時間の空き時間」をとても有意義に使うことができますよ!
正直、どんなにうまくいっても女性は年に2回しか全血の献血はできないので、男性や体格のいい方、健康な方や血管がクッキリ出ている方がとても羨ましいです。
http://matome.naver.jp/odai/2140706664924864501
「ただの海水で、病気が治っては儲からない」のでウィキペディアから消えている人物:ルネ.カントン-人生は強く,たのしく、しあわせに☆ ネオヒルズというよりも,ネオ日本人。
上の3つの記事というか、2番めの記事が3番目の記事を引っ張り出してきてネバーまとめまで作られちゃって挙句の果てにFacebookやTwitterにガンガンシェアされてて気持ちが悪い。
でも、思ってることを直接伝えることも、友達から消すとかそういうこともしないで何とかならないかと思ってコレ書いてる。はてな記法よくわからん。
時期が来たらこれをFacebook上でシェアする。ロンダリング的なイメージ。
出典である「ザ・フナイ」を読んでいないのでここに書いてあることがすべて本当だとは思わない、嘘であるとも言い切れない。
医学学んでないからそんなこともあるのかもしれない。でも、私が知っている生物学ではこれは非常に胡散臭い。勉強不足なだけかもね。
引用に対する疑問
1.
彼は1907年、初めてのクリニックをオープンしてから、血液の濃度まで薄めた海水を病人に輸血し、1910年までにフランス国内で約70ものクリニックを開け、50万人以上の命を救った。
今の点滴との違いは各種プランクトンや海水中の養分の違いでしょうか。
不純物いっぱいある気がするけどそれでもいいの?
ていうか少なくとも現代の環境を考えると点滴のほうが安全だと思うよ。
2.
第二の実験は、体重10キログラムの犬の血液を瀉血法で抜き取り、極限まで血を抜いた後に、前回同様、海水を注入するということである。
太平洋戦争末期、九州大学生体解剖事件(相川事件)という事件があったらしい
捕虜の腕に海水が500ccほど注入されました。この時捕虜はまだ生きていましたが10分ほどして捕虜は死にました。
当時のそれぞれの医療レベルがどれほどだったかはわからないけれど、片や血液を全部海水に変えても問題なかった。片や500ccで死んでしまった。
犬に投与されたものが薄められた海水なら犬は極度の貧血で生死の境にあってどうにか回復したんだと思うけれど、海水ダイレクトだったら浸透圧の関係でアウトじゃないの?
3.
日本語版ウィキペディアにはそもそもルネ・カントンの記事は作られていない
削除されたらされたでその形跡が残るのがウィキペディア
https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Ren%C3%A9_Quinton&action=history
引用元のブログ記事が書かれた2013年10月13日の前後の編集点は2013年9月23日と2014年4月4日
この間記事は記事として内容を持って存在している。
4.
第一次世界大戦で負った傷から早死にしてしまったルネの葬儀には子供連れの母親からヨーロッパ中の医者科学者、首相を始め政治家など、100万人以上の人々が訪れた。
こればっかりは海水じゃ治らなかったのか、残念だ。
瀉血とは汚れた血液を抜くという中世では一般的な医療法であった。現代では一部の病気治療を除いて使われていない。wikipediaによると迷信にカテゴライズされてしまっているらしい。その理由は体内の毒素を排出するという事に根拠が無く、結果的にエビデンスが得られないとからだそうだ。
しかし私は別の視点から瀉血の効能を考えている。瀉血と同じように『献血』も血液を抜くと言う点では同じだ。一般的な400ml献血の場合、体重50kgの男性ならおよそ10%の血液が失われた事になる。(女性ならさらに割合が多くなる)
致死量は50%なので、健康に害はないとはいえこれはすごい量だ。500mlPETボトルに8割入った血液を床にぶちまけたらすごい光景だろう。健康に害はないとはいえ、出血している本人は気絶くらいはするかもしれない。
ここで私が言いたいのは、健康には『害』はないだろうが、『影響』はあるだろうと言う事だ。もちろん、危ないから献血などやめろと言う事ではない。むしろ逆だ。体内から10%もの血液が突然失われた。これは明らかに身体に影響がある。私は何度も献血をしているから経験的に言うが明らかに元気が減る。露骨にいえば性欲が減退する。学生時代、昼間から悶々としていて、帰ったらオナニーする気満々な時でも、献血をするとびっくりする程性欲が減退した経験が何度もあった。献血後すぐに効果が現れて、2~3日は影響があった。特に当日の夜はビデオなどを見てもガッカリするくらい反応が薄くその落差に驚いたものだ。
しかし、瀉血の効能が性欲減退だと言いたい訳ではない。ここで考えて欲しいのは、突然血液が失われ、血圧が下がり元気も性欲も減退した身体はどう反応するかと言う事だ。長い動物の歴史において、突然血液が失われると言う事はケガをした時以外に考えられない。身体は当然、ケガをした時と同じ反応をするであろう。つまり、傷口からの細菌の侵入に備え免疫機能が活性化する。傷口の補修と失われた血液の補填のために造血機能をフル稼働させる。言い換えれば、平和ボケした臓器共に敵が攻めて来るぞと活を入れ軍事教練を施し、失われた古い装備に代わりピッカピカの新造装備を大増産するのだ。つまり戦争だ!と脅すのである。それによって身体はリフレッシュされ、新しい血液の割合が増え、健康に寄与するのではないかというのが私の説である。
これ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/24208162
ブコメがひどいですね。リストに挙げられた故人の名誉のために少しお話をさせていただく必要があるようです。
ホメオパシーは電波な医者が編み出した電波な理論だと思われていますが、それは違います。提唱された当初は、当時の先端医療の延長線上に立てられた有意義な仮説であり、当時の標準医療よりましなものでさえありました。その当時の信奉者は、必ずしもおかしなものを妄信していた非開明的な人物であるとは言えません。
今のように、ベルリンの壁を分子0.6個(平均値)しか残らないまでに薄めたものを教室や会社に噴霧すれば非コミュのお前らもいじめられなくなるなどというオカルトではなかったのです。(ベルリンウォールのレメディは、人間関係修復、いじめや鬱対策、戦死者やテロ被害者の浄霊などに効果があります。)
症状を引き起こす物質を薄めて体内に入れることで症状に対抗するという理屈。
何かに似ていると思いませんか?
非常に薄めた菌を植えて抵抗力を獲得する、ワクチンですね。
エドワード・ジェンナーが種痘の接種に成功したのは1796年、発表は1798年。それ以前から天然痘の接種は行われていましたが、なにせ病人の膿をそのまま植えるので、結構発病して死にました。薄めて接種することで危険性を下げ、うまく効果だけを得る方式を編み出したのがジェンナーなのですね。
一方ホメオパシーの始祖であるドイツの医師、サミュエル・ハーネマンが類似の法則を初めて世に問うたのは1796年(医学誌にエッセーを発表。これをホメオパシーと名付けたのは1807年?で、体系付けて理論書にまとめるのは1810年)。この時点では薄めることを条件としていないようですが、1800年には希釈したベラドンナを用いた記録が確認できます。
はい。ワクチンとごく初期の同種療法は、同時代の似通った発想なのです。
ハーネマンは希釈という手法をおそらくはワクチン研究から取り入れ、薬草でも同様に毒性を下げて薬効を得られるのではないかと考えたのでしょう。当時の最先端医療を勉強し、さらに拡張して薬草の効果にまで敷衍できないかと考えたのではないでしょうか。毒を薄めて薬にする薬草は結構多いですしね。結果的には同種療法の考え方は誤っていたものの、当時おかしくはない着想であり、悪くない医学上の仮説であったと言えます。
ハーネマンはアホではない。真摯な学究の徒でした。砒素中毒に関するまっとうな専門書を書き残してもいます。だからこそ砒素や水銀を処方していた当時の医療を嫌って独自の療法に走ったのであり、先端医療から希釈という発想を取り入れる聡明さも持ち合わせていました。
ふと思い付いてキナ皮を飲んでみたらマラリア類似の症状になったことから同種療法を考え付いたという逸話が有名ですが、ここに薄める手続きはありませんよね。そこは他人の先端研究を意欲的に取り入れた部分です。
ホメオパシーがまったく新しいオリジナルの着想だと言いたいホメオパスが元ネタを隠蔽したためにここがミッシングリンクになっているのです。もっとも、ハーネマン自身もそうだったのかもしれません。そのまま採用するのが癪で、薄めれば薄めるほど有効などという蛇足を加えたのかもしれません。
同種療法はハーネマンの元でほそぼそと試されていたのですが、これが世間の知るところとなったのは、1800年の猩紅熱の流行です。若草物語で三女のベスが死の淵をさまよう病気ですね。この時、上で述べた通り、希釈したベラドンナを使用しています。
ワクチンまでも開発されたご時世ではありましたが、標準医療としては依然、瀉血と(動物の血の)輸血が行われていました。そんなもん、ぴんぴんしてても死んでまうわ。
のちにナイチンゲールが語った通り、害のある行為よりは意味のない行為の方がましです。なので、同種療法は標準医療より生存率を高めました!
おめでとうございます。最先端医療である同種療法の有効性が確かめられました。
かくて華々しい実績を引っさげてデビューした同種療法はやがてホメオパシーと名を変え、1830年代までは標準医療に追われながらも果敢に戦っていたようです。が、1828年頃には、ハーネマンが次々思い付く新理論についていけないホメオパスも現れていました。ホメオパシーはもはやまったく医学上の一仮説ではなくなってしまっており、理論を信じて従ってきた者とどこまでもハーネマンに付く者という形でホメオパス同士の内部抗争が始まりました。
1830年からのコレラ大流行で英仏が水際作戦に失敗したため近代医療への不信が高まったことがホメオパシーの最後の味方となりました。ハーネマンは若い妻を娶り、パリの社交界に招かれさえもして、幸せな晩年を送ります。
しかし、それが最後の輝き。所詮は誤った仮説であったので、医療の目覚しい進展に伴い取り残されてしまいました。お疲れ様でした。役目を果たし終えた仮説に用はありません。誤謬でしかなかったホメオパシーは、そのままマイナーな代替療法の一種に零落していったのでしょう。
ですが、第一次世界大戦終戦後の暗い世相の中、ホメオパシーは再び胎動を始めるのでした……。ハーネマンの遺稿(と称するもの)が1920年に刊行されるほどに。
ええと、この人が言いたいのは「中世で統一されているのか否か」の話ではなくて、
世界観の設定が閉じているか、開いているかの話だとおもう。
衣服の流通は糸を紡ぐところから始まるし、医者の技術は瀉血みたいに「悪い血を抜く⇒体が良くなる」という風に因果がはっきりとさせてある。
現代的な「ファンタジー」は開放端がある。
衣服は既製品が流通していて、その生産にはあまり興味はなく、その製品がどこから来たのかは物語上のスパイスになったりしない。
医者は瀉血や薬草ではなく、どこからから送られてきた抗生物質で人を元気にする。
同じような話だと、怪獣についても言えるきがする。
一昔前の怪獣は
「古く封印された神が現代の空気汚染で怪獣と化して山からもっさり出てきて大暴れ」みたいなのばっかりだったが、
人々は小さな集落で原始的な農業に携わり,そこには封建領主が君臨して全権を振るい,村から一歩でも出ればそこは未開の地。移動手段は徒歩か馬車。工業はまだまだ未発達で,鋼をようやく生産できるようになったくらい。武装は剣や槍に鎖かたびら。ひょっとしたらごく初歩的な先込め式の銃はあるかもしれない。字を読める人間はごく限られていて,魔術や魔物といった存在がごく現実的なものとして認識されていて,医者は瀉血以外に治療法を知らない。
本編の趣旨から大きく外れるが時代内容がめちゃくちゃだなw
ニンジャなみにぶっ飛んでる
日本において忍者の物語が非現実であったようにファンタジーの中世なんてそれっぽければいいんだなー
(ヨミって変なキャラだったよね)
一昔前は「ファンタジー」世界における文明レベルは中世と決まっていた。人々は小さな集落で原始的な農業に携わり,そこには封建領主が君臨して全権を振るい,村から一歩でも出ればそこは未開の地。移動手段は徒歩か馬車。工業はまだまだ未発達で,鋼をようやく生産できるようになったくらい。武装は剣や槍に鎖かたびら。ひょっとしたらごく初歩的な先込め式の銃はあるかもしれない。字を読める人間はごく限られていて,魔術や魔物といった存在がごく現実的なものとして認識されていて,医者は瀉血以外に治療法を知らない。
現代的な「ファンタジー」はこうした前提を置かない。現代と過去の要素を無差別に混ぜ合わせて成立する。剣と魔術は出てくるが,炸薬入りの弾丸を撃ちまくる銃も同時に出てきたりする。人々は当然のように規格化された工業製品を用い,印刷された書物に接する。やたらと派手な服を着ているが,その生産や流通を支えているはずの社会のありかたといったものは片鱗すら見えない。
別にそれが劣っているとか言いたいわけじゃない。ただ,統合された世界観というものに対する欲望は失われたんだなあと。架空の世界の経済を考え政治を考え地図を描き年表を作り言語をでっち上げたりするような,ある意味で病的な熱意は,きわめて20世紀的なものだったのだなあと。