はてなキーワード: 悟空とは
漫画喫茶で6巻まで読んでいたが堪らず購入
ロクサーヌかわええなぁぁあああ
これ恐ろしいことに数日間の出来事をアニメにしてたんだな。10日間ぐらい?
そんな期間でレベル35とかにしてるのは経験値効率がチートすぎるんよ
7年で同階層まで来た人がいるのに10日以内で到達ってほんまなろう主人公ってやつは
なろう版で86話まで読んだ
https://magcomi.com/episode/3270375685382076287
アシスタント募集を数ヶ月見てるがアシスタントが揃わなくて休載なんだろうか
キンジが筋トレしてて笑う
アイドルのプロデューサーになって未来の流れを変えるというのは胸熱展開だね
https://comic-meteor.jp/ptdata/shiroma/0018/
昨日更新
https://www.sunday-webry.com/episode/316112896901256481
なんかシリアスバトルになってきてるなぁ
ゾン100を読んだ
https://www.sunday-webry.com/episode/3269754496551508507
サンデーウェブリは今日初めて読んだんだが読んでなかった作品もありアプリを入れようか考えている
この子がヒロインでいいんだろうか、先輩死んじゃったしヒロインだよね
https://www.sunday-webry.com/episode/3269754496551508228
こんな面白い作品を見逃していたとは漫画好きとは言えないレベルだったんだな俺は
自分が情けないよ
とにかく面白いので読むべし
というか最新話が最終回なのでもっと連載が続いて欲しかったな残念である
エルフィーさん可愛すぎる愛おしい
本作は名前だけ知ってたんだが今日マガポケで読んでみたら面白そうだったので衝動買い
とにかくシェラが可愛いので読んでみてくれ
どうやらアニメも二期までやってたみたいなので後々見て観ることにしよう
って君が思ってるだけだよね。
たまに出しているけど売れないんですよね。だから及び腰なんですよ。
共感能力や物語の理解能力の成長度の問題で、小学生ぐらいから主人公の年代が自分に近い作品を好むようになります。
アンパンマンなどの擬人化作品も小学生ぐらいになるとウケなくなり、年齢が上がるほど人間が主人公の作品を好むようになります。
小学生には中高生向けの、中高生以上が主人公のラノベより、小学生が主人公のみらい文庫やつばさ文庫がよく売れています。どちらも手に取れる状況にあるのに。
DBZから入った子供も大量にいるでしょ。グッズもほぼ全て大人悟空だし。
脇役に子供がいればOKなら「主人公は子供じゃなきゃダメ」じゃないじゃん。
論旨が崩壊してるぞ。
一旦人気になってテレビでずっと放送するようになってからの話と、最初から大人で作って人気なるかどうかとは関係ないですよね。
あなたが「ONE PIECEの主人公は大人」と発言したことに対する反論です。
数え年15で元服の時代からタイムスリップしてきたのかわかりませんが、現代日本では17は大人とはみなされません。
ONE PIECEが非常にデフォルメの強い絵柄であるのはごく一般的な感覚だと思いますのであなたのエキセントリックな感性で「ONE PIECEはデフォルメされていない」と主張されるならどうぞご自由に
作られないのはたまに作っても売れないからだよね
製作者側が君みたいに「幼児向けなら主人公も幼児にしないと!」と思ってるだけでしょ。
マジンボーン1作だけで反例になるなら主人公が子供で売れなかったアニメも腐るほどあるよ。
小学生になったら急に自分と同年代の主人公じゃないと楽しめなくなるの?
何の根拠もないよね。
孫悟空は当初ちびっこで長期連載に伴いストーリー進行で大人になった例
つかドラゴンボールは悟空が大人になったら悟飯をだして悟飯も成長して来たら悟天とトランクスを出してで常にちびっこを出してた作品だろ
DBZから入った子供も大量にいるでしょ。グッズもほぼ全て大人悟空だし。
脇役に子供がいればOKなら「主人公は子供じゃなきゃダメ」じゃないじゃん。
論旨が崩壊してるぞ。
ONE PIECEも開始当初は17歳で大人まではいかない年齢で、デフォルメがかなり強い絵柄なので大人であることを感じさせない
さっきは「主役が高校生だと流行らない」って言ってたけど17歳はセーフ?どういう基準?
デフォルメされてるかどうかなんて、君の主観次第なんだから何とでも言えるじゃん。
ブレワイやってるんだけど、ほこらクリアする度にこれ思う。
色々なギミックが用意されてて、ちゃんと無理のない解き方がある。
古代人たちはかなりテストしたんだろうなぁとか、どういうチーム体制でこんなダンジョン作ったんだろうとか、色々思う。
もちろん「ゲームだから」で済むのは済むんだけど、その結論を禁じ手にして考えるの好き。
特に漫画は多い。苦しい描写を「後付けだから」「作者の人そこまで考えてないと思うよ」以外でどう説明するのかが楽しい。
でも明らかな後付けでも、例えば悟空が実は宇宙人だったというのは理屈的には難なく説明されてるからこういう楽しみ方は出来ない。
一番嫌なのは、苦しい描写を後々苦しい説明で公式が回収する事。
ここでは「バフ」を「一時的に攻撃力、俊敏性、防御力、魔法の威力などを他人の力によって一時的に向上させること」と定義する。
この場合、全力で体動かしたあとの筋肉痛しかり、界王拳3倍かめはめ波を撃った悟空しかり、ドーピングコンソメスープが切れたあとのシェフしかり、バフが切れたあとに何らかの反動が来て叱るべきかと思う。
だが、他人の力によって与えられたバフにおいて、反動もなしに能力が向上する描写はご都合主義的なものを感じるし、仮にそれが許容するとしても、今度はリアリティ的な面において引っかかる。これがゲームのRPGであれば、下手なリアリティはゲーム体験のうちの快適性を損なうので許容できるように思われる。しかし、それをそのまま漫画やアニメの世界に引っ張ってくると、体験する際にフォーカスする部分が異なるためなのか、引っかかってしまい没入感が損なわれるのである。
https://anond.hatelabo.jp/20220804004638
これを読んでいてふとそんなことを考えた
自分はチェンソーマンを読んでいるのでこの人が言うニュアンスは理解できる
ただ、指摘されたキャラクターが心がないように映る!っていうのは、作劇上キャラクターとして、そもそも人間ではない等々共感し得ないタイプのキャラなので、これに関しては藤本タツキが「あえてわざと」そうしている、という話ではある
だから、そう読めたというのは読み方として正しいし、作者の意図は感じられている状態になる。つまりこの人は漫画を読めていないわけじゃない
では、それを踏まえた上で、「なぜそれが不快なのか」というところになる
いや、そもそもこれ実はとても真っ当な感想で、だって藤本タツキはわざと不快になり違和感を持つようにそのキャラを作っている部分があるから、という理由になるからだ。
つまりこの疑問というのは、『じゃあ、なんで、わざわざこういう共感できないキャラを主人公として、さらに味方側にも配置したのか』というのが本質にある
この疑問にに関しては、藤本タツキはいろんなインタビューで語っているのだが、この作者の作品というものは基本的に世の中に対しての「怒り」駆動で出来ており、チェンソーマンはその「怒り」の原因に対してのヒーローだからだ。
ここで重要なのは「怒り」という感情を人間はどういう時に抱くかという問題で、それは大抵の場合は「理不尽」なのである
道理の通らない自分ではどうしようもない不幸や絶望的な状況、助けられない何かを見た時に人はそれに対して「怒り」を持つ。これが基本的な怒りの発露だ。
なので、ヒーローというものを私たちが想定した時にヒーローとはこの理不尽を打破してくれる存在になる
さて、ここで任意のヒーローを思い浮かべてほしいのだが、ヒーローというのは大抵においてある種の神的パワーを持つ存在として描かれる。これは前段の話を考えれば当たり前で「理不尽」に対抗するには理から外れた存在、「別の理不尽」で対抗するしかない
この場合「別の理不尽」というものは人間の理や感情に沿わないものなので、物語がインフレすればするほど、どんどんと理解の範疇外になっていき、共感がしづらくなっていく
ドラゴンボールで悟空に共感できる人間、ワンピースでルフィに共感できる人間というのは部分的に理解や共感はできても、おそらくその思想丸ごと受け入れられる人は少ないだろう。これはワンパンマンとかだとより顕著になる。
つまり、ヒーローの文脈において僕らはヒーローそれ自体に「心や理がある」から共感しているわけではないのだ。そいつらが世の中のどうしようもない「理不尽」をぶったおしてくれるところに、スカッとしたくて見る部分がある
だから、この人の言説に乗るのであれば「ヒーローの心は基本フィクションだし、その敵もまたフィクションだよ」ということになる
これ自体はおかしなことでもなんでもなく、悟空に対してこいつやべえよなって思っている人はいっぱいいるし、ルフィに対して引いている人間はわりといる。多分Twitterで検索したらそこそこ出てくるくらいには。
なので、増田の不快感というのはわりと一般的なものだと思うし、そこに共感できないのは当たり前で、物語の優先度が違うから面白く思えないのはしょうがねえよなあってところだ。
ただ、もし、この増田がこれらのヒーローものを読んでいたとして、チェンソーマンより不快感を持たなかったのだとしたら、その差異はどこにあるのだろうか?というのは気になる
これに関しては、仮説というかおそらく「共感できる人の少なさ」と「読者が共感できそうになった人から死んでいく」というチェンソーマン特有の作劇の問題かもなあ
チェンソーマンの主題は前述した通り「世の中に対しての理不尽(恐怖)に対しての怒り」であり、その恐怖っていうものを前提として見せなければならない
だから共感できる理の側の人間は文字通り理不尽に殺されなければならない。そうしないと、理不尽がキャラとして出せないからだ
だから、そういった意味で「心がノンフィクションのキャラ(もしくは、ノンフィクションになったキャラ)は確実に死んでいく」ので、後に残るのは理不尽な奴しかいない
この共感キャラがドラゴンボールだと生き返るし(クリリンとかヤムチャとかブルマとか)、ワンピースでもわりと生き残ったり報われたりするので、不快感は少なくなる。また生き返らせる、生き残らせることができるのはこれらの作品がファンタジーだからだ。つまり、この場合「作品世界はフィクションで、生き残るキャラたちはノンフィクション(心がある)」になる
でも、藤本タツキは理が理不尽に侵されるというものに対しての怒り駆動なので前提として侵される瞬間をまっすぐに描くし、それを取り返しのつかないものとして描く
だって、理不尽に奪われたものは取返しつかないでしょ?リアルだと
藤本タツキの書くものはそういった意味で「作品世界はノンフィクション、生き残るキャラたちはフィクション」となるので、この違いが大きいのかなと思う
まあ、いずれにせよ増田の感じ方はもっともで個人の感想としては至極真っ当に合わなかったんだなあというのがあるので、問題ないと思うよ
「足して二で割ったような」という言い回しがある
これに対し「足して二で割らない」という亜種の言い回しがされることもある
AとBを足して二で割ったような、と言うときはAとBの両方の要素を併せ持つという意味合いだろう
このとき二で割っているからAとBそれぞれの要素が半分に減っているという数学的連想がなされるのかも
だからこそ足して二で割らないという言い方は、AとBの両方の要素を併せ持つがそれぞれの要素は強く残ったままというのを強調した言い方なのだろう
しかし、足して二で割ろうが割らなかろうが濃度という観点では結局等しいんだよな
足して二で割らないというのは要素の絶対量を重視した言い回しと言える
この前ゆる言語学ラジオで「1の多義性」という話題でトークがされていたのを思い出す
数量としての1と割合の総量としての1の二種類があるという話だった
足して二で割らないという表現は、強調表現として言いたいことはわかるが割合の総量としての1をわかってない言い回しだなと思った
小学生が算数を学ぶとき、割合の総量としての1でつまづきやすいという話もされていた
人間という生物の脳が直感的に判断できる数の認知の限界を感じさせる
書いてから思ったが、足されるものそれぞれの量が同じという前提で考えていた
必ずしもそうではないという気もしてきたな
であれば話が変わってくるか
AとBを足して二で割ったような、というときAとBはだいたい同じレベルのものなのではないか
ドラゴンボールとデスノートを足して二で割ったような漫画という言い方には違和感はそんなにないはず
ドラゴンボールと(なんらかの10週打ち切り漫画)を足して二で割ったような漫画という言い方はあんまりしないか?ちょっとこれは自信無いが
悟空とベジータを足して二で割ったようなキャラは言い回しとして違和感ない
フリーザと戦闘力5のおっさんを足して二で割ったようなキャラは……そういうふうには言わんわな
しかしここで気付く
この言い回しは、足して二で割った結果何かを算出しているのではない
算出されたとされる何かがまずあって、比喩として足して二で割っている
この気づきに何らかのヒントがあるか