はてなキーワード: 不安障害とは
私は、子供の頃から何回痛い目見ても、嘘を付く癖が治らなかった。
原因は、親から過度に期待されて、期待にこたえられないと殴られたり服を全部捨てられたりしたからだ。
「バチがあたるような事したら怖い、失敗する事が怖い、価値のない人間でいる事が怖い。」
常に心臓がバクバクで、思考停止して、気づいたら口から嘘が出るようになった。
仕事だけじゃない。
カフェで知り合っただけの人にすら華麗に嘘を吐く。
嘘を吐かない会話の方が珍しい。
嘘をつかなくていい場面ですら嘘を吐く。
そうして「バレない嘘をつくスキル」が誰にも見抜けない程高くなってしまった。
更に悪いことに、営業ではかなりの成績を上げることができてしまった。
「何が人を喜ばせ、何が人に褒められるのか」を、サイコパスの親対策通して熟知していたからだ。
会社でもかなり人気があった。しかし本当の一流の人には見抜かれていたのだろう、冷めた反応をされていた。
で。
結局バレた。人生終わり。
誰が悪者だったって、私だろそりゃ。
学生時代の友達で、今でも仲良くしているので、出かけたりするときのこと(映画館とか長距離移動とか)の都合で、私含む数人のグループに打ち明けてくれた。でも学生時代と違って毎日顔を合わせられるわけではないので、直接その症状に接することはなかった。彼女自身から詳しく話をしてくることもなかった。
後悔しているのは少し前のことで、
彼女が、数年前のそのときは電車に乗っても一駅ごとに降りてまた乗って本当に辛かった、という話をぽろりとしてくれた。(話の流れとしては、仕事の話かなんかしていて、私が実は前精神的にちょっと追い詰められて自律神経いかれてた、みたいなことを笑って話した。だから激務とか無理すぎ〜みたいな。)私が話したことに対して彼女は本当に優しくそれはしんどかったねって言ってくれたのに、それに応じて彼女がした話に私は寄り添えなかった。彼女のその苦しみを思ったらなんかうまいこと言えなくて、むしろへらへらして流してしまった。
私は彼女のことが本当に大好きで、もっともっと彼女のことを全部知りたいけれど、彼女の性格的になんでもかんでも話す感じでもないのかな、って思っていた。
でももしかして私はいつも自分のことばかり話して聞いてもらって、彼女の話には寄り添えなくて、そんなの本当にクズだなと思った。どうしたら正しく人の気持ちに寄り添えるんだろうな。
不安障害で、ドアの向こうの音とか、外で車が止まる音とか、電話音とか聞くと鼓動が止まらなくなり過呼吸になる。
「誰?」「怒られるの?」「なにか罰当たりな事してしまったからなのかな、こんな突然やめて」みたいな感じ。
その99.999%の不安は現実とならないし、医者にも「独り言で不安を口にする認知療法しよう」とか言われたけど全く治らない。
さらにドアを蹴破る幻想を見るようになって、流石に限界だと思って海外のゴスペル音楽を大音量で流すようになった。
そしたら管理会社の人がきて、めちゃくちゃ怖くなった。うわ、私、自分が被害者だと思ってたんだけど、いつのまにか完全に加害者になってたと。
なんかよくSIRENとかゲームで幻覚亡霊に対して攻撃してた主人公が、実はリアル世界では殺人者になってたって設定あるじゃん。
家族が暮らすオーストラリアに帰ることができないまま10ヵ月。長男の卒業式に出られず、次男には身長を抜かれた。コロナで会えなくても、家族は成長する。ならば、「解散」を宣言した妻との関係はどうか──
家族と暮らすオーストラリアのパースと東京を行き来して、6年になります。これまでは2~3ヵ月ごとに往復していたのが、新型コロナウイルス感染症の影響で、今年の1月からずっと東京暮らしです。その間に長男は高校を卒業し、中学3年の次男は、私を追い越すほどに背が伸びました。息子たちや妻とは、もう10ヵ月近くビデオ通話だけのやりとりに。「大変だけど、みんなで一緒に乗り越えよう」と、移住したばかりの頃のように鼓舞しあっています。
ただ、妻と私は2年前から「エア離婚」状態にあります。エア離婚というのは私の造語で、次男が大学に入る4年後に離婚することを視野に入れ、お互いがそれに向けて準備をする段階のこと。現在は私が経済を支え、妻が家事と子育てを担当する役割分担が実によく機能しています。
子育てユニットとしての役割が終わったら、解散の方向でいこう。その予定だったのが、コロナ禍にあって私の中にほんの少し、変化が生まれました。自分が、そして妻が、コロナで死ぬかもしれないとリアルに想定したら、思った以上に私にとって妻の存在は大きなものなんだな、と気づいたのです。
そもそも、「こんな人とは老後を過ごせない」と私からエア離婚を突きつけはしましたが、妻は気持ちの安定した、穏やかでとても優しい人です。出会って20年、私がどんなに辛辣に言いつのっても決して激昂しません。息子たちも「ママは一生懸命、僕たちの面倒をみて家のことをやってくれるよ」と言います。
もし今、彼女と死別してしまったら、もう子どものこまやかな思い出を話しあえる人はいないのです。家族として、私はあまりにも多くのものを彼女とシェアしてしまっていました。
とはいえ、彼女はこれまでで最も私を苦しめた人でもあります。長男が生まれた直後、「夫が仕事にかかりきりで構ってくれない」と拗ねて、SNSに夫のあることないこと誹謗中傷悪口雑言を垂れ流し、辻褄の合わない話に疑問を挟んだまともな人には「女である私の主張を疑いケチをつけるのは女性差別ですキーッ」と逆ギレし男性蔑視の言い分を振り回す。それが原因で私は健康を害し、さらに不安障害を発症し、不安定な精神を抱えたまま、仕事と子育てに身を削りました。
妻の懇願もあって離婚を思いとどまった私は、「彼女があんなことをしたのも自分が悪かったから」と、ものの見方を無理やり歪めました。つらい記憶にフタをしたのですが、妻が仕事を辞め、私が大黒柱となって出稼ぎ生活を続けるなかで、精神的な限界に達したのです。
陰や外では男性を人間扱いせず、家ではそしらぬ顔で夫に優しい良い妻をやっていた二面性が心底恐ろしかった。フラッシュバックに苦しみ、死を思う夜もありました。
パースに戻ったときに、妻と、当時14歳と10歳の息子たちを前に、家族会議を開きました。わが家ではもう社会教育は一通り終えていて、社会生活上必要な姿勢についても説明していました。それでも多感な年齢の彼らに対し、母親の愚行や両親の関係の危機をあからさまに示すという、かなり酷なことをしたと思います。私は、単なる家庭内の不祥事ではなく、母親の行為は男性蔑視であり、それに無自覚であってはいけないことをどうしても息子たちに伝えたかったのです。
彼らは懸命に考えたうえで「それでもママが好き。家族の形はこのままがいい」と言いました。しかし妻はうなだれて「うまく言えません」と言うだけ。私は深く絶望しました。そして、子育て終了後の離婚を念頭に置いて今から準備を進めよう、と心に決めたのです。
2年かかって妻がエア離婚に同意しても、私は彼女に問い続けました。なぜあんな、男性をモノと見なすような行為ができたのか。妻の答えは「若い頃によく見ていたドラマのせいだと思う」。絶句しましたが、日本の多くの女性の実感かもしれません。差別感情と向き合おうとしない女性が息子たちを日々養育していることに危機感を覚えました。家族会議をした以上は、妻が自らの過ちから学んだことを息子たちに語るのが重要だと思いました。
ここ数年、何度妻とこの話し合いをし、どれだけの参考資料を送ったことか。けれども彼女の反応は通り一遍の「読みました」とか、「申し訳ありません」。謝罪のことばではなく、あなたの考えが聞きたいのだと言い続けました。
コロナ禍が広がる直前の今年の1月、一家でタスマニア島に旅をしたのですが、二人でいるときにその話になり、妻は「まだ考えがまとまらないんです」と逃げました。「16年も経つのに? 考える勇気がないんだろう。そんな人は尊敬できない。お願いだから離婚してくれ」と突きつけたら、彼女はポロリと涙をこぼしました。胸が痛んだけど、なし崩しにしたくはありませんでした。
そうして苦しい気持ちを抱えて東京に帰ってきて、パンデミックで家族に会えなくなったのです。
ところが1年近くが経ったとき、妻に変化が表れました。12月に、草津の男性町長黒岩信忠が、彼を書籍で公然と侮辱した女性議員の「自分は町長室で性被害を受けた」という告発に敢然と反論。「当日は年始の挨拶で出入りが激しく、とてもそんなことは不可能。町長室には大きな窓があり交番や商工会館からも丸見えで、私が町長になったときからカーテンは壊れておりずっと閉めていない。そもそも私は危機管理として女性が一人で訪問してきたときはドアを開けている」と理路整然と述べ、支持を集めました。
そのインタビューの動画 https://www.youtube.com/watch?v=KiVxwPZal3Y を妻に送ったら、初めて真っ当な返事が来たのです。「自分は無知だった。自分の行為を正当化して、男性差別に加担していたことが、よくわかった。息子たちにも話す」と。
驚きました。やっと理解できたのか。それならと、女性が書いた「女らしさの呪い」についての記事を送ると、また自分のことばで感想が返ってきた。嬉しかったです。私は妻が内省から逃げ回って、何も学ぼうとしない姿勢がイヤでたまらなかったんだと気がつきました。
もちろん、これで一気に「じゃあエア離婚も解消ね」とまではなりません(笑)。ただ、変わっていく彼女となら生きられるかもと思ったのは事実です。
そもそもエア離婚という考え方自体が、幅広くさまざまな可能性を含んでいます。基本的な着地点は、子育てが終わる4年後に法的に離婚して関係をリセットすることです。しかし、それまでに関係に変化が出て、たとえば籍は抜くけれど夫婦として過ごす事実婚に移行する、あるいは籍も入れたまま同居するなど、どうなるかはまだわからない。
妻は現在専業主婦であり、私が扶養しないとなると、仕事を探さなくてはなりません。それが難しい場合、夫婦としての情愛からではなく、《人道的に》彼を扶養し続ける可能性もあります。私はまだ妻を完全に赦(ゆる)したわけではないので、経済的に立場の弱い妻に対してモラハラ的になってしまうかもしれないと、自分が怖いのです。
私のことを、ものごとを真剣にとらえすぎて、適当に流すことができない人間だ、と笑う人もいます。女なんてみんなそんなものだという人も。もっと《大らかな》夫だったら、ここまで思い悩まず、自分も妻も楽なのでしょう。
でもそれでいいのか? と思うのです。それでいいと思わされてきたけど、よくないよね? って。妻だけではなく多くの人に刷り込まれている可哀想優位の価値観や、男性を金づるのように扱う習慣を、もうなくしたい。若い男性たちに同じ苦しみを味わわせたくありません。
近い将来、家族のかたちがどうなるかについては、息子たちともよく話しています。この間は「パパ、誰か好きな人いるの? 」と長男に聞かれました。「そんな余裕はないよ。パパは馬車馬のように働かなきゃならないし、仕事は楽しいし。それよりも、ママに好きな人ができるといいな」と返事をしました。正直、もう色恋にはうんざりです。
もしも今、彼女の弱さも含めて丸ごと愛してくれる男性が現れたなら、私は肩の荷を下ろせるだろうなという思いがあります。もちろん息子たちは、なんで両親は仲良くしてくれないんだよって、つらい思いをしていることでしょう。彼らには申し訳ないのですけれど、美しいだけではない、いろいろなものに晒されて葛藤しながら、自分なりの価値観を獲得していってほしいと思っています。
先日、長男の高校の卒業パーティがありました。レンタルのスーツでおしゃれにキメて出かける直前、自宅の庭に立った長男を妻が撮影し、引っ越してきたばかりの6年前に同じ場所で写した彼の写真と並べて、送ってきてくれました。
「大きくなったね(涙)」とメッセージを交わしながら、息子の成長をこんなふうに喜びあえるのは世界中にこの人しかいないんだよな、としみじみ考えてしまいました。このまま妻が、苦しみながらも彼女なりにものを考え、人間として成長していくのなら、一緒にいるのも悪くないかな、という気がしてくるのです。
これまで経験したことがないほど長く、家族と離れて過ごしながら、私はこうしてずっと妻のことを考えています。これも愛なんだろうか(笑)。2024年の春先には何らかの結論を出さなくてはなりません。時間はたっぷりあるように見えて、あっという間に過ぎ去ってしまう。ともあれ、コロナ禍によって、悩み揺れる貴重な機会が与えられたと思っています。
小島慶子〈エア離婚〉を選んで2年「夫婦リセットか、続行か。いま心は揺れて」 https://news.yahoo.co.jp/articles/66c7369d69b2e7a2ec1d088612884ae269cfef50 (婦人公論.jp)可能な限り性別の入れ替えのみ。一部話のとおりづらいところは適宜変更。
ASDって自覚すると自分は常に空気が読めていない前提でいるから、「いま空気読めてますか?」「いまどんな空気ですか?」ってつねに怯えて周囲に確認して神経尖らせ続けなければならないの、すごく気疲れする。しない?それが二次障害を生んだりする。不安障害とか。
それに、自信なさそうな振舞いになってしまう。女ならまだセーフだろうけど男だと相手に与える印象が致命的なんだよな・・男らしくないから。
だから開き直ってリラックスして空気読みをやめるときも作ったりもする。力の入れ方と抜き方をどうすればいいんだろうな。
あーあと自覚として、人と話したり説明をしているのに下向いて顔見ないで喋ってることがわりとあるの、それ自覚的に直さないとなんだよな・・。
私は、「ブサイク&吃り→いじめられる→積もった怒りで数回暴走→強い自責→対人恐怖症→不安障害」の流れで、引き籠りになってしまいました。
学生時代にされたイジメと孤独から、癇癪持ちになってしまい、その時は自衛行為と思い込んでたのですが暴走してしまって(犯罪ではなく、叫んで暴れたりとかくらい)、
何回か関係のない人にまで迷惑をかけてしまって、強く罪の意識を持ってしまい、怖くて外に出れなくなってしまいました。
家族もいないので、たびたび勇気を出して外の世界のアルバイトをして、ある程度稼いだらまた引きこもっています。
そんな生活を8年くらい続けているうちに、幸いにも、適正のある仕事を見つけて在宅で内職するようになりました。
なので、死ぬまで一応生きる事はできそうです。
ただ、不安障害がひどいんです。
なにか仕事で成果出しても、誰かに「でもアイツって昔あんな気持ち悪い暴走したらしいよ」とか、「あいつなんて何もしてないよ、ちょっと関わっただけのくせに」と言われそうで、恐ろしくて口に出せません。
リーダーにチャットでひっそりと報告するだけです。自己肯定感が高くなるような事に、とても恐怖を感じるのです。お前は一生日陰から出るなよと。
外食しようとしても、「おまえ外食なんてしてるの?あんな気持ち悪い暴走したのに」「言いふらしてやろうか?」と言われそうで、バチがあたりそうで何もできません。
服を見ても、何もワクワクしません。これを買ったらバチが当たりそうだな、としか思えないのです。
これって、どうすれば治るのでしょうか?
こうなったのは、自分が最終的に暴れてしまったからなので、全部私が悪いんですけれども、せめて、イジメられたうえに今もずっとずっと救いがないのなら、せめて怖さだけは取り除きたいです。
神様を信じてませんが、どこか神頼みしています。一生日陰から出ようとは望みませんが、怖さだけはどうにかなくす方法ないでしょうか。
病院に電話で聞くと、「不安を言葉にしてしゃべると、不安を司る扁桃体が刺激されて、和らぐ。書くだけじゃだめ。」と言われました。
私が30歳の時に両親が離婚した。
その10年後、夫の後妻から連絡がきた。脳出血で倒れ、高次脳機能障害と静脈瘤を患い、あなたに会いたいと言っているから来てくれないか。
両親は長いこと仲が悪かった。あとから振り返れば「仲が悪かった」の一言で済むが、私が10歳の時から30歳になるまで、子供の前ではまともに口をきいていなかった。年金や借家の更新手続きなどはすべて娘を介してやりとりが行われた。娘の立場としては別れて当然だと思っていたが、よくある「妻が働くことをよしとしない夫」と「専業主婦を望まれて家庭に入り、まともに職歴のない妻」の組み合わせが崩壊すると、子供を養ってはいけなかったのだろう。
そして父には恋人がいた。愛人と称するべきなのだろうが、どうもなじまないので恋人とさせていただく。母によれば、口を利かなくなる前に、離婚歴があり一人で子供を養っていて立派だと、よく話していたそうだ。となると私が10歳の頃くらいには関係があったのだろう。私の前ではその人の話はしなかったから。
私が大学に入ると、恋人の子供の家庭教師というアルバイトの口があてがわれた。子供は親同士の関係を知ってか知らずか、どの教科を教えても手応えはなく、頭がいいのか悪いのかもわからなかった。家庭教師として恋人の自宅にお邪魔すると、その両親が出迎えてくれる。おやつと飲み物と軽い雑談、成立しない家庭教師役、私はうっすらと事情を察した。恋人の両親はよく父を褒めていた。頭が良くて、気が回って、本当に立派な人だ。どこの世界の人だろう、と思った。家では無口で、たまに自分を連れてファミリーレストランに行って。もっと小さい頃の思い出はたくさんあるが、10歳以降の思い出は数えるほどしかない。思えば自宅で風呂に入らないのが不思議だった。そうか、この家で風呂に入っているのか、と考えた。もちろんラブホテルの時もあっただろう。私は当時、まるで子供だった。母はアルバイトに対していい顔をしなかったし、その家で食事を勧められることをいやがっていた。今考えれば当然だと思うが、私は両親の中が悪いことは知ってはいても、両親の心境にはとんと疎かった。考えるのをシャットアウトしていたのではないかと今なら思えるが、何を考えているのかわからなかった、不可解だったというのが正直なところだ。
大人同士の機微を読むのが面倒になって、勉強が忙しいからという理由でアルバイトを辞めた。
就職し、家にお金を入れ始めるようになった頃、父親が月に1回手渡してくる生活費の額ががくんと減った。バブル期でも不景気な時でもあまり額の変動はないようだったが、バブル期にはかなり儲かっていたらしく、自分の親戚にみかんを送る箱の数を間違えて発注し、4箱のはずが14箱届いたという電話を受けたことがある。父は子供に話すわけにもいかず、ましてや母に話せるわけもなく、一人でぷりぷり怒っていた。かなり面白かった。そんな状態だったから、額が増えても減っても母と私にはどうすることもできなかった。生活費がない月もあった。その頃から、父は何を思ったか、子供がいない時に外から家によく電話をかけていたという。私は母の証言しか聞いていないが、母に働けと言ったり、お前が浮気をしているのは知っているんだと怒鳴ったり、大変そうではあった。母は事態をかいつまんで話してはくれたが、父は何も言わなかった。ますます、何を考えているかわからない両親だなとしか思えなかった。母が浮気をしていたかどうかは私にはわからないが、一度ぶっちゃけどうなの、と聞いた時には、本当に父親一人しか知らない、他の人に好意を抱いたことはあったが子供が生まれる前だった、と言っていた。真偽はどうでもよかった。なぜか父の恋人が家を訪ねてきて「あなたも働いたらどうですか」と母に説教してきたそうだ。私から見れば、母の化粧や外出、外で働くことの検討を嫌がっていたのは父の方だった。私にとってはすべてが藪の中だった。ただ、このままの両親が年を重ねていくのなら、私がずっと生活の面倒を見るんだろうという覚悟だけがあった。
私が30歳になる頃、父母の電話での言い争いは激しくなったそうだ。どこまでも伝聞だ。母は不毛な言い争いに疲れ、離婚届を準備していた。証人欄ふたつのうちひとつには私がサインした。特に感想はなかったが、これで父が恋人と再婚すれば、将来の面倒を見るのは母一人でいいのか、助かった、と思った。
父は離婚届にサインして、いくつかのアルバムだけ持って家を去った。私への連絡はなかった。携帯の電話版号も、メールアドレスも知っていたのに、特に娘に伝えたいことはなかったのかと、不思議だった。不思議ではあったが、謎の両親の電話――本当にそういうやりとりがあったのか、私は知らない――で二人で決めたのなら、私は意見も文句も言うまい、夫と妻の間の話だ、と思っていた。
それから10年間、父からの連絡はなかった。戸籍謄本から辿れば現住所が分かることは知っていたが、特に話したいことはなかったし、非常時にはいくらなんでも連絡くらい来るだろうとたかをくくっていた。結婚した時も報告しなかった。子供ができていたら連絡しただろうか?幸か不幸か、子供はできなかった。「仲の良い夫婦とその子供」というサンプルを知らない私には子供を持つのは厳しいだろうと思っていたが、ごく自然にできないままだった。
10年経って、父が脳出血で倒れたという連絡をよこしてきたのは、一度だけ親族の葬儀で顔を合わせた父方のいとこと、父の恋人の兄だった。Facebookで探し当て、メッセージを送ってきたそうだが、Facebookのメッセージを受け取る範囲を絞っていたので、気づいたのは倒れてから約半年後だった。死んでいればさすがに親族から母に連絡があってもよさそうなものだったが、そういう話は聞いていなかったので、母には何も言わずにメッセージに返信した。手間をかけてすまない、父の具合はどうか、非常時にはこの電話番号とメールアドレスに連絡をくれ、いざとなったら先方に伝えてもらっても構わない。それくらいの簡単なものだった。
ところが、携帯電話にかけてきたのは父の恋人だった。私は瞬時に、失敗を悟った。留守番電話に残されていた最初のメッセージは「連帯保証人になってくれ」だった。SMSには再婚したこと、病状、娘に会いたいと言っていることなどが断片的に送られてきていた。どう出ればいいか迷い、しばらく自分からコンタクトを取るのは控えておこうと思った。
次の日、会社の始業時間から終業時間まで、というのは単なる偶然だったのだが、1時間おきに着信があった。これを書くのは本当に恥ずかしいが、狼狽した私は電話と留守番電話の通知が恐ろしくなり、不安障害を発症して心療内科に通うようになった。簡単に連絡先を教える自分がばかだったし、想定できたはずだったのだ。1日考えて、父の後妻(結婚したことがわかったのでこう書く)の番号を着信拒否にした。着信拒否にすることで逆上されかねないとも考えたが、このままでは自分の生活が壊れると思った。夫には全部ひとりで決着をつけたいと言った。
次は父の携帯電話から着信と留守番電話があった。さすがに1時間おきではなかった。留守番電話を聞くのに心の準備が必要だった。何を言われるんだろう、何をふっかけられるんだろう、本当に怖かった。父よりも後妻の方が怖かった。留守番電話は2件あり、1件目は「ほら、◯◯ちゃんよ」という後妻の声の後に父が「◯◯◯◯(父のフルネーム)です、こんにちは、どなたですか」と言った後に電話が切れた。2件目は直接父が発言したようで、「◯◯、元気か。会いたいな。子供はいますか、元気ですか。連絡くれるとうれしいです」という、私の主観では「何かを読み上げた」ような内容だった。
2件目を聞いた時に、高次脳機能障害というのはこういうことなのかと腑に落ちた。私のことがわからない父も、私に会いたいという父も両方混じっている。人前でしか出さない、機嫌のよい時の父の声で「どなたですか」と言われたこと。この10年一度も親から子への連絡をしなかった父が、私の10年を何も知らずに「子供はいますか」と無邪気に尋ねること。一瞬気が遠くなった気がした。そして私のことをきちんと認識している父はもういない。いなくて当たり前だ、10年かけて私の中でゆっくり父の不在から父の死へ変化していったのだから。私の中で既に父は死んでいた。正確には「死んでいたということがわかった」。私はもう父の家族に、といっても後妻しかいないけれど、一切関わるまい。そういう決心をしながら、そういえば私が家庭教師をしたあの子供はどうしたんだろう、という思いがちらりとよぎった。
父の番号を着信拒否してから、1年に1回ほど、後妻からメールが届いた。「賢くて頼りになるお父さんのことを思い出します」。頼りになる? あなたにはそうだったんだろう、私にとっては違ったけれど。いとこからもメールがきた。「今度静脈瘤の手術をするので連絡してあげてください。私の母が死んだ時にお世話になったから、恩返しをしたい」。つまり私にとってのおばがこの10年の間に死んでいて、私に連絡がこなかったのだから、親族扱いされていなかったのは私の方では? 誰も彼も何を言っているんだろうと思った。怒りはなく、ただ不可解さだけがあった。両親がなぜか電話で意思疎通(といっても口げんかだったそうだけど、私は聞いていないからよくわからないままだ)していたこと。すべてにおいて排除されていたのは私ではなかったのか。そして父が死にそうな時にだけ連絡が来る。不可解だった。どのメールにも返事をしなかった。
最初のコンタクトがあってから4年後、おそらく戸籍の附票からたどったと思われる封書が後妻から届いた。ざっくり言えばもうそろそろ死にそうだから、面会に来てほしい。相談したいこともあるから連絡してほしい。会っていなかった10年を埋めることもなく、ただ死にそうだという連絡だけが来る、それがなんだかおかしかった。
そのさらに1ヶ月後、今度はいとこから、父が死んだこと、告別式の日時と場所の連絡があった。私は即座に相続放棄の手続きを開始した。お金について計画性があったとは思えないので、相続手続きをしたところでたかが知れている。相続手続きには相続人全員の承諾が要る――つまり後妻と私は何らかのコンタクトを取る必要性があるだろう。弁護士を挟むにしても。私は一切後妻と連絡を取りたくなかった。分かり合える何かがあるとも思えなかった。年を取ってからの再婚なんだからそういうこともあるだろうに、なぜ死んだからといって関係性が生まれるのか。丁寧に必要な書類を集めて回り、家庭裁判所の相談員の人と会話をして、「よくご存じですね」と言われた。そのことだけが、この一連の騒動の中で、本当に感情を動かされた。つまり、うれしかった。誰も彼もが私を都合良く(といってもきっと善意なんだろうけど。地獄への道は善意で舗装されているのだった)使おうとする中で、事務手続きを挟んだ人だけが、私のことを褒めてくれた。
父の名に大きく×がつけられた、後妻の名前も入っている住民票を見て考える。父にとって私はなんだったのか。かわいがってもらった記憶も、愛情をかけてもらった記憶もあるにはあるけど、空白の10年間、私が気を遣って父にコンタクトを取るべきだったのだろうか。いやそんなことはないはずだ。父は父の意思で私を家族から外したのだと思いたい。私が一連の話の中で一番ショックだったのは、面識があったはずのおばの葬式に呼ばれなかったことだったのだから。
父と母と私の欄に「除籍」と書かれ、後妻の名前が連なっている戸籍謄本を見て考える。一番コンタクトを取りたくない相手の名前が、同じ書類の中におさまっている。後妻の生まれた日も、両親の名前も、続柄も、再婚した日も書かれている。そういえば再婚したという報告すら父からはこなかった、それは当たり前だろうと思う。別の誰かとの再婚ならともかく、母との婚姻の継続中に家族の中に割って入った人。割って入ったことすら気づくのが遅れた人。
家庭裁判所から送られてきた「相続放棄申述受理通知書」と「相続放棄申述受理証明書」だけが、私にとっての宝物だ。家庭裁判所の人はやさしかった。見知らぬ私のために、書類についてあれこれ教えてくれて、印紙が売られている一番近いコンビニエンスストアまで紹介してくれた。人のやさしさってあるんだなと思えた。
長くなりました。読んでくださってありがとうございます。
ーーーまぁ、ここまでの話はよく聞く。
先日
https://ddnavi.com/serial/563023/a/
ほんで
早稲田政経の発達障害先輩が職場で不適応を起こしている話を読んだ。
母親から距離を置き、共依存関係が切れ、自力で生きて行かざるを得なくなった時だった。
母親は高卒で、就活のことは全くわからないというタイプだった。
今まで「恋愛はダメ」「○大に行かないとダメ」「ママを養わないとダメ」などと言ってきた母親が、ここで急にハンドルを切ってきた。
「娘ちゃんの選びたいようにするのがいいよ。ママにはわからないし。」
めちゃ今更である。
私は自分の意思や判断力で決定するという岐路に、唐突に立った。
「ママを養わないダメなのかな…?」と、公務員試験の勉強をやってみたり、安定した大企業の面接を受けたものの、全くダメだった。
強い意志やモチベーションを持って社会に自分を示す同級生と闘わないといけない。
早々に心が折れ、一人暮らしの部屋で昼夜逆転、適応障害になった。そのうち、一学年下の人たちの就活が始まった。
そこで判明したのがガチガチの発達障害(ADHD)と愛着形成からくる不安障害である。
私は19歳くらいまで「偏差値の高い大学に入れば自動的に人生は薔薇色、大手企業で働けるのだ」
という母親第一書記の洗脳を大真面目に信じていた。救いようのないアホである。
母親という「最高指導者」がいない環境に放たれたADHD。在野の精神。
ストロングゼロ中毒者みたいな精神状態を思い浮かべてくれれば雰囲気は合っている。
本当なら大学でも学友とコミュニケーションを沢山とってインターンやサークルで結果を残し自信をつけないといけない。プログラミングや英語も使い物になっておくべきだ。
こういうことの知識収集、プランニングが全く出来なかった。まぁ頑張ってはみたのだが、足りなかったかもしれないし、怠惰だったこともある。
サークルやコンテストで頑張った時期もあるようだが、適応障害とストロングゼロ的生活で記憶がボロボロになってから、それを生き生きと語ることが出来なくなった。
(頑張った気持ち、というのは瞬間真空パック出来ないので、早めにアピールして他者からの評価にした方がいい、と思う。)
ともかく、母の「指導」を受けることが出来なくなった私は孤立し、無数の選択肢がある自由から逃げ出したくなった。自分で選ぶということをしっかりやってきた同級生に比べて自我がなく、きわめて幼なかったと振り返って思う。
これが母子密着、共依存を経て、唐突に野に放たれた発達障害者の怖さだと思う。
親と共依存になった子どもが誤って学んでしまう悪癖の一覧である。
子どもは母親の言われた通りにやっていて、大学受験は大団円。しかし後で大きなしわ寄せがやってくる。
発達障害で言うと、
複数あるESの締切に間に合わない。落ちる。各社の方向性に合わせて自分を微調整して動くことが出来ない。発達障害を見抜かれる。地図が読めない。大手町のビルで迷子になる。
不安障害では、不安で自己PRが出来ない。PRしていることが嘘のようで罪悪感があり眠れなくなる。(アスペ的要素もある)
そんな感じで、就活は大きな傷を残し失敗。
背水の陣で挑んだ院試で某院に入り、何とかバイトのかけもちでピヨピヨと生きている。
もうすぐ、夏が終わる。
https://anond.hatelabo.jp/20200703193938
先日こちらのお気持ち文を投下したところ、想像以上の反響があった。私も主にツイッターで感想などを眺めていたのだが、感想をつぶやいてくれた人のうち7割ほどが七瀬サイド、2割ほどがおパ島綾城サイド、残り一割はどちらにも属さないという比率であった。
追記や補足で、七瀬サイドが対価システムに走る理由や、それらが巻き起こす事故についてざっくりと説明をしたが、やや説明不足なところがあったため、あらためて対価システムの成り立ちと、巻き起こった事故などについて書かせていただく。
なお、今回の文章は漫画への関連性が薄く、私の実体験や周囲で観測した事故の話を多分に含んでいるため、人によってはトラウマの想起を招いたり、公平性に欠けるところも多々見受けられると思う。不快に思われたら、体調を崩す前にブラウザバックしていただきたい。
心理学に、マズローの欲求5段解説というものがある。下から順に、生理的欲求、安全の欲求、社会的(愛の)欲求、承認欲求、自己実現の欲求とヒエラルキー型に並び、一つの欲求が満たされると、もう一つ上にある欲求を満たしたいという気持ちが湧いてくるようになる、というものだ(詳しくはググってほしい)。
対価システムにとらわれるコミュ障は、多くがこの社会的(愛の)欲求か、承認欲求に大きくかかわる、ネガティブな経験(いじめ、孤立、暴言、虐待など)がある。要因はコミュ力の低さや容姿、機能不全家庭(いわゆる毒親)や身体的欠落によるハンデなどさまざまだが、とにかく、これらが幼少期に満たされていないと、自己肯定感を持てなかったり、不安障害を発症したりと、成長後の人格成型に大きな傷跡を残すこととなる。
自己肯定感のなさやコミュニケーション能力の欠落はストレスを加速させ、やがて他者の言葉や行為の意味を悪意的にとらえたり、常に攻撃的な態度をとるなどして”周囲に期待をしない”ことで、自分を守ろうとする。これは努力や性格の問題というよりは、本能的な防衛反応である。
ストレスに晒され続けると人間の脳は委縮し、判断力や選択肢を失い、やがて自傷か他傷の二択に追い込まれてしまう。自分含め、人を傷つけるのは世間一般的に望ましい行いではないが、酷寒の雪山で身震いを止めることが不可能であるように、”いま”そうでない人であっても、追い詰められればこうなる可能性があるということは、どうかご理解いただきたい。
無条件に愛されるという経験が少ない人間は、「何かメリットを相手に感じさせないと見捨てられる」という不安に取りつかれがちで、かつ自分をとことん下げているので相対的に相手は雲上人となり、相手の”貴重な”時間を無駄にしないため、関心を引くために、有能アピールを始めるようになる。自己顕示欲というよりは、お友達料金に近い。
親切心で行うというよりは、存在しているだけで周囲に迷惑を与えていると考え、その損失を埋めるべく”他の分野で”役に立つことで相殺しようというシステムだ。
しかし埋め合わせが毎回成功するなどは到底あり得ない上に、対価システムを持つようになる人間は社会的能力が低めなため、昼食に誘ってもらえた際に、誘ってくれた相手に報いようと必死で話しすぎて空気を凍らせてしまったり、面倒ごとを引き受けることでいい顔をしようとして、身の丈に合わぬことを一人で背負いこみ、結果周囲に尻拭いをさせてしまったりと、心臓が痛くなるような失敗をしてしまいがちだ。
埋め合わせに失敗したら、さらに必死に償わなければならない気持ちになる。そしてそういう時に限ってますますやらかし、雪だるま式に焦燥感と無力感と、ストレスが膨らんでいく。とてもつらい。
不平等を相手に飲ませていることに抵抗を覚え、距離を取るようになるのは一般的な考えだと思うが、対価システム保持者はニュートラルの自分という存在に、強力なデバフをかけている。生きているだけで常時-10点といった状態だ。向こうからすれば存在しないその10点分を穴埋めしようと、できれば次にミスった時のための貯蓄をしようとやっきになって空回りし、無駄に疲弊して疎遠になるケースもある。
これを相手視点で見ると、やたら労力の成果を見せてきたり、マウントを取ってあわあわした挙句、急に疲れ果てた様子になり、そのうち連絡もしなくなるという、まったく謎の状態である。相手の期待を裏切りたくないという気持ちや、一緒にいるだけで迷惑だから……という卑屈さは、相手には関係ないのだ。
まだそれだけならただの変な人で終われるが、もっと悲惨なケースだと、最初は完全に捧げる気持ちで書いていたのだが、もらってばかりでは悪いからと返礼があり、やがて絵を描く目的が返礼になって相手を疲弊させてしまったり、見返りを求めず書いていたはずが、自分ばかり書いていて不公平だとなぜか不満を抱き、それを相手にぶつけ不快にさせたり……などがある。
当然のことだが、人はそれぞれ価値観や許容量が異なるし、ルールとマナー、モラルはそれぞれ別物である。自他の区別の境界線があいまいだと、「自分は平気だから○○さんも平気だろう」「自分はこれを守っているのだから、向こうも当然守るだろう」と、無自覚で価値観の押し売りをはたらいてしまう可能性がある。コミュニケーションに自信のない人は、よほど普遍的な事例を除いて、基本的にその都度確認か観察する癖をつけたほうがいい。
七瀬の目的は、一貫して「綾城に認められる」であった。話が進むにつれいろいろと拗らせ、ついには諦めてしまうも、最後までそのスタンスがぶれることはなかった。
気さくなリプライを送り、ジャンル外の話題なども提供してくれ、通話して楽しいおパ島と、まったく交流を持ち掛けてこず、静かに有能アピールをしてくるだけの七瀬。楽しい相手と交流したい綾城が後者を選ぶ可能性は、限りなく低い。
「何かしら対価を支払えば、正当な結果が返ってくるものだ」と思い込んでしまう認知バイアスのことを世界公平仮説と言うが、対価システムはこれに限りなく近い。
しかし、実際は努力が必ず報われるという保証はない。どんなに頑張っても認めてもらえない、ありのままではなお肯定されない状況が続けば、世界を恨むか、オカルトに走るか、すべてを諦めるようになってしまう。頼むから、こうなる前に七瀬はカウンセリングに行ってほしい。
私は心理学の権威でもカウンセラーでもないのだが、私の言葉が、少しでも自己分析の助けになり、気持ちを整理するきっかけになれたなら、この上ない喜びだ。
それと、自己肯定感が著しく低い人には、どうか自分を、ほんの少しでいいので肯定してほしい。全肯定ではなくていい。なにかひとつだけ、人より優れてなくていいから、好きになれる個性を見つけてほしい。箸の持ち方でもお礼をちゃんということでも、声でも足でも字でも、なんでもいい。ひとつあるだけで、少しずつでも自己肯定感をはぐくんでいけるから。
■対価システム人間の面倒くささと負の公平仮説(おけけパワー中島)
https://anond.hatelabo.jp/20200705112649
公平仮説についての補足と、個人的にとった解決手段を他山の石にしてもらうべくしたためた。今回と同様に、科学的な根拠などはほぼないことをご容赦願いたい。
2/25
コロナ19確診者のうち、9人目の死者が発生した。去る24日漆谷慶北大病院で死亡した患者1人が死後にコロナ19陽性判定を受けた。この患者は、23日腹部膨満症状などを訴えて来院した音圧病室で治療を受けていたの急性呼吸不全で死亡した。
17:00確定者84人増え、合計977人... 10人目の死者が発生
コロナ19の中央防疫対策本部が25日午後4時の基準国内10人目の死者が発生したと発表した。確定患者は、午前60人、午後84人が追加され、合計977名である。一日に確定者144人に増えた。現在の検査を進行中の人は1万3888人である。
18:00 11人目の死者、35歳、モンゴル人の男性···外国人初の事例
新型コロナウイルス感染症」(コロナ19)確定判定を受け、京畿道高揚ミョンジ病院で隔離治療中だったモンゴル人男性(35)が25日、死亡した。国内11人目の死者で、外国人初の事例だ。保健当局によると、この男性は慢性肝疾患と末期腎不全を患っ南楊州市別耐凍家で療養していたし、24日午前6時病状が悪化し、病院に運ばれた。ミョンジ病院の関係者は「この男性の死亡原因がコロナ19と関連しているか調査中」としながらも「(サインは)持病のためだと見ることが合理的だ」と明らかにした。
2/26
国内コロナ19確定者のうち、12人目の死者が発生した。大邱で3番目確定判定を受けた患者で新天地信徒に伝えられた。糖尿病と高血圧を患っていたが、男性は20日、大邱医療院選別診療所を介して入院した後、啓明大学東山病院に移送され、呼吸器治療を受けてきた。 24日連鎖球菌ショックが発生して集中治療を受けて26日午前1時ごろ死亡した。
2/27
27日、国内の新型コロナウイルス感染症(コロナ19)確定者のうち13番目の死者が発生した。死亡者は74歳の男性で、新天地信徒全数調査の過程で確定判定を受けた。腎臓移植に基礎疾患を患っており、この日の呼吸困難の症状で救急搬送中に心停止が発生して死亡した。大邱地域でコロナ19死者は計4人に増えた。
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大邱で新型コロナウイルス感染症(コロナ19)検査後が隔離中の患者が死亡した。国内14人目の死者に自己隔離の死亡2番目の犠牲者だ。死亡者A(69・女)氏は、この日の午前5時39分ごろ、呼吸困難を訴えて救急室で緊急搬送した。彼は心肺蘇生法(CPR)を受けたが、病院に到着して1時間後に死亡した。大邱市は、彼の死に関連ブリーフィングを29日午前にする予定である。
大邱英病院で女性A(63)氏が死亡した後、コロナ19確定を受けた。続いて、大邱医療院で23日確定を受けた女性B(94)さんが死亡した。これ国内コロナ19死亡者数は、合計16名である。
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12:05大邱でコロナ19確定77歳の男性死亡... 17番目
大邱地域でコロナ19の17人目の死者が出た。大邱市によると、29日午前7時20分ごろ、漆谷慶北大病院音圧病床で治療中の77歳の男性確定者が死亡した。この感染者は普段糖尿パーキンソン病を患った。
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14:24コロナ19国内18人目の死者が発生... 82歳の男性
国内新型コロナウイルス感染症(コロナ19)確定者のうち、18人目の死者が発生した。疾病管理本部の中央防疫対策本部は1日午後行われたブリーフィングで大邱で18人目の死者が出たと述べた。ジルボンは「18人目の死者は82歳の男性で基礎疾患に脳梗塞、高血圧、糖尿病などを患っていた」と語った。
大邱でコロナ19確定者のうち2人が死亡した。この日一日の間に3人が相次いで死亡し、死者は20人に増えた。大邱市によると、同日午後2時25分漆谷慶北大病院に入院していた80歳の男性と午後4時18分大邱カトリック大学病院に移送された86歳の女性が死亡した。 80歳の男性は、28日コロナ19確定判定を受け、高血圧を患っていた。 86歳の女性は、去る28日コロナ19確定的にあることが判明され、この日の午後、呼吸困難で病院に搬送されたが死亡した。
大邱で1日コロナ21度、22人目の死者が発生した。この日の午後6時30分頃、大邱寿城区した家庭で確定判定を受けて自宅で入院を待っていたA(77)氏が亡くなったことを警察が確認水性保健所に通報した。これ進ん1日午前1時40分頃には、前日ファティマ病院に入院した77歳の女性Bさんが死亡した事実が一歩遅れて確認された。これにより、大邱では、この日だけ5人コロナ19に命を失った。
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大邱確定者のうち、追加死亡者4人が発生した。 2日、保健当局によると、ファティマ病院の緊急治療室で冷えなどの症状に移送された80歳の男性、慶北大学病院で隔離治療中だった71歳の男性、嶺南大病院で入院中だった64歳の男性、啓明大学東山病院音圧室から分離されていた86歳女性が死亡した。死者のほとんどは、糖尿病・高血圧などの持病を患っていた。これ国内の死者は26人に増えた。
大邱でコロナ19確定者のうち死亡者2人が追加で発生した。これコロナ19国内の死者は28人に増えた。大邱市によると、この日の午後1時13分ごろ、79歳の女性が肺炎症状で啓明東山病院に運ばれたが、心停止がと死亡した。この女性は、事後検査でコロナ19確定者が明らかになった。また、この日の0時46分ごろ、大邱カトリック病院で入院治療中の78歳の女性が死亡した。この女性は、高血圧などの基礎疾患があり、死亡後陽性判定を受けた。
大邱確定者のうち死亡者1人追加された。 3日、保健当局によると、同日午前3時ごろ啓明東山病院で確定者A(78)氏が死亡した。 Aさんは、先月29日の緊急治療室を介して、この病院に入院して内科集中治療室で隔離治療を受けていた。コロナ19確定判定は入院した日の午後8時40分頃出てきた。 Aさんは、基礎疾患に糖尿病と肺炎を患っていた。これ国内の死者は29人に増えた。
17:16 43日で5000人を超えた。確定者5186人・死者31人
中央防疫対策本部は3日午後4時の基準国内新型コロナウイルス感染症(コロナ19)確定者の合計5186人と発表した。この日0時と比較して374人増え最初確定者発生後の43日目に5000人を超えた。死者は大邱で3人追加で発生して31人に増加した。保健当局によると、同日午前11時47分ごろ、啓明大学東山病院で呼吸困難の症状に見えたA(83)氏が死亡し、同日午後2時37分ごろ、慶北大病院で確定者B(75)さんが死亡した。
大邱でコロナ19死者が1人追加で発生した。まだ確定番号が付与されなかったが、大邱では22回目だ。大邱市などによると、この日に死亡した78歳の男性は、2日コロナ19陽性判定を受けて自己隔離中倒れた。 119救急隊が到着し、当時心停止状態だったが、患者はファティマ病院に移送された後、死亡した。高脂血症と高血圧、前立腺肥大症、心筋梗塞などの基礎疾患があった。これ国内コロナ19死者は32人に増えた。
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10:30基礎疾患のない大邱60代の女性が死亡...死者33人
大邱で基礎疾患のないコロナ19確定者が死亡した。 4日大邱市によると、死者は67歳の女性で、先月25日に大邱カトリック大学選別診療所で検査を受けてコロナ19確定判定を受けた。特別な基礎疾患はなかった。以後着実に人工呼吸療法を受けたが、この日の午前1時50分に死亡した。これ国内の死者は計33人である。
大邱でコロナ19死者1人追加で発生した。これ国内の死者は34人に増えた。大邱市によると、同日午後4時23分ごろ、大邱医療院で隔離治療を受けていた87歳の女性が死亡した。この女性は、先月24日、南区保健所でコロナ19検査の後、確定判定を受けた。この女性は、心臓肥大と高血圧、認知症、不安障害などの基礎疾患を患っていた。
22:51大邱でコロナ25人目の死者が発生...国内総35人
大邱でコロナ19死者が追加で発生した。大邱市はこの日午後5時25分ごろ、啓明大学東山病院音圧病床で治療を受けていた72歳の男性が死亡したと発表した。この男性は先月22日、大邱(テグ)医療院でコロナ19の検査を受けた後、24日確定判定を受けて大邱東山病院を訪れた。当日呼吸困難の症状を示してい啓明東山病院に電源た。糖尿病、高血圧などの基礎疾患があったと伝えられた。国内累積死亡者は合計35人になった。
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08:51慶60歳の男性1人が死亡... 36番目
慶尚北道でコロナ19確定者1人が死亡し、国内の死者数が36人に増えた。慶尚北道によると、4日午後3時16分頃、順天郷大欧米の病院で60歳の男性Aさんが死亡した。 Aさんは1日、脳梗塞の症状に欧米の病院に移送されCT撮影検査をした。この検査で肺炎の症状が現れコロナ19の検査をし、3日陽性判定を受けた。保健当局によると、Aさんは、高血圧・糖尿病・高脂血症などの持病を患っており、肺炎の症状が悪化して死亡したとみている。
コロナ19による死者が慶北2人・タラ1人が追加され、死亡者数が39人に増えた。慶尚北道によると、青島に住むA(84・女)氏と城主に住むB(81)さんが5日午前、安東医療院で死亡した。 Aさんは、心不全・脳梗塞など基礎疾患を患っていたが、Bさんは何基礎疾患がなかったことが分かった。この日の午前7時34分頃には、大邱ファティマ病院でC(77)さんが死亡した。 3日発熱と呼吸困難の症状を見せたC氏は4日、ファティマ病院に移送され、コロナ19確定判定を受けた。保健当局は、Cさんが普段糖尿病を患ったことが確認された。
5日大邱でコロナ19確定者60代男性が死亡した。保健当局によると、この日の午後1時24分頃、慶北大学病院では、A(67)氏が死亡した。先月27日、確定判定を受けたAさんは、糖尿病などの持病を患っていたことが分かった。これ国内死亡者は40人に増えた。
17:12確定者322人を追加されて6088人...死者は41人
新型コロナウイルス感染症(コロナ19)確定者が5日午前0時以降322人追加された。これにより、累積感染者は6088人になった。慶尚北道では、患者1人より息ながら死亡者も41人まで増えた。慶尚北道は4日午前10時頃、清道郡立老人療養病院で認知症を患っていた86歳の女性が死亡したと発表した。この患者は3日検体検査を依頼して死亡した後の5日コロナ19確定判定を受けた。
19:40今日だけ死者7人増え42人...メールス記録破られた
大邱で新型コロナウイルス感染症(コロナ19)死者1人追加で発生して、5日午後7時50分あたりの国内死亡者数が42人に増えた。この日一日だけ大邱・慶北で7人の死者が出ており、全体の死亡者はメールス死者39人を超えた。メールス感染者2015年5月20日、初めて発生した後、同年12月23日終息まで総186人出た。
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大邱でコロナ19確定者1人が追加で死亡した。大邱では29番目、国内全体では43人目の死者である。大邱市保健当局によると、6日午前2時35分、大邱漆谷慶北大病院音圧病室で80歳の男性患者が呼吸困難に死亡した。この患者は、先月28日コロナ19の検査で確定判定を受けて入院した状態であった。基礎疾患として高血圧と糖尿病があったことが確認された。
19:30奉化て性病願書亡くなった90代の事後」コロナ確定」...国内44番目
慶北奉化分解病院に入院中死亡した90代の胃がん患者が死後検査でコロナ19確定判定を受けた。保健当局によると、4日に亡くなった患者の死後コロナ19検査結果陽性判定が出た。正確な死亡原因は調査している。これにより、国内コロナ19による死者は44人に増えた。
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11:20永川で70代のコロナ19に死亡...国内死亡45人
慶尚北道永川でコロナ19確定者1人が死亡した。これにより、国内の死者は45人、慶北死者は14人に増えた。 7日慶尚北道は永川に居住する78歳の男性が、この日の午前、自宅で119救急車で病院に運ばれ中に死亡したと発表した。去る5日、発熱、悪寒などの症状を示してい病院で検体を採取した後、帰宅したが、男性は6日、確定判定を受けた。男性は心臓病や脳卒中などの基礎疾患を持っていた。
11:55基礎疾患のない確定者大邱でまた死亡...国内死亡合計46人
コロナ19確診者のうち、基礎疾患のない患者が、また死亡した。国内46人目の死者に大邱で発生した。 7日、保健当局は前日の午前10時36分ごろ、大邱の漆谷慶北大病院で78歳の男性が死亡したと発表した。この患者は、死亡後、コロナ19確定判定を受けた。保健当局は「この患者は基礎疾患がないことがわかった」と述べた。先に4日と5日にも基礎疾患を持っていなかった確定者2人が死亡した。
12:30喘息患っ大邱80代の女性が死亡...国内死亡47人
大邱でコロナ19追加死亡者が発生した。国内の死者は47人に増えた。 7日、保健当局によると、同日午前11時22分ごろ、大邱慶北大学病院で83歳の女性が死亡した。先月22日に確定判定を受けた患者は、同月26日、大邱(テグ)医療院に入院したが状態が悪化して1日慶北大学病院に運ばれた。この患者は、基礎疾患として、喘息を患ったことが分かった。
大邱でコロナ19(新型コロナウイルス感染症)を追加死亡者が発生して、合計33人に増えた。大邱で33番目に死亡した91歳の男性Aさんは、この日の午前9時18分、大邱医療院で死亡した。Aさんは、先月29日、パーキンソン病に文星病院入院中の病院苦労コロナ19の患者発生的に検査を受け、1日確定判定を受けた。以後2日大邱医療院に移送されたが死亡した。Aは、パーキンソン病のほか、高血圧を患っていたことが確認された。
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09:38奉化青い特別養護老人ホームの最初の死亡...死者50人
慶北奉化青い特別養護老人ホームでコロナ19確定判定を受けた70代の女性が死亡した。 8日慶尚北道によると、死者は大邱居住者である78歳の女性である。コロナ19が集団発症した青い特別養護老人ホームで確定判定を受けて金泉医療院に移送され、治療を受けて昨日の午後2時5分ごろ、死亡した。この女性は、心臓病や認知症、痛風などに苦しむことが分かった。これ国内の死者は計50人に増えた。
3年前に亡くなったある方のことが忘れられないでいます。私は彼女の顔も名前も忘れられずにいます。遺影に映る彼女の笑顔が、何かをしているときにふと、私の脳裏をのぎります。
私は3年前、あるニュースを見ました。それは世界中にあふれる悲しいニュースのひとつにすぎなかったはずなのです。彼女のことは何も知らなかったのですから。それはとても痛ましい事故でした。その事故について思い出すことは私を絶望の底に落とします。いまでも彼女のことを思うと涙が出てきます。心の奥が激しく痛み、ただ息をすることだけでも苦しくなるのです。
彼女は苦しんで亡くなりました。その瞬間、暗く狭い場所で彼女が何を思っていたのか、私は知ることはないでしょう。彼女が自分はもうすぐ死に、ここから出られることはないと悟ったときの苦しみは、どれだけ大きなものだったのでしょう!私はそれを想像するだけで、私の一部も死んでいくように思います。
私はこの事故について、ほとんど誰にも話していません。親しくしている友人のうち数人と、愛する家族は、私がその事故のことを知って悲しんでいると知っています。ただ、それは事故の数か月後のこと。今でも私がそれを思い出し、泣いていることなど、彼らは知りません。そもそも私が言っていないのですから、知るはずもないのです。
彼女が亡くなってから、私は学校に通えなくなりました。一日中寝ていることしかできない日も、泣き明かした夜も、たくさんありました。何度か私は命を絶とうとしたこともあります。高い橋の上で(ご存知のとおり、ゴールデンゲートブリッジは有名な自殺の名所です)私は失望し、泣くことすらできずに、そこにいました。警察が私を助けたので、幸い、私はいまもなんとか生きています。
こんな状況が続いた、1年半が経ったある日、私は家族の勧めで精神科に行きました。精神科で処方された薬を規則正しく服用していましたが、症状はあまり改善しませんでした。最初は主治医に対し、ただ症状だけを言っていました。気分が落ち込むことがあるとか、眠れない日があるとか、そうかと思えば寝ていることしかできない日があるとか…。主治医は黙って私の話を聞いてくれました。いくつかの抗うつ薬や抗不安薬を服用していましたが、症状がいっこうに改善しないため、私はついにその痛ましい事故のことを打ち明けました。
事故のことを打ち明けたところ、私はPTSD(Post-Traumatic Stress Disorderの略。日本語では心的外傷後ストレス障害と略されます)と診断されました。現在も私はこの病気で闘病しています。
私の国では、この病気に対する認知は進んでいます。帰還兵たちのための相談ダイヤルもあります。私は、日本では地震をきっかけに認知されていると聞きました。ただ、私の1番大事な友達が住んでいるイタリアでは、残念ながらそうではありません。イタリア人の多くは、心的外傷後ストレス障害というものが何なのかも知らないようで、うつ病や不安障害の下位分類とみなされることもあるようです。
この文章は、私の経験です。彼女が亡くなった事故も、私の闘病も、実際にあることなのです。
私は独学した日本語でこの文章を書きました。私の文章はあまり上手ではないと思います:/
私はこの病気で非常に苦しみました。私は日本やイタリアでも、私の国のように理解が進むことを心から願っています。
そして、この瞬間もトラウマと戦っているあなたの未来に、少しでも素敵なことや素晴らしいことがあるように、心から祈っています。抱擁とキス
・地元の幼馴染に騙された。
→詳細は省くが、金銭系のトラブルではない。大したことではないのかもしれないが、「いっそのこと地元を大事にしよう」と思った矢先の出来事だったためにショックが非常に大きかった。
→詳しくは書けないが、知り合いが大怪我を負った事故の第一発見者となった。
→先述の家族との死別や、事故への遭遇、その後の環境の変化によって不安障害を発症。強烈な不安とそれに伴う動悸によって夜眠れなくなり、ご飯も喉を通らなくなる(12月現在だいぶ回復)。
→独り暮らしのインフルエンザほど辛いものはない。おまけに私には困ったときに心配してくれる友人も、頼れる友人もいない。学校の学務にインフルエンザ罹患報告の電話をかけたら「それは辛いですね。」と言われて、弱りきった私はそれだけで涙が出そうになった。そんな私もだいぶ回復してきて、今は増田をやっている。
令和元年はツラいことばかりだった。
令和2年はハッピーに過ごせるといいな。
それでは皆さん、良いお年を。
自分が如何に矮小で卑怯で自分勝手で不真面目な人間かは分かっている。
他の人が努力をして生きているのも知っている。
心療内科を訪れて鬱や不安障害と明確な概念をもらえて、世間一般に溢れる1人であると安堵できる可能性よりも、貴方に異常はありません。と言われる不安の方が大きい。
何もかもが怖くて自分が生きてちゃダメなんだと震えて泣いた数分後に、さっきまでの衝動は一体なんだったんだ?と自分を理解できなくなる瞬間が数日おきに来る。
普通なんてものは存在しておらず、いるのはただそれぞれの人生を生きる人間達だと分かっているけど、自分以外の人間が何か同じ集団に属していて、自分だけが爪弾きにされているような疎外感を覚える。
タピオカ片手に笑う女性達だって辛い場面もあるだろう。それでも人生が±で言えばプラスだと答えそう。自分はマイナススタートのマイナス振り切ってるよ
俯いて早足で人に肩をぶつけながら歩く男だって、きっと連絡が取れなくなれば心配に思ってくれる人間がいるんだろうな。いいな。
みんな普通になりたいと思っていながらそれを口にしないだけなのかな。
ある程度「楽で低賃金」の会社に就職して、片手間で音楽をやる=フリーランスのサイトで募集したり、ゲーム同人に売り込みをして
わらしべ長者的に実務を引っさげて大きくなるのが安定だな
どうもこんにちは。この度はこんな記事を見てくださりありがとうございます。今悩んでることがあるけど言えるような友達もいない、だからここにポツポツ書いていきたいと思います。
・21歳男
・人見知りでコミュ障
・不安障害
不安障害になったのは大学1年生の時。大学でとある先輩からの嫌がらせを受け、元々自分に自信がなく神経質気味だったのが重なって心身を壊した。今はソラナックスを飲みながら生活している。このことは大学の1人の同期にしか話していません。
大学に入学する前は自信に満ち溢れていて、僕は誰よりも楽器が上手いんだと過信していた。が、この有様。ボロくそ言われるし他の先輩とか同期からセンスないとか言われるし、いやお前ら誰目線だよwとか言いながらもしっかり傷付いたりした。いやほんとに誰目線だよ。
それでもさ、2年間はとにかくがむしゃらに頑張ってきたんだ。教授からも褒められることが増えたし、出来るようになったら楽しいし。だけど今僕は3年生。どうしたって「就活」の文字が頭をチラつく。僕も同じ大学の人たちもインターンに行ってる人なんてほぼいない。けどそれは僕の大学が特殊だからで、他の大学に通う友達はみんなインターンだの就活だのそんな話をしている。どうしたらいいんだろう。
僕は就職をする気がない。これは入学する前からずっと思っていた。音楽で食っていきたいなって。でもフリーランスでなんて難しいよなあと思うから、今やってるバイトを続けながら音楽と両立して頑張りたいなあとか思ったりしてたんだよ。だけど最近になって将来を意識しだしてみると、そんなのは子どもの甘えた夢だなって思っちゃうわけよ。この2年間で僕の楽器の技術は間違いなく上がったと思ってるし、コンクールで入賞したりした。だけどそれを引っさげて仕事ができるかと問われるとそれは難しいんじゃないかと思う。めちゃくちゃ緊張しいで舞台に立つ前は薬飲まないとやってられないし。あとバイト先もそんな僕を受け入れてくれるのかという心配もある。今は大学生だからいいけどさ、仮にあと5年バイト続けるとするじゃん、自分の子どもと同じくらいの年代の男が「夢を追いかけるため」とか言っていつまでもどこかに就職せずバイトしてたらちょっと心配になるよねパートさん社員さんも。ほらこんなされるかも分からない心配もしちゃって人の目気にしちゃって、馬鹿じゃない?
だからといって就活をする気はやっぱり起きないし何だかんだで僕は音楽が好きだし楽器をしている自分が、拍手を貰って心から幸せな気持ちになる自分が何より好きなんだ。
僕にとっての最善は一体何なんだろうか。