はてなキーワード: ピストルとは
報道を見れば見るほど例の暗殺は右翼思想だよね。安倍ぴょん以外を巻き添えにしなかったわけで。
https://ja.wikipedia.org/wiki/一殺多生
元は大乗仏教経典の一つ瑜伽師地論の漢訳文に記された四字熟語であったが、日本では右翼の政治思想の一つとして使われた。戦前の右翼団体「血盟団」の指導者である井上日召が唱えた理念である。
昭和維新を呼号した井上は、血盟団の団員に「一人一殺」を説き、政財界の要人の暗殺を教唆した。「一人一殺」とは、各々の血盟団員が標的を定め、一人ずつ暗殺していくというものである。標的のみを殺し、それ以外の人的被害を防ぐため、その手段は専ら接近してのピストルによる射殺であった。
井上は「これ(標的)に天誅を加えることは、一切を救わんとする一殺多生の大慈大慈の心に通ずるもの」と主張した。つまり「要人一人を殺すことで、その他の大勢の一般国民が救われる」とし、血盟団のテロ活動を正当化した。
戦後の右翼活動家も、連続企業爆破事件など一般人を巻き添えにする左翼のテロとは違い、自分たちのテロは標的のみに狙いを定め、他者を救済する「慈悲ある」テロと自負し、この理念を正当化している者が少なくない。
「話し合いで解決しよう」暗殺された第29代総理大臣・犬養毅の名言 ”話せばわかる” の真相について紹介
このような状況でも犬養毅は「話し合いで解決する」という立憲政治の考え方にこだわり、動揺することなく、「話し合いをしよう」と若い軍人たちを客室に案内したそうです。
そして、自身の考え方やこれからの日本について語ろうとしました。しかし、駆けつけた別の軍人が発砲した弾丸が犬養毅の体に命中。使用人が駆け付けます。
けれど犬養毅は重症を負っているにもかかわらず、「発砲した男と話し合いがしたいから連れてきてくれ。話せばわかるから」と語って亡くなったそうです。
この事件は、五・一五事件と呼ばれ、当時の日本に大きなショックを与えました。
武力で物事を解決する軍のやり方に怯えた政治家たちは、軍への反対意見ができなくなります。
そしてその後、軍の味方をする新聞社が増え続け、軍を止めることができなくなった日本は大きな戦争へと突き進むことになるのです。
神は天にいまし すべて世はこともなし
もとは「ピッパの歌」という詩で、ピッパという少女が「朝露がきれいで雲雀が飛んでいて蝸牛が這っていて天には神様がいる、なんて平和なんでしょう」と歌いながら街を歩くと、その純真さに感化された悪人たちが改心していく、という内容らしい。
巷に雨の降るごとく わが心にも涙降る
かくも心に滲み入る この悲しみは何やらん
天才美少年詩人アルチュール・ランボーと同性愛関係にあったヴェルレーヌが、痴話喧嘩からランボーの手をピストルで撃ってしまい、収監されたときに獄中からランボーに捧げた詩、ということだそうで、ひたすら悲しみをうたっている。
ナンシー・ウッド
「めっちゃ穏やかで幸せだからいま死ぬのが最高だね」という内容の詩。ネイティブ・アメリカンと交流していたウッドが、彼らの言葉を詩のかたちにしたものという。どこまでウッドの意図が混じっているのかわからないが。
于武陵
直訳すれば「人生に別離は多い」だが、この井伏鱒二の訳が広まっている。元の詩は、友人との別れの席で酒を勧めながら、花が風雨に耐えて咲くように、人も多くの別れに耐えて生きるものだ、と慰めている内容のようだ。
汝ら強き者どもよ 我が業を見よ そして絶望せよ
砂漠に崩れ落ちた石像があり、その台座にこの言葉が刻まれている。冷酷な王が自らの業績を誇る内容だが、その石像の周りにはもはや何もなく、遥か彼方まで砂漠が続いているだけだ。というような内容の詩だとか。諸行無常ですね。
この門をくぐる者は一切の望みを棄てよ
叙事詩『神曲』で描かれる、地獄の入り口にある門に掲げられた銘文。「この門をくぐれば悲しみと痛みと亡びがある。この門を造りしは神の力と智慧と愛である。この門は最初に造られ永遠に立っている。この門をくぐる者は一切の望みを棄てよ」といったようなことが書かれているらしい。
なんか他にある?
第九条の発案者であり時の総理大臣・幣原喜重郎のことを知らない日本人があまりにも多すぎる
彼がどのような考えで第九条を思いつくに至ったのか、それを議論せずにして憲法の議論なんかできるはずがない
なぜ政治家も、評論家も、社会学者も、そして我々国民も、九条を作った当人の言葉を話題に挙げないのか
彼の考えのどこが悪くて、どこに不満があって、現代社会に通用するのかしないのか、なぜ誰も語らない?
少しでも多くの人に、我々と同じ日本人が考案した第九条を、この埋もれてしまった歴史的憲法の成り立ちについて知ってほしい
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ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー
最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。
しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。
要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。
日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。
ウクライナ情勢を受けて、日本も核兵器を持たないとロシアや中国の侵略に対抗できない!という意見をよく見かける様になった。
確かに、被侵略者が侵略者に対して核攻撃をするに違いないと侵略者側が思えば核武装によって、侵略行為をためらわさせる効果はあるのではないかと思う。
ただし、いくら核兵器を持っていても、どうせあいつらには撃てないと思われていれば(または本当に撃てなければ)抑止力として効果は無い。
日本の場合、核ミサイルを持っていたとして、中国が尖閣諸島に上陸したら北京に打ち込むだけの覚悟は出来るだろうか?
もちろん北京に核ミサイルを撃ち込んだら、その数倍、日本に中国からの核ミサイルが降り注ぐ可能性があるわけだが、その損害を覚悟してでも撃てるだろうか?
とかと考えていくと、損得計算が出来るまともな頭脳をもっていたり、例え1人の国民の為や例え無人島の為に全国土が焦土になっても構わないという強い意志が感じられない国が核兵器を持っていても、
侵略側からすれば、どうせ撃てないだろ?って足下を見られて終わりだと思う。
(映画やドラマで、ピストルを持った素人が人を撃てないような描写があるが、あれと同じ)
結局、損得では無く狂った人間、失う物がない人間に、まともに計算が出来る人間が核武装で勝てるか?(侵略を抑止できるか?)というと、多分勝てないと思う。
本当に狂っている奴はどうしようも無いが、狂った人間を装っているだけの奴であれば何らかの落とし所はありそうだが、それは核武装なのかと言われたら、そうでないように思う。
侵略を意志決定している連中の欲望の大きな部分が経済的な物であれば、現在国際社会が行っているような経済的な締め付けが一番効果的かと思う。
あなたがした行動の原理を説明してくださいと言われて、明快に説明できる人であればあるほど、人とのコミュニケーションで理不尽を被ることが多くなると思います。というのも、世の中には自分の行動原理に対して無自覚的、あるいは全くもって自信が無い、という人が多すぎるように思うからです。
AさんがBさんに告白して、結果は残念だったとしてもそれは理不尽だとは言わないでしょう。それは、恋愛に対する個人の自由という前提の元、Bさんの行動原理は、Aさんのことを(他の人間と比較して)よく思わなかったから、という明快なものだからだと思います。ここでAさんがBさんに「なんで振ったのか」と言うのは間違っているように感じます。つまりBさんはAさんに対して、「あなたの事が気に入らなかったからだ」と言えばいいからです。それに対して「でも優しくしてくれたし、デートもしたじゃないか」と醜く食い下がるとすれば、「それは対人間の一般的な気遣いである範疇だと私は思っています」とこう言えばよろしいと思うのです。
こう質問されてこう答えられることが自分の行動原理について明確に認識してるということだと思います。さらに、最後の言葉を言う自信が無い人が多く日本にいるように感じられますが、それは自分の感性に自信が無いからなのでしょうか。そもそもこの状況で自分の感性に自信が無いというのはおかしな話です、というのもここは完全に主観のテリトリーだからです。恐らく最後のセリフを言い切らない人は、なにか日本共通の「認識」があってそれとズレているかどうかを気にしているのでしょう。この2人のコミュニケーションは2人の世界で完結していないとおかしいので、日本共通の認識を取り出してくるなんて馬鹿げたことです。
ともかく、僕は相手がある程度どんなことをしてもその人が行動原理に対して、それを明確にしてなおかつ自信をもっていれば、道徳的にどんな良くない理由だろうが、尊重したいと思う人間です。それを理由に人間関係を切る事だって当然あるでしょうが、その行動に怒りを覚えたりはしません。「行動原理」が違うだけで、そんなことはよくある事だからです。
ただ、自分の行動原理が明らかでない、あるいはそれに自信を持ってない人間と対峙した時、この世界の理不尽さに直面することになります。それは言わばボクシングの会場にピストルを持って入ってきてるようなものです。いくらルール通りに戦っても殺されてしまっては意味がありませんね。ソクラテスの弁明に描かれるソクラテスのように、それを受け入れる心の強さを人生を通して持てるのは理想でしょうが、多くの人間にとってそうはいかないでしょう。それに対して自分の弱さを嘆かざるを得ないことが理不尽そのものです。なぜなら相手はそんな事考えもしないから。
これに対する対処法など多分ないのでしょうが、少なくともそういうことを考える人間がここにいることを明示しておくのはなにかの役にはたつと思っています。
元増田だけど追記というのもちょっと大袈裟だからセルフトラバするんだけど
まず何故、刀なのか、という疑問のようなものは考えているうちにわかったような気がする。
当時の戦争参加者にとって勝利とは戦争に勝つだけでは十分ではなくて
どちらかの陣が崩れることで、追撃戦や乱戦になるのだと思う。
このときおそらく長槍による攻撃から刀による攻撃へと切り替わる瞬間が訪れるのだと思う。
元増田で言いたかったことはそういう近接戦、あえて例えるなら長槍での戦闘が
近代戦で言うところのマシンガンによる攻撃だとすると、それよりもっと接近したピストルでの
攻撃へと移り変わる時になぜ打撃武器ではなくて刀だったのか?という疑問だった。
この理由はこのトラバの冒頭に書いたように敵の首を挙げなければならなかったからだろうと思う。