はてなキーワード: 24時間営業とは
「キモくて金のないおっさん」と「活気ある街作り」の関係性について考えてみる。
KKOにはくたびれた感がある。
となるだろう。
「家に帰ってもなにもやる気が起きない」
「容姿に優れない」「経済的に優れない」「中年男性」という3条件を満たしていても「KKOらしさ」のない人間もいる。
例えば「見た目のよくない売れない中年芸人」などがそれである。
「見た目のよくない売れない中年芸人」は「キモくて金のないおっさん」という条件を満たしながら「応援」されて成功する場合がある。
逆にKKOの条件を満たしていなくても「くたびれた感」があると忌避される。
金を持っていても「くたびれた感」があれば周囲からは嫌煙される。
(KKOは「おばさん」も含む場合がある。性別も重要ではない)
すなわちKKOを構成する3条件とは、根本的なポイントではない。
3条件を満たしていても「くたびれた感」がなければKKOらしいとは思われない。
くたびれた感の反対を考えてみると「活気」ということになる。
となるだろう。
個人レベルでKKOを脱却したいのなら「くたびれた感」を消して「活気」を出さなければならない。
よく「見た目には清潔感が大切」と言われるが、それは本質的ではない。重要なのは「活気」である。
「KKOは自業自得」という言説も「活気」を出せば解決できるという理屈に基づくのだろう。
世間にとって「活気がない」=「悪」というのはあえて言うまでもない自明の理なのである。
だから、そこはわざわざ語られない。だが、心当たりはあるだろう。
シャキッとしなさい。元気を出しなさい。背筋を伸ばしなさい。笑顔を絶やしてはいけません。
ただしKKOもなにも好き好んでくたびれているわけではないのかもしれない。
強いられている「低賃金長時間労働」が原因と考えることもできる。
KKOと低賃金長時間労働については鶏と卵の関係なのかもしれない(その辺は後述)。
本邦では「活気ある街作り」が試みられている。
いったいなぜ「活気ある街作り」を目指しているのか明確なところはわからない。
しかし大衆に「活気ある街作り」=「善」と認識されていることは確かだろう。
元気のある街。笑顔のある街。24時間営業。バーゲンセール。ケバケバしい看板。
「活気ある街作り」とは、こういう方向性だ。
「活気ある街作り」という大きな流れの中にあるもののひとつが「弱者救済」である。
「子供の声は騒音ではない」という言説が一定の支持を得るほどだ。
「ゲームばかりやってないで外で遊びなさい」という理屈も「活気ある街作り」という文脈に繋がる。
「元気に走り回る子供」の姿は活気を感じさせる。
老人はそれ単体では活気ではない。
しかし老人が出歩くことは「年齢というハンデに負けずアグレッシブに活動」という意味を持つ。
また老人が存在することで「助け合い」という「活気」を演出するイベントが発生する。
例えば「若者が老人に電車で席を譲る」という行為は「活気」のあるシーンである。
創作物の中でも「大きな荷物を持った老人が横断歩道を渡るのを助ける」シーンを幾度となく目にしてきたはずだ。
「ハンデをものともせずアグレッシブに活動する」ことは「活気ある街作り」という方向性である。
また「車椅子に乗った人を手伝う」のは活気を演出する「助け合い」イベントである。
一方で精神障碍者は身体障碍者ほど受け入れられてはいないのが実情だろう。
それは「助け合い」という活気を印象付けるイベントとあまり関係がないからではあるまいか?
女性の存在は「女性が一人で出歩けるほど治安が良い」という意味合いで活気の演出となる。
また「女子高生」などは「活気」のシンボル・アイコンとして用いられがちだ。
権利を求める一部女性の「活動」は良く言えば「アグレッシブ」、悪く言えば「狂犬」だ。
だが、それでも「元気があってよろしい」ということなのだろう。
くたびれた感よりも「攻撃的で噛み付く」くらいの方が好感をもたらす。
ところで、すべての女性が弱者として救済されているかというと、そうでもない。
さて、ここまで読んできたら恐らく気づいただろうが「KKO」=「くたびれた人間」は「活気ある街作り」という方向性には合致しない。
くたびれた人間の周囲では「助け合い」イベントが発生しないのだ。
(なお「仕事に疲れてくたびれた人間」が助けられるシーンは活気とは言えない)
くたびれた人間の中には「仕事で疲れているのだから暇な老人に席を譲る必要はない」と公言するものさえいる。
もしも、くたびれた人間に金を与えたらどうなるか?
「つらい、しんどい、疲れた」と言いたがるタイプが街に出歩くことになる。
よくよく考えてみると、日本の街には「休憩する場所」があまりないように思える。
「休憩」は活気ある街づくりからは遠ざかる方向性であるためだろうか?
疲れやすいタイプの人間を出歩かせないために、どうすればいい?
金を与えてはならない。暇を与えてはならない。
くたびれたタイプには出来るだけ出歩いてもらいたくないからだ。
さて「くたびれた感」は低賃金長時間労働によってもたらされるのか?
世間は恐らく「くたびれた感」を生まれ持った気質と判断しているのだろう。
非KKOは「KKOに金と暇を与えても活気ある街作りには繋がらない」と認識しているはずだ。
現状を踏まえて待遇改善を要求するなら「金と暇があれば活気ある街作りに協力する」という姿勢を示すのが有効だろう。
まずは応援したいと思わせなければ、助けてはもらえない。
近年では工業立国の先行き不安とともに観光立国を目指すべきであるとの声が出つつある。
「美しい国」。国全体がそういう世界観のアミューズメントパークを目指している。
ヒントはいくつかある。アニメで言うなら「クールジャパン」「聖地巡礼」もその一環だろう。
「活気ある街作り」の集積によって美しい国が実現される。
観光立国を目指した都市景観を考えると「くたびれた人間」は存在してはならない。
活気ある街作りとは矛盾が生じるから「くたびれて帰宅する人」の姿を目にしたくない。
くたびれた人間を隠したい気持ちは特に「観光」を意識する人種ほど強いだろう。
観光に携わる人間ほど「景観に害を与える」くたびれた人間を敵視しているはずだ。
さらに政治家や資産家などの決定権を持つ人間も観光を強く意識しているだろう。
そのような人間が決定を下すからKKOはいつまでも救済されない。
根本的には、そろそろ「活気ある街作り」という方向性自体を見直すべき時期であるように思う。
他国の観光立国を見ても必ずしも活気ある街作りを目指す必要はないように思える。
観光には活気どころか「ゆったり感」「のんびり感」の方が求められているのではあるまいか?
さらに少子高齢化の加速する日本において今後も「活気」という方向性で勝負するのは厳しいだろう。
「都市景観を守るためにKKOを隠す」方向性が無理となれば「KKOの存在にあわせた都市景観」を考えなければならない。
「活気ある街作り」という映像のリアリティをなくしてしまえばいい。
都心に住んでてもコンビニは一切使わないというポリシーを持った人にたまに出会うことがある。理由はそれぞれのようだが比較的スーパーや商店街などを積極的に利用したいと考えてのこと、または経済的にといったところ。こういう人はポリシーとして使わないので不自由があるとしても問題ない。
自分は普段からコンビニにどっぷり浸かっている。自宅の近くにもあるし平均すれば1日一回は行ってると思う。あまりに使い慣れすぎてティッシュや日用雑貨などもコンビニで済ます事が多い。
ATMもコンビニ利用率が高い。食べ物は割高な割にさほど美味しいとは思わないものも買う。寄ったついでに色々揃う上24時間空いている。
基本的にコンビニは割高な物が多い。だからお金の管理がしっかりしてる人ほど使いたがらない傾向はある。自分は細かい勘定が面倒であまり気にしない。もちろん金持ちではない。
しかしながら、最近のコンビニ周りのニュースは悲壮感が半端ない。実は家の近くのセブンもオーナーのおっさんが明らかにヤバそうな顔をしていてそのおっさんがいるだけでピリピリ感が伝わってくる。なんかこの空気普通じゃねえよなという感じがあるのだ。
そこでしばらくコンビニを使わない生活にトライしてみようかと思う。そんな過剰にサービスしなくても、24時間営業じゃなくてもいいか、くらいには思ってたけど実際夜中に使えなくなる事、ヘトヘトに疲れた遅い時間の帰り道にサッと寄って適当に買い物ができなくなること、これらが自分にとってどれほどストレスになり得るのか試してみたい。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032200651&g=pol
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/asada_eri/status/1109075408572411907
この辺の反応を見ていると子供預かるのに保育士が必要って意見多いけど
保育士は名称独占であって業務独占ではないので、ベビーシッターは無資格でもできる。
感染症などで保育所に預けられないときに親兄弟、友人や隣人に預けることもできる。
でも、保育所ですら無い託児ルームに保育士を置けってことはこういう人にも保育士並びにそれと同等の資格が必要ってことかな?
24時間子供の世話と養育をする親にも保育士と同等の知識と専門性が必要って言うのかな?
子供を育てるのにそんなに知識と専門性が必要なら、極端な話親から子供取り上げて国が24時間営業の保育所作って育てたほうがいいじゃん。
フランとチャイズは仲のいい双子の兄弟です。ふたりの家は父親と母親、兄と姉、そしてフランとチャイズの6人家族です。
フラン「あーあ お父さんもお母さんも 全然遊んでくれなくてつまらない」
チャイズ「お兄さんもお姉さんも 遊んでくれない つまらない」
フラン「父さんも母さんも いつも お店にいるか 寝ているか」
チャイズ「お兄さんもお姉さんも いつも お店にいるか 学校にいっているか」
フランとチャイズ「つまらない つまらない」
フランとチャイズの家は家族でコンビニエンスストアを経営しているのです。夜はほとんどお客さんが来ないのに24時間営業なのです。家族は営業時間を短縮したいのですが、本部との契約でそれはできません。フランとチャイズの家では、父も母も兄も姉も必死で働きます。フランとチャイズと遊ぶどころが寝る暇すらないのです。
「このままだと、お父さんもお母さんもお兄さんもお姉さんも疲れ果てて死んでしまう」
フランとチャイズは街で一番大きいケヤキの木の下で泣きました。涙が地面に落ちたその時、オレンジ色の巨人がふたりの前に現れました。
勤務歴は5年くらいだろうか。
俺はコミュ障で人とうまく会話できない。
目を合わせられないのだ。
高校卒業して色々やったが、やっと今のコンビニ店員で落ち着いた。
深夜帯は良い。
接客なんてある程度適当でも大丈夫だし、むしろバックヤードでの仕事が中心で気が楽だ。
同じ時間帯の同僚は技術職だったが、足を悪くして職をなくし、今このセブンイレブンにいる。
他の同じ時間帯の同僚は俺の目から見てもやはりこの職じゃないとやっていけなさそうだ。
深夜のコンビニは俺らのような社会のギリギリ隅っこの人間の働く場なんだよ。
それが「コンビニ深夜営業不要論」が強調されていくと俺らの居場所がなくなる。
また別の職場を探すことになったら環境に慣れるまでがシンドイ。
コンビニ店舗は確かに多いかもしれない。でもやはり24時間営業は標準であってもらわないと困る。
もう日払い職で来週の食べるものの心配をする日々に戻りたくない。一部の店舗の問題を社会問題のように扱うのはやめてくれ。そっとしておいてくれ。