すまんね例えがわるかったか
ある行き着けのサイトで知り合ったのだが
よくみるとそこには精力的に書き込みをしている
知ってはいたがね
ただこういう八方美人で自分の意のままに扱う女が嫌いになってきたんで
(好きは嫌いの裏返し)
ぎゃふんと言わせたいんだけどね
頓珍漢なことを言っても馬鹿にされたくない、ってそりゃ無理な相談だ。
そして「僕って頓珍漢なこと言ってない?どう?」ってわざわざ確認するような奴は頓珍漢決定。
人間管理に特化したというか、非技術部門への窓口として機能し、かつ他人の力を良い意味で利用するのが上手い人がそういう流れにはまる事がある
周りが理解した上できちんと人を配置出来れば優れた組織が構築出来るけど、大抵そうはならず、そいつ一人に任せっきりになって、最終的に組織から浮いてしまう、悲しい出来事が起きる
という論調が嫌い。何故なら自分も不倫経験が有るから。正しい順番を経なかったのは、自分の過ちだ。決して奢ってはならない。他人の不倫は他人の不倫。そう思いたいがどうしても既婚者とのいざこざを見てると昔を思い出す。若かった頃の自分はそれ程魅力的だったろうか。現在もメッセージを送って来る相手は、自分を魅力的と感じているのだろうか。
簡単にいうと
浮気されている。
本人は浮気していることを私に気づかれていないと思って行動してる。
だがこちらはすべて把握してる。
これに対してどう対応するのがいいだろうか?
無くなってほしい仕事「犬殺し」
こんな悲劇の上に狂犬病清浄国としての現在があるのを忘れてはならない。
狂犬病予防接種は人間のためだという。確かにその通りだが、再び狂犬病が発生してしまえば、安全が確認できない犬の大量虐殺が始まるだろう。
そして、殺害に関わるのはワクチンの集団接種は獣医師会の利権だと陰口を叩かれている獣医師である事を忘れないようにしたい。
元サイトhttp://members.jcom.home.ne.jp/mu-arai/inukorosi-2.htm
元のサイトはプロバイダのサービス終了により無くなってしまった。魚拓は取っておいたのだが、サイト消滅と共に魚拓も無くなってしまった。
私は今の日本が嫌いだ。リーマンショック以前はアメリカよりも大嫌いだった。しかしそれでも世界3番目の大国。この国がしっかりしなければ、先進国の足並みをそろえて衰退への道に歯止めを掛けることはできない。そこで、私なりの「日本再生プラン」を考えてみた。
まず必要なことは資本至上主義発想の解体だ。良く言われているように、今の日本の諸問題は資本主義の暴走にあって、それに歯止めをかけるものがない。これは良く言えば一時期のアメリカに匹敵する経済構造を支えていた。
しかし今の日本では、資本主義が国家の味方というわけではない。むしろ弊害が増えていて、公務員でも資本主義を嫌悪する人も多い。そんな彼らからすれば「資本主義カースト上位」もモンスター思想家と同じくらい嫌悪すべき存在で、結果的に資本主義を活かしたプランが嫌われる傾向がある。
かつて大きな資本主義が必要だったのは日本の社会そのものが未熟だったからでもあるが、今の日本社会は成熟している。要するに社会主義的な考え方が導入・実践されており、たとえば高度な社会保障が持続化できるようになっている。
欧米各国で広まっている社会主義運動の流れを艦みて、日本はこの際、もう資本主義の拡張を諦めるべきではないか。勇気ある行動で示してほしい。資本主義社会も社畜思想もどうみても同じ側の存在であることは明白だ。旧来型の資本主義思想ときっぱり決別し、社会主義との共生への道を示すことを鮮明にすれば、国民は「日本は変わったな」と評価するはずだ。
日本国民はまとまりがなく「烏合の衆」とされていた。もともとが学生運動崩壊後にノンポリがごった煮になった国民なので、内心極左だった人もいれば極右もいる。その節操なさが日本国民の強みとも言われていたこともある。
ところが実際には、平成のポスト好景気になった時に、これがネックになった。景気回復問題、そして国民の荒れなど、是非が左右できっぱり分かれるテーマに直面した時に、はっきりと決断できなかった。妥協すれば国民は失望するし、一方をとればもう一方を失う。派閥抗争も激化した。
日本は当初、第二次世界大戦敗戦の際にアメリカなどの西側諸国と同盟を組んでいたが、韓国が反発し、戦前問題ではアメリカ人も躊躇するような過激思想が台頭し、2000年代の対中接近路線で一気に友好関係が破綻した。そうしたら、西側諸国との協調関係は崩壊したのである。
なので日本国民が烏合の衆である必要性はない。現状では、なんだかんだで一致団結すべき困難が続いているので、ネトウヨや新自由主義エリートたちが敵ということがわかりきっているのなら、日本国民がすべきは内部にある彼らを忖度することではなく、むしろ追放することではないか。
村田蓮舫がかつて述べた「私は多様性の象徴」という言葉にあるように。多様性こそが今の日本社会に必要なことなのである。日本社会の敵が右翼カラーの全体主義に陥る中、日本国民が示すべきは寛容な多様性主義である。そのために、まず右派なんか追い出したほうがいい。
日本社会のもとに集まるべきは、新自由主義エリートでも右派思想でもない人であり、インテリであり、社会主義になびく人ではないか。烏合の衆を脱し、多様性の国民に生まれ変わることも、日本の再起のために必要なことである。在特会みたいな小物右派をさっさと追放しろ。
かつて日本は藩閥社会(江戸時代のエリートの末裔)、帝国主義(天皇制シンパ)という大きな権威を抱える国家で彼らの末裔が総理大臣になったりした。現在も「日本2677年の歴史」であることから現状も帝国主義であると思い込んでいる人が多いが、それは間違いだと思う。日本の現状はどちらかといえばポスト帝国主義国家、つまりそれをブランドにしているに過ぎないのだ。
実際、本当の安倍政権の最大の支持者である藩閥主義者、帝国主義者は東京への搾取で裏切られ、選挙で左翼系が彼らを乗っ取る光景ももう当たり前だ。地方創生や天皇制問題を見ても、美しい伝統を民意を圧殺してぶち壊しているようにしか見えない。形は残っても中身は残っていない。
藩閥主義者や帝国主義者は安倍政権を支持しないが、高齢者なら左翼、若者は極左で大衆なら中道となると、残るは中道でも左翼でもない「右翼」というポジションである。経済面では、エコカーやコンパクトカーや安い車を作っても日本人の車離れは改善せず、公共交通の混雑は市場競争の弊害でむしろ激化するが、政治はちっとも進歩しないのだ。
そこで日本社会がすべきことは、安倍政権が見限った藩閥主義者、帝国主義者の受け皿になりつつ、歴代政権が放置し続けている諸問題(たとえば都市問題や経済問題など)に取り組むことである。ついでに共和制移行も検討してしまえばいい。なぜこれができないのか、不思議でならないよ。
今の持つ層と昔の持つ層と持たない層できっぱり考えが割れる傾向はアメリカを筆頭に共和制の先進国では当たり前になっているが、日本の場合はアメリカのような進んだ政治もなければ果てしなく富裕層を排出するような最高クラスの経済もない。「量産型化」したロボット国民の存在があまりに多いので、現役勝ち組と元勝ち組と負け組で割れない。
これら私の掲げる方向転換を日本国民が実施してくれる可能性はたぶんないだろう。だが、それくらい思い切った変化がなければいけない。あれほど圧倒的な勢いで経済成長できた日本が、わずか四半世紀で好景気終了後に凋落がとまらないのは、国家が現状維持以外の何もできずにいることに国民が失望しているからだ。
超無益。
コップに水を入れて捨てるを業務時間中に永遠と繰り返すくらい無益。
なんでこういうことが起こり得るのか?
企業の古い体質が非合理性を生み出しているだけか、本人の政治力が高いか。
いずれにせよ、こういう会社にレベルの高いエンジニアは存在しないと言っても過言ではないだろう。
SIerでこういうことが起きるなら理解できる。SIer終わってんじゃん。でもWebサービス企業でこういうことやってる会社とか、もう残念極まりない。
重要な技術的意思決定の場で、部下の言葉を役員会議でそのままカンペ丸読みみたいな伝書鳩人間に高い金払って雇い続けるなら、こいつらを切ってレベルの高いエンジニアを雇ってくれって切に思う。
https://anond.hatelabo.jp/20170817103305
例えばブコメによくスターもらう人の中で自分こそはオタクの代表だなんて感じで、一般的な意見みたいに言う人もいるけど
インターネットとかサブカルの発達でオタクの定義は広がりすぎた
もはやオタクの一括りではオタクはどうのこうのって語るのは、ほぼ不可能だと思う
星野源が嫌いな人間もおそらくオタク界隈からパーセンテージで割り出したら少数派かもしれんが、無視できない人数いる可能性は大いにありえる
しかし、現状オタクは星野源を受け入れたみたいな雰囲気がTwitterやら主要なSNSで醸成されてしまってオタクとして星野源がキライだと、言えなくなっているのかも
なんか噂になってるAV女優に関しては、よく知らないのでノータッチとするが
それともある一定のラインの差別までは許して、できるだけ差別しないようにしようねってことなの?
※追記
これは他人と自分のズレを感じたことなんだけど、自らが存在することを前提に考えてる人が多いんだなと思った
自分は「認知できない被差別者」を想定する限り差別と区別は分断できないと考えてるんだけど、そうすると現行制度がどこかで被差別者を孕んでいる可能性があるように、自己規定・アイデンティティのような「存在」もまた差別であると考えなければならない。だから差別しない人間は発狂すると書いた
多かった意見として、「差別のない状態が理想だから、そうならないように努める」的なものがあったけど、それは「存在」という差別の容認ではないのか。自分が認知できる差別だけを許さないのならそれでいいかもしれない。でも認知の外を見るには「区別」をしてはいけない。反差別の人に発狂する覚悟はあるのか
「存在」を容認する人間に差別者を責める資格があるのだろうか。認知されない被差別者に興味はないということなのかな
※追記2
みんなのおかげで自分がどんな心理でこれを書いたかちょっと分かった
人間はポリス的動物って言葉を思い出した。そもそも、差別って言葉はポリス的動物の言葉なんだろう。自分はどこにいっても人間は人間だと「区別」していたけど、そうじゃなかった。社会から外れた人間は「人間」としての形を失うんだ。だからみんな必死になるんだな