はてなキーワード: 自動人形とは
フロムの『自由からの逃走』では重荷としての自由からの逃避のメカニズムとして、「権威主義」「破壊性」「機械的画一性」の3つが説明されている。が、この「機械的画一性」という訳は原文とはニュアンスがだいぶ異なる。誤訳と言ってしまってもいい。
原文だと “Automaton Conformity” である。
“automaton” の方は、節中の「自動機械」「自動人形」と訳されているものと同じである。“automaton” という単語は、「自動機械」から転じて、「自分の頭で考えずに、機械的に行動する人」という意味でも使われ、この本ではまさにこのニュアンスで用いられている。
“conformity” の方は、con- form であるから、単語自体の中心的な意味としては「形を同じくする」ということである。この節では、真の自分の思考や感情や意思を持たずに、他者のそれら、あるいは他者からの期待に順応・適合してしまうことを指している。この節の本文中で “conform” という単語は何回か出てくるが、そこでは「歩調を合わせる」「順応する」と適切に訳されている。
つまり、”automation conformity” という言葉は、「自動人形のように、自分の考えを持たずに他者の考えに順応・適合するさま」を表している。端的に言うなら「自動人形的順応性」といったところだ。
一つは「画一性」と言ってしまうと、こうしたプロセスではなく、その結果を表してしまうことである。ここでは逃避のメカニズム = 逃避がどのような形で行われるかの話をしているのであるから、プロセスないしはベクトルとしての「順応」の方が正しい。
もう一つは「画一性」と言うと、皆が同じような思考・感情・意思を持つ様子を想起させることである。”automation conformity” は、集団の様子を指しているのではなく、あくまで個人におけるプロセスのことを指している。また、順応する対象も人によってバラバラであり、結果としても必ずしも集団が画一的になるわけではない。
ホームレス死ね発言でメンタリストDAIGOって奴が絶賛炎上中だが、意識高い系不労所得民なんて生き方してる奴のテンプレみたいなもんだ。
10年前にその一歩先のホームレス殺人を唱導して名を馳せたAutomatons Hacking Guideというはてな日記があった。
ブロガーは「華殉」というビジュアル系っぽい名前を付けた自称東大卒国内一流会社勤務で大学院に通う20代後半という設定の男性。平成初期のトレンディドラマの設定みたいな生活をする人がこの世には居るんだね。
「Automatons Hacking」のAutomatonはオートマタとも言い自動人形のこと。原爆とコンピュータの父、ノイマンが提唱したセル・オートマトンという概念があり、これはそのままライフゲームのアルゴリズムなのだが、フランス現代思想が流行するとこれら情報科学の概念を借用してこねくり回す議論が流行した。
その過程で個人を特定アルゴリズムを持って社会的活動をする自動人形と扱う社会学的手法などが出来た。この辺まではAIの自動学習のベースでもある。
するとこれが人文系に逆輸入されて罵倒や見下しに使われるようになる。自分で考え経験してアップデートし続ける人生を送る人間じゃなくて、与えられたアルゴリズムに社会的入力(引数付き関数)を与えると安定した反応を出す人形として扱う。それは群衆のアナロジーでもある。群衆に属さず上から俯瞰する観察者が自分だ。だから「俺は他の大衆とは違う」と思いたい意識高い系の若者はこのソーカルにコケにされたポモの概念無断借用的な考えに靡きやすい。
ビジュアル系みたいな名前でトレンディドラマみたいな生活を送る華殉は人文家ポモの薫陶を受けている事が判るね。
ハッキングはコンピュータハッキングの事だからこのオートマタに普段の処理とは違う入力を直接与えて愉快犯的に恐慌状態にしたり自分の思うままに操縦する事を表す。
おや?メンタリストっていうのに似ているね。やってる事も知的スノッブの基礎もフォロワーを釣ったり釣られたりする部分も。
オートマタハッカーを名乗る華殉だったがかなり誠実な性格だった。自意識に。
実存の強さ、自意識の高さ故に「群衆の俯瞰者」に惹かれるのであるから自意識に誠実なのはありがちだ。
例えば
・批判されてメタから見ている姿勢は崩さないが相当数のレスをする。
・「安全地帯から言うだけで実際には殺せないだろう」と挑発され熱くなり「自分は実際ホームレスを殺す」と言ってしまう。
・ブログ副題に「〇〇劇場」と書いていたのだが、ホームレス殺人エントリなどで風呂無駄氏にはっきりと拒絶を受け、直後に外してしまう。
・Twitterで「痛い」ツイートをした直後に「ちんこまんこちんこまんこ」というツイートを十数回して流す。
そういえばメンタリスト君も動画の炎上コメントを数百個削除しているようだ。コメントが数百になると閲覧も大変なのに熱心だよね。
華殉はそもそも最初はgoogleの開発がどうとかアップルの製品哲学がどうとか、ニーチェの超人がどうとか、今では意識高い系のテンプレみたいな事ばかり書いていた。でもPVが伸びなかった。そこに「ホームレスの人権なんて行使される事も無い状態だろ」佐川ニキ「ホームレスに人権無いとかいい年してバカじゃねーの」という誤解みたいな論争があり、そこにホームレス殺人エントリで割り込みPVを浚ったのであった。
こんな華殉だったが最後はギーグ精神論的なものにシフトしてフェードアウトしていった。ホームレス殺人や偽善批判などの挑発的エントリから手を引いた理由は増田が見たところ以下による
善への挑発をしたらはてなのリベラルが直情的にひどいと吹き上がる反応をする事を期待していたがネットには宮勤め以外の人間も居り特に不良の経験を持つ人間は喧嘩慣れしている。更にポモ以前の思想の素養がある人間は同系の人間の実存をむき出しにして効果的に怒らせ誘導する術を持つ。これらによって「劇場」が状況劇場になってしまい、実存を開陳しすぎ、刺さり過ぎた。思想系の人間が実存の剥き方を知っているのは自分がその動機(実存のカバー)で思想なんてものに惹かれているから。
・自分への賛同者に底辺のテンプレネトウヨみたいなのが多かった。
ニーチェ援用したりしてるのにルサンチマンで歪んで挑発されると安定した出力する連中に擦り寄られたら立場が無い。というかなまじっか思想なんてやってるので羞恥心で「あ゛あ゛あ゛ー」となる。同意されて懸命に距離を取りたがる姿は侘び寂びが漂っていた。でもこれは華殉も悪くて過去エントリやTwitterではテンプレ的なデマや「自分の税金が外国人の生活保護に吸われて」みたいなテンプレを良く書いていた。そもそもそれってニーチェのルサンチマンそのものじゃね?
子供の主体にとって世界は暴力であり規範を強制してくる装置だ。特に「若者」になり大学や院に進むと知で征服した自分の世界と隷従を求められる外の世界の格差は大きくなる。オートマトンハッキングとメンタリストの行動が似ているのは共にこの需要を相手にするものだからだ。
支配されるということは甘美なことで、大抵の人はそのことを悪徳(vice)であると思い込んでいるみたいだけど、実際のところ何かに支配されることによって安穏と振る舞っている人間は多い。
人が誰かからの支配を望む理由は色々あるのだけれど、煎じ詰めると一つの理由に収束することになる。要は、自分で自分を支配できないから、誰かに支配して貰いたいのである。人は多くの場合自分自身を支配することができない。自分の行動原理を把握できず、その行動原理から生まれるところの行動を把握できず、コントロールすることができない。人は自動人形のようにふらふらと手足と口を動かして、声帯を震わせて寝て起きて飯を食って排泄することを繰り返している。繰り返し、繰り返し、繰り返し。
自分を支配するということは極めて難しい。まず、自己支配を目指すためには、自己を支配するところの原理を把握し、その原理の根っこを掴むところから始めなければならない。つまり、自分の行動原理の根底を自ら認め、把握し、その支配権を無意識ではなく有意識へと移し替える必要があるのである。
無論心臓の鼓動とかの不随意運動を支配することはできないとしても、自分がどういう原理によって行動しているのか、何を求めているのか、そういう事柄を理解し、その認識の背後に回り、メタな視点から認識や行動をある程度コントロールすることは決して人智を超えた行為などではない。単に、幾らか理性的な行為の範疇に過ぎない。それでも、多くの人々にとってその行為は極めて困難であると言わざるを得ないのが現状である。
例えば、誰かが誰かを悪者にしているとする。ここに悪い人がいます、と誰かが言っているとする。
そのような際に、人々の取れる行動は大きく分ければ三つである。つまり、肯定すること、否定すること、無視することの三つである。
「確かにこいつは悪人ですね」という態度を取るか、「いやいやこの人は悪人ではないでしょう」という態度を取るか、「知らんし」という態度を取るかの三つの内のどれかを選ぶのが、多くの人間である。で、最近はこの中で肯定の立場を安易に選び取る人間が多いように思う。まあ、実際この世の中には救いようのない悪人がいるし、仮にそういう人間が居たとして、その悪事が明るみなった時に、多くの糾弾を向けることはそこまで間違ったことではないのだけれど。
ただ、やはり人が自分の行動原理を把握しておくことは必要なのだと思う。つまり、この場合には、「何故自分は『悪人がいるよ!』という意見に対して肯定の立場を取ったのだろう?」という思考をする必要があるということである。「何で自分は悪人の存在を糾弾する側に回ったのだろう?」と考えることが必要なのである。色々と理由はあると思う。「自分は正義を愛するから」「自分は悪をやっつけることで世界を良くしたいから」「単に誰かをやっつけたいから」「暇だから」「刺激を求めているから」「何を喋っていいのか分からないので、とにかく誰かを糾弾するという形式を借りて、何でもいいから自分についての情報を発信したいから」色々な原理が思い浮かぶことと思う。このように色々な原理の候補が浮かんだとすれば、次にその真贋の区別を行う必要もまたある。「自分は正義を愛するから」ウソつけ。「自分は悪をやっつけることで世界を良くしたいから」ウソつけ。「単に誰かをやっつけたいから」あり得る。「暇だから」事実だ。「刺激を求めているから」どうだろう。「何を喋っていいのか分からないので、とにかく誰かを糾弾するという形式を借りて、何でもいいから自分についての情報を発信したいから」あるいはそうなのかもしれない。
と、こんな具合に色々自分の行動の理由を仮定し精査するという行為が、自分の行動を律する前段階として必要になる。でも、はっきり言ってこのような行為は面倒だし、そもそも自分の行動原理を把握し自分の行動を支配するというプロセスに、一体どのような利点が存在するのかと問われると、いかんせん答えに窮する。はっきり言えばそんな利点など無いし、むしろデメリットであれば明確に存在している。つまり思考のリソースが自己反省に割かれることによって、脳の処理能力が総合的に減退するのである。判断に遅れが生じ、瞬間的な即興的な判断能力が後退し、要するにどんくさくなる。しょうもないミスを繰り返したりするようになる。
そんな具合に、人は自分を把握するのが困難である。自分の行動原理を把握することが困難だし、把握することさえ困難なのだから、行動原理をコントロールすることなど尚の事難しい。しかも、仮に行動原理をコントロールできたところで、それは自分にとってメリットのある行為とは言えないかもしれないわけだ。そんなこんなで、人は自分を把握することを諦め、自分をコントロールすることもまた諦める。別に、諦めたところで損があるわけでもないのだ。というか、むしろ明らかに得なのである。
というわけで、人はナチュラルに自分を支配することを諦める。人は、自分を支配せずに、自分を把握せずに、自分を理解せずに、時に何かを貶し、冒涜し、何かを貶める。そして、何かを壊す。自分のやっている行為について反省することはない。自分の行動原理について反省することはない。
それはコストが大きすぎる割にリターンの少ない行為だからである。よって、人は自分をコントロールすることを諦める。
人は自分を支配することができない。だからこそ、誰かが自分を支配することを心の底では望んでいるのだ。水は流れる。人は支配される。そうして今日も地球は回る。幸いなるかな、水は流れる。
支配されるということは甘美なことで、大抵の人はそのことを悪徳(vice)であると思い込んでいるみたいだけど、実際のところ何かに支配されることによって安穏と振る舞っている人間は多い。
人が誰かからの支配を望む理由は色々あるのだけれど、煎じ詰めると一つの理由に収束することになる。要は、自分で自分を支配できないから、誰かに支配して貰いたいのである。人は多くの場合自分自身を支配することができない。自分の行動原理を把握できず、その行動原理から生まれるところの行動を把握できず、コントロールすることができない。人は自動人形のようにふらふらと手足と口を動かして、声帯を震わせて寝て起きて飯を食って排泄することを繰り返している。繰り返し、繰り返し、繰り返し。
自分を支配するということは極めて難しい。まず、自己支配を目指すためには、自己を支配するところの原理を把握し、その原理の根っこを掴むところから始めなければならない。つまり、自分の行動原理の根底を自ら認め、把握し、その支配権を無意識ではなく有意識へと移し替える必要があるのである。
無論心臓の鼓動とかの不随意運動を支配することはできないとしても、自分がどういう原理によって行動しているのか、何を求めているのか、そういう事柄を理解し、その認識の背後に回り、メタな視点から認識や行動をある程度コントロールすることは決して人智を超えた行為などではない。単に、幾らか理性的な行為の範疇に過ぎない。それでも、多くの人々にとってその行為は極めて困難であると言わざるを得ないのが現状である。
例えば、誰かが誰かを悪者にしているとする。ここに悪い人がいます、と誰かが言っているとする。
そのような際に、人々の取れる行動は大きく分ければ三つである。つまり、肯定すること、否定すること、無視することの三つである。
「確かにこいつは悪人ですね」という態度を取るか、「いやいやこの人は悪人ではないでしょう」という態度を取るか、「知らんし」という態度を取るかの三つの内のどれかを選ぶのが、多くの人間である。で、最近はこの中で肯定の立場を安易に選び取る人間が多いように思う。まあ、実際この世の中には救いようのない悪人がいるし、仮にそういう人間が居たとして、その悪事が明るみなった時に、多くの糾弾を向けることはそこまで間違ったことではないのだけれど。
ただ、やはり人が自分の行動原理を把握しておくことは必要なのだと思う。つまり、この場合には、「何故自分は『悪人がいるよ!』という意見に対して肯定の立場を取ったのだろう?」という思考をする必要があるということである。「何で自分は悪人の存在を糾弾する側に回ったのだろう?」と考えることが必要なのである。色々と理由はあると思う。「自分は正義を愛するから」「自分は悪をやっつけることで世界を良くしたいから」「単に誰かをやっつけたいから」「暇だから」「刺激を求めているから」「何を喋っていいのか分からないので、とにかく誰かを糾弾するという形式を借りて、何でもいいから自分についての情報を発信したいから」色々な原理が思い浮かぶことと思う。このように色々な原理の候補が浮かんだとすれば、次にその真贋の区別を行う必要もまたある。「自分は正義を愛するから」ウソつけ。「自分は悪をやっつけることで世界を良くしたいから」ウソつけ。「単に誰かをやっつけたいから」あり得る。「暇だから」事実だ。「刺激を求めているから」どうだろう。「何を喋っていいのか分からないので、とにかく誰かを糾弾するという形式を借りて、何でもいいから自分についての情報を発信したいから」あるいはそうなのかもしれない。
と、こんな具合に色々自分の行動の理由を仮定し精査するという行為が、自分の行動を律する前段階として必要になる。でも、はっきり言ってこのような行為は面倒だし、そもそも自分の行動原理を把握し自分の行動を支配するというプロセスに、一体どのような利点が存在するのかと問われると、いかんせん答えに窮する。はっきり言えばそんな利点など無いし、むしろデメリットであれば明確に存在している。つまり思考のリソースが自己反省に割かれることによって、脳の処理能力が総合的に減退するのである。判断に遅れが生じ、瞬間的な即興的な判断能力が後退し、要するにどんくさくなる。しょうもないミスを繰り返したりするようになる。
そんな具合に、人は自分を把握するのが困難である。自分の行動原理を把握することが困難だし、把握することさえ困難なのだから、行動原理をコントロールすることなど尚の事難しい。しかも、仮に行動原理をコントロールできたところで、それは自分にとってメリットのある行為とは言えないかもしれないわけだ。そんなこんなで、人は自分を把握することを諦め、自分をコントロールすることもまた諦める。別に、諦めたところで損があるわけでもないのだ。というか、むしろ明らかに得なのである。
というわけで、人はナチュラルに自分を支配することを諦める。人は、自分を支配せずに、自分を把握せずに、自分を理解せずに、時に何かを貶し、冒涜し、何かを貶める。そして、何かを壊す。自分のやっている行為について反省することはない。自分の行動原理について反省することはない。
それはコストが大きすぎる割にリターンの少ない行為だからである。よって、人は自分をコントロールすることを諦める。
人は自分を支配することができない。だからこそ、誰かが自分を支配することを心の底では望んでいるのだ。水は流れる。人は支配される。そうして今日も地球は回る。幸いなるかな、水は流れる。
ネタバレあり。アトリエシリーズ自体が初プレイ。二周クリア。EDは各キャラ個別EDと女子会EDは回収。裏ボスたちは挑戦してみたけど、wikiの最強装備を揃えた上でも面白さより苦行感のほうが強かったのでパス。
https://www.youtube.com/watch?v=H2ejHEZ760Q
・何よりもイラストレーター、左氏の絵の良さ。ライザが話題をかっさらう中買った理由はこれ。イラストがそのまま3次元化したようなCGモデルやイベントスチル、設定資料集まで見れてこれだけで満足。
・とはいえグラフィックそのものはあんまりよくない。さすがに2012年のゲームの移植だし、全体的に荒い。ライザのアトリエのプレイ画面見たら綺麗すぎてびっくりした。
・カメラは固定アングルだし、動き回れるフィールドは一つ一つが狭い。もっと自由にこの世界を満喫したかった。
・音楽が最高。サウンドトラックめっちゃ聞いてる。個人的な好みは『涸れ谷に雨を』(フィールド曲)と『秘宝を求めて』(フィールド曲)と『Journey to the New World』(アーシャのテーマ)と『本の棺と自動人形』(弐番館)と『献花』(スタート画面)と『誘いの花~秋』(マップ終盤)と『Close to the Edge』(ピンチ曲)と...良曲が多すぎる。
・調合システムのパズル感が強くて面白かった。最初はシステムが理解できなくて攻略見ちゃったけど。他シリーズとのシステムの違いは賛否わかれるらしいけど、どうなのかは知らない。
・戦闘は正直あんまり面白くない。戦略とかゲージ管理とか位置関係とかもはや全部関係なくて、装備が強ければ勝てるし弱ければ負けるゲーム。調合がメインで戦闘はオマケという感じ。
・キャラクターもいい。推しはもちろんキースさん。「冷たいように見せかけて実は優しいおじさんなんだな」という風に見せかけて、実は本当にただ困った性格のおっさんって感じなの好きですね。初見はキースEDを迎えた。好感度が全然上がらなくて焦ったけど、特に必要はなかったっぽい。
・キャラクター一人一人の描写やイベントはいいのに、メインキャラクター同士の絡みがまるでないのが残念。レジナとウィルベルとかほぼ確実に同時にPTに入る初期メンバーなのに、二人が会話してるシーンとか多分一度もないんじゃないだろうか。
・キャラ個別エンドで一番条件が難しかったのは意外なことにリンカさん。まさかただのポンコツお姉さんでなかったとは。この作品屈指の闇深キャラの登場にびっくり。
・「世界を救うのはもうやめた」というキャッチコピーは知ってたけど、むしろこの作品では「世界を救うための機構」そのものがラスボス。え、世界を救わないってそういう!?!?
・クリア後も何一つ世界は救われていないけど、一気にゲームの雰囲気が明るくなる。いいなあこの世界。
・「たるー!」がクリア後に聞ける。
・EDでニオも「たーる!」を言ってくれる。これが強烈にかわいい。
・ぶっちゃけ周回は引継ぎ要素を含めても面倒臭い。残りの2エンドの回収は当分後かな...
総じてゲームとしてはイマイチな点が多いけど、雰囲気ゲーとしては優秀だし満足した。黄昏シリーズの残り二作もセットで買ってあるので、これから遊ぶ。楽しみ。
自分を完結させるために、「体外離脱の中で恋愛のプロセスをもう少し積みたい」と思っていた。
自分の人生でやはりどこか恋愛をもう少ししてみたかった、という思いがあった。
未完結な「くすぶり」みたいなものがどこか自分の中に存在しているのだ。
現実世界では立場上自由に活動することは難しくなったが、自由な世界にいって、それを完結させたい、と思った。
最初は夢だった。
まず、いくつか繰り替えし同じような部屋のシーンがあった。
そこで「誕生日だからプレゼント」という声と共に気づくと女性からフェラをされていた。
何となく「よがらなければ」という演技めいた気持ちもありつつ、快楽に身をゆだねていた。
女性器の独特のにおいに誘発されながら、はやる気持ちを抑えながら自分も舐め始めた。
世界が自分をその世界に没頭させようとすればするほど逆に自分の思考も冷静になった。
はっとして思う「同じ部屋のパターンだ!これは夢ではないか!」
気づくと自分の意識が部屋中を駆け巡り、夢の中のまま目覚める。
自動再生であるかのように引き続き物語を展開しようとする夢が、薄っぺらい張りぼてのように見える。
その展開を無視し、ワクワクした気持ちとともに夢の中で夢に気づいた感覚を味わう。
まず何からしようか。。やっぱり跳躍かな。
何かのまとめでみた「まず簡単な跳躍から初めてみるといい」という前知識がよぎった。
三段飛びのように部屋を飛び跳ねてみる。ぴょーんぴょーーんぴょーーーーーん。
うまく行った。飛行できそうだ。
「本当にリアルなのかな」瓦一つ一つを見てみる。
「本当にリアルだ」
そればかりか、屋根にビルによくありそうな、サーキュレーターみたいなものまである。
街を飛行しながら、「このチャンスに、このまま体外離脱をしたい」と思った。
そこで知り合いの声がして「腕などを重く感じて行って抜けるのはどうか」という提案をしてもらう。
右腕を重く感じていこうとすると、じんじん痛いほどに重くなってくる。しかし中々抜ける事が出来ないしその感覚が分からない。
その重さに引きずられるように地上に降りる。そこはどこかのお店みたいなところで、知り合いらしき人が何人かいる。
僕はもうその時点で何かに引っ張られるように、この世界で例えば睡魔に襲われてまさに段々眠くなるがごとく、エネルギーがなくなっていくのが分かった。
このまま引っ張られれば現世に戻る事が分かっていたので、何とかそれに抗おうとする。
時間がないという焦りと共に「このチャンスに体外離脱しなければ」と思い、「みんなで瞑想をしよう」とする。
これまたネットのまとめでみた瞑想法、「体外離脱先で瞑想してさらにそこで体外離脱する」という方法を取ろうとした。
しかし最近しばらく瞑想していないので足が硬く、また着ているいつもの服も瞑想向きではなく、中々組めない。
「しまった」と思ってるうちに睡魔のようなエネルギーの低下が益々起き、もうここには長くとどまっていられない、と思った。
「そうだ。あと自分はこの世界でナンパをやってみたいのだ」そこで瞑想への取り組みを中断し、外にでて試しにナンパをやってみる。
女性を襲ってみる人もいるようでそれが頭をよぎったが、自分の意図ではないということを思い直して、ナンパしてみる。
雑にやったのもあるが、さっと逃げてしまう。
この世界に出てくる人はすべからく、この現実の人々よりも、若干自動人形のようでもあるが、実感はあった。
大通りに出て軽くやってみてそこで終了。
羞恥心や恐怖心はなく、「声掛けをした」という実感や満足感があったので「体外離脱先でナンパや恋愛経験をして実感はあるのか」という疑問に対しての仮説検証はできた。
目を覚ました後はとてもエネルギーに満ちた感じがした。
未読の方に紹介することを前提にしたものなので致命的なネタバレは勿論ですが、魅力的で多彩なキャラの紹介はしません。
ただ、アニメ派の方は些細な説明も今後のネタバレに繋がりかねないので、この文章を読まない方がアニメを楽しめると思います。
また、ちょっとのネタバレにも触れたくない方は読むのを止め、是非からくりサーカスをお読みください。
からくりサーカス。皆々様はご存知でしょうか。
週刊少年サンデーにて1997年〜2006年まで、計9年間連載され、全43巻で完結したお話でございます。
私はというと「ほんのちょっと」聞きかじっていました。
たまに読むサンデーにからくりサーカスが丁度載っていて、途中から読んだものだから話はよくわからない。
ただ、「しろがね」という美しい人形のような女性と、人形たちと、「鳴海」という強い青年、そして「勝」という少年がいることはわかってました。
それくらいの「ほんのちょっと」です。
さて、そんな私が何故からくりサーカスという漫画を読むに至ったのかというと、「アニメ化」がきっかけです。
アニメは10/11(木)の22:30からTOKYO MXなどで放送開始しています。
私の先程の「ほんのちょっと」の情報はアニメで綺麗に繋がりました。
父の莫大な遺産を相続した少年「勝」、彼が助けを求めたサーカスのビラ配りの青年「鳴海」、そして「勝」を助ける使命を帯びた麗しのひと「しろがね」、彼女が繰り出すあやつり人形「あるるかん」、襲いくるは「自動人形(オートマタ)」たち。
物語はそんな彼らの出会いから始まり、様々な出会いと別れを経て、彼らの関係性は始まりから大きく「変わり」、そして終わるべくして終わります。
泣き虫で逃げてばかりだった少年「勝」は、「鳴海」との出会いで諦めずに笑って立ち向かうことを学び、失ったものを心に抱きながら成長し「変わって」いきます。
人を笑わせないと死ぬ奇病「ゾナハ病」にかかった青年「鳴海」は、世界中にいる同じ病気で苦しむ子供たちのため、彼らを守るためにと強くより強く「変わって」いきます。
人形のように表情を変えない女性「しろがね」は、心が揺さぶられる出会いと別れを経て、家族と呼べる仲間を得て、自然に微笑むことができるような人間らしいひとへと「変わって」いきます。
34巻60・61ページの「勝」の言葉を引用するとわかりやすいでしょうか。
「勝」はいいます、「人間」は変わっていける。「自動人形」は変わることができない。ただ繰り返し命じられたことをなぞるだけの機械人形。
「変化」こそが人間に与えられた宝であり、それがある限り人間は立ち止まらず、前へ歩んでゆくのだと。
「変われない」のならば、それは人間であっても人間とはいえない。
「変われた」のならば、それは人間でなくともきっと人間なのではないか。
初登場時はあんなに憎たらしかったアイツも、嫌悪感を抱かせたアイツも、どうしようもないと思わされたアイツも、懲りないと呆れてしまうアイツも、みんな「変わって」いく。
では、何故変われるのか。
強い男の背中を見たから、一目惚れをしたから、守ってくれる優しい腕があったから、叱り飛ばしてくれる母親がいたから、家族のような仲間たちと出会えたから、逃しがたい敵を見つけたから。
運命的であり、偶然のものであり、愛する人であり、憎い相手であり、敵であり、味方であった。
誰しもが誰かと出会い、変わり、前へと進んでいく。
是非、1巻から大きく「変わった」彼ら三人と、その仲間たちの活躍をご覧くださいませ。
私はアニメをきっかけに当時無料開放されていた5巻まで読み、最初は耐えていましたが続きが気になって仕方なくなり、全巻まとめ買いしました。
でも、そうでなくとも構いません。
勿論原作漫画に触れることを推奨したいですが、人の「出会い」は千差万別。漫画を試しに1巻だけ買っても、漫画喫茶で読んでも、友人から借りても、アニメを見るのでもいいでしょう。
無理に漫画を読むものではないし、絶対に触れろとはいいません。こういうものは自分の中で「触れたい」と思う気持ちが大切だからです。
ただ、この私の文章を読んで、少しでも興味が出たのなら、ちょっとくらい触れてみようと思えたのなら、心にとめておいてください。
変わった彼らの今に泣き、成果に泣き、辿り着いたもの、得たものに泣かされました。
私はおかげさまで、とてもとても、愉快で心躍る、胸が張り裂けそうになる素晴らしいサーカスを見ることができました。
ワタミと言えばブラックと言う認識が根付いている昨今、その社長の渡邉美樹氏が自民党の擁立を受けた事も相まって注目されている。
しかし、私の考えるブラックはなんといっても制作会社のADである
何故、業界総ブラックである映像制作の仕事はブラック認定を受けないのだろうか?
というわけで、私が体験した制作ADのブラック体験をつらつらと述べていこうと思う。
なお、全てのADに当てはまるわけではありません。そのうえ、全部フィクションとしてお楽しみ下さい
■就労時間
基本的に不定期で、ディレクター、プロデューサーが必要となる時が就労時間である。逆に居ない時間より居る時間のほうが長いため、定期的であるとも言える
出演者の飲み物の調達からロケに必要な備品の買い出し、機材の貸出のために東京の反対側まで赴き、すぐに戻る。
制作会社のデスクと番組の制作現場が離れている時は、朝一で会社のデスクへ向かい、プロデューサーに無駄な挨拶をしてから番組デスクへ向かう。(省くと顔を出せと呼び出しを受ける)
この移動だけで2時間程度浪費する。山手線沿線に住んでいても、である。その分睡眠時間は確実に削られていく。
映像の編集をするディレクターに付いてお世話するのもADの仕事だ。
編集所という専用の場所に入って、ディレクターが編集マンにあれこれと指示を出すのをそっと見ている。
たまに飲み物を買ってきたり、素材のテープを差し出したり、上にかぶせる別素材を差し出したりする。大体どんだけ短くても3時間程度はつきっきりで見ている。居ないことはほぼありえない。
ちなみに素材はその編集作業の前に用意する。これもデザイナーへ発注するため、手に入れるまでにそれ相応の手順を踏むことになる。
会議にも出席する。無論ほぼ見ているだが欠席はありえない。数時間拘束され、全く口出しの出来ない会議に出席する意味は無い。が、出席する。
もちろん、会議の資料を作るのもADの仕事だ。出演者情報、企画内容はもとより、テーマになるものの詳細をまとめる。ネットでコピペ出来ればいいが、例えば全国ラーメン店の値段、店名、系列、写真、口コミなどをピックアップし、提出するようなものもある。
トーク番組にアイドルを呼ぶ時など、そのゲストの趣味嗜好を噂レベルから収集してリストにしたり、数十巻ある漫画を全話読み、全話のあらすじをエクセルに書き出し、数100枚を提出することもある。
しかしあえて8時間、月20日の基本的な労働条件に当てはめると、時間外勤務は月200時間をゆうに超える。固定給である。
基本的に新人という概念は存在しない。新人ADベテランAD、全てに全て出来る事を求められる。
私がADになりたての時、とある番組の担当になった。そこには先輩ADがいた。私が来るまで1人で番組を担当していた人だった。彼女は私が着任して3日で音信不通になり、彼女が保管していた映像テープ、資料は闇に消えた。(後にデスク周辺をひっくり返して探すことになる)
彼女が消えるまで私は雑用と資料作りに追われていたため、知らないと出来ないこと、例えば編集した映像の最後につけるクレジット素材の手配の仕方や機器のローン先への対応、美術さんとのやりとり等、やり方が分からないではなく、必要だということ自体知らないものを要求される。
事前に確認をとっても、向こうは当然のものだという認識であるため、知らされないのだ。愕然とした。
教育制度などは着任した場所の先輩ADがどう考えるかである。何も教えてくれないことなどざらにある。新人の教育などしていられない環境だということもよく分かる。
それでも着任直後にはADとしてひとまとめになり、すべての要求に答えなければならない。
ちなみに反論などしても無駄である。制作の人間ならともかく、局Pなどは制作ADはお茶運びの自動人形としか思っていない。同じ立場ではない事を肝に銘じておこう。
■金銭条件
手取りはだいたい15万前後であった。時給換算すればどうなるかわかるだろうか。
ちなみに休日はほぼ無い。
更に、仕事上必要な経費は自分の財布から出したあとに領収書を切って精算する形式のため、清算日前には財布はスッカラカンなことも。
ほぼすべて外食のためエンゲル係数も高くなりがち。社食は、辛気臭い場所で安いうどんそばを食べるか、600円でレンチン料理を食べるか、くっそ高いラウンジの場違いなくっそ高いランチを食べるか、牛丼かコンビニである。
■その他
演者さんは基本的に巷で言われるような態度がでかいだの何だのといったことはない。一部例外はある。
スキルは何も身につかない。経歴に傷が付くことは覚悟した方がいい。
あまり言いたくはないが、マジで理解できないほど●●なやつがたくさんいる。なにかとDやPにひっついていないといけないADの立場上、陰口を延々と聞かされる事も日常茶飯事。
口に出せないような●●●●や●●●●行動を目にするのでショックを受けないように。
いかがだっただろうか。
根性が足りないんじゃないの。言われるほどきつくないだろ。頑張れば夢が叶う。自己責任。
いろいろ言いたいことはあるかもしれないが、これからADになろうという人は、これだけは覚えていてほしい。
頑張って夢を叶える場所ではないということ。
代わりはいくらでもいるということ。
ワタミと言えばブラックと言う認識が根付いている昨今、その社長の渡邉美樹氏が自民党の擁立を受けた事も相まって注目されている。
しかし、私の考えるブラックはなんといっても制作会社のADである
何故、業界総ブラックである映像制作の仕事はブラック認定を受けないのだろうか?
というわけで、私が体験した制作ADのブラック体験をつらつらと述べていこうと思う。
なお、全てのADに当てはまるわけではありません。そのうえ、全部フィクションとしてお楽しみ下さい
■就労時間
基本的に不定期で、ディレクター、プロデューサーが必要となる時が就労時間である。逆に居ない時間より居る時間のほうが長いため、定期的であるとも言える
出演者の飲み物の調達からロケに必要な備品の買い出し、機材の貸出のために東京の反対側まで赴き、すぐに戻る。
制作会社のデスクと番組の制作現場が離れている時は、朝一で会社のデスクへ向かい、プロデューサーに無駄な挨拶をしてから番組デスクへ向かう。(省くと顔を出せと呼び出しを受ける)
この移動だけで2時間程度浪費する。山手線沿線に住んでいても、である。その分睡眠時間は確実に削られていく。
映像の編集をするディレクターに付いてお世話するのもADの仕事だ。
編集所という専用の場所に入って、ディレクターが編集マンにあれこれと指示を出すのをそっと見ている。
たまに飲み物を買ってきたり、素材のテープを差し出したり、上にかぶせる別素材を差し出したりする。大体どんだけ短くても3時間程度はつきっきりで見ている。居ないことはほぼありえない。
ちなみに素材はその編集作業の前に用意する。これもデザイナーへ発注するため、手に入れるまでにそれ相応の手順を踏むことになる。
会議にも出席する。無論ほぼ見ているだが欠席はありえない。数時間拘束され、全く口出しの出来ない会議に出席する意味は無い。が、出席する。
もちろん、会議の資料を作るのもADの仕事だ。出演者情報、企画内容はもとより、テーマになるものの詳細をまとめる。ネットでコピペ出来ればいいが、例えば全国ラーメン店の値段、店名、系列、写真、口コミなどをピックアップし、提出するようなものもある。
トーク番組にアイドルを呼ぶ時など、そのゲストの趣味嗜好を噂レベルから収集してリストにしたり、数十巻ある漫画を全話読み、全話のあらすじをエクセルに書き出し、数100枚を提出することもある。
しかしあえて8時間、月20日の基本的な労働条件に当てはめると、時間外勤務は月200時間をゆうに超える。固定給である。
基本的に新人という概念は存在しない。新人ADベテランAD、全てに全て出来る事を求められる。
私がADになりたての時、とある番組の担当になった。そこには先輩ADがいた。私が来るまで1人で番組を担当していた人だった。彼女は私が着任して3日で音信不通になり、彼女が保管していた映像テープ、資料は闇に消えた。(後にデスク周辺をひっくり返して探すことになる)
彼女が消えるまで私は雑用と資料作りに追われていたため、知らないと出来ないこと、例えば編集した映像の最後につけるクレジット素材の手配の仕方や機器のローン先への対応、美術さんとのやりとり等、やり方が分からないではなく、必要だということ自体知らないものを要求される。
事前に確認をとっても、向こうは当然のものだという認識であるため、知らされないのだ。愕然とした。
教育制度などは着任した場所の先輩ADがどう考えるかである。何も教えてくれないことなどざらにある。新人の教育などしていられない環境だということもよく分かる。
それでも着任直後にはADとしてひとまとめになり、すべての要求に答えなければならない。
ちなみに反論などしても無駄である。制作の人間ならともかく、局Pなどは制作ADはお茶運びの自動人形としか思っていない。同じ立場ではない事を肝に銘じておこう。
■金銭条件
手取りはだいたい15万前後であった。時給換算すればどうなるかわかるだろうか。
ちなみに休日はほぼ無い。
更に、仕事上必要な経費は自分の財布から出したあとに領収書を切って精算する形式のため、清算日前には財布はスッカラカンなことも。
ほぼすべて外食のためエンゲル係数も高くなりがち。社食は、辛気臭い場所で安いうどんそばを食べるか、600円でレンチン料理を食べるか、くっそ高いラウンジの場違いなくっそ高いランチを食べるか、牛丼かコンビニである。
■その他
演者さんは基本的に巷で言われるような態度がでかいだの何だのといったことはない。一部例外はある。
スキルは何も身につかない。経歴に傷が付くことは覚悟した方がいい。
あまり言いたくはないが、マジで理解できないほど●●なやつがたくさんいる。なにかとDやPにひっついていないといけないADの立場上、陰口を延々と聞かされる事も日常茶飯事。
口に出せないような●●●●や●●●●行動を目にするのでショックを受けないように。
いかがだっただろうか。
根性が足りないんじゃないの。言われるほどきつくないだろ。頑張れば夢が叶う。自己責任。
いろいろ言いたいことはあるかもしれないが、これからADになろうという人は、これだけは覚えていてほしい。
頑張って夢を叶える場所ではないということ。
代わりはいくらでもいるということ。