はてなキーワード: メンタリティとは
http://anond.hatelabo.jp/20150118145812
自分がどう見られているか?を重視する人はプレッシャーになるのかもね、とは思う。男女ともに。
私は、だけど、容姿にコンプレックス持ってた時には、女性との接点を持たないようにしてた。
嫁さんも職場での服装、母親としての服装や振る舞いで悩んでたりしてる。
そんな時には、そのままの君で素敵だと思うよ、って言い続けてる。嫁さんは都度、ぼんやりと幸せそうな顔をしてる。普段は聡明な人なんだけど、時々デレ。自縄自縛のメンタリティってあるよなー、その辺、察知して開放するとなぜか好かれるって不思議だ。
でも続けて「そのままの君でいいし、別に化粧しなくてもいいんじゃない?その方がナチュラルだし、健康にいいんじゃないかなー」っていうと「これはやりたくてやってるから良いのです」って返ってくる。まぁいいんだけどね。
日本の文化だと、子供を授かった瞬間から「男・女」ではいられなくなり「父親・母親」にジョブチェンジさせられる。セックスは子供を作るためのものだから、それ以外の、たとえば快楽のためにするセックスはフシダラでありよろしくない、子供の教育上よくない、みたいな空気。言うまでもなく、夫婦間のコミュニケーションとしてのセックスなんてここでは想定すらされない。
セックスレス増加の原因としては労働環境がクソすぎるために男女とも疲弊してるってのが大きいとは思うが、たとえ労働環境が改善してもセックスレスは減らないと思うよ。セックス観がおかしい奴が多すぎるから。
とある女性漫画家の作品なんだけどさ、子供が出来てから旦那に触られたくないからセックスしないって漫画描いてたのね。読んだ時、ハァ?って思った。旦那は悲しそうに描かれてたし、自信満々に描ききってたとかでもないんだが、この人は要は「もはや母親となった私がセックスなんてするわけないでしょ」くらいのメンタリティなんだよな。なんか「母親」は「女」の上位互換である、みたいな。根本的に男性不信、男性蔑視もあるような気はするが。
これの男バージョンは例を挙げるまでもないが、「母親」になった奴は「女」じゃない、もう用済み、って価値観はそこらじゅうにあるよね。エロ漫画で孕ませるのは屈辱を味わわせたいためって言ってた増田が以前いたな。逆に、「母親」という崇高な存在になったから欲情しなくなるパターンもあるか。
「母親となった私は目的を達したのだからもはや男にご褒美としてのセックスなど与える必要はない」←セックスを女から男に与えるご褒美と思ってたり、母親になったらゴールだからもう男イラネ、になっちゃうのは、女だけじゃなく男女ともにセックス観が歪んでるから。男がしてるセックスが一方的で女は嫌々付き合わされてる(自分から喜んでセックスする女は淫乱と呼ばれて蔑まれる)って背景もあるんだろうね。日本のAVやエロ漫画における「いや、やめて、そんなのだめ」の頻出具合は異常。セックス=男が嫌がる女を無理やり手篭めにするもの、となっちゃってる。
ぶっちゃけ寝かしつけなんてしなくてよくね?っていつも思う。
毎日2時間あやさないとギャン泣きするらしく、普段家にいないパパ(別居婚)が泣いてもそのままにしてたら15分で寝た、みたいな話があった。
そんなん泣こうが喚こうが「寝るまでママは来ません」「もうおっぱい出ません」ってことでいいじゃんと思うんだよ。いずれはそうなっていくんだし。
アジコ先生が子供の食事に2時間かけてて奥さんに怒られた話とかもさ、なんでそこまで子供の欲望の思い通りにしようとするのかね?
子供が泣いたらかわいそうだから?でも子供って泣くことでしか意思表示できない生き物じゃん。それに付き合ってたら生活できないの当然じゃん。子供だっていつまでも泣けば思い通りになる生活してられるわけじゃないのに、なんで親は子供を成長させようとしないのかね?幼稚園児でも小学生になってもおっぱいあげて寝かしつけするのか?
まあ日本の住宅事情だと防音がクソすぎて子供の泣き声に敏感になってる親御さんも多いんだろうとは思う。虐待って思われるかしら?とかね。
だとしても寝かしつけだの食事だのに毎回2時間かけるのが「子供に優しく正しい子育て」なんかじゃ絶対ないと思うわ。むしろ親のほうが全肯定してくれる存在である子供にしがみついて離れられないって印象。依存してんだよ、「我が子」に、「子育てしてる自分」にさ。
以上、参考文献を漫画のみで語ってみました。
別に世の中は間違ってないと思うけど、友達になりたいな、と思った人が携帯持ってなくて困ったことがある。
結局友達にはなれなかったんだけど。
携帯ない当時を想像すれば、定期的に会える関係でいるか、定期的に連絡や逢瀬を重ねる積極性がなければ友達なんてあり得なかったはずだ。
1度あってフィーリングが会えば連絡先交換→連絡という現在はある意味特殊だ。
友達を増やす方法として、もう一つは友達のハードルを下げること。(1度あったら友達ってテンション)
年寄りの大物で異常にコミュニケーションのハードルが低い人がいる。俺の会社の社長はそれだ。
もちろん上っ面の建前で言っていることはわかってるし、ちょっとあきれる部分もある。
しかし月日を重ね使い続けたその言葉は何故か説得力があったりするし、交友関係は広いように見える。(社長なら当たり前か)
それを踏まえて言えば、メディアが普及したらコミュニケーションのハードルは逆に上がっていると言える。
「友達は選ぶもの」という考えが一般的になった。本音は言いやすくなったけど、建前は言いにくくなった。
結果、建前でつながる友達関係は減ったし、本音を言える友達は作れない。
(元投稿の方はコミュニケーションのハードルを更に上げようとしている。きっと苦しい人生が待っているに違いない。)
元投稿の方が言いたいのは、本音を話せる友達が欲しいってことなんだろう。
そのために建前の関係になりそうな友達はいらない、とのことなんだろう。
しかし本音で話せる友達を作るためには、建前でつながる友達も必要なのだ。
そんな俺も笑っていられない。よくよく思い返せば、去年増えた友達は皆無なのだ。ここ数年でも両手で数えられるだろう。
借りていた本の返却、並びに予約図書を受け取るために図書館へ行ったのですよ。
開館10分前に着きました。
入り口の前に2人ほど人が並んでいたので何となく、旧東側で「とりあえず行列があったら何の配給か分からなくても並ぶ」みたいなメンタリティで私も後ろにくっつきました。
で、5分くらい経ってからふと後ろを見ますと、私の後ろに20人くらいの人が並んでいるのです。
私「ふぇ?」
〇〇コミュニティーセンターみたいなところじゃなくて、面白おかしいサービスは少しもありません。
私「なんですの……これ?」
こんなにぎょうさん人がおる理由はとんと分かりません。
入館後オロオロしていたらカウンターに列ができ、私がその最後尾に並ばされることは必定でした。
賢明な私は開館と同時に、スターティングゲートが開いた瞬間の競馬馬のようにカウンターに向かいました。
私が返却した本にピッピッとバーコードリーダーを当てるカウンターのオバちゃんを横目に見つつ、私は後ろに並んでいた20人の所在を確認しました。
私「ふぇ?(2回目)」
ついさっきまで行列をなしていた人々は……
をしていました。
自称教養主義者である私は怒りに打ち震えたのですが、どうにもしようがありません。
え? お前が偉そうにいうな? へい、すんまそん。
twitterで「怒る奴は怒りたくて怒ってる」というのをみた。
私のようなものが管理職を務める小さな企業でも怒ってばかりの管理職はいる。つまり怒ってばかりいる人間でも会社から評価され管理職になれるのだ。怒りやすい、怒ってばかりいる、というのは評価対象外の項目であると考えてもいい。しかし、私の経験からしても怒る人間、怒ってばかりいる人間が管理職には「多い」。有意差をもって多いと言える。「怒っていても評価されている」のか「管理職になったら怒りっぽくなった」のかの前後は判らない。
ただはっきりしているのは怒る人間は問題解決能力が高いと言える。怒って行動する人間には誰も逆らわない。笑顔で対応しようものなら問題解決には怒る人間以上の時間がかかるだろう。そのうちにその解決能力が評価され、自分の手法を正しいと思いますます怒りっぽくなる。自分と違うやり方は間違っているのだから怒っていいのだ。どんどん周りからは面倒くさい人、触らないほうがいい人となり、調整が要らないため問題解決能力はあがり、組織から評価される。
そうやって怒る人だけがどんどん幹部になっていく。そして幹部が集まると怒ってばかりいる。この仕組みで似たメンタリティの人間ばかりが集まるのだろう。ちゃんと怒れる人間は必要だが、なんでもかんでも怒ってないといられない人間がいて、そいつらは仕事を任せるほうからすると便利なんだ。そんな奴の下に着いた人にはたまったもんじゃないけどな。
社会出てしばらく経ったおっさんだけど、本当マンガみたいなクズってどこの会社にも1人くらいいるよ。
同じ国で同じ絵本読み聞かせされて同じような教育受けて同じ漫画読んで同じTV番組見て、どうしてそんな漫画の悪役みたいな性格になれるのか本当に謎、みたいな奴。
ドラマでも映画でも漫画でも、陳腐な悪役側に感情移入して「そうなりたい」だなんて思って観てる奴なんているのかね?
そういう奴のメンタリティについてどうしてそうなるのか結構本気で知りたいわ。
はてなやってるような知的な学生さんで、大学で社会学とか心理学やってるような人はこういう奴の研究してくれよ。
そして願わくば根絶してくれ。
家の中で家族と生活している事実に、ときどき不快になる。家族の構成員が、自分の求める精神レベルに達していない。と思うからである。
汚らしい空気、すなわち、人を蔑み、己を持ち上げ、この世の全てを哄笑するようなメンタリティ、これらが漂っている気がするのだ。だから、早くここから脱出して、自己改革ののろしを上げなくてはと苛立つのである。
もっと清涼な空気を吸って、明るく朗らかな世界に生きたい。私は、いつもいつも、そんなことを考えてきたような気がする。
元気はつらつで、大きな声で笑って、てきぱきと仕事をこなして、失恋に落ち込んで、友情に悩み、それでも希望を抱きながら猛然と生きる人間。そんな人間に私は憧れると同時に、「なぜ、俺はこの程度なのだ」という恨めしさを覚える。必死につま先立ちをして、手の指先にまで力を込めて伸ばしても届かない、あの輝かしき世界。全く腹が立つ。
もう夏休みが終わってしまう。この暇な一ヶ月間に、一体何をなしとげたというのだろう?このようにして大学2年が終わり、3年が終わり、4年が終わり、地獄の社会生活が始まるのだろうか?一体なんだってこんなに「つまらない」毎日を送らなくちゃならんのだろう?デカい顔して、高田馬場の町を高らかに勇み歩く連中と、部屋の中で一人でPCと向き合う俺との間には、どんな論理的差異があるのだろう?「そっち側」に行きたくてたまらないのに、俺を頑に邪魔する透明な壁がある。ふざけるなと。ロケット・ランチャーかつぎ出して、向こう側の連中もろとも木っ端みじんにしてやろうか。