はてなキーワード: 教養とは
仲良くなってすぐの頃に、たまたまご飯の帰りに通りがかった建物の前で、ここ私が行ってた学校なんだ〜って言われたことがあった。田舎者の私は、へーこんな都会のど真ん中にある学校だったんだ!いいなぁ!くらいしか思わなかったんだけど、後から知ったその学校は中高一貫の難関私立校だった。
もちろん彼女は大学も早慶上智クラスで、普通に生きてたら知り合いになれないような人だった。
変わってるなぁとは思ってたけど、趣味繋がりだったからなんとなく大学は上だけどあとは同レベルと誤認していて、本当に自分は恥知らずだった。
美味しいものもおしゃれなものも全部彼女から教えてもらったのに、大学上京で浮かれていた私は仲良くしてあげてよかった〜くらいに思ってた。世間知らずすぎる。
東京の山手線の中に実家があって、知識も教養もたくさんあって、進学や習い事や留学で得た豊かな人脈があって、なにもかも持っている彼女に縁を切られたのはある日突然のことだった。
突然とは言っても何回か私が無知で人との付き合いをするうえで大変失礼なことをしていたので、当然の結果ではあるんだけど、人格からなにから全て劣っていたと自覚した時は本当に辛かった。
私もあの家に生まれていたら、あの美貌と頭脳があれば、あの学校に通えていたら、私だってすきで今の親の元に生まれたわけじゃないのに。
知り合わなければよかった、あんな自己肯定感が高くて豊かに生きている人間を知らなければこんな劣等感に苛まれずに済んだのに、羨ましい、羨ましい、せめて出会った頃からやり直したい
麻布高校に6年いた経験を踏まえ良い面と悪い面を書く。これから書くことはおそらく他の上位の中高一貫の男子校に共通しているだろうと思う。
良い面は友人が(途中で落ちぶれる生徒もいるが)優秀で、自分の知り得なかったことが会得出来ることや、無意味な制限がなかったことだ。また全員ではないが教養がある面白い教師も多かった。カリキュラムとしては教養主義的なところがあり、受験に不要な教科を嫌がる者もいたが、為になったと思っている。内申点に気を遣い部活をやめられないというようなこともなくよかった。
悪い面もいろいろある。まず男子校だからと言って今の時代見逃すべきではないことである。教室の汚さ、ホモソーシャルな環境、友達同士で連むと社会の迷惑になる行動に走る割に、仲間内で閉鎖的になりやすいこと、女性蔑視などである。どうやら麻布に入学すると、歪んだ特権意識と抑圧された小学校時代の反動からか、行動範囲が広がった高校生は蛮行に走りやすいらしい。文化祭や運動会の不祥事や、飲食店での横暴な振る舞いなど、自由の範囲から逸脱して単なる愚かな振る舞いをしてしまうのだ。またどの生徒の親も基本的には裕福なので、よく変人が多いとメディアで取り挙げられるが、実際はこれ以上ないほど均質な生徒の集まりである。そのため多様性というものはどこにも存在していないと思う。その点、地元の小学校に通っていた頃は、びっくりするほど漢字が読めなかったり、物を知らない生徒がいるなどある程度の多様性が確保されており、これも必要な経験だったと今になって思う。
まとめ
中高一貫にも長所短所はあり、私は入学したことを後悔していないが、もう一度入学したいとは思わない。開成や筑駒は少し違ったところがあるのかもしれないが、少なくとも麻布に関しては、判断力と知性の欠如が余りにも目に余ったからである。また唯一避けた方が良いと思うのは小学校から私立に通って、上位の中学または高校に進学することだ。それは多様性を経験しないまま社会に出てしまうからだ。
自分は都市部住まいでコンビニも歩いて5分だけどそれでも首都圏とは違うというか、水が合わない。
温泉巡りしたりそこそこ楽しもうとはしているが、やはり誘う友達もいないので独りで出掛けるのには気持ちの面で限界がある。
独身だからいいよね、と送られたが地方都市の女性は住み慣れた土地にこだわりが強く、むしろこっちに永住しないんですか?と言われる始末。
市況の人々の教養レベルは確実に首都圏より低く、買い物に出て不快な思いをすることも多い。
食べ物がおいしいなんて東京での評判は、上等な食材はこちらでも毎日食べるわけでなし、食材が一流でも調理やもてなしは三流でどう考えても東京の店で食べた方が体験として上等だ。
なにより雪だ!!
いくら都市部に住んでもこのクソ雪が凍りつくとどこに出掛ける気力もなくなる!!
何かのゲームでこういう問題があったらしいが、これの答えが「偶数」だと言って譲らない人たちが一定数いる。
結論から述べれば、これは「どちらでもない」が正しい。そもそもすべての素数の積は整数ではないから、偶奇もクソも無いからだ。なお、一部の分かっていない人のために以下を補足しておく。
まず、これは立場や解釈によって答えが変わる問題ではない(少なくとも、一般的な数学の体系を前提とする限り)。つまり、一部の分野ではすべての素数の積を偶数とみなすとか、整数を拡張した概念ではこれが偶数になるわけではないのである。そういう分野も探せばあるのかも知れないが、それは全く一般的ではないし、数学的に有用と認められているわけでもない。それは個人の勝手な脳内定義と変わらない。
また、これに答えるのに高度な数学の知識は必要ない。中学・高校数学の範囲で答えが一意に定まる問題である。これを「偶数」だと答える人は、単純に初等数学が身に付いていない。「2がかかってるから偶数」などと言っているようでは、大学入試ですら点を貰えないだろう。
この問題は、高等数学の教育を受けた人なら、まず間違えないと思われる。というのも、大学教養レベルの数学では、無限を正確に扱うことが非常に重要になるからだ。たとえば、
S[n] = 1 + 1/2 + 1/4 + ... + 1/2^n
を考えると、任意の自然数nに対してS[n]は2未満だが、その極限は2未満ではない。このように、有限に対して成り立つ性質が、無限に対しては成り立たないということは頻繁にあり、大学数学を学んだ人はその区別が重要だと知っている。つまり、上の問題を間違える人は、高等数学の知識に乏しく、そもそも数学を云々するだけの能力が無い可能性が高い。
ここで問題にしたいのは、この問題が解けるかどうかよりも、明らかにある分野の知識や経験に乏しいにもかかわらず、自説が正しいと信じて疑わない人々の精神性だ。この問題の答えが「偶数」だと言う人は、整数や倍数といった基礎的な概念すら理解しておらず、無限の取り扱いにも注意を払えない。つまり、客観的に見て明らかに数学の能力に乏しいのであるが、往々にしてそのような人ほど、自己主張が強いのである。
こういうことは、何も数学に限った話ではない。たとえば、歴史も経済も勉強したことのないネット右翼の連中は、南京大虐殺は無かったとか韓国経済崩などの荒唐無稽な戯言を日夜連呼している。反原発派のほとんどは放射線についてまともな知識を持っていないが、自分たちこそ正しいと信じて過激な政治運動を繰り返している。オーディオオタクは、高額なケーブルなどで音質が向上すると信じ込んでいて、効果が実感できない奴は耳が悪いからと言って自説を曲げようとしない。マイナスイオンとか水素水とか信じてる連中は科学リテラシー皆無だが、自分たちは現代科学の先を行ってると思い込んでいる。他にも挙げればキリがない。
こういう人たちは、専門的なことや抽象的なことを腰を据えて学ぶという習慣がなく、常に物事を自分の都合の良いように捉えて分かった気になっている。議論になっても、結論ありきで、インターネットで聞きかじった知識で自説を補強することしか考えていない。苦しくなると論点や定義をすり替える。そもそも彼らには、正しいことを言ったり、生産的な提案をしたりして、議論に貢献しようと言う気すらない。相手が何を言っていようが、所構わず口喧嘩を吹っ掛けて承認欲求が満たされればそれでいいと考えている。
将来子供は欲しいけれど、美男美女に限る。一重で髪が放射状に上向きに生えているブサイクな息子や、ニキビだらけで馬鹿な娘が生まれてくるくらいなら、産まない方がいい。私は顔がいいから、美女と結婚すればいいのか。しかしそれでも心配だ..
Youtubeで非生産的な時間を過ごしていたら、QuizKnockの動画が目に入った。
内容はIQをWAISのテストを用いて計測したというもの。診断結果的にWAIS-IIIっぽい(今はWAIS-IVがあるけど、主流なのはWAIS-III)
IQは頭の良さではないと断言しちゃってるし、自分の能力において劣っている部分を見つけるためにやるものっていう、日本あるあるの見解しか出してない。
おいおい、海外の研究じゃIQを頭の良さとして定義してる論文なんて山ほどあるし、IQの高さと能力的優秀さが結びついているものだって多い。(逆にメンタル面が不安定とか、そういったものも多いが)
確かにアメリカのギフテッド教育の現場において、IQをものさしに使うことに懐疑的意見もあるようだけど、なんだかんだで使われ続ける程度には賢さを図る指標としての信頼はある。
第一ギフテッド教育をするとなった時、対象は幼い子供だ。その幼い子供を教養(つまり教育レベルで差が付く部分)だけで計測したら、金持ちの裕福で伝統のある家系がひたすら優遇されるだけだ。
だからこそIQって指標があるわけだし、実際IQってものさしは頭の良さを計測するものとして一定の功績を残している。
なのにQuizKnockのような発信力のある人間達が『IQは頭の良さではありません』と断言してしまったらどうなる?
Youtubeは今や小さな子供だって見る。中にはこうちゃんのように言語性IQと動作性IQが乖離している子だっているだろう(多くの場合、大きな乖離を持つ人間は生活においてハンデを背負うと考えられる)
ただでさえ一般生活で苦しんでいる人間に対して、更にIQが高くても意味なんてありませんと言葉を突き立てるのか。
海外だったらギフテッド教育の対象に選ばれるような人間を、日本に生まれたというだけであなたはなんの変哲もない一般人ですと、砂金を砂の中に埋めるような真似をするのか。
確かにIQだけで賢さのすべてが決まるわけじゃない。我々は長い歴史の中で、先人が培った知識を学び、更にそこから応用することで文明を発展させている。
だから知識だって頭の良さだし、毎日泥臭く参考書を開くことだって頭の良さだろうよ。
でもさ、IQだって頭の良さ。それで良かったじゃないか。なぜIQでは頭の良さなんてわからないし、IQはIQなんてトートロジーでお茶を濁す。
知の最先端にいるはずの東大生達が、この努力信奉社会に対して、ポジショントークによる批判か、もしくはもっと他のなにかか。そんなものに恐れをなして保険を貼りまくった情報を、これから芽吹くかもしれない知的好奇心旺盛な子どもたちに与えたという事実が俺はとても悲しい。
日本には一生ギフテッド教育なんてものはこないし、これからも不遇な天才が社会の裏でその力を発揮せずに、ただただ死んでいくんだろうさ。