はてなキーワード: 夫婦別姓とは
まぁ楽しめた。全26話の内、8話までで戦国編が終わったのが評価できた。これをかたらないとなぜハルが魔法少女になったか充分に語り得ず、かといって原作があれだけの分量を費やした戦国編である。バランスをどう取るか気がかりだったが、ここは制作指揮を執った田町ボラギノール監督の『ぱらりんぴっく!』以来の豊富な経験が十二分に活かされた結果と言えるだろう。ただし、平塚為広と大谷刑部との絡みは安直に過ぎると思う。田町ボラギノール監督がかつて制作した『都立尾久の原公園のたたかい!』のキャラ「パシフィック種村」と「パラリンピック吉岡」との情愛の構造のトレースであり、なんらの新規性がないにも拘わらず、人気を得るための安直な策と思しい。この構造は為広と刑部との間に何らの検討も経ずトレースされた。これらはもう受け手が嘗められているとしか思えない。「お前らはこれで楽しいんだろ? え? ほれほれ」という馬立コーラック監督の意図がすけすけである。ここは助監督の木村氏にも頑張ってほしかったが、最近は岐阜県揖斐川郡にある自分の農場の管理が忙しいらしい。
9話から最終話にかけてが原作の通称「大正SF編」に該当する。アニメ第1期で語られた明治41年の初デート。これがハルを魔法少女として目覚めさせる直接の経験になったわけだが、そもそも成美女子英語学校時代の勉学や課外授業と言った、争乱に巻き込まれる以前の牧歌的な部分こそがアニメ第一期の醍醐味かつ要旨であった。「大正SF編」では田町監督が好むスチームパンクの要領を原作に累加し、ハルの激動たる活動を描いた。これが本作。もうおわかりかと思うが私は「第1部のノリが良かった! なにこのノリ! 付いていけないよ!」という意見に真っ向から反対したい。第1期が文学への淡い目覚めであり、その後当然闘争への情熱が生まれてくるのは原作を読んでいれば自明なわけで、1期のノリが変わるのは当然だ。作品とハルの生涯を見渡せばこれは当然のはず。昨今のアニメのノリにたまたま第1期がたまたま、たまたまである。合致したに過ぎない。最近のアニメに絆されてるんじゃねえよ。ばーか。
「大正SF」編では後述するが声優の田端エリザベスの演技が相俟って、独特のケミカルさを醸成していた。一般に「大正ロマン」+「スチームパンク」はかなり親和性がありSF界でも常套手段とも言える組み合わせである。ここに長い歴史を持つ魔法少女モノを組み込もうとしたとき田町ボラギノール氏にとっては、師匠である大谷江戸仕草氏の影響を受けたことが役に立ったと私はにらんでいる。60年代の草創期に活躍した大谷江戸仕草氏の功績は今更贅言する必要性も(とくにこの増田界隈では)なかろうが、特に「ハル」の一連の成果には、氏のアニメにおける第三作目「モリソン号じけん!」がかなり直接に関係しているように思える。あまり界隈でもこの指摘はなされていないと思うので、まあ皆さんには自明と思いますが一応・・・。
さっきも書いたけど上中里マリアンヌの演技最高ー! もう大好き。主人公のハルの魅力を充分に発揮しているうえに、かわいい陰獣の「ウンゲツィーファー」も彼女がやってるんだぜ。もうたまらんうー。せーの! 「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」
恋人役「燕尾服仮面」こと奥村の声優西荻窪松庵の演技もまた良かった。松庵の思想上の師である都立家政ドトールの1932年ベルリンでの演技を彷彿とさせるシーンがあった。おわかりかと思うけど19話の例のシーンね。
友人の市川房枝役の声優保谷ビアンキも妖艶な演技が光った。市川房枝って公式でも眼鏡がずれているんだけれど(wikipediaでも見てほしい)、それをアニメでも反映させていて、保谷はその眼鏡がずれているという演技をしているところが印象に残りました。最近揖斐川郡でハウス栽培やっているそうです。岐阜の。っていうか俺あんま声優詳しくねーや。
正直残念だったのが魔法詠唱シーンの作画だ。ハルが本を開いて中空に浮かせて詠唱するというお決まりのシーン。ここに全く気合いが入っていない。ハルが水晶槍の呪文をパージしてマテリアルタスク化するロマネスク技を出したシーンあっただろ。12話だったか? あそこで監督や、あるいは原作者の十返舎一九も多分想定していたことだと思うが、あそこのモチーフは一般にイメージされるフェミニズムの観点からだけでは捉えられない。このアニメを見る際には岩波の『日本のフェミニズム』全編を通読してからにしたほうが望ましいと半分冗談でwikiに書かれているけれど、これは実際マジだとおもう。あのシーンではむしろ参政権の獲得と戦争との関係がクローズアップされているのであって、フェミニズムへの外的要因(ここでは太平洋戦争・・・というか総力戦体制というべきか。この辺りは突っ込むと難しいからこれ以上は無理だー誰か解説してくれ。)が問題なわけだ。で、あの作画である。作画誰かは知らないけれどそういう文脈が必ずしも現場に伝わらなかったのではないか。25話のハルが友人の奥むめおの101才の誕生日をタイムワープして祝うシーン。これも輻輳するフェミニズムのイメージに作画が全くついて行っていない印象を受ける。ここも、参政権から出発し、翼賛体制との関わりから、さらに高度経済成長を経てバブルという消費社会を経験しかつ男女雇用機会均等法が出たあと、というハルの至らなかった(生きられなかった時代の)地平を魔法で見に行く、というのが大魔法の骨子になっていたと思う。これにたいしてあの70年代初期を思わせる「リブ」で作画されちゃあ適わねえ。ハルまだいきてんじゃねーか。
結局ハルは原作では婚約者からもらった指輪をマレーシアのビナツボ火山に捨てに行ったわけだ。いわゆる夫婦別姓という現代的問題を魔法でどう解決するのかが楽しみです。文句も沢山書きましたが、基本的にこのシリーズには期待しています。制作会社の「オベリスク護国寺」の益々のご発展を祈っています。
夫婦同姓は「現状は合憲。別姓OKにしたければ立法府に文句言え」が司法の回答だったわけだ
この感覚的な話が通るならわりと話が早い。
子供は?望んでその機能を捨てたわけではないのに、使えないの?
というのと、単純に夫婦別姓は、何かとのバーターではなくアイデンティファイできる機能をもつ呼称が失われるだけなのだから、
失わなくて済むのならそのほうがいいでしょ。という話に戻る。
「統一的な名前がつけられた家族」が無いとその下の個人が認識しづらくて困るんじゃないか、という意見にはかなり飛躍を感じてしまうのだ。
個人?個人の話はしてないぞ?
個人は夫婦別姓だろうが同姓だろうが単一の戸籍名があるんだから、どうあれ認識できるに決まってる。
なんか主客が伝わってない感じがする。
簡単にまとめると
「日本人は、(自分自身を含め)人を特定の集団の中の立場として認識する傾向があるため、家族という集団においても統一的な名称があったほうが都合がいい」
「夫婦別姓には、系譜を示すタイプのものでない限り特段の機能はないので、同一姓の機能の価値をどう評価するかは主観に依るが、少なくとも無いよりはある方がいい、という単純な理屈で、夫婦別姓よりも同姓のほうが有効である」
ということなんだが。
考えてない(笑)
本当は「カーペンター京子さん」なのに「山田さん」とは呼びたくないじゃん
間違えて違う名前で呼ぶ方もイヤだし、間違えて呼ばれる方もイヤだろうなーって思うじゃん
別姓になったらなったで、別に「山田さん」でも「山田さんの奥さん」でも好きに呼んでそこで相手から「いえ、私カーペンターなんです」って訂正してもらえばいいじゃん。
いやだから、
「山田さん」って呼んだら「いえ、私カーペンターなんです」って訂正されるわけじゃん
だから名前を知らない場合は「山田さんの奥さん」って言うのがデフォになるんだろーなーって話
そう思うのは夫婦別姓を家制度の崩壊だと思ってるから混乱するのであって、子供はどちらかの「家」の子供じゃなくて山田さんの子供でもカーペンターさんの子供でもあるって思えば別に困るポイントがないと思うんだけど。
いや違うでしょ
それは「山田太郎・カーペンター京子夫妻は夫婦別姓ですよ」ってことを知ってからの話でしょ
「カーペンターさん」っていう苗字も知ってる設定になっちゃってるじゃん
そういうことを知らない場合の話をしてるわけじゃん
なんでたった1回でも呼び間違えたら失格!人間関係破壊!みたいな考えになるのかわかんない。
別姓になったらなったで、別に「山田さん」でも「山田さんの奥さん」でも好きに呼んでそこで相手から「いえ、私カーペンターなんです」って訂正してもらえばいいじゃん。
それで一回で覚えられなくて何回か訂正させても「すみません、覚えが悪くて」ですむもんだいでしょ?
ていうかそもそも議論にしてもつっこむところがずれずれで話にならないんだけどね。
そう思うのは夫婦別姓を家制度の崩壊だと思ってるから混乱するのであって、子供はどちらかの「家」の子供じゃなくて山田さんの子供でもカーペンターさんの子供でもあるって思えば別に困るポイントがないと思うんだけど。
え?
「山田・カーペンター・京子」って名前を知ってる人は「山田さん」か「カーペンターさん」か「京子さん」かどれかで呼ぶよね
どれで呼んでもマチガイじゃないよね もちろん
さっき言ったのは、
「山田さんの奥さん」とか「山田くんのお母さん」とかいうふうに、「家族の誰かを起点」でしか知らない場合の話ね
「山田さんの奥さん」てことは知ってるけど「山田・カーペンター・京子」っていう名前を知らない場合は、
夫婦別姓が増えてくると、間違えないように気を使うから「山田さん」とは呼べなくなって、
「山田さんの奥さん」って呼ぶようにしないといけないよね、って話
堅く考えすぎ。
日常的なコンテキストで、よく事情を知らない近所の人や山田太郎さんの知り合いが鈴木花子さんを「山田さん」と呼んだって全然構わないし、本人だって軽く流すだろ。より親しくなってきたら「別姓なので本名は鈴木なんですよ」って言ってくれるだろうから、ああそうですかって思えばいい。
なんか余分な心配ばかりしてるように俺には感じられるんだけど、根拠がある(具体的に困った体験がある)心配なのかなあ。具体的なエピソードがあるなら俺も知りたいんだよ。
俺のまわりでは別姓で困ってるケースを見たことがないからさ。
横だけど
夫婦同姓の場合、「山田さんの奥さん」が通称として旧姓の「鈴木花子」を使ってたとしても、
「山田さん」であることも間違いないわけだから、呼びかける方は気を使う必要がないよね
ところが夫婦別姓の場合、「山田さんの奥さん」を「山田さん」と呼んだらマチガイじゃん
てことは、その夫婦が同姓か別姓か分からない場合は、間違って違う名前で呼んじゃわないように、
いちいち「家族の誰かを起点にした呼称」を使わなきゃいけないわけでしょ
面倒くさくない?
義父は80歳ぐらい、義母は75歳ぐらい。
最近ニュースになったんで義父母に聞いてみたら義父は国籍を変えていないので40年以上夫婦をしているがマジモンの夫婦別姓だとのこと。
妻は母親の姓となっている。
つうわけで、どうしても合法的に夫婦別姓をやりたい場合配偶者を外国籍に変えてから結婚するとよい。
面白いのが、義父母の娘息子である人々が親(父)の出自に関してあまり感心が無い事。
はじめに妻にどうなってんのか聞いたけど、よくわからんとの事で改めて義父母に聞いたら教えてくれた。
例えば勅使河原さんの末裔が全員女性で、勅使河原姓のまま嫁入りするケース、相手の姓に苗字を変えるケース、何か変わる?
たぶん現代式だとそういうケースがすでに散見されてるとは思うんだけど、よくわからない。
左右に苗字を並べるとしてどちらが左になる?上下に並べるとして、どちらが上になる?そもそも仏教の習わしからしてそういうのは認められていない?苗字の違いで戒名が変わる?
遅くなって悪かった。
まず、「ひとつの家族になるときにひとつのファミリーネームを共有する」ことのシンプルで強力な理屈があるわな。
これは「ファミリーネームを共有していなければ家族ではない」という命題の裏(対偶ではないが)として、同一姓であることが家族であるということをある程度保証してくれている。
そもそも夫婦別姓には、スペイン人のような系譜を示す機能があるものを除いて、合理的な機能がない。
それに対する俺の主張は、「適当な呼称は無くならない。複数の呼び方が使われるだけ。それは従来の呼称(サザエさん一家の例)と同様の運用」ってこと。
君が代替案として言っているのは、家族の誰かを起点とした家族関係なわけな。「山田さん一家」も「鈴木さん一家」も。
で、失われるのは、家族の誰を起点にするわけでもない、全体としての○○家という概念なの。
山田太郎さんと鈴木花子さんの別姓夫婦の家族を指す呼称として「山田さん家」も「鈴木さん家」も併用して使えるよって話をしている。家族の呼称がひとつでなければならない理由などない。
1.使えるかどうかの話なんかしていない。現状の日本においてそういう呼称をとっていない。
2.今回の判決でもある通り、現在の日本において「家族の呼称を一つに定める合理性」がある。
3.夫婦別姓をとらなくても、旧姓の通称使用の拡大によって、実質的な不利益はなくなる。
のであれば、無用な混乱を避けるためにも、「夫婦別姓」か「通称使用」かで考えるならば、「通称使用」一択だろうと。
誰がそんな長期の話をした?
だいたい、長期において「個別の家族を指す呼称」がないままなら、むしろそんな概念は必要なかったということで、それこそ「夫婦別姓で構わない」という話になるだろうがよ。
それこそ長期的には我々はみな死んでいる。
それは別に、現状問題なく機能しているシステムを代替案もなく放棄していい理由にはならない。
無くならないよ。心配しすぎ。別姓ありの国でそんなことで困ってる話聞いたこと無い。
山田太郎さんと鈴木花子さんが結婚して別姓名乗ってる場合、「山田さん一家」でも「鈴木さん一家」でもいいし曖昧性が生じるなら「山田太郎さん一家」「鈴木花子さん一家」で十分なんだよ。
それとも増田は、頭の中で想像したんではなく、実際に夫婦別姓の国で暮らして困った経験があるの? そういう経験があったら聞きたいな。
法律で決める云々というより、夫婦別姓を容認することで、個別の家族を指す適当な呼称が「無くなる」のが問題。
(結局、同一姓を名乗る人たちと、別姓の人たちの取り扱いを変えることは差別につながるので、同一姓を使い続けていく人にも影響が出る)
国の名前がなくなったりすることを考えれば、ある程度想像がつくのではないかと思う。
これは事務的な問題というよりは、集団という実態のないものに対する呼称がないと、その集団を認識しづらいという点が厄介なのな。
たとえ行政的な区分が番号などで為されていたとしても、市町村の名前がなければ、市町村の範囲について認識しづらい。都道府県、国についても同様だ。
法律で決めなくても瓦解しないなんてのは婚姻関係や親子関係なんかもそうだろう
でもその法律を全て廃止して個々人に任せろなんて言う奴はいないだろう
何にせよ最高裁も言う通り立法に委ねられる部分なんだから、夫婦別姓にしたい奴はそういう議員を国会に送って立法させればいい
現行制度でも、婚姻時に妻の姓を選んだり事実婚だったりしたら子供は母親の姓になるから、
「大多数の子供は父親由来の姓になる」は真だけど。
それに「選択的夫婦別姓だと子供の姓を妻の姓にする事も出来る」とは言えないのでは?
別姓を選択するのが少数派になるのが予想されるのだから、
結局「大多数の子供は父親由来の姓になる」という状況はそこまで変わらないかと。
その方がよっぽどハードル高いだろとブコメで突っ込まれまくってるけど
トラバ見てるとその方がいいつってるのがいるんだな
ひょっとしたらそれだと必然的に子供は夫の姓になるから保守にとってはその方が都合良いのかな?
選択的夫婦別姓だと子供の姓を妻の姓にする事も出来るだろうからね
やっぱ子供=夫の家の所有物、と考える保守としては子供は夫の姓でないと駄目なのかなー
本当は妻も夫の家の所有物だから夫の姓にしたいんだろうけど、そこは戸籍だけで実質全然使わない姓になっても諦めるってのが最大限出来る譲歩なんだろう
選択的夫婦別姓は「公的な場での名前が、戸籍準拠である必要がある」ってことでいいよね?