はてなキーワード: 利用者負担とは
ニュージーランドはコロナ対策が世界でも類を見ないほどにうまく行った、という評判だ。
先日トランプ大統領がニュージーランドがまるで大惨事のように演説したらしいが、当時の感染者数はアメリカに比べたら0みたいなもので、何人か増えてるね、というものでしかなかった。ただ、これから先はよくわからない。ドカンとくる可能性は否定できない。
現地にいる人として少し書いておこうと思った。
まず、ニュージーランドのコロナに対する対応方法が正しいのかどうか、だが、現地にいる一人としてはたくさんいるのを減らすのにはとても有効だったが、少し出たときにやる方策としてはかなりやりすぎだと思っている。
あと、正直ザルだったとも思っている。
今はオークランドという街だけがロックダウンだが、相変わらずロックダウン開始前にオークランド脱出を試みる人が続出するなどし混乱していた。
ニュージーランドに入国した人たちは、政府が指定した宿泊施設に2週間滞在する必要があるが、ここから脱走する人、検査を拒否していなくなる人、酒を買いに近所のスーパーに行く人などもいるようだ。
この施設も料金が利用者負担となっており、家族3人とかで滞在すると結構えげつない金額になる。
次にコロナの検査についてだが、現地にいる一人としてかなり疑問だったのは、不安で相談した人が明らかに感染者との接触があったりしない限り検査をしなかった、したいと言っても断っていた、という点だ。この辺はなにげに日本と同じだった。
そんなこと言ったってたまたまカフェで少し話した人とか、店で話しかけた店員とか、感染してるかなんてわかるわけがないので、断るのはどうかというのが率直な感想だ。
一度目のロックダウンが解除され、政府で把握している感染者もあと数名となったあるとき、感染源が不明な感染者家族が見つかった。
その後警戒レベルか上がり、二回目のロックダウンに突入。あれよあれよと感染者が増えていき、現在137人になった。割とコンスタントに日々増え続けている。
政府が安心しきっているうちに実は感染者はじわじわと増えていたということだ。あと少しでいなくなる、そんなコロのジャシンダ・アーダーン首相のホクホクした顔は印象的だったし、コロナなんか何回やっても勝てるとか強気なセリフも印象的だった。
二回目のロックダウンでは政府が行動追跡アプリを入れるように推奨し、市民は店の前でQRコードを携帯で読み込んでいる。アプリでこれを読むことで、いつどの店に入ったのかが記録される。すごく嫌だけど、正直な話結構使いやすい。
店によってQRコードをラミネート加工するとこがあるんだが、ギラギラしてアプリが読み込めなくなるのでやめてほしい。
ニュージーランドでの問題の一つが、ニュージーランドでは徹底的にコロナの撲滅を目指したので、国民が抗体を持っていない。つまりコロナが一度入りこめばどんどん感染してしまうという点だ。集団免疫は無い。
ジャシンダ・アーダーン首相はコロナのワクチンができるまで戦いは終わらないと言っていたので、それまでは入国も厳しく制限されることだろうし、また何かの拍子にロックダウンもあり得る。生活がすごく不安定になった。
明日一杯で今回のロックダウンは終わり、月曜日からレベル2になる。新しいルールとしては公共の乗り物を使うときにマスクを使うことが義務化され、違反すると1000ドル以下の罰金というルールができたことだろうか。
なんにしてもマスクは当面積極的に利用することになるが、マスクが嫌なら適当な布でもいいそうだ。
しかし、政府が躍起になって対策していたその裏で人知れずウィルスは感染を続けていた、というのが不気味ではある。
前回のロックダウンのとき、病院が一切の見舞いや付き添いを禁止した。出産に伴うヘルプだけは特別だったが、基本、患者本人しか病院に入ることは許されなかった。
このときに余命一週間の父親に会いたいという息子に行政機関がNoを突きつけたことがあった。息子が食い下がり、大臣が「許可を出せ」とまで行ったのにやはりNoで、最終的に息子が行政訴訟を起こして裁判所命令で許可がおり、最後の数日をともに過ごせた、なんていう話もあった。
大臣どんだけパワーないんだよとか思ったりもしたが、ロックダウンのときに民衆に降りかかる不条理の一つだと思ったのでついでに書いた。
ニュージーランドでの厳しい入国制限を日本でもやるべきだ、ともし聞かれたら、回答は、普通に考えて日本でできるわけ無いだろ。経済規模とか国際的な地位とか違いすぎる。
ニュージーランドみたいなロックダウンを日本でやるべきという人がいたら、こちらの回答は、そんなの日本でできるわけがない。こっちは500万人、日本は1億人以上いるわけだからね。
私は関西学院大学という兵庫県の私立大学に通う四回生です。COVID-19(新型コロナウイルス)感染防止のため、4月〜7月の春学期は全てオンライン授業でした。そしてこの度、夏休み明けの9月から年度末までの秋学期も、原則オンライン授業が決定いたしました(ゼミや言語の授業などの少人数クラスは、対面で実施することも可とのことです)。
過去三年間の大学生活には満足していますが、今回の春学期オンライン授業に関して言えば、50万円もの授業料を支払う価値があるとは到底思えませんでした(以下に記すことは、私の体感と、下級生から聞いた話を併せて書いたものです)。
オンライン授業といえば、ZOOMなどを活用した双方向授業をイメージする方が多いかもしれません。私も授業が始まるまでは、「きっとそうだろう。仮にそれが無理でも、最低でも、授業動画や音声ファイルの掲載くらいは当然してくれるだろう」と考えておりました。ですが蓋を開けてみれば、「大量のレジュメを掲載しておいたから、読んでレポートを書くように」という授業や、「教科書の何ページから何ページを読んでレポートを書くように」といった授業も少なくありませんでした。過去三年間、教授や講師陣から「レジュメを貰うためだけに出席して、ろくに授業を聞かない奴は来るな。レジュメや教科書を読むだけで分かる程度の内容に、意味はない」という高尚な言葉を何度も聞かされていた身としては、「一人で教科書を読んでレポートを書け」など、苦笑を禁じ得ない授業形態です。
また一方で、大量の課題を毎週提出する先生も、少なくありませんでした。「この先生は、『生徒達は私の授業しか受けていない』とでも思い上がっているのだろうか」と首を傾げたくなるような課題量です。私は幸運にも就職活動を無事に終え、卒業に必要な単位もあらかた取得しているため、課題の量が膨大でも苦痛はありません。ですが、未だ卒業必須単位を取得しておらず、毎週10個以上の授業を受けざるを得ない生徒にとっては、膨大な課題とアルバイトに忙殺され(人によっては就職活動等もあるでしょう)、外出自粛でまともに気晴らしも出来なかった春学期は、相当辛かったと思います。
大学の授業料というのは、講義への対価だけでなく、大学という施設設備への対価でもあります。ですが春学期は、感染防止のため、構内へ立ち入ることはできませんでした。大学側がこれまで大きな魅力として喧伝してきた図書館やトレーニングジム、清潔で美しい校舎などを味わうことができなかったのです(図書館は郵送という形で本の貸し出しを行っていましたが、送料は利用者負担でした)。
春学期の大学生活に対する私の満足度は、これまでの半分以下です。しかし、だからと言って授業料を半分以下にして欲しいとまでは言いません。ただ、1万円の減額さえする意思のない大学側の姿勢には、失望しかありません。陳腐な言葉ですが、誠意を感じられません(授業料減額を求める署名活動もインターネット上で展開されていたそうです。頓挫したようですが、流石にそうした活動が行われたことくらいは、大学側も認知しているでしょう)。
この「オンライン」授業に対して年間100万円も支払うなら、書籍を自分で購読した方がよっぽど安上がりかつ効率的です。ですから、「質の高い講義を受けたい」という一心で来年度の関西学院大学入学を考えている方は、一度行きたい学部の現役生にTwitterなどで話を聞き、行く価値があるかどうか熟考してみてください。
一般に老人が増えているし、障害者向けのサポートも強化される方向にあって、ここ数年、老人介護、障害者介護に注目が集まっているけど、はっきり言って、ここに未来はない。ただ、大口叩いておいてなんだけど、訪問介護についての経験しかないので、その点の偏見は先に述べておく。
そもそも介護事業の主な収入は何かといえば、給付金だ。介護を受けるような人は収入が少なく、過去に行政がやっていた事業を外出しにしたものなので、お金は行政が出して、実際の利用者負担は一割に抑えられている。ところが、この仕事の一時間あたりの金額は、行政が決めている(都道府県レベル)。どんなに大変な作業だろうが、その時間あたりの事業所の収入は、既に決まっていて、それを変更することができない。また、利用者の利用スケジュールも事前に厳密に決められ、これを変更するには、緊急事態でもない限り、関係者(老人介護であればケアマネージャー)の話し合いを通すことになる。
ということは、要するに、いくら働いても、単なる時間給以上の収入が存在しないということだ。また、価格も決まっているので、事業所が主体的に手厚いサービスを作って高額に販売したり、その反対に低額なサービスを作るといった、自主的な事業開発はできない。一応保険外サービスというのも設定可能だけど、介護を受けるような人に、そんな余裕なんてない。そして、従事者も、その時間給で給与が支払われることが多い。結局どんなベテランも、アルバイト以上の仕事なんて、できやしない。
また、仕事内容も条例(? 法律?)で決まっている。基本的に給付を受ける人の対してのみサービスが行われ、例えば家族の代わりになるようなことはできない(障害者で子供がいる場合などは例外のよう)。そして、実際にやることといえば、その人の生活を支援することだけで、それ以外はない。どこへ言ってもやることは変わらない(人によっては「個別に全く違う」という人がいるけど、それは定義の抽象化ができてないだけ)。
そして、更に困ったことに、行政による路上生活者などの再就業先として、介護が推進されていることだ。介護従事者の待遇改善がずっと叫ばれているけど、こうした安い人材が後から後から供給されるようでは、とてもじゃないけど、今後とも安い仕事であることは変わらない。そのために、離職率がとても高い。
こうした事業領域に未来を感じる人がいるとすれば、それは単なる間抜けか、世界を変える大物だけだ。どんなに頑張っても、まずは法律が変わらないと何も自主的な仕事はできないし、事業の性格上、あまり差別化もしにくい。ほぼ毎日利用することもあって、地域的なつながりの強いところ(つまり、利用者の自宅の近く)からしか選べないし、一度選ぶと数年続けるので、利用者間の流動性も低い。レストランみたいに、今日はこっち、あしたはあっち、ということが起きない。なので、事業者間の競争も少ない。一方で給付金による収入が見込めるので、小さな事務所でも始めやすく、そのおかげで零細も多い。
こういう業界に若者を費やすなんて、とてもじゃないけど勧められない。また、仕事の性格上、十分な世間知のある40代以上が望ましい。そうじゃないと様々な問題に対処ができない。
もしそれでも介護に未来を見たいという人がいたら、医療の方面にいくか、機器の開発をするしかない。車いすとか、松葉杖とか、サポート器具には改良の余地がある。建築に関連して、家屋の設計もありだろう(ただし、一般の「リフォーム」は単なる建築労働者なので、NG)。
だから、もし学生とかで介護をするとか言う奴がいたら、頬をひっぱたいてでも止めろ。これだったら、まだブラックITのほうがましだ。