はてなキーワード: ボカロpとは
ホロEN一期生として、衝撃的なデビューを果たしたラッパー。キャラは死神。
カリオペがデビューした2020年当時は、今から振り返るとまだVTuberの創世記と言っていいんじゃないかと思います。
実際に服役してた個人勢の「懲役太郎」さんとかエッジの効いたVTuberはいたんですが所詮アングラで、「死神」というキャラ設定でデビューしたホロEN一期生が、デビュー配信でいきなりプロレベル(に聞こえた)のオリジナルラップ曲をリリースした衝撃はものすごく大きかった気がする。
ラップのリリックを含む作詞と、イラストも描ける多才な人。日本語もかなりうまくなった気がする。
ホロEN三期生「Advent」所属。キャラは「音の魔神」。ホロも期を重ねて、世界観がややコアになってきた気がする。
EN三期はデビュー後たったの2ヶ月でJP7期相当(7期ではない)の「ReGLOSS」がデビューしたこともあり、ホロには珍しいデビュー続きとなってしまい、その点でやや不遇感があるかも。
EN三期ともなると色々なホロメンの中でデビューしただけあり、ネリッサは一聴して歌がものすごく上手いと思います。
喋りは英語なのでちょっとしかわかりませんが、歌全振り系のおもしろお姉さんっぽいw
月ノ美兎委員長と同期の、にじさんじ一期生。通称「でろーん」。
関西勢で、破滅的なゲームプレイと裏社会系Vシネマのようなマジで恐ろしい関西弁によるブチギレ芸(ものすごくネイティブ)というエッジの効いたキャラ(人)で、プーさんのホームランダービー実況とか、一期のJK組(月ノ美兎、静凛)と参加した「マイクラ肝試し(特に2020年)」とかが面白いですw
所属レーベルランティスからメジャーデビュー済みで、何曲かアニメOPタイアップしてます。
にじさんじSEEDs(三期生相当)としてデビュー。ファイアードレイクな人。
黒井しばちゃん(シンプルに犬。黒柴)とか、でびでび・でびる様(ちび悪魔)ほどじゃないけど、ドーラ様も相当濃い部類だと思います。
中の人の破天荒さと濃い絵が合致したでび様はともかく、そうでないと結構大変だろうなぁとつい後方腕組をしてしまうw
2019年デビュー組。魔界の番犬ケルベロス。にじさんじは期生という区切りが初期以外は曖昧なのと、とにかくデビューが多いのでこういう紹介文書く時に迷う。
リゼ・ヘルエスタ王女、アンジュ・カトリーナ(呼び捨て)と共に「さんばか」トリオとしてお馴染み。ボケもやるけど多分ツッコミです。
また、町田ちまちゃんとのユニット「Nornis」としてメジャーデビュー済み。(元メンバーの朝日南アカネちゃんはにじさんじのV引退)
ドーラ様と同期の、にじさんじSEEDs出身。男。「サラリーマン」キャラ。
リアルでオタクなSEだったらしく、言動もナチュラルにイメージするそのまま。なので「おっさんオタクの夢を叶えたV」として敬意を払われているシーンが散見されるw
キャラデザがあまりに特徴のないサラリーマン過ぎて、キャラのバリエーションは大事かもだけどそれでいいのかにじさんじ!?と思ったのは今は昔、立派にキャラ立ててるのはすごいと思う。
ホロライブはプロデュース方針としてアイドル的なカワイイ売り方をしており、喋りやネタで盛り上げたにじさんじより魅力が伝わりやすかった?のか、JPメンバーにも英語圏のファンが多数いました。
それで満を持してデビューしたのがENメンバーです。あっという間に登録者数300万人超えてびっくりした記憶がある。(なお現在400万人超え)
燃え尽き症候群というのか、どうも意欲が著しく減退してしまったようで最近は配信が少なくなってしまったのが残念です。
ぐらちゃんは設定的にはアトランティスの末裔であり、サメのしっぽが生えてます。通称サメちゃん。
ホロメン(ホロライブメンバー)はたまにカラオケ配信をしたりするのですが、ENメンバーも例外ではなく、たまに歌配信をします。
ただし英語圏には日本のJASRACのような超大手の著作権管理団体が無いらしく、窓口が散在している故にYouTubeでライブをするのにも許可を取るのが大変だそうで(下手すると事務所とか作曲者直ってレベルらしい)、故にムメイをはじめとしたEN組の歌配信はアーカイブがなく、リアルタイムでしか聞けません。(ライブは問題なくて、動画に残す為の権利がめんどいらしい)
その中でもムメイの生歌はかなり上手い方で、英語曲オンリーですが一聴の価値ありです。(あとおすすめしたいほど上手いのはサメちゃん)
母国語はドイツ語ですが英語、日本語、イタリア語も普通に話せる才女。言語習得が得意?らしく、他のホロメンによるともっと話せるらしい。
VTuberの事務所はにじさんじとホロライブの圧倒的な二強で、他はすべて相当な差で後塵を拝していると思われます。
その中では歌に絞ることで比較的上位にいた?と思われるRe:ACT所属のV。
(現在ではぶいすぽっ!とかのが勢いあると思う)
「歌手志望の子を騙して連れてきたんじゃないか?」(ド失礼)と思ってしまうくらいいい曲歌います。
作詞作曲が出来て歌えるということで、シンガーソングライターに近いと思われます。
地道に数年頑張ってて、たまーに見てる。
最近…でもないけどホロライブの「Blue Journey」という音楽プロジェクトに「あの日の僕らへ」という楽曲を提供した(作詞作曲)。
あの漫画家さんを、皆が口々に繊細な人と表現するのかがわからない。登場人物の心の機微を描くのが上手いから、きっと人の心がわかる優しい人なんだと、漫画を読んでた人が書くのはわかる。
繊細な人だから、の裏側には、
どこか、弱い人だから自ら死を選んだんだ、
弱いから淘汰されて仕方ないんだというような心の面持ちが感じられて苦しくなる。
実際は、いくらなんでも命を捨てる必要は無いじゃないかと思っての言葉なのは理解できる。私もそう思う。
自分の言葉が、自分の手を離れ、止めようもなくおびただしい憎悪の輪が広がっていく怖さは、死を選ぶ理由には値しないんだろうか。
去年、りゅうちぇるが亡くなった。
好きなイラストレーターが亡くなった。
まだ若かった。
ずっと昔に、好きなボカロPが亡くなった。
あまりに若くに才能を認められたからなのか、若き天才の称号に苦しんでたのかわからない、どんな形でもいいから生き続けてほしかった。
死んだのはすべて嘘で別の誰かとして世界の何処かで生き続けてるのかもしれないと想像して更新の止まったTwitterやチャンネルをみる。交差点の花束みたいに、毎年、命日に追悼コメントが書き足されてる。
最近ショート動画で音源を使われているのをみて、この景色を本人に教えられたらいいのにとおもった。
あなたの死を悼む人たちの声を届けて、生き返ってくれたらいいのにと思った。
ネトゲみたいに、現世に復帰してよ。
自分用のメモとして残しておきたかったが、燃えそうな話題なので匿名にする。
ボカロPとして活動をしていく中で、同じように活動している人をツイッターでフォローしてきました。
その結果、「なぜこの人みたいに良い曲が作れないのか」「自分には才能がないのかもしれない」と病みまくりました。
※実際才能がないんじゃないかというツッコミはやめてください。死んでしまいます。
それで色々考えた結果「異なるレート帯と戦うのは無意味で、精神を病むだけ」という結論に至りました。
※私が1000再生いったことがないので解像度が低いのはご了承ください。
要するに、「底辺ボカロPでいるうちは1000再生に届かない低レート帯とだけ競争するべき」ということです。
1000再生行くか行かないかでやっぱり全然レベルが違います。
1000再生すら行かないうちに、5000再生とかされるボカロPに嫉妬していたところで、それは
G3に出ることすら難しいのにG1の馬と競って悔しいとか言ってるようなもので
スプラでずっとC帯なのにS帯に勝てないと悩んでるみたいな
いやそもそも、そことマッチするのがおかしいよねという話です。
もう別次元なので、そういう人を比較対象として見るべきじゃないです。
KinKi Kidsのライブは地下アイドルの活動の比較対象にはならないし
草野球でホームランを打つのと大谷がホームランを打つのでは全然違う話だし
ボカロPに限らないかもしれないですけど、現代って自分とは全く熟練度の違うレベチな人でも
簡単にSNSでフォローできて、その人の活動を知ることができるので
あたかも同じフィールドで戦ってるって勘違いしやすいと思うんですよね。
もっと身の程を知って、まずは井の中の蛙としてレベル上げをするべきで
というか、スプラだって初心者がいきなりS帯とマッチしたらよくわからないで負けまくって
色々なゲームでレート戦やランクマッチが実装されているのは、そういう仕組みが人のモチベーションを保ちやすいという証拠だと思います。
ボカコレもレート分けしてくれたらいいのになあ。本来はルーキーとTOP100がレート分けのひとつなんだろうけど、実質あまり機能してないし。
追記:そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。
東京大学と東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義はTwitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判のツイートはヒットしない(Twitterの検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評はAmazonのレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである。講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。
本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名の形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学の講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。
まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。
1. 媒体:現地で行う音声形式の講義では記録に基づく批判が困難であるという点。
2. 受け手の資質:講義の対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しかも批判に割くだけのリソースを持っていないという点。
3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。
4. コミュニティ:この講義はボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティを形成する役割を同時に担っており、コミュニティと批判との相性が悪いという点。
以下、これらの点を順に見ていく。
書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画で配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまいやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったからである。
この講義は主として東京大学の教養学部の学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想や概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点からの検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義を批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義そのものが大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである。
ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。
まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲を評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである。
「テマティスムは、作家のメッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ、作家と作品の細部から、作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマを抽出し、作品の価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)
さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師は提唱している。以下に書籍の抜粋を示す。
「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)
「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)
つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。
もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、
①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること
②個別の楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること
③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること
である。しかし書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師の言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚を思考の俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能だからである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由な評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉が賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。
現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバムの作成やちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティを積極的に提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体はマイノリティたる若者を鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義を批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかしコミュニティを形成するとはそういうことなのである。
「ボーカロイド音楽論」の講義が書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙や政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしまう未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。
強い言葉で言えば、
「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別の楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」
である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配は杞憂であってほしいが)。
筆者がこの講義や書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。
1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別の作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。
2. 「思考の俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考が必要なぱて講師の感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。
3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的でしか「思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れなものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能な手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法の限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。
注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンスの書籍『利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身の生存や繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないからである。(遺伝子は自然選択の対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択の対象として観察可能なものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て「個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。
多分、僕より詳しい人はいっぱいいると思うけど、「自分にとってのボカロ」はこんな感じ。
ニコ動以前からボーカロイドは存在したが、爆発的人気となったのは、初音ミクの登場とニコ動のボカロP達の活躍によるところが大きい。
今でも、ボカロPの初期キャリアはニコ動から始まることが多い。
現ニコニコ代表の栗田穣崇(https://twitter.com/sigekun)は重度のボカロ愛好者。
「○○P」とは、○○プロデューサーの略で、「初音ミク」などのボカロをアイドルに見立てて、作詞作曲した作者に対してあだ名をつけたもの。
本人が名乗るよりもニコニコ動画ユーザーが名付けることが多い。アイドルマスターのファン文化が影響している。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%83%ADp
いつの間にか3DCG制作ソフトの代名詞のようになったが、もとはMikuMikuDanceで初音ミクやその他のキャラクターを動かすための3DCG。
https://dic.nicovideo.jp/a/mmd
https://sites.google.com/view/vpvp/
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%82%A4
ニコニコの親会社ドワンゴ主宰のユーザー参加型イベント。ランキング企画などがある。
2007年9月 ワンカップPの『初音ミクが来ない?来た?』騒動
2007年9月 前日予約P『Ievan Polkka』※ネギのイメージの発祥
2007年12月 ryo『メルト』の爆発的人気。これ以降、本格志向の曲が増える。
2008年2月 MMD(MikuMikuDance)公開
2009年2月 samfree『ルカルカ★ナイトフィーバー』
2009年7月 Project DIVA発売
2009年7月 家の裏でマンボウが死んでるP『家の裏でマンボウが死んでる』
2009年8月 iroha(sasaki)作曲・kuma(alfled)作詞『炉心融解』
2010年7月 daniwellP『Nyanyanyanyanyanyanya!』※後にnyancatとして海外で人気(2億回再生)に。
2010年7月 DECO*27『モザイクロール feat. GUMI』
2011年2月 NHKでボカロ特集(大海ディレクターによる初音の縦読み仕込み)
2012年2月 ryo『ブラック★ロックシューター』テレビアニメ化