はてなキーワード: メソポタミアとは
●ナポレオン・ボナパルト 「皇帝がイタリアの近くで生まれるだろう・・・」「・・・短髪が総督の座につき・・・十四年間暴君として君臨する」 ●ナチスドイツ 「マモンの大教主がドナウ川の両岸を征服するだろう・・・かぎ型の十字を・・・」 ●真珠湾攻撃(1941年) 「真珠の港は火で焼き尽くされるだろう」 ●広島、長崎の原爆投下(1945年) 「港のそばの二つの都市にはかつてない災いがあるだろう・・・」 ●ケネディ大統領暗殺(1963年) 「偉人の上に屋根から不幸が襲う・・・無実の者が告発され、犯人は隠される・・・」 ●ベルリンの壁崩壊(1989年) 「東の壁は崩れるだろう・・・」 ●湾岸危機以降のサダム・フセイン(1990年以降) 「卑しく、邪悪で、忌まわしいメソポタミアで暴君となる者・・・」 ●ダイアナ元イギリス皇太子妃の事故死(1997年) 「預言者の名前の最後から二番目がダイアナをとるだろう・・・」 ●アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日) 「ヨークの都市では大きな倒壊があるだろう・・・」
これに比べるとまだまだだな。http://anond.hatelabo.jp/20141127014724
http://anond.hatelabo.jp/20130528133141
世の中には色々な考え方があるのに、立場や状況によってモノの見方が変わることを理解できない原因が想像力の欠如にあるというのは、そうだと思います。でも読書をしないと想像力が欠如するというのは、違うんじゃないかなー。読書ばかりしてる人は、それはそれで想像力が欠如するんじゃないかなー。この方の書いた記事を読んで、そう思いました。
この記事を書いた方は、「時間を消費した代わりに、現実世界で役立つ知識が得られないと、意味がない」という考えが根底にあるように感じます。そして、現実世界で役立つ知識を得るには、読書が最も効率良いと考えてるのではないでしょうか。
実際に体験せずとも、いつでもどこでも知識を得られるというのは読書の良い点ですし、効率が良いとも思います。でも本以外にも、テレビやラジオ、映画、インターネット、その他のメディアも、充分に効率が良いんじゃないですかね。また読書では得がたい、実体験から会得できるような知識もたくさんあるんじゃないですか。それに、何らかの体験から得られるものは知識以外にも、富とか名誉とか、その他の何かとか、それらにも価値がありますよね。
実際には体験せず、擬似体験で知識を得ることもできます。私はビデオゲームが大好きなんですが、ビデオゲームにはそういう可能性があるように思ってます。わかりやすい例だと、シリアスゲームと呼ばれてるようなやつですね。『シムシティ』とか、そういう可能性を感じます。
ところで近ごろ私は、『銃・病原菌・鉄』の文庫版が出てたので再読してるんですけど、いやー、面白い。この本を読んでると、『シヴィライゼーション』というビデオゲームは実にうまく人類史をデフォルメしてるなあと思えてきます。
「肥沃三日月地帯とかズルくね? メソポタミアの連中はチートだろ、チート。最初に建てた都市の周りに、小麦と牛と馬と豚と羊と、全部あるじゃねえか。ワシの周囲にはトウモロコシしかありゃしねえ!」(インカ帝国のワイナ・カパックさん談)
読書以外で価値観の壁を超える方法が理解できないという点で、えらく狭量な方だなあと思いました。この方が書いてるのは結局、「趣味が合わないと話ができない。自分の趣味に合わせてみんな本を読め」ということじゃないですかね。
ゲームも新興宗教も、それ自体はコミュニケーションの妨げにはならないはず。コミュニケーションの妨げになるのは、自分の見える範囲しか見ず、それを絶対だと根拠なく信じこもうとする心持ちじゃないでしょうか。定番の決まり文句を言うと、書を捨てよ、町へ出ようってことですかね。そしてビデオゲームを買って家に帰ろう。今なら、『真・女神転生IV』が面白いらしいですよ。
初音ミクのLAコンサートに関して、Promise Of Rebirthと題したそこそこ長い感想を外国人が書き込んでいた。正直、随分と難解な表現が多く、翻訳も怪しげになってしまった。書き手のHN(wintermuted)を見るに、本来なら黒丸尚風に訳すべきなんだろうが、とても私には無理。とりあえず訳してみたのを置いておく。無断翻訳なので匿名で。誤訳はあると思う。
なお原文のurlは以下の通り。
http://animediet.net/commentary/mikunopolis-at-ax-2011-promise-of-rebirth
+++++以下無断翻訳+++++
メガゾーン23に出てきた謎めいたヴァーチャルアイドルの原型たる時祭イヴがSFにおける一種の狂信的比喩として想像をかき立てる場面に現れてから四半世紀強ののち、昨夜のアニメ・エキスポにおける比類なきイベントMikunopolisがちょっとした進化的な跳躍を成し遂げた。西洋におけるこの概念の最も著名な派生例がアル・パチーノの穏健な映画[シモーヌ]、及びウィリアム・ギブスンのほとんど遺伝的に接続された精神[小説『あいどる』]を通じた形をしていることを踏まえるなら、数千人のファン(及び間違いなく好奇心旺盛な連中)がオタク世界のデジタル彼女アンドその友人たちと伴にロサンゼルスのノキア・シアターをほとんど埋め尽くすなんてのは、まだまだ先のことだと考えらていたに違いない。不可解にも外部に広がった走査線から、ケミカルライトやネギその他に鮮やかに彩られた通路に至るまで、それはリン・ミンメイだけを認める歓迎の場であった。今なお振り払っている最中である土曜夜のイベント後の残響は、かなり深い思考を私にもたらした。
いつもカリスマチックなダニー・チューによる紹介と、それに伴うダンスロイドの形をしたリズム点火係は、その先に待っているものの興味深い味見役を果たした。この前座は、おそらく秋葉系(Akiba-kei)の空気に慣れていない聴衆にとって、何が次に来るかを示す重要なリトマス試験紙だ。このショーを準備する時間がほとんどなかったことが見て取れる点が、これが日本直輸入の製品であり、一見客に対するちょっとした警告にもなっていた。私自身が見いだした特に重要な点についてはすぐに述べる。
既に日本で有名になっていたコンサートの形式をカンニング済みだった客の大半は、青緑色の髪が次々と繰り出す人気のある曲と、目がくらむようなライブ伴奏(39s Giving DayのDVDで演じたオリジナル奏者の大半、及びこの有名なディスクには含まれていない弦楽器奏者の面々)の混合物を味わった。その間ずっと聴衆は大いなる称賛のためリズミカルにケミカルライトを振り、その動きが最後まで全公演を通じて見られたのは心強かった(こうした行為、及びその概念に対する彼らの長く続いた反応は、米国の聴衆にとっては奇妙に思われるものであることを、私はこの場で認めなければならない)。ボックス席に座り、ステージから1階席、クレーンカメラ、そして複数のカメラで撮ったHDスクリーンのハイライト映像まで含んだ全景を見る。多くのミクのファンかつアーティストが作った聴衆が親しんでいるヒット曲、World is Mineやポッピッポー、サウンド[ママ]、ロミオとシンデレラ、その他多く(どこかでミラクルペイントを彼女に演じて欲しかった)は、オープンソースな現象がほんの3年でどれほど広がったかを示している。そして特に歓迎された巡音ルカ、鏡音リン&レンの登場は、観客の熱狂をさらに高めた。センターステージに置かれたほとんど透過性のスクリーンに跳ね返るホログラフィックな投影機は、時にミクが踊りながら少し両端に近づくたびにその限界を示したが、同時にこの海外遠征の短い命に対する理解を伴ってある種の魅力ももたらしていた。
こうした話を正しい文脈の中に置くため、ちょっとした歴史を思い出そう――小さな子供だった私は、おそらくは地元の祭に毎年来ていたレーザーライトを使ったショーを見に行ったおかげでそれを一つの起源として啓示を受け、1980年代初頭に芽吹いてきた新たなテクノロジーに興味を抱いた。そのショーとは、要するに空気で膨らませたドームの中で音楽に合わせて行われたレーザーペインティングで、客は入場料を払い、床に置かれたたくさんのクッションの一つに腰を据えて15分から20分間、まばゆい光の列と、ミッシング・パーソンズやトーマス・ドルビーなどのアーティストの曲に合わせたアニメーションを楽しんだ。今となっては原始的なものに思える――ミュージックPVはいうまでもなく、コンピューターが生み出すアートとアニメーションにつながる想像まで至るには長い道のりがあった。また、こうした地味な傾向が存在しなければ、84年のマクロス映画における楽しいコンサートシーンもある種心を揺さぶるほどのパンチ力は持たなかったと敢えて言うこともできる。私が思うにそれは時代の刻印であるが、同時にライブエンターテインメントがどのように変化していくか数十年にわたる発展を知らせるものでもあり、おそらくは音楽芸術の愛好者がいずれはあるところで分裂に至ることまでも示唆していた。
なぜならこの時代に育った者にとって、アナログからデジタルへ向かう音楽の傾向が何か恐るべきものとみなされ、音楽業界で排斥されたことが一般的な心象として残されているからだ。子供の頃にクラフトワーク、デペッシュ・モード、ジョルジオ・モロダー、YMOやソフト・セルなどのファンだった者にとっては、誰かがシンセサイザーの人工性を嘲り、音楽の自然さを殺すと聞かされるのは珍しくもないことだった。そしてこの議論の中に何粒かの真実が含まれているとしても、それは一方で、当時は多数のコンピューターと故障の懸念とショーを乗り切るためだけに間違いのない注意深さを必要としたこれらのかさばったキーボードから音を創り出す人間の努力と創意工夫を、台無しにしていた。最終的にこの否定的な議論は多くの未来の音楽及び演奏形式に付きまとい、興味深い結末をもたらした。それはまたミクのライブ伴奏をこれほど楽しく必要な要素にもした(ギターの黒田晃年、ベースの田中晋吾、ドラムの折田新、キーボードの安部潤――言及すべき弦楽器部門を除く。いずれもとても素晴らしい)。スタジオミュージシャンは、あらかじめ簡単に録音することもできる演奏に大いに心をこめることになる。新たな道具を愛するアマチュア音楽家と、伝統的なものとの融合実験によって、このショーはさまざまな要素を混ぜたある種の喜んで受け入れられるシチューとなり、ときにいくつか二級品の歌があったにもかかわらず、既存の姿ではなく可能性を約束するものとして機能していた。――以上がショー全体で私が本質的に感じたことだ。
誰も見失わなかったよう望むのなら、この最終目標へと向かうDNAを手に入れることが私にとってベストなのだろう。なぜLAのショーはこれほど意義深いのか、そしてVOCALOID、ミク及びこのようなショーが持つ主要な意味あいとは何か。
さてこれは真に落とし穴的な回答である。なぜならアイドル歌手という概念及びヴァーチャルアイドルに伴う必然的結末まで考えを煮詰めるからだ。我らが今いるのは現実に近づいたキャラクターアニメーションの時代というだけにとどまらず、オープンソース化した大衆文化の可能性がある時代でもあり、我々はオタクの領域を超えて全く新しい何物かになるまで成長しうるアイデアをおそらく目撃している。YAMAHAが今年のNAMMショー[米国で開かれる楽器展示会]で多用途VOCALOIDを紹介したのを見ても、現状はメディアを通じた古い分配モデルが不可避の断末魔を上げるところに達したと敢えて見なせるように思える。スペイン製のソフトから取りだした一つのアイデアを、音楽作成のための輝かしい新たなモデルへと広げ、そして数が多すぎ、時に厄介な日本のアイドル歌手業界を考えた場合に多数の集団に働きかける天才の発案に過ぎないマーケティングにまで、拡大する。終わりなき競争、怪しげな才能、さらに怪しげなマネジメント、生死にかかわる健康上の危険、類似性、そして夢想を維持してほしいというファンからの圧力に満ちた困難な人生――そう、こうしたマーケティング方式とファンに駆り立てられた神話が混じり合って音楽のスーパースターたちにかくあるべしとする任務を押しつけるのは、それこそVOCALOIDにとって理想的シナリオだ――しばしば置き換え可能で、派生的、はかなく、言うまでもなく消耗品であるミューズたちが、変化もましてアイデアも嫌う文化産業のために存在している。
考えてもみてほしい。マイルズ・ダイソンの言葉を言いかえるなら、これこそ決して疲れることなく、興奮状態にもならず、二日酔いで仕事に出てくることもないアイドルだ。彼女はショーを続けなければならないことを知っており、一瞬のうちにコスチュームを変えられる。何よりファンが歌を作り、バンドが彼女の横で演奏しているという2つの理由で、その歌は偉大である。過剰な荷物と期待を持つことなく、アイドルが実行すべきだと期待されるあらゆることをする能力を自ら持つミクの存在そのものが、ある種の輝かしいアンチテーゼなのだ。彼女は文字通り、何でも人々の望み通りになれる。汗一つかくことなく。
そしてこれほど目立つ歓迎を伴う西洋への紹介は、日本人にとってだけではなく夢を共有できる分野を長く求めていた世代にとっても何か極めて特別なことの始まりであり、過保護にされることなくさらなる発展が期待できる約束されたスタートだ。そしてこの夜の感動的な聴衆たちから判断する限り、長きにわたる憧れはついにその実を結んだようだ。
イヴ、シャロン、レイ……君たちの歌がますます現実に近づいてきた……
+++++無断翻訳終了+++++
言うまでもないがシャロンはマクロスプラスのシャロン・アップル、レイはギブスンの小説に出てくるヴァーチャルアイドル、投影麗(Rei Toei)である。
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
農業は現在の人口増加を生み出した最も重要なテクノロジーだ。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』によると、農業は現在のイラク近辺メソポタミアの肥沃三日月地帯で生まれたとされる。しかしメソポタミア人はこの画期的なテクノロジーを生み出したにも関わらず、その農業のための行き過ぎた灌漑によって自然を破壊し、現在に至るまで作物一つ作れない荒野を生み出してしまった。
現在の私達の豊かな文明はこのメソポタミア人が負った莫大なリスクの上に成り立っている。
私達は常に現在を特別な物として考える。そのために現在が時代の分岐点であり、現在は過去に例を見ない最大な危機が迫っていると思いがちだ。しかし歴史を見ると人類の歴史は常に危機との戦いであり、現在が特別だという訳では無い。私達は数十年どころか何千年にわたり荒野を生み出す自然破壊をすでに犯しておりその上で繁栄を築いた。繁栄は常に犠牲と引き換えにある。
私達の選択のうち何が正しいかは、今の私達が死んで何年も経ってからようやく歴史が示す。原子力も今まで何度も繰り返し私たちに与えられたリスクとチャンスの一つに過ぎない。私達日本人が、短期的な恐怖心に駆られる事なく、長期的視野に立ち子孫のためにテクノロジーとつき合って行く事を願う。
ただ、西洋文明が、文明開闢以来、文明の中心地の移動を繰り返した来たのに比して、
(メソポタミア・エジプト→ペルシャ→ギリシャ→マケドニア→ローマ→フランス→イギリス→アメリカ)
中華文明は、開闢以来、文明の中心地が基本的に変わっていないという、底力は侮れん。
西洋文明が、ほとんどの中心地の移動に先立ち、壊滅に近い破局を経験している一方で、
個人主義重視に転換することで発展していったわけだが、
中華文明は、なんだかんだ言いながらも、末端の個人はずっとコントロールし続けてきた。
ジョージ・オーウェルが「1984年」で予見した社会が、まさに具現化されているのは恐ろしい。
西洋文明による大航海時代が始まる前は、中華文明が世界の最先端を走っていた歴史的事実は否定できない。
大航海時代到来というきっかけを持って、中華文明は遅れを取ったわけだが、
近い将来にでも、この序列が再度逆転してしまうとしたら恐ろしい。
破局を経験せず、個人をコントロールし続けてきた文明が世界を制覇する日が来るのか。
想像すると暗澹たる気持ちになる。
先夜、晩酌が過ぎたのか茶の間でうたた寝し、つけっ放しにしたテレビの吹き替えの声で目を覚ましました。ぐずぐずと瞼を閉じたままでいると、耳にヘンリエッタだの、アンジェリカだのと呼ばれる少女たちの会話がとびこんでくる。スパイ物だろうか?それともテロリスト物だろうか?
いずれにしても武器を使った先頭場面が登場するヨーロッパ映画に相違なく、さて、どんな女優たちが出ているのか、と目を開けてぎょっとした。画面に映っていたのはアニメ。しかも少女たちは目が大きな、いわゆる”萌え系”のキャラクターだったからである。
これって、何なのだ?本腰を入れて見る間もなく番組が終了したため、ネットでこのアニメについて検索して、さらに驚いた。アニメに登場する少女たちは全員サイボーグという設定。時代背景は偽史が絡んだ現代イタリア。某公益法人が、事故で瀕死の重傷を負うなどした少女たちを集め、人体改造と洗脳を行い、反政府組織に対する非合法活動に就かせるというのが物語りのあらましだった。
少女たちは家族との別離と身体の劣化を、運命として甘受せねばならない。また、彼女たちには男性の担当官がついて、男女間にはフロイト風に「転移」した感情の縺れが出来上がってもいるらしい。オタク世代のアニメ文化もここまで複雑で高水準になったか。
実は私はかねがね、オタクや腐女子と呼ばれるアニメやゲーム漬けの若者が増殖することに、かすかな懸念を抱いてきた。このままオタクが増え続ければ、しまいには大事な決断や、国家的な戦略策定の場面で、私たち日本人は道を誤るのではないか、と。
たかだかアニメやゲームで何を大げさな、と考える向きもあるかも知れない。だが、オタクたちの「萌え」志向や世界観が世の中で支配的になれば、私たちはますます内向し、衰弱して、リアリズムが貫徹する他国の人々に軽んじられるのではないか?いや、冗談ではなく、私はそう考えるのだが、ただ、これにはちょっと説明が必要かも知れない。
文芸について考えれば、私たちは小説や批評を読むことによって、暗々裏に人生の悲哀や生活の真実を知り、また生きてゆくための規範や行動の基準のようなものを学ぶ。ときどき人生の切所で小説の一節が脳裏に浮かんだり、敬愛する文学者の誰それが立ち向かったと同じように、人生に立ち向かおうとしたりするのはこれである。
しかし、こうした功徳は文学のみならず、ある日くちずさんだ流行歌の一節だったり、映画や芝居の登場人物の台詞だったり、さらにいえばマンガやアニメの一シーンであっても同じだろう。
例えば、つらい毎日に挫けそうになったとき、「立て、立つんだジョー!」と『あしたのジョー』の段平オヤジの督励が聞こえてくる、などと言えば人は笑うだろうか。鈴木清順監督の『けんかえれじい』には「可愛そうってことは惚れたってことよ」という漱石から転用された台詞が登場するが、そうした台詞で自分自身の恋愛や結婚の行方を納得する男女だって多数いることを私は知っている。また周囲に振り回されたあげく、鶴田浩二をまねて「右を向いても左を見ても、人生まっ暗闇じゃござんせんか」と呟く人がいるが、私が言いたいのは要するにそういうことだ。
ここにあるのは自らに何らかの役割を振り、その役割によってようやく自分たり得る私たちの姿である。よく「とり換えのきかない自分」などと言うが、胸に手を当てて思いいたせば、私たちは常に何らかの役割(人格)を自らに振ってその場その場を生きている。自分とはその意味で他人なのだ。
まことに「人間この劇的なるもの(福田恆存)」で立場が人を作るというが、家では頑固オヤジであっても、会社に行けば部長なら部長としての振る舞いがあり、学校の先生であったならば先生としての行動がある。また老母に対しては、よき息子、娘の役目も勤めねばならない。
こうした前提を認めれば、オタクや腐女子では「萌え」が判断の基準になり、行動の準則になることは明瞭だろう。しかも彼らはどっぷり浸かったゲームやアニメの世界を生きて、いま、ここにある現実を生きようとしないように見える。そしてその結果、例えば外国人との交渉で、会社や国の命運をかけて決断せねばならぬときに、ついついリセットできるゲーム感覚で、鼻面を引き回されることだってまま起こり得る。
とはいえ、うたた寝から覚めて見たアニメに驚かされたように、オタク世代もリアルの構造が私たちと違い、異なる感受性によって動く頭を持っているだけ。実はむしろ今のリアリティーに適応した世代なのかもしれない。年寄りが若者たちに文句を言うのは、古代メソポタミア文書以来、普遍的な話らしいから、私の懸念は愚かな繰り言なのだろう。
とここまで書いてふと思い出した。百年に一度と喧伝される経済危機の中、財政出動を決意した政府が、世界に冠たる日本のアニメ文化を発信するためアニメの箱物を作るという。ふむふむ。要するにすでに私などが思うよりも、ずっと世の中は進んでいたのだろう。切所ですでに「萌え」は老人により先取りされているらしいのだ。これがうたた寝から目覚めた私の短絡や懸念と重ならぬことを祈りばかりだ。
あんまり気にしなくて大丈夫。
(韓)>でも敬虔なクリスチャンには、「イスラーム(?)が汚れの象徴の豚をキリストの聖女(主人公はジャンヌの生まれ変わり)に食わせようとしている」と映る。
手元にある「豚料理大全」にはフレンチの技法もイッパイ、なぜだろうねw
フランス人はレビ記や申命記の戒律(コシェルってヤツね)を嫌い、
以下、聖書はJSS版からの引用。新共同訳は探すのが面倒でね、すまん。
(旧約聖書)>
Gen 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
Gen 1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
(韓)>ほかにもサブタイトルにいくつか性やら麻薬を連想させるものがあってアウト。
いやいや、そもそも聖書の記述が「性的恥辱を感じました」そのものだから。
(旧約聖書)>
Gen 3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
Gen 3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
(韓)>イブ=ジャンヌ=まろん(主人公)という設定も完全にレッドゾーンらしい。
(韓)>仏教の考えである輪廻転生がなぜか使われていたりする。
(韓)>「これはクリスチャンぶち切れるよ」とのこと。
まあ確かに魂の継承や輪廻という概念はキリスト教からみれば「異端」だけど
(少なくともプロテスタント、カトリック、ロシア正教、ギリシャ正教はそうだろう)、
reincarnation や karma という言葉が一般的なくらいに神秘思想も知られているよ?
そもそも輪廻は仏教思想じゃなく、元はヴェーダから来たヒンドゥー思想。
(韓)>たぶんイブは誘惑に負けてリンゴを食べた者なのに…。ってことかな?
イブが食したのが「リンゴ」であるという記述は聖書のどこにも書いてないw
確かにヨーロッパで「知恵の樹の実」は伝統的にリンゴだとされているけど、
創世記の最初の舞台メソポタミア周辺の気候はリンゴ栽培にあんまり向いてないんだもの。
(旧約聖書JSS)>
Gen 3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
Gen 3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
Gen 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
Gen 3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
Gen 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
蛇の言ったことの方が事実だったんだから。
神が自分を「われわれ」と呼んでいることにも注目!
これは多神教時代の名残の消しそこないで、「唯一神」の自己否定(w)が旧約聖書に載っている。
神の呼称のひとつ「エル」に複数形「エロヒム」が存在する理由でもあるw
(旧約聖書JSS)>
Gen 3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
Gen 3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
Gen 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
(韓)>ほかにも、(まあこれはこじつけ見たいにも思えるんだけど。)ロザリオの形がハーケンクロイツに見えるコマがあったり、
うん、こじつけ。
スワスティカは「調和」「秩序」のシンボルとして十字架よりはるかに長い歴史を持つ。
キリスト教自身でスワスティカを変形十字架として使ってた例がある(コレ重要w)。
ここ数十年の反ナチという刷り込み、思想制御、言論統制の方が私には恐いね。
(韓)>それと韓国人が「子供の頃フランス人の女の子にジャンヌダルクってあだ名を付けてからかったら、
(韓)>その女の子の父親がマジ切れして殺されかけた」ってゆってた。
日本人が韓国に行って、韓国人に「ヒデヨシ」と呼ばれ続けたら俺も怒るw
これはジャンヌうんぬんが問題なわけじゃないぞ。
歴史的には身体尺、つまり体の一部を使うとかが多いらしい。長さの単位が決まってなくても大きさは表したいから「指3つ分」とか「30歩」とか「歩いて2日」とかになるのは必然だろうね。
以下、主要な長さの定義や起源をwikipediaから抜粋。メートル策定時の「半周期が1秒になる振り子の紐の長さ」がいい感じ。
現在は1/299,792,458秒に光が真空中を伝わる距離。
1960年の第11回国際度量衡総会において、「クリプトン86原子の準位2p10と5d5の間の遷移に対応する光の真空中における波長の1,650,763.73倍に等しい長さ」という新しい定義が採択された。
1983年の第17回国際度量衡総会において、光速度を基準とする現在の定義が採用された。
以下の3つの案が検討され第1案が採択された。
これらはほぼ同じ長さであるが、その元となったのは、ヨーロッパ各地で使われていた、キュビットの2倍のダブルキュビットに由来する単位であった。
肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺である。
紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。
紀元前2750年ごろ古代エジプトのサッカラで、キュビットであると考えられる長さの標準(523.5〜524mm)が用いられていたことがはっきりしている。
0.9144メートル。
キュビットの2倍のダブルキュビットが元になっているものと考えられる。しかし、ヤードの起源とされる説は多数ある。
1/3ヤード。
足(かかとから指先)の大きさに由来する身体尺であるとされている。
1/12フィート。
これとは別に、イングランド王エドワード2世が、大麦の穂の中央から取った3粒を縦に並べた長さを1インチとしたというような説もある。
1,760ヤード。
マイル(mile)という単語は、ラテン語のmille(千)に由来する。古代ローマには、2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)分の長さに相当する"passus"という単位があった。これの1,000倍の"mille passus"がマイルの由来とされている。
3マイル
元々は、人や馬が1時間に歩くことができる距離として定義されていた。
元々の定義は、「地球の大円上における1分(角度)の長さ」であった。
現在は、国際海里(正確に1852メートル)が世界中で使われている。
10/33メートル。
元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。
後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。
大工が使用していた尺は長い間たってもほとんど変化しなかった。これが曲尺である。1歩(単位)の半分を曲尺の1尺とした。
歩幅2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)を「1歩」とする身体尺であった。
後に尺と関連づけられて、8尺または6尺の長さとされるようになった。
1/10尺。
当初の寸は親指の幅を指す身体尺であったと考えられている。
周代に尺の10分の1とされるようになった。
漢代には黍一粒の幅を1分と定め、10分を1寸とした。
6尺。
中国において一般的な建物の柱と柱の間隔を指す長さの単位として生まれたものである。
60間。
丁とも書く。
条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていた。
太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となる。
後に6尺を1間とする60間となった。
里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。6町四方の面積を表していた里が、後に6町を表す長さの単位となった。
日本にもこの ころに里が伝えられ、律令制では5町をもって1里としていた。
律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町から6町の間であった。
ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになる。
「最近の若者は……」っていう言葉は古代エジプトの壁かどこかにも書いてあったんだそうだ。メソポタミアだっけ? 忘れたけど。まあそれはともかく。
すごく大事な感覚だと思う。だって、誰もこう思わなくなったら、世界はものすごい勢いで変化しちゃうよ、多分。あ、それはそれでおもしろいかな。でも俺は嫌だな。ついていくのが大変そう。それなりに落ち着いててほしい。
似たような話で、言葉の間違いを指摘された人が「言葉は変わるんだよ。そんなに『正しい言葉』が良いなら古文で喋れよ」と開き直るのをよく見かけるけど、よくないなと思う。確かに言葉は変わるし、変わらざるを得ないところもあるけど、できればあんまり変わらないほうが良いじゃん、やっぱ。
もう変わっちゃったものは仕方ないから、昔の言葉で喋るのもどうかと思うし。今からそんなことをしたら、それはそれで言葉を変えることになるし。
さて、最近の俺は「最近の俺はけしからん」と思うわけです。ジュディマリにはまってるあたりが。どうしてジュディマリがけしからんのかというと、昔の俺がジュディマリはけしからんと思ったからです。
書くのがめんどくさくなってきたから誰か続き頼む。