はてなキーワード: 書き言葉とは
プレゼン終了。
準備しても準備しても形にならず、作っては壊し作っては壊し。
喋るためのメモも書いたが、うまく書けてない。どこで質問タイミングとろうか、まとまりがわからない。
ああもう時間になってしまう、緊張で心臓がバクバクする。声が震えそうだ…
と不安ばかりだったが。
プレゼン中に質問やツッコミも多くもらえた、ちゃんと内容が伝わってた、ということだと思う。
アップした資料についての指摘などもきた。食いついてもらえた、ということだ。
なんかもう、達成感、満足感いっぱいだ。こんなにうまくやれて満足できたことって無かった、と思うくらい。
勝因は、やっぱり準備の量、時間だと思っている。
台本も作った。結局は使えなかった、書き言葉で冗長で分かりにくい、だけど書くことで頭に入った。
人に2度、聞いてもらった。詳しい人とそうでない人。実際にプレゼンしてみて、気づいたことは多かった。2回やったことで少し慣れた。
がんばった分だけの成果が出せた、と思える。
がんばったからこそ、結果を出せたと思う。
「2~3日」と表記できればいいが、小説中における数字の表記は、レーベル等の方針で算用数字は使わず漢数字で表現されることがほとんどだ。
「二〜三日」は漢字と記号のミスマッチ感があり、あまりこの字面を見たことがない。
「二三日」はたまに見るが、二十三日みたいで誤解を招く。
「二、三日」というのも見るが、これは周囲の普通の読点と区別がつかず「二、」のところにセンテンスの区切りがあるように見える。
もはや書き言葉において「にさんにち」は実質的には非推奨の日本語となっている気もする。
かと言って「数日」だと感覚的には5〜6日くらいで、ニュアンスが変わってしまうし、なかなかいい言葉がない。
「二日ほど」くらいが妥当な落とし所か……。
逆にこの文章のママってことは会話力も低いんじゃね。まあここでは増田の文章力とかは主題ではないのでどうでもいいけど。
外国語がわかりやすいけど、会話の方が習得が容易で書き言葉は後になる傾向がある。会話が習得しやすいのは、多少内容に不備があったり発声に問題があっても意味が通じることが多く寛容なため。外国人が日本語を下手くそに話していてもある程度意味が通じれば問題ないと思える。けれど例えば行政文書などでおかしな日本を使っていれば違和感が勝ってしまう。これは会話というのが1対1を基本に相互でやり取りする物であるため、お互いに不足分を補ったりすることが多いから。一方で文章は基本的にいってこいである。目に付いた人の数だけ読まれるため会話のように相互に補完し合う事も少ない。だから文章力は比較的厳しい目で見られやすい。文章には「ごめん、いま言い間違えた」は通じない。
とはいっても、会話による伝達の方が重要視されるのでは、という意見には疑問だ。元増田が文章力低い、と思ったのはそういう疑問の根幹部分がなくて小学生の疑問並みだったから。
例えば他のツリーでは「普通に暮らしていれば」「常識」「自明」などとしているが、俺にとっては別に会話の方が量は多いけど重要視されるものとはあまり思わない。先に述べたように会話は相互で補完が可能であり一発勝負ではない。人間は聴覚より視覚を重視するから目に残りやすい文章をより重きを置く、という考えの方が自然であり常識に通ずる物があり自明ではないだろうか。
まず「口語文で書いてる」みたいな文体の意識がある人自体少数派だろうけどね
だって音声入力の段階までいくと完全にビデオメッセージを作ってその音声部分だけを抜き出して送信するようなもんだもん
ビデオメッセージの録画中に文法的にこなれてない表現を発したことを自覚したからっていちいち撮りなおすか?
多分直後に「言い間違えた」とか言うだけでそのままテープを回し続けるだろう
こういうことが推敲のある書き言葉と談話及び談話文化と地続きな媒体との違いだよ
ところでまあ何言いたいのかわかんねえ言葉のサラダみたいな可読性の低い文章がたまにツイッターとかで見られるのもその音声入力のせいなんだろうね
いくら文体としての話し言葉と書き言葉に乖離があるからといって音声入力ごときでそこまでわけわからん文章を生成してるのは多分対面の会話でも頻繁に「何が言いたいの?」って言われてるような哀れな奴なんだろう
偏見だけど近所には滑舌は悪いわ要領を得ない話し方するわなオバちゃんが多くて何言ってるのかわからんから適当に相槌打ってご機嫌取るしかない
34[名無し]さん(bin+cue).rar2021/08/20(金) 12:45:37.72ID:LFD/Zfki
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なにが良くないかって
お前相手と話してるときでも「今『で』を連続して使ってたけど韻踏む目的もないならやめた方がいいよ」とか言って表現に回りくどいところや稚拙な部分を感じ取ったらすかさず突っ込んだりしてるわけ?
ラインとかで相手の言わんとするとが分かっていてもそうやって話の腰を折るようなことしてるのか?
お前が注意したことはおしゃべりの中でならごくありがな表現だよ
だから対話やラインでそんなことを注意していたらうざい奴に見られるだけね
また5chもそれらに近い伝達手段だということを認識した方がいい
ようするに話すように書くことが当然な場なのであって高尚な書き言葉や推敲は不要なんだよ
気心の知れた人間と共通の趣味の話をしてるときにいちいち話す内容を考えてから言葉にするかね?
そういう滔々と言葉が出ててるときって多分考えずに口が動いてるっていうかむしろ話すことに伴って思考自体も展開しているような状態だろう
匿名掲示板に書き込むのもそれと同じでいいんだよ
二個の電球の一方だけをスイッチによって選択的に点灯させられるような並列回路があるだろ
それと同じように場面に応じて脳(電池)との連関が手と口(二つの電球)の間で切り替わってるだけなんだよ
見るからに肩肘張ってる文章書いてることが分かる人に対して皮肉混じりに誤用を突っ込むのはまだいい。
でもはなっから書き手自身の口でしゃべるときの言葉をそのまま文字に起こして書いてるような態度の人に対してまで誤用指摘するのは野暮臭い。
ネットには都市部だけでなくいろんな集落からもアクセスしてる人がいることを失念してるのだろうか。
日本語というものは共通語だけじゃなくてさまざまな方言も合わさって全体をなしているわけだから、
共通語の感覚から見て誤用と指摘したものが、ある地方では普通の表現ということがありえる。
ちゃんとした根拠を挙げずに誤用と決めつけるのって視野が狭い人に映ると思う(この際国語辞書は根拠にならない。国語辞書は共通語ベースで方言はあっても一部だけだから)。
たとえばこんなやりとりがあった。
297名無し象は鼻がウナギだ!2019/12/17(火) 11:13:08.990
愛知県に生まれ育った人にとっては「ら」抜き言葉も昔から正しい自然な日本語の一種。
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299名無し象は鼻がウナギだ!2019/12/17(火) 16:03:30.810
297
活用形にさえ地方により違いがあるなら、てにをはのような助詞の使い方にすら差異はあるものなのかもしれない(助詞(特に格助詞)に対する誤用の指摘が多いという皮肉だよ)。
誤用警察は共通語以外日本語と認めない排外(全体)主義者と見られるおそれもある。
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そうやってしゃべるような場合には多分注意されなかったものが、文章として提示されると書き言葉で書く人と区別せず注意されるようになるこの現象。
出川哲朗のセリフの文字起こしは、正書法や仮名遣いから見てかなり無理があったとしてもせいぜいネタとして消費されるだけだけど、
書き手がもし同じ内容を口頭で伝えるとしたら用いるであろう「話し言葉(言い回し、訛り)」を文字に表した文章には警察の目が光る。
このことから、話者(表現者)と文字起こしする人が一致した文章は書き言葉の評価軸で是非を問われるという法則らしいものは見えてくる(不思議な基準だと思う)。
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簡単な話で、方言は話し言葉だから地域と時代による違いが激しいだけだよ。書籍に使われる言葉は書き言葉って言われる比較的全国共通の経年変化が少ない言葉。(あと書き言葉と話し言葉、文語と口語は違う。書き言葉の中に口語と文語が包含されている。文語はいわゆる近代小説みたいな堅苦しい表現方法で、ネットはそれと反対の口語。)
浄瑠璃と狂言台本が例に出されていたけど、それで方言が使われているのは、台本は「話し言葉を書き起こすもの」だから。だからこそ地域だけでなく時代(中世、近世とか)すらも反映した言葉が文字という媒体によって記録として残される。
つまりネットで方言使われないのは書き言葉だから地域、時代による違いが少ないってだけです。ネットスラングに関しては「口語の書き言葉」を前提とした集団が細分化され、またその集団の中で共有される言語が形成されたから…だったと思う。(論文もあるらしいけど私は読んでない)
そもそも単語や熟語に区切って考えるから腑に落ちないのでは?と思ってしまう。
単語の意味なんて古文と現代文とで同じものはごまんとあるわけだけれど、同じ意味の文章が話し言葉と書き言葉で違う書き方になるのであればそれは乖離してると言えるんじゃないかなと。
例に出してる安愚楽鍋がまさに新しいものだったというか、そういうものがあったからこそ文学も誰もが読める平易な話し言葉に近いもので書かないとダメだね、というようになったってのが流れでは。
こうでなくてはならない、けしからん、という姿勢の人が多くいたんだと思うよ、当時は。変えたい人たちと伝統通りにしたい人達のせめぎ合いの結果、口語体が残っていったって話であって。